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悪役令嬢の母になりました。断罪より先に子どもを連れて舞台から降ります。【連載版】  作者: 星渡リン
第4章:脚本力の核心と卒業

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第56話 正しさから、手を離す

 神殿の夜は、白い。


 白い壁、白い床、白い灯り。

 昼の白さより、夜の白さの方が怖い。

 夜は音が少ないから、白が目立つ。

 白が目立つと、影が薄くなる。

 影が薄いと、表情が拾われやすい。


 拾われた表情は、役になる。


 だから私は、白い回廊の真ん中を歩かない。

 壁際を、半歩奥を、柱の影を選ぶ。

 目立たないように呼吸をする。

 目立たない呼吸は、生活の呼吸だ。


 ノエルが一歩前を歩いていた。

 足音が小さい。

 小さいのに、迷いがない。

 扉の位置、角の位置、灯りの落ち方を目で拾って、身体が先に曲がる。


 この人は、王都の迷路でも道に迷わない。

 迷う前に、危ない道を避けるからだ。


 私の少し後ろにミロがいた。

 公証人の紙と筆を抱えて歩く。

 紙の白は、神殿の白とは違う。

 生活の白。

 生活の白は、吸い込まれにくい。


 アデルはもっと後ろ。

 距離を取っているのは、見張るため。

 父の盾は、必要な時だけ前に出る。


 クラリスは宿に残した。

 明日は最大の舞台。

 今夜は体を守る。

 ここは“奥”の匂いが濃い。

 子どもが吸い込むには白が強すぎる。


 それでも、手のひらの感覚だけは残っている。

 握ったら戻れる温度。

 ぎゅっと一回の合図。

 それが私の指に、まだ残っている。


 柱の影に入った時、ノエルが足を止めた。

 止めるのが短い。

 短いほど、危険に慣れている。


 ノエルが小さく顎を引く。

 「ここ」の合図。


 そこに、セレスがいた。


 白い衣の人間が、影にいる。

 それだけで違和感がある。

 神殿の白は、影を嫌う。

 影に立つのは、制度から半歩外れることだ。


 セレスは手を胸元に置いて、私を見た。

 目が揺れている。

 揺れているのに、逃げない。

 逃げない人の揺れは、決断の揺れだ。


「……公爵夫人」


 声は小さい。

 小さいのに、奥の間の静けさみたいに残る。


 セレスは、手を差し出した。


 小さな鍵だった。


 鍵の頭に、神殿の紋。

 短い鎖がついている。

 金属は夜の灯りを吸って冷たく見えた。

 冷たいのに、重い。


 扉を開ける鍵。

 同時に、“通行の合図”になる鍵。


 セレスの指が少し震えた。

 震えは怖さ。

 でも震えたまま差し出すのは、怖さの中で決めた証拠だ。


「……これを。奥へ通るためのものです」


 奥。

 その一文字が、喉の奥を細くする。

 奥の間の静けさを思い出す。

 言葉が逃げない場所。

 取り消せない場所。

 誰かの都合で整えられる場所。


 セレスは続けた。

 息を置きながら。

 言葉が逃げない場所で、言葉を選ぶ呼吸。


「明日、奥へ誘導されます」

「正規の導線は……扉が閉まりやすい」


 扉。

 閉まるだけで世界が変わる。

 閉まると、目が減る。

 目が減ると、台本が強くなる。


 セレスは鍵を持ったまま言う。


「この鍵の導線は、扉が閉まりにくい」

「出入りが残せます」

「医師と、公証人が……同席できる導線です」


 私の胸の奥で、何かがほどけた。

 ほどけたのは安心ではない。

 “息をできる可能性”が増えた感覚だ。


 息をできる可能性は、守りになる。


 私は手を伸ばした。

 鍵に触れる前に、セレスの目を見る。

 この鍵は、軽く渡せるものではない。

 渡す人の立場が揺れる鍵だ。


 だから私は、受け取り方を間違えない。


 ノエルが横から、すっと手を出した。

 私より速い。

 扉と鍵は、この人の領域だ。


 ノエルは鍵を受け取り、短く言った。


「鍵は預かります。落としません」


 短いのに、逆らえない強さがある。

 セレスが一瞬だけ目を丸くした。

 守りの形が、神殿の守りと違うからだ。


 セレスの口元が、ほんの少しだけ緩みそうになって、緩まない。

 緩ませたら拾われる。

 拾われた表情は、役になる。


 セレスは私を見る。


「……守ってください」


 守ってください。

 何を、とは言わない。

 言わない方が強い。

 クラリスの言葉。母の枠。境界線。

 全部がその短い一言に入っている。


 私は息を吸って吐いた。

 燃やさない。

 照明にしない。

 でも、言葉は置く。


「……ありがとう」


 大げさに頭を下げない。

 照明を当てない。

 それでも、礼は真っ直ぐに。


 セレスの肩がわずかに落ちた。

 落ちた肩は、息の跡だ。



 少しだけ、静けさが増えた。


 神殿の白い回廊では、静けさが怖い。

 でも柱の影の静けさは、会話ができる静けさだ。

 逃げ道がまだ残っている静けさ。


 セレスが声を落として言う。


「……理由を、聞きますか」


 聞かなくても分かる。

 けれど聞かせてほしい。

 言葉にした方が、揺れは形になる。

 形になれば、手放せる。


 私は短く頷いた。


 セレスは息を置き、言葉を選び、短く言った。


「子どもの言葉を奪うのは、保護ではありません」


 その一文が、影の中に沈んで残った。


 私は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 熱くなるのに、声は震えない。

 震えないのは、照明を当てないためだ。


 セレスは続ける。


「保護は……代わりに話すことではない」

「選ばせることを、怖がらせてはいけない」


 “怖がらせてはいけない”

 その言葉に、セレス自身の怖さが混じっている。

 彼女は怖い。

 怖いのに言っている。


 制度の中で、怖いのに言うのは成長だ。


 ミロが一歩だけ前に出て、短く言った。


「目的外には使用しません。記録に残します」


 公証人の言葉は、刃ではなく定規だ。

 定規は、善意を燃えにくい形にする。

 “裏切り”ではなく“手続き”にする。

 手続きは、少しだけ守りになる。


 セレスは小さく頷いた。

 その頷きは、救われた頷きだった。


 私は、ここで線引きを置く。

 感謝と同時に置く。

 置かないと、善意は燃える。

 燃えれば正義になる。

 正義になれば、セレスが潰れる。


「これは戦う道具にはしない」


 私は言った。

 短く。


「娘が息をできる道を残すために使う」


 それが目的だ。

 正しさに勝つためじゃない。

 明日を生きるため。


 私は続ける。


「明日、娘が選ぶ。私はその枠を守る」


 枠は檻じゃない。

 呼吸の枠だ。


 セレスの目が揺れた。

 揺れは、痛みではなく希望に近い揺れ。


 セレスが小さく言う。


「……あの子の言葉が、消えませんように」


 その言葉が、私の胸の奥に落ちて、静かに灯る。


 制度の中にも人がいる。

 それが今夜のほっこりだ。



 代償の匂いは、すぐに来た。


 セレスは鍵を渡し終えると、ほんの少しだけ視線を泳がせた。

 泳がせた視線は、恐怖の視線だ。

 誰かの目がある。

 見られているかもしれない。


 セレスは笑いそうになって、笑わない。

 笑えば拾われる。

 拾われた笑顔は、役になる。


「明日以降……私は同じ場所に立てないかもしれません」


 言い切らない。

 匂わせだけ。

 それが現実の言い方だ。


「中央は“成果”を求めています」

「私は……成果の形を壊しています」


 その言葉が痛い。

 壊すのは怖い。

 壊すと叱られる。

 叱られるだけならいい。

 壊すと、弾かれる。


 制度は、弾くのが上手い。


 私は言葉を選んだ。

 慰めると燃える。

 励ますと照明になる。

 だから、礼だけ置く。


「あなたの選択を、私は人として受け取る」


 難しい言葉にしない。

 でも軽くしない。


 セレスは一度だけ目を伏せた。

 目を伏せるのは涙ではない。

 息を整えるための伏せ方だ。


 ノエルが鍵を握り直し、短く言う。


「落としません」


 二回目の断言。

 守る人は、二回言う。

 二回言うと、守りが形になる。


 セレスは小さく頷いた。


「……お願いします」


 お願い。

 この人がお願いと言うのは珍しい。

 制度の人は命令に慣れている。

 お願いは、手を離した人の言葉だ。



 別れの時間が来た。


 影の会話は長くできない。

 長くすると目立つ。

 目立つと照明が当たる。

 照明は舞台の餌だ。


 セレスが一歩下がった。

 その下がり方が、制度側へ戻る下がり方だ。

 戻らないと、すぐに弾かれる。


 私たちも一歩下がる。

 影から影へ。

 息が目立たない場所へ。


 セレスは白い回廊へ戻っていく。

 背中が細い。

 白い中で細い背中は、目立つ。

 目立つのに止まらない。

 止まらないのが覚悟だ。


 角を曲がる直前、セレスの足が一瞬だけ止まった。

 止まって、すぐ動く。

 ためらいを捨てる動き。


 そして、角を曲がった先で。


 祭司の目が、セレスを捉えた。


 目だけで刺す人の目だ。

 穏やかな顔。

 穏やかな顔ほど、逃げ道を削る。


 祭司は穏やかに言った。


「……セレス。随分、遅いのですね」


 遅い。

 それは責めではない。

 観測だ。

 制度の観測は、縄になる。


 セレスの肩が一瞬だけ硬くなる。

 息が止まる。

 止まった息が、すぐに動く。


 セレスは静かに答えた。


「失礼いたしました」


 言葉は整っている。

 整っているのに、背中が少しだけ震えている。


 祭司は微笑んだ。

 微笑みは整っている。

 整っている微笑みほど怖い。


 私は影の中で息を吸って吐いた。

 明日の嵐は、もう目の前まで来ていた。


 ノエルが鍵の鎖を握り直す音が、小さく鳴った。

 その音が、明日の導線の音だ。


 明日。

 最終儀礼当日。


 私たちは“生活の舞台”をぶつける。

 拍手ではなく笑い声を。

 糾弾ではなく生活を。

 そして、子どもの短い言葉を。


 正しさから手を離した人がいる。

 その手の跡は、鍵の冷たさになって残っていた。

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