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第5話 静養は、嘘にしない

「熱より、心が熱いですね」


 医師ハーゼは、クラリスの手首に指を添えたまま、さらりと言った。


 言葉は軽いのに、私の胸の奥だけが重く沈む。


 熱がない。


 それは良いことのはずだ。病気じゃない、という意味だから。娘が苦しんでいないのなら、それでいい。


 でも、王宮の“丁寧なお願い”を思い出すと、喉の奥が冷える。


 静養が弱く見える。休む理由が薄く見える。押し切られる。


 私は反射で笑顔の形を作りそうになった。大丈夫です、と言いそうになった。笑って軽く流して、余計な波風を立てないように。


 違う。


 それは嘘の始まりだ。


 私は息をひとつ整え、ハーゼの言葉の続きを待った。


 診察のために整えた客間は、いつもより光が柔らかい。カーテンを少し閉め、暖炉の火を弱めにして、香りの強い花はどけた。ノエルが「静養の部屋」を本気で作ってくれた。


 クラリスはベッドの端に腰掛け、うさぎのぬいぐるみを抱えている。いつもなら「遠足!」と跳ねていたはずの足が、今日は床におとなしく揃えられている。小さな背中が、少しだけ固い。


 ハーゼは派手な道具を振り回さない。触れて、見る。呼吸を聞く。目の下の色を見る。肩の硬さを確かめる。古いけれど確かなやり方だ。腕の良い医師ほど、手が静かだ。


「咳は軽いですね。喉の乾きが少し。熱も高くない」


 ハーゼは淡々と言う。淡々としているのに、見落とさない目をしている。


「ただ……」


 指が、クラリスの脈を少し長く確かめた。


「寝不足です。浅い眠り。夜に何度も起きていますね」


 私は思わず目を伏せる。昨夜から、私も眠れていない。娘の寝息を数え、体温を確かめ、扉の外の気配に耳を立てた。王宮の使いの笑顔が、まぶたの裏に貼りついている。


 ハーゼはクラリスの肩にそっと触れた。


「肩が固い。手が冷たい。体は元気でも、心が先に疲れている」


 そして最初の言葉に戻る。


「熱より、心が熱いですね」


 クラリスはきょとんとした顔で、うさぎの耳をいじった。


「こころ、あついの?」


「そう。頑張りすぎてる」


 ハーゼは声を柔らかくした。子どもに合わせた言い方に、医師の技が見える。


「いっぱい気をつけて、いっぱい我慢して、いっぱい考えてる。だから心が熱くなって、眠りが浅くなる」


 クラリスは「ふうん」と小さく返して、うさぎを抱きしめた。理解は全部じゃない。でも、言葉の温度は受け取っている。


 私は頷いた。頷きながら、心の中で別の計算が動くのを止められない。


 熱がないなら、静養は弱い。

 なら、熱があることにしてしまえば。

 咳がひどいことにしてしまえば。


 嘘で守るのは簡単だ。


 王宮は健康には逆らいにくい。医師が「動かすな」と言えば、面会も延期できる。門だって通りやすくなる。娘を舞台から遠ざけられる。


 ……でも。


 嘘は娘を疲れさせる。


 具合が悪いふりをしなさい、なんて言えるわけがない。

 寝るふりをしなさい、咳をするふりをしなさい。

 それは舞台で演じるのと同じだ。照明の下で、期待される役を演じるのと同じだ。


 私は娘を舞台から降ろしたいのに、別の舞台を作ってどうする。


 静養は、嘘にしない。


 私は心の中でその言葉を、何度も確かめた。確かめるほど、胸の奥の痛みが少しずつ真っすぐになる。


 ハーゼが診察を終え、道具を布で拭きながら言った。


「夫人。お嬢さまは大丈夫です。ですが、今は休ませたほうがいい」


「静養が必要だ、と」


 私は確認するように言った。声が少しだけ硬くなるのを、自覚していた。


 ハーゼは頷く。


「はい。必要です。静かな環境で、睡眠を深くする。人の出入りを減らす。刺激を減らす」


 刺激。その言葉に、私は反応した。刺激とは光だ。視線だ。噂だ。空気だ。舞台の照明だ。


「医師の所見として、残していただけますか」


 私の言葉が、少しだけ早くなる。


「王宮に説明できる形で」


 ハーゼの手が止まった。


 止まってから、ゆっくり私を見た。


「……王宮、ですか」


 声がひゅっと細くなる。瞬きが増える。さっきまで落ち着いていた医師が、急に人間に戻る。政治に弱いタイプだ。胃に悪いタイプ。


 そこへ、ノエルが無言で茶を差し出した。


 薬草茶。湯気が優しい香りを立てる。


 ノエルは一言も言わない。言わないのに言っている。


 飲め。胃が守られる。


 ハーゼは小さく礼をして、茶を受け取った。


「……貴族は、胃に悪いですね」


 ぼそり、と呟く。聞こえるか聞こえないかの絶妙な音量。


 ノエルの目が一瞬だけ冷えて、それから元に戻った。冷えるのは怒りじゃない。警戒だ。敵のいる場所を知っている目。


 私は笑わない。今笑ったら、ハーゼがさらに胃を押さえる。


「すみません」


 私は言った。


「でも、娘のために必要です」


 ハーゼは薬草茶を一口飲み、息を吐いた。


「……分かりました。所見は書きます。短く、効く形で」


 効く形。ノエルと同じ言い方だ。世界は時々、同じ言葉で回る。


 ハーゼは口の中で言葉を整えるように、指を折った。


「睡眠が浅い。緊張が強い。環境の変化と社交の負担が原因。静穏な場所での休養が望ましい」


 私は頷く。嘘ではない。全部、本当だ。


「面会は短時間、人数制限。移動は負担の少ない形で」


「ありがとうございます」


 私は頭を下げた。礼をするたび、鎧が少しずつ厚くなる。鎧が厚くなるほど、娘は軽くなる。


 クラリスは診察が終わった安心で、うさぎの耳をぱたぱたさせている。


「おいしゃさん、すごい?」


「すごいよ」


 私は微笑んだ。


「クラリスのこと、ちゃんと見てくれた」


 ハーゼは「いえいえ」と控えめに手を振った。控えめなのに目が良い。だから私はこの医師を呼んだ。ノエルが呼んだ。


 ノエルがクラリスに近づき、軽く膝を折った。


「お嬢さま、少しお水を飲みましょう。喉が乾いています」


「うん」


 クラリスは頷き、ノエルに手を引かれて別室へ移る。私はその背中を見送ってから、ハーゼと二人きりになった。


 静かになった客間で、私は胸の奥の痛みに触れる。


「……ハーゼ先生」


「はい、夫人」


「静養は……嘘にしないつもりです」


 言ってから自分でも驚いた。医師に宣言する必要なんてないのに。けれど私は、誰かに言っておきたかった。嘘で守る誘惑を、ここで断ち切っておきたかった。


 ハーゼは少しだけ目を細め、頷いた。


「それが、よろしい」


 短い返事。医師の言葉は時々、刃物のように端的だ。端的だから刺さる。


 私は頷き返し、別室へ向かった。


 クラリスは窓辺に座り、ノエルが差し出した水をちびちび飲んでいる。窓の外の空が少し明るい。夜明けは近い。夜明け前に出る。先程決めた。決めたからには、もう迷わない。


 私はクラリスの隣に座り、髪を整える。いつもの儀式。安心を渡す手つき。


「クラリス」


「なあに、お母さま」


 クラリスは水の杯を両手で持ったまま、私を見た。目は明るい。けれど、その奥に薄い影がある。影は上手く隠されている。子どもは大人より上手に隠すことがある。


 私は影に名前をつけたい。影を影のままにしたくない。名前がつけば、扱える。


「……さっき、お医者さまが言ってたの。頑張りすぎてる、って」


 クラリスはうさぎの耳をいじり、少しだけ黙った。


 黙ってから、ぽつりと言った。


「……お母さま」


「うん」


「みんなの目が……こわい」


 その言葉は小さかった。


 でも、私の胸の中に落ちた音は大きかった。


 こわい。


 言えた。言ってくれた。


 私はすぐに腕を伸ばして、クラリスを抱きしめた。力を入れすぎない。けれど逃げられない程度に、しっかり抱く。


「言ってくれてありがとう」


 耳元で静かに言う。


「こわいのは、悪いことじゃないよ」


 クラリスの肩が小さく震えた。うさぎのぬいぐるみが、ぎゅっと潰れる。


「みんな、みてる」


「うん」


「わたし……へん?」


「へんじゃない」


 私は即答する。即答できる言葉は迷いがない。


「クラリスは、ちゃんと感じてる。感じるのは、強い」


 クラリスが私の服を掴む。小さな指がしがみつく。


 私はその手を包む。


「こわいって言えたのは、強いよ。言わないほうが簡単なのに、言ってくれた」


 クラリスは鼻をすすり、うさぎの耳を頬に押し付けた。


「……お母さま、いる?」


「いる」


 私は頷く。


「ずっと、いる」


 その言葉に嘘を混ぜたくない。だから私は、静養を嘘にしない。娘が「こわい」と言えたのなら、休むのは正しい。休むのは逃げじゃない。守りだ。


 ノエルが少し離れた場所で、静かに頭を下げた。こちらに背を向け、気配を薄くする。見守る技術が高い。


 私はクラリスの背中を撫で、少しだけ距離を取った。顔を覗き込む。


「遠足、覚えてる?」


 クラリスが小さく頷く。


「うん……」


「遠足はね、逃げじゃないよ。休むための遠足。空気のいいところで、心を冷やすの」


 クラリスが、少しだけ笑う。笑いは薄い。でも確かにある。


「こころ、ひやす」


「そう。心が熱いなら、冷やそう」


 クラリスはうさぎを抱き直し、ちいさく言った。


「……わたくしは、そう思います」


 昨日、私が教えた言い方だ。


 その言い方をここで使える娘が、愛おしくて胸が痛い。


「うん」


 私は笑って頷いた。


「そう思います、でいい」


 ノエルが一歩近づいた。


「夫人。準備の報告をしてもよろしいでしょうか」


「お願い」


 ノエルの声は淡々としている。淡々としているから、安心する。


「馬車は目立たないものを選びました。荷物は最小限に。お嬢さまの毛布と、お気に入りは確保しています」


 クラリスがうさぎを抱き上げた。


「うさぎ!」


「もちろんです」


 ノエルは表情を変えずに頷く。うさぎは大事だ。護衛より大事なときがある。


「護衛は最小人数ですが、目立たず、動ける者を選びました」


 ノエルは続ける。


「出入口は三つ検討しました。裏門、通用口、正門。正門は人目が多いので避けます。裏門と通用口のどちらか」


「門の様子は?」


 私が聞くと、ノエルの目が少しだけ冷える。


「止められる確率が上がっています」


 淡々と言う。淡々と言うほど重い。


「王宮の使いの来訪後、門番の動きが変わりました。交代が増えます。見張りの理由が作られやすい」


 理由。舞台は理由でできている。理由ができれば照明は点く。


 私は頷いた。


「夜明け前に出る。変えない」


「承知しました」


 ノエルは小さく頭を下げた。


「夜明け前後、人が少ない時間が最善です」


 その言葉が胸に石のように落ちる。最善を選び続けないと、娘が照明に奪われる。


 ハーゼが所見を書き終えて、紙を封筒に入れた。紙の音が、やけに大きく聞こえる。


 彼は封筒を私に差し出し、そして一歩近づいた。


 医師の距離だ。診察の距離ではない。警告の距離。


「夫人」


 声が低い。


「はい」


 私が返事をすると、ハーゼは短く言った。


「お嬢さまの熱より、夫人の無理が気になります」


 心臓が一拍遅れる。


「……私、は」


 大丈夫、と言いかけた。癖だ。母親の癖。私は大丈夫。私は倒れない。倒れるわけにはいかない。


 でもハーゼは、先に釘を刺した。


「あなたが倒れると、お嬢様が崩れます」


 その言葉は痛かった。


 痛いのに、正しい。


 私は息が浅かったことに気づく。ずっと肩で呼吸していた。ずっと、胸の上のほうだけで生きていた。


 私は目を閉じて、深く息を吸った。


 吸って、吐く。


 吸って、吐く。


 ただそれだけのことが、こんなに難しいなんて。


 私は目を開けて、ハーゼに頷いた。


「……息をします」


 ハーゼが少しだけ、安心したように眉をゆるめた。


「それでよろしい。夫人が倒れないことも、静養の条件です」


 ノエルがすっと近づき、薬草茶の杯を差し出した。今度は私に。


 私は受け取り、温かさを手のひらに落とす。


 静養は嘘にしない。


 娘だけではなく、私にも。


 私は窓の外を見る。空は明るくなり始めている。夜明けは近い。門で止められる確率が上がる。それでも、止められる前に動く。


 クラリスがうさぎを抱えたまま、私を見上げた。


「お母さま」


「なあに」


「……こわいって、いってもいい?」


 私は微笑んで頷いた。


「いつでも。何回でも」


 クラリスが少しだけ肩の力を抜いた。


 私はもう一度、息を吸って吐く。


 照明が増える前に、影へ移る。


 でも、影は嘘の場所じゃない。


 休む場所だ。


 守る場所だ。

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― 新着の感想 ―
なんて素晴らしいお医者様なんでしょう。 よく見て(診て)決めつけず子供の心に沿ってくれる。 政治的に弱いのはまあ、仕方ないですよね。 母の心まで気遣ってくれるんですもの。
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