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悪役令嬢の母になりました。断罪より先に子どもを連れて舞台から降ります。【連載版】  作者: 星渡リン
第3章:こちらの舞台を作る

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第31話 ノエルが笑わない理由

 教室の終わりは、いつも少しだけ忙しい。


 椅子が擦れる音。

 子どもが走ろうとして親に止められる音。

 絵本が閉じられる音。

 「またね」と「またね」が重なる音。


 その中で、ノエルはいつも通りだった。


 通路を空ける。窓を閉める。水を片づける。コップを数える。

 忘れ物がないか目で拾う。泣きそうな子の背中を、視線だけで見守る。

 そして、笑わない。


 笑わないのが、彼女の普通だった。


 だから――。


「ノエルさん、なんで笑わないの?」


 子どもの声が、部屋の真ん中に落ちた瞬間。

 空気が、ぴたりと止まった。


 悪意のない声。

 ただの疑問。

 それが一番刺さることがある。


 ノエルが固まった。


 いつもなら即座に出る丁寧語が出ない。

 いつもなら即座に出る段取りの言葉が出ない。

 まるで、時計の針が一瞬止まったみたいに。


 子どもは首を傾げたまま、ノエルを見上げている。

 怖がっていない。逃げてもいない。

 ただ、知りたい顔をしている。


 ノエルの唇が動きかけて、止まる。


「……恐れ入ります、笑っていない、わけでは……」


 丁寧語が出た。けれど、形が絡まっている。

 「笑っていないわけではない」が、どうしても“言い訳”の形になる。


 子どもがさらに真っ直ぐ言った。


「でも、いつもおんなじかお」


 それは責める言い方じゃない。

 観察の報告だ。


 周りの親が息を呑む。

 クラリスが助けたい顔をした。

 でも私は目で止めた。ここは大人が受ける。


 ノエルの指が、無意識にエプロンの端を握る。

 この子は今、守りの形が崩れそうになっている。


 私は一歩前に出た。


「ノエルはね」


 声を大きくしない。

 でも届く声で。子どもに届く言葉で。


「笑わないんじゃなくて、静かに守ってるの」


 子どもがぱちぱちと瞬きをする。


「まもる?」


「うん。みんなが怪我しないように、通路を空けたり、お水を用意したり、窓を開けたり」


 私は指で部屋の中を示した。

 今、ここが落ち着いている理由を、生活の言葉で見せる。


「守ってる時の顔はね、真剣になるんだよ」


 子どもは少し考えて、それから急に顔をきゅっと真面目にした。


「じゃあ、これ、まもるかお!」


 周りの子も真似をする。

 真剣な顔が、部屋に増える。

 その増え方が可笑しくて、親が笑ってしまう。


 笑いが起きる。

 空気がほどける。


 ノエルはまだ固いままだけれど、肩がほんの少し落ちた。

 助け舟が通った合図だ。


 ノエルが、遅れて丁寧に補足しようとする。


「ええと……その……私の表情は、業務の……」


 子どもが即座に言った。


「むずかしいことば!」


 笑いがまた起きた。

 ノエルの丁寧語が、子どもの直球に負けた瞬間だった。


 ノエルは一瞬、口を閉じた。

 そして、いつもの顔に戻ろうとする。守り手の顔に。


 私はその顔を見て、胸の奥が少し痛んだ。

 守る人が、守りっぱなしでいると、どこかが擦り切れる。



 夜、別邸は静かになる。

 子どもの声が消え、廊下の灯りが少し暗くなる。


 私は台所で、湯気の立つお茶を淹れていた。

 今日は胃が温かい飲み物を求めている日だった。


 ふと、廊下の先に動く影が見えた。

 ノエルだ。まだ起きている。


 私は湯気の向こうから声をかけた。


「ノエル。もう休みなさい」


「はい。休みます」


 即答。

 即答なのに、動きが止まらない。

 休むと言いながら、手は布巾を動かし、帳面を確認している。


 彼女は一人で作業しすぎる。

 これが、いつもの癖だ。


 私は近づいた。

 ノエルの手が、ふと灯りに照らされた。


 赤い。

 指の関節が少しひび割れて、布に引っかかっている。

 水仕事。紙仕事。片付け。窓の開閉。

 守る手が荒れている。


「……ノエル」


 私が名前を呼ぶと、ノエルは少しだけ肩を跳ねた。

 驚くほどではない。でも“見つかった”という反応。


「奥さま」


 ノエルは平然としようとする。

 平然としようとするほど、手が痛そうだ。


「座って」


「作業が――」


「座って」


 私は言い切った。短く、通る言葉で。


 ノエルは口を閉じ、渋々椅子に座る。

 守り手が従う瞬間は、いつも少しだけ切ない。


 私は台所の棚から小さな瓶を出した。

 香りの薄い軟膏。派手じゃない、続く形のもの。


「手を出して」


「……必要ありません」


 ノエルは真顔で言った。


「必要です」


 私も真顔で返す。


 ノエルが渋々、手を差し出した。

 その手が、思ったより細い。

 強い人の手は、骨が細いことがある。


 私は軟膏を指に取り、ひび割れたところにそっと塗った。

 痛くないように。逃げ道のある触れ方で。


 ノエルの呼吸が、少しだけ浅くなる。


「痛い?」


「……痛みは、業務の一部です」


 またそれだ。

 私は笑いそうになって、笑わなかった。今は笑う場じゃない。


「業務から外しましょう」


「外せません」


「外せます」


 私は言う。


「あなたが倒れたら、守りが崩れる」


 ノエルの目が、ほんの少しだけ揺れた。

 刺さった揺れだ。


 私は温かい布を持ってきて、ノエルの手を包んだ。

 湯気の温度。生活の温度。

 守り手にも必要な温度。


 ノエルは、布に包まれた手を見つめたまま、しばらく黙っていた。


 それから、ぽつりと言った。


「……今日の子どもの質問は、鋭いです」


「子どもは、鋭いのが普通よ」


「普通で、刺さります」


 言い方が、少しだけ弱い。

 ノエルが弱い言葉を出すのは珍しい。


 私は手を包んだまま、静かに聞いた。

 急かさない。

 言葉が出るまで待つ。待つのも守りだ。


 ノエルが、少しだけ視線を落とした。


「……昔」


 それだけで空気が変わる。

 過去の匂いがする。冷たい匂い。


「昔、守れなかった子がいました」


 声は淡々としているのに、言葉が重い。

 私は何も言わなかった。

 問い詰めない。詳しく聞かない。

 ここで詳しく聞いたら、彼女は“過去の舞台”に戻ってしまう。


 ノエルは続けた。続けたというより、零れた。


「笑うと、油断する気がして」


 油断。守り手が一番嫌う言葉。


「油断した時に……取り返しがつかなかった」


 それ以上は語らない。

 語らないのに、十分だった。


 私は息を吸って吐いた。

 ここで「あなたのせいじゃない」と軽く言うのは簡単だ。

 でも軽い言葉は、彼女の重さを置き去りにする。


 だから私は“今”を置く。


「今、守れてる」


 短く言った。

 短い言葉で、重いものを受け止める。


 ノエルが顔を上げる。

 目が少しだけ丸くなる。


「今日」


 私は続けた。


「子どもがあなたを怖がらなかった。近づいて、聞いてきた。『なんで笑わないの』って」


 ノエルが小さく眉を寄せる。


「それは……」


「守れてる証拠よ」


 私は言い切った。


「怖い人には、子どもは近づかない」


 ノエルが言葉を探す。

 探して、見つけられない。

 でも、その時間が大事だ。守り手が守られる時間。


 私はもう一つだけ言った。


「一人で全部抱えないで」


 ノエルが反射的に言う。


「しかし、段取りは――」


「段取りは分ける」


 私は即答する。


「あなたが倒れたら、守りが崩れる。これは医師の言葉と同じ」


 ノエルの唇が、ほんの少しだけ緩んだ。

 笑いではない。でも固まりが一つ溶けた。


 布の中の手が、少しだけ力を抜く。



 しばらくして、ノエルが小さく息を吐いた。


「……奥さま」


「なあに」


「私は、今日も丁寧語で敗北しました」


 急にそんなことを言う。冗談みたいな言い方。

 冗談みたいに言えるのが、すごい。


 私は笑ってしまった。堪えられなかった。


「敗北したのね」


「はい。子どもに『むずかしいことば』と言われました」


「それは……」


 私は口元を押さえたまま言った。


「負けていい敗北よ」


 ノエルが、少しだけ目を丸くする。


「負けて良い敗北、ですか」


「うん。子どもは、難しい言葉より温度のほうが分かるから」


 ノエルが、布に包まれた手を見つめたまま、ほんの少しだけ口角を上げた。


 小さい。

 すぐ消えそうな笑い。


 でもそれでも、笑いだ。


 私は息を吸って吐いた。

 守り手が笑った。

 それだけで、この家の空気が少し軽くなる。


 その瞬間。


 廊下の方から、控えめなノック音がした。


 ノエルの表情が戻る。守り手の顔へ。

 戻り方が早いのが、彼女らしい。


「失礼いたします」


 使用人が封書を差し出した。

 厚い紙。硬い封。神殿の紋。


 私は封を受け取り、机に置いた。

 今、開けない。

 この温度を、紙で冷やしたくない。


 ノエルが、目だけで封を見た。


「……来訪通知ですか」


「ええ」


 私は頷く。


 ノエルが短く言った。


「言葉が変わるはずです」


「検査じゃなく?」


「……儀式に寄せてきます」


 その言い方で、背中が冷えた。

 “器”の言葉と繋がる匂いがする。

 分類される。役にされる。舞台に戻される。


 私は息を吸って吐いた。燃えない。順番を決める。


「順番を決める」


 私が言うと、ノエルは静かに頷いた。

 さっきの笑いの余韻が、まだ消えていない目で。


「次も、こちらの場で受けます」


 ノエルが言う。淡々と。

 でも、少しだけ温度がある。


 私は封書に手を置いた。重い。

 けれど今夜は重さに押し潰されない。


 ノエルの笑いが、ほんの少しだけ残っているからだ。


 守る人が笑える夜は、守りが強い。

 そう思える夜だった。


 そして同時に、次の圧が近づく音がした。

 検査ではなく、儀式へ。

 “器”という言葉の続きへ。


 次は、それをこちらの生活の中で受け止める番だ。

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>「負けていい敗北よ」 とてもいい言葉だなと思いました。
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