第4話 丁寧なお願いは、だいたい命令
「ご同行はご意向で」
王宮の使いは、にこやかにそう言った。
言い方は柔らかい。声も穏やか。頭まで丁寧に下げている。
なのに、私の背筋だけが冷えた。
“意向”。
選べるはずの言葉なのに、この場では刃が仕込まれている。選ばなかった場合の未来が、言葉の裏に透けて見える。断れば、なぜ断ったのかを説明させられる。説明すれば噂が育つ。噂が育てば舞台が整う。舞台が整えば照明が点く。
照明は、いちばん弱い場所を照らす。
娘を。
応接室はいつもより静かだった。窓のカーテンも、絨毯も、壁の絵も、きれいに整っている。整いすぎているほど、ここが舞台に見える。
王宮の使いは三十歳前後だろう。笑顔が上手で、目も柔らかい。身につけているものは控えめなのに、襟元の徽章だけがしっかり主張している。
あれが言っている。王宮だ。
アデルは公爵としての顔で向き合っていた。背筋は正しく、言葉は短く、表情は崩さない。彼の隣に座る私は、母としての仕事をしている。娘の名前が出た瞬間、空気が変わる。そこだけを逃さない。
「王宮としても、お嬢さまのご様子を案じております」
使いは穏やかに続けた。
「先日の夜会で、少しお疲れが見えたと伺いまして。ご負担のない形で、お顔を拝見できればと」
案じている。負担のない形で。お顔を拝見。
どれも優しい言葉なのに、全部が“断りにくい”でできている。
アデルが頷く。
「ご配慮、痛み入ります」
痛み入る。礼儀の花のはずなのに、今日の花は根が鋭い。
私は息を整えた。ここで恐怖を顔に出せば、向こうの“心配”が正当化される。心配が正当化されれば、介入も正当化される。
私は笑顔の形だけを作る。娘に不安を渡さないための顔。夫を敵にしないための顔。王宮の使いに「押せる」と思わせないための顔。
「ご心配いただき、ありがとうございます」
礼を返す。礼は鎧になる。
「ただ、今は静養の準備をしているところです。娘の体調が落ち着くまで、無理はさせたくありません」
使いは笑顔を崩さない。
「もちろんでございます。無理をさせるつもりはございません」
そして笑顔のまま、追い打ちをくれた。
「ですが、式典の日程がございます。学園側も、王太子殿下も、お嬢さまのお顔を拝見できればと」
王太子殿下。
その肩書きが出た瞬間、空気が一段重くなる。ここで「できません」と言えば、断ったのは誰かが問題になる。私か、アデルか。公爵家か。
使いは穏やかに、期限を置いた。
「三日以内に、ご返答をいただけますでしょうか」
柔らかいのに、地面に杭を打つような言い方だった。
アデルが一瞬、口を開きかける。その気配が怖い。彼は家のために受ける判断をしがちだ。体裁のために、正しさのために。
でも、娘のためじゃない。
私は言葉を先に差し込む。対立ではなく、条件づけで。
「医師の診立てが必要です」
使いの眉がほんの少し上がった。驚きではない。こちらのカードを数える目だ。
私は続ける。
「夜会の疲れが残っているのかもしれません。医師の所見が出てから、面会の可否も、日程も考えさせてください」
言い訳じゃない。条件だ。こちらが作る枠だ。
使いはすぐ頷いた。
「承知いたしました。医師の診立ては大切でございます」
そこで終わると思ったら違った。
彼は微笑みを保ったまま、最初の言葉をもう一度、角度を変えて置いた。
「ご同行はご意向で」
にこにこしているのに、逃げ道がない。
私は背筋が冷えたまま頷いた。
「……ええ。状況を整えて、最善の形で」
最善。便利な言葉だ。相手も自分も傷つけない代わりに、こちらの心が少し削れる。
使いは深く礼をして立ち上がった。
「では、三日以内に。ご無理のないように」
最後まで優しい。最後まで命令。
扉が閉まり、足音が廊下の奥へ消えた。
応接室の空気が、ようやく少しだけ息を吐く。
アデルが静かに言った。
「……王宮が動いた」
「ええ」
私は頷く。私の中では、もっとはっきりした言葉が鳴っていた。
照明が増えた。
照明は、増えるほど怖い。
アデルは机の端を指で軽く叩いた。考える癖が出ている。
「三日だ。返答を曖昧にし続けるのは危険だ」
「曖昧にはしない」
私は言い切る。
「条件を作るの」
アデルがこちらを見る。公爵の目。計算の目。
「条件?」
「静養を成立させる条件」
昨日までは静養の名目だった。今日からは違う。
「医師を呼ぶ。診立てを取る。面会の制限も、移動の制限も、医師の所見として形にする。そうすれば、王宮も簡単には押し込めない」
アデルが眉を寄せる。
「君は、医師を盾にするつもりか」
盾。言い方が冷たい。けれど否定しきれない。
「盾にするのは、言葉じゃなくて健康よ」
落ち着いた声で返す。
「娘が疲れているのは事実かもしれない。私たちだって、昨夜から眠れていない。なら、ちゃんと診てもらうべきでしょう」
その言葉の最後に、胸の奥がちくりとした。
診てもらうべき。正しい。
でも同時に、その正しさを体裁に使う自分がいる。娘の疲れを、守りの道具にしてしまうかもしれない自分がいる。
それが罪悪感だ。
私はそれを顔に出さない。出したら迷いが見える。迷いが見えたら、相手はそこを押してくる。
応接室を出ると、屋敷の中が妙にざわついていた。
音が増えたわけじゃない。むしろ声は小さい。小さいからこそ拾える。
「王宮の方が……」
「お嬢さまが……」
「学園が……」
噂は破片から勝手に形を作る。まだ何も決まっていないのに、舞台だけが先に整う。
廊下の角に、いつもならいない使用人が立っている。視線が一瞬止まる。挨拶がほんの少し遅れる。
照明が増えていく。
私は歩く速度を変えない。顔を上げる。目が合ったら短く笑って言う。
「静養の準備よ。空気のいい場所で少し休みます」
言葉を統一する。統一すれば、噂の枝が増えにくい。枝が増えなければ、舞台の飾りつけが遅れる。
後ろでノエルが淡々と動く。声で制すのではなく、動線で制す。台所前の人だまりに別の用を振って散らす。廊下の角に立っている者に、目だけで「仕事を」と伝える。
そして私の横へ並ぶ。
「夫人」
「なに?」
「にこにこしている方ほど、準備が早いです」
ノエルの声は淡々としているのに、今日は妙に刺さる。優しさの皮を被った圧は、だいたい準備が早い。
「……分かってる」
「だからこちらも準備をする、ですね」
言われて、私は小さく頷く。
足を止めずに命じた。
「医師を呼んで」
ノエルがすぐ頷く。
「承知しました。最も口の堅い医師を手配します」
「“静養”を成立させるの。言い訳じゃなくて」
「承知しました。所見は短く、効く形で」
効く形。
その言葉に、また胸がちくりとした。けれど頷く。娘のためなら、多少の痛みは飲み込む。
階段を上がり、子ども部屋へ向かう。
扉を開けると、クラリスが床に座り、ぬいぐるみを並べていた。うさぎとくま、それから小さな竜。今日も会議が開かれている。
クラリスは私を見ると、ぱっと顔を明るくした。
「お母さま! きょう、遠足?」
「そう。遠足」
私は隣に座り、髪の乱れを指で撫でて整える。これだけで娘の肩が少し落ちた。
「じゃあね」
クラリスが得意げに胸を張る。
「わたくしが正しいに決まっておりますのよ!」
……来た。
私は息を止めそうになった。昨夜の控室が一瞬だけよみがえる。照明の匂い。大人の笑い声。白い花の令嬢の気配。
でも、ここは子ども部屋だ。舞台じゃない。娘の遊びだ。
叱らない。眉もひそめない。まず受け止める。受け止めてから道を作る。
「上手に言えたね」
クラリスがぱっと笑う。
「でしょう?」
「うん。ちゃんと貴族っぽい」
娘は褒められて嬉しそうに、うさぎを抱きしめた。私はそこから、そっと方向を変える。
「でもね、クラリス」
「なあに?」
声を柔らかくする。包むように。
「強い人はね、言い方を選べるの」
クラリスがきょとんとする。
「えらいひと?」
「えらい人も。強い人も」
私は微笑む。
「強い言い方をしなくても、あなたは大丈夫。ね、さっきの言葉、少しだけ強いの」
「……つよい?」
「うん。“正しい”って言い切るとね、聞いた人がびっくりしちゃうことがあるの」
クラリスはうさぎの耳をいじりながら考える顔になった。
「びっくり……」
「そう。だから、言い方を変えてもいいの。たとえばね」
娘の言葉を壊さないように、形を少しだけ変える。
「『わたくしは、そう思います』」
クラリスが口をもごもご動かす。
「わたくしは……そう、おもいます……」
「うん。すごくいい」
頷く。
「それだとね、相手も聞きやすい。クラリスの考えも、ちゃんと届くの」
クラリスの目が輝いた。
「じゃあ、こっちのほうが、つよい?」
可愛い質問だ。私は笑い方を柔らかくする。
「うん。強いよ。自分の気持ちを大事にしながら、相手のことも考えられるから」
クラリスは少し誇らしげに胸を張った。
「わたくしは、そう思います!」
「とっても上手」
私は娘の頭を撫でた。髪がさらりと指を滑る。温かい。
その温かさがあるから、私は冷たい現実に立てる。
「じゃあ、遠足でも使う!」
「遠足で?」
「うん! おやつ、あまいのがいいとおもいます!」
それ、ものすごく強いお願いだ。
私は堪えきれず、くすりと笑った。
「分かった。検討します」
「けんとう?」
「考えます」
「やった!」
クラリスがぴょんと跳ねた。その瞬間だけ、徽章も期限も照明も消えた気がした。
けれど現実は、扉の外にある。
ノエルが控えめに扉を叩き、顔だけ覗かせた。
「夫人、少々よろしいでしょうか」
私は娘に微笑みを残したまま立ち上がる。
「クラリス、ここで待っててね」
「うん!」
廊下へ出ると、ノエルの目が今日いちばん冷えていた。
「夫人」
「なに?」
「門が見張られる可能性が高いです」
その一言で、温度が変わる。屋敷の廊下が急に狭く感じる。
「王宮の使いが来たあと、門番の数が増えるかもしれません。近所の目も増えます」
「……止められる?」
「止められる、というより」
ノエルが言葉を選ぶ。
「“止める理由が作られる”可能性があります」
理由。舞台は理由でできている。理由ができれば照明は勝手に点く。
私は息を吸い、吐いた。怖がっている暇はない。
「では、夜明け前に出る」
ノエルが即座に頷く。
「承知しました。医師は本日中に。所見が出次第、静養の準備を正式なものにします」
「お願い」
「現実的に必要な作業です」
淡々としているのに、背中を支える言葉だった。
私は子ども部屋の扉を振り返る。向こうから、クラリスの歌うような声が聞こえた。
「わたくしは、そうおもいますー!」
遠足の練習だ。
その声を、照明に奪われたくない。
私はノエルへ頷く。
「準備を進めて。静養を始めるわ。止められる前に」
廊下の窓から外を見ると、空が少しだけ白んでいた。夜明けは近い。
照明が増えるなら、こちらは影へ移る。
次に扉が叩かれるとき、それがお願いである保証はないのだから。




