第35話 助けて、と言える母
机の上の紙が、山になっていた。
祭りの段取り。
教室の回し方。
神殿からの通知。条件の整理。医師の所見。
町の人の名前。物資の数。椅子の数。絵本の数。コップの数。
数が増えると、息が浅くなる。
息が浅いままでも、手は動く。
手が動くから、止まらない。
止まらないのは、強いからじゃない。
止まったら、照明が当たる気がするからだ。
私は昨夜も、机に頬をつけるようにして短く寝落ちした。
起きた時、お茶が冷めていた。
冷めたお茶を飲んで、また紙に戻った。
ノエルが、朝の台所で淡々と言った。
「奥さま。寝ていませんね」
「寝たわ」
私は即答してから、言い直した。
「……少し」
嘘はつかない。
嘘は疲れさせる。
疲れている人に嘘は毒だ。
ハーゼ先生が胃薬の位置を直しながら、こちらを見た。
医師の目は、数字ではなく顔色を見る。
「少し、では足りません」
私は笑って誤魔化そうとした。
でも笑うと、頬が引きつる。
自分の顔が自分のものじゃない感じがした。
クラリスが机の端でぬいぐるみの耳を撫でている。
娘の指の動きは、落ち着かない時の動きだ。
私が忙しくなるほど、娘も落ち着かなくなる。
それが分かっていても、手が止まらない。
止まれないのは、怖いからだ。
神殿が“儀式”に寄せてくる。
祭りの場で“導き”を示すと言い出す。
王都の専門家が来る気配もある。
照明が、強くなる。
強い光の中で、クラリスを役にしたくない。
だから私は、紙の山の中にいた。
⸻
朝の廊下は、準備の音で満ちている。
布が擦れる音。
木箱がぶつかる音。
人が「こっち」と言う音。
そして、私の頭の中の「まだ」の音。
私は立ち上がった。
立ち上がった瞬間、視界が一度、横にずれた。
床が揺れたわけじゃない。
私が揺れたのだと気づくのが、少し遅れた。
ふらっと、足がよろける。
「……お母さま」
クラリスの声がした。
娘が不安そうに手を伸ばす。小さな手。細い手。
その手が、私の世界の一番大事なものだ。
私は反射で言いかけた。
「大丈夫」
でも、止めた。
嘘はつかない。
大丈夫じゃない時に大丈夫と言うと、娘が“疑う練習”をしなくてはいけなくなる。
私はその代わり、息を吸った。
吸った空気が薄い気がした。
そして――。
「休みなさい。命令です」
ハーゼ先生の声が、廊下を切った。
命令。
医師が命令という言葉を使う時は、体に関わる時だけだ。
私は一瞬、言葉を失った。
命令されるのは久しぶりだ。
止まるのは怖い。止まった瞬間に、あれもこれも崩れる気がする。
でも医師は、私の迷いより早かった。
「あなたが倒れたら、娘が崩れます」
胸の奥が、きゅっと縮む。
それは怖さではなく、当たり前の現実だ。
「今は“守るための休み”です」
先生は淡々と言った。
淡々とした声のほうが、逃げ道がない。
ノエルがいつの間にか近くにいて、水の入ったコップを差し出した。
湯気の立つものではない。水だ。現実の水。
「飲んでください」
私は受け取って口をつけた。
喉が乾いていたことに、そこで初めて気づいた。
クラリスが私の袖を掴む。
合図の握り方。
いつもの、私が娘に渡していた合図。
私はその合図に、胸の奥が熱くなる。
「……座ろう」
私は娘に言うのではなく、自分に言った。
座るのも、勇気だ。
ノエルが椅子を引く。
アデルが遠くで気配を止める。
皆が一瞬、私を見ている。
照明じゃない。
心配の視線だ。
それが、少し怖い。
でも同時に、少し安心でもある。
⸻
台所寄りの部屋に移されると、私は椅子に座ったまま、手が震えていることに気づいた。
寒いのではない。力が抜けているのだ。
ハーゼ先生が私の顔を覗き込み、短く言う。
「寝不足。水分不足。食事不足。たぶん全部です」
「たぶん全部です……」
私は復唱して、笑いそうになって、笑えなかった。
先生が、私の手首に指を当てた。
脈の速さを確かめる医師の指は、温かい。
医師の温度は、生活の温度だ。
「しばらく横になりなさい」
「でも――」
私は言いかけた。
“でも”の後に来る言葉は決まっている。
準備が。
神殿が。
祭りが。
教室が。
先生はその“でも”を切った。
「命令です」
冗談みたいに短いのに、逆らえない強さがあった。
先生が強いことを言った後、胸ポケットを探りそうになった。
胃薬だ。
ノエルが無言で差し出す。何も言わないまま。
先生が一瞬、目を泳がせ、受け取って飲んだ。
「……今のは心臓に悪い」
「必要な作業です」
ノエルが真顔で返す。
この二人は、ほんとに真面目だ。
私はコップを握りしめ、息を吸って吐いた。
止まるのは怖い。
でも、止まらない方が怖いのかもしれない。
クラリスが椅子の横に立って、私を見上げた。
目が不安で揺れている。
娘は、自分のせいだと思ってしまう。
私は急いで首を振った。
「違うよ。クラリスのせいじゃない」
娘の目が少しだけ落ち着く。
私は続ける。
「お母さまが……ずっと走ってた」
走ってた。
その言い方が、少し恥ずかしい。
でも、事実だ。
ハーゼ先生が言う。
「走り続ける人は、止まり方を忘れます」
私の胸に刺さる。
刺さるけれど、正しい。
私は唇を噛みかけて、やめた。
強い言い方をしない。
強い人は言い方を選べる。クラリスに教えた言葉だ。
私は、目を閉じて、短く決めた。
止まる。
その代わり、頼る。
⸻
私はゆっくり顔を上げた。
ノエルを見る。アデルを見る。リュシエンヌを見る。エミル先生を見る。
そしてハーゼ先生を見る。
皆がこちらを見ている。
照明ではなく、心配の目だ。
私は喉の奥が熱くなるのを感じた。
言葉が出にくい。
出にくい言葉ほど、必要な言葉だ。
「……助けて」
声が小さかった。
でも、部屋に通った。
言った瞬間、自分の中の何かがほどけた。
頼る言葉は、負けじゃない。
守るための言葉だ。
ノエルが即座に頷いた。
「はい」
短い。通る。
リュシエンヌが、笑いながら言う。
「やっと言ったわね。待ってた」
待ってた。
その一言で、胸が少し軽くなる。
アデルが真面目に言った。
「私が受ける。公爵として外向けは任せろ」
エミル先生が胸を張る。
「教室の方は私が。読み聞かせも――」
ノエルが視線で止める。
先生が咳払いをして短く言い直す。
「……子どもは私が見ます」
ハーゼ先生が言う。
「あなたは横になりなさい。娘さんの隣で」
娘の隣。
それが、私の戻る場所だ。
私は頷いた。
頷けたことが、成長だ。
⸻
その後の時間は、音が変わった。
誰かが動く音。
誰かが笑う音。
誰かが「次は」と言う音。
役割分担の音だ。
ノエルは帳面を開き、秒で段取りを作った。
どの荷を誰が運ぶか。どの時間に誰が何をするか。
神殿の書面の整理はどこまで。医師の所見はどこに添えるか。
“順番”が紙の上に並ぶ。
リュシエンヌは商会へ走り、人を集めた。
小口支援の強さを、生活の速度で回す。
「椅子が一脚」「紐が一束」「紙が一束」
その少しずつが、祭りの準備を支える。
アデルは外に出て、領地の人に頭を下げた。
公爵の顔で、でも余計な指示をしない。
受ける顔。盾の顔。
エミル先生は子どもの方へ行き、絵本を抱えて座った。
例え話が出そうになったところを、ノエルが遠くから目で刺す。
先生は咳払いして、短く言う。
「今日は楽しいだけです」
奇跡が続いている。
私は、その間、寝室に運ばれた。
運ばれたと言っても、牢ではない。
娘の隣の布団だ。
クラリスが私の横に座る。
ぬいぐるみを抱えたまま、じっと私を見る。
私は娘の髪を撫でた。
撫でるだけで、呼吸が少し深くなる。
守るために走っていたのに。
守るためには、ここに戻る必要があった。
私は目を閉じた。
眠るというより、息を整える。
廊下の向こうで、生活の音が続いている。
止まっていない。
私が止まっても、回っている。
その事実が、少しだけ怖くて、すごく安心だった。
⸻
夕方、窓の光が柔らかくなるころ。
私はようやく、体の中の揺れが治まっているのを感じた。
起き上がると、クラリスがすぐ手を伸ばしてきた。
今度は、娘が合図を渡す側だ。
小さな手が、私の手を握る。
温度を確かめる握り。
「お母さま」
クラリスが小さく言う。
「……だいじょうぶ?」
私は頷いた。嘘じゃない頷き。
「大丈夫。休んだから」
娘の目が、ふわっとほどける。
クラリスが、私の手をぎゅっと握り、少しだけ誇らしげに言った。
「今度はわたしが合図するね」
胸が、熱くなった。
今まで私は、合図を渡してきた。
手を握って、温度を渡して、戻ってくる道を作ってきた。
その合図を、娘が私に渡してくれる。
守られる側に回るのは、怖い。
でも、それは家族の形だ。
私は笑って、頷いた。
「うん。お願い」
短い言葉で、十分だった。
廊下の向こうで、誰かが笑っている。
生活の笑いだ。舞台の笑いじゃない。
私は娘の手を握り返した。
強すぎない。逃げ道のある握り方で。
助けて、と言えた。
それだけで、明日はもう少し軽くなる気がした。
そして同時に、次の影も見えた。
エミル先生が、廊下で誰かに話している声が微かに聞こえる。
いつもの例え話ではない、少し重い声。
王都の舞台の影が、また濃くなる。
でも今は、温度を守る。
順番を守る。
娘の隣に戻れる形を守る。
私は深く息を吸って吐いた。
明日も、笑える形にするために




