第3話 あなたは娘に聞きましたか
「あなた、クラリスに聞いた?」
書斎の空気が、そこで一度止まった。
机の上には、封蝋の赤がまだ新しい招待状が広げられている。厚い紙に、整った文字。読まなくても分かる。王都の“正しさ”が、紙の端まで染みている匂いがした。
アデルはその招待状から目を上げない。返事もしない。
沈黙が長いほど、答えは濃くなる。
聞いていない。
私は息をひとつ整えた。怒りで言葉を尖らせたら、この部屋が舞台になる。舞台ができたら、照明は勝手に点く。私はそれを避けたい。娘のために。
やがてアデルが顔を上げる。出張帰りの冷気が、まだ髪に残っている。疲れているのに、疲れているからこそ「当然」の鎧が固い。
「……何をだ」
その言い方が、もう答えだった。
「行きたいかどうかよ」
私は机の端に手を置いた。招待状には触れない。触れた瞬間、紙の向こうから視線が伸びてきそうだった。
ここは紙の話をする場所じゃない。娘の話をする場所だ。
「この招待状のことか」
アデルが紙を軽く叩いた。
「学園からだ。式典と、面談。出席は当然だろう。欠ければ……」
「不利になる?」
私が先に言うと、アデルの眉がわずかに動く。言葉を奪われたときの顔。夫のこういう顔は、昔から分かりやすい。
「……そうだ。噂は形になる。欠席は、勝手に意味を付けられる」
「だから娘を出す。そういう流れね」
声は落ち着いている。殴りたい気持ちはある。でも殴れば殴った分だけ、ここが舞台になる。私は舞台を作りたくない。
アデルは椅子に腰を下ろし、指を組んだ。
「マリアンヌ。君は昨夜の件で過敏になっている」
昨夜。
その一言で、胸の奥が冷える。「過敏」。危機感をそう呼ぶ人は、いつだって後から慌てる。
「過敏でもいいわ」
私は言った。
「娘のことなら、過敏でいい」
アデルが小さく息を吐く。ため息に見せない、仕事の呼吸。
「君の気持ちは分かる。だが、娘は貴族だ。いつか社交と学園は避けられない。なら早いうちに慣れさせたほうがいい」
「慣れさせるために、怖がらせるの?」
「怖がらせるつもりはない。守りはつける。同行の者も増やす。問題は起きない」
問題は起きない。
その言葉ほど、私は信用しない。起きないと言い切るほど、起きたときの対応は遅れる。
「守りを増やしても、言葉は止められないわ」
私は静かに返す。
「目線も、噂も、空気も」
「空気?」
アデルが眉を寄せる。彼は人の意図を読むのは得意だ。けれど、人の意図が集まってできる流れを、危険として扱う癖がない。
私は言い方を変える。夫の言葉に届く形へ。
「たとえば誰かが泣く。誰かが正しいと叫ぶ。その場が揺れる。そこに娘がいたら、娘は巻き込まれる。守りは、巻き込まれたあとに盾になる。でも私は、巻き込ませたくないの」
アデルの口元が固くなる。
「君は、いつも最悪を想定する」
「最悪を想定して、最悪を避けるの。母親だから」
言い切ったあと、私は心の中で自分に釘を刺す。感情を増やしすぎるな。夫を敵にするな。敵を増やさない。娘のためだ。
アデルは招待状を持ち上げ、もう一通、別の紙を引き寄せた。学園の印章。王宮の紋。どれも重い。
「これは学園だけじゃない。王宮側の目もある。君は理解しているだろう。公爵家は、ただの家じゃない」
「理解してる」
理解している。だからこそ、娘を道具にされたくない。
「だから聞くの。あなたはクラリスに聞いた?」
同じ問いを、同じ温度で繰り返す。
ここが私の一点だ。
アデルの視線がわずかに揺れる。机の角を見て、紙を見て、私を見る。答えを探す目ではない。逃げ道を探す目だ。
「……子どもに選ばせるものではない」
ようやく出た言葉は、結論を避けた形だった。
「私は“選ばせる”って言ってない。聞いたのか、聞いてないのか。それだけ」
言葉を削る。削った分だけ、芯が出る。
アデルの喉が動く。返事が遅れる。その遅れが、私の中の確信を固めていく。
聞いていない。
「君は……理想論だ」
アデルがぽつりと言った。
理想論、と言う人ほど、理想を持っている。持っているのに、現実の名で押し潰してしまう。だから苦しくなる。
私は責めない。責めたら彼は引く。引いたら溝になる。溝は舞台の床になる。私は床を作りたくない。
「理想でもいい」
私は言う。
「娘の心を壊さないことは、理想じゃなくて、前提よ」
アデルが目を細める。その奥に父親の顔が一瞬だけ覗く。けれどすぐに、公爵の顔がそれを覆う。鎧みたいに。
「……では、どうする」
ようやく“議論”から“相談”に近づいた声。
私はここで、用意していた現実を差し出す。感情じゃない。体裁だ。敵を増やさない道だ。
「領地へ行く」
アデルの眉が上がる。
「今から?」
「今から。静養の名目で」
「静養?」
「『空気のいい場所で少し休みます』って言い方にするの。普段の用事みたいに聞こえる。だから噂に餌をやらない」
口に出すと、昨日の早朝にノエルが言った言葉がよみがえる。生活に寄せる。あれは弱さじゃない。強さの形だ。
「医師にも相談する。疲れが出た、で十分。領地視察も兼ねれば、家としての体裁も立つ。欠席じゃなくて、用事の形になる」
アデルは招待状を机に置き直した。
「君は、王都から距離を取れば、すべてが解決すると思っているのか」
「解決するとは言ってない」
私は首を振る。
「今は、守るの。守れるうちに。次の一手を考えるために」
「……逃げだ」
アデルの声が少し強くなる。怒りだけじゃない。焦りだ。王都の視線と一緒に生きてきた人間の焦り。家が揺れるのを恐れる焦り。
私は即答した。
「そうよ。母親だから」
アデルの目がわずかに見開かれる。反論が喉まで来て、そこで止まる顔。
私は畳みかけない。ただ、もう一度だけ“一点”を置く。
「あなたが守りたいものが家なら、私は守りたいものが娘。どっちも間違いじゃない。でも順番は、私には変えられない」
言い方は柔らかい。けれど芯は硬い。
アデルが唇を結ぶ。言い返そうとする。でもその言葉は、たぶん自分にも刺さる。だから出ない。
沈黙が落ちる。
その沈黙を破るように、書斎の扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのはノエルだった。背筋が一本の線みたいにまっすぐで、表情は静か。けれど、目が忙しい。状況を一瞬で読み、必要な言葉だけを選ぶ目。
「お話し中のところ申し訳ありません。夫人、馬車の準備は整っております」
それを聞いて、アデルが鋭くノエルを見る。
「馬車?」
ノエルは揺れない。
「はい。夫人は『空気のいい場所で少し休みます』というご予定です。普段の用事のように見えるほうが、余計な噂を呼びませんので」
私の案を、ノエルがもう現実として積んでいる。これは彼女の強みで、ときどき夫の神経を逆撫でする。
アデルのこめかみがわずかに動いた。
「……勝手に決めたのか」
私は言い方を選ぶ。
「勝手に、じゃない。娘を守るために決めたの」
「私に相談もなく?」
「相談しているわ。今」
今この瞬間も、私は相談している。けれど相談が“許可取り”に変わるなら、私は従わない。
アデルの視線が私とノエルを往復する。自分の家の中で、自分の言葉の効き方が変わっていることに気づいた目だ。
私は娘を呼ぶ。議論の中心を、最初から最後まで娘に戻すために。
「クラリス」
隣室から控えめな足音。ぬいぐるみを抱えた小さな影が、扉の隙間から覗く。
「……なに、お母さま?」
クラリスはうさぎを抱え、くまを腕に挟んでいる。目はまだ朝の光に慣れきっていない。でも顔は明るい。あの合言葉が、今のこの子の背中を支えている。
私は膝を折って、目線を合わせた。ついでに、髪の乱れをひとつ撫でて整える。小さな儀式。安心を渡す手つき。
「ねえ、クラリス。空気のいい場所で少し休みに行こうと思うの。行きたい?」
問いは短く。怖い理由は渡さない。選択の形だけを渡す。
クラリスの目がぱっと輝いた。
「行きたい! 遠足!」
うさぎが揺れる。くまの耳が跳ねる。可笑しくて、胸が痛い。守りたいものが、ここにある。
私は微笑んで頷く。
「うん。遠足」
立ち上がって、アデルを見る。
「聞いたわ。今、ここで。本人の答えを」
アデルの視線がクラリスへ移る。
父親の顔が、また一瞬だけ戻る。けれどすぐに公爵の顔がそれを覆う。鎧みたいに。
「……クラリス。学園は、君に必要な場所だ」
アデルがそう言いかけた瞬間、クラリスの肩がほんの少し上がった。昨夜の空気が戻りかける兆し。
私はすぐに間に入る。
「今は“必要”の話をしない」
声は低く、短く。
「今は“心が壊れない”の話をする」
アデルが私を見る。言い返す言葉を探す。けれど言い返した瞬間に、娘が固くなる。それが分かっているからこそ、彼は言葉を止めた。
ノエルがさりげなく、クラリスの背中に手を添える。押すのではなく、支える。実務の手つきで、優しい。
「お嬢さま、遠足の準備をいたしましょう。まずは上着を。外は冷えます」
「うん!」
クラリスが元気よく返事をして、ノエルに連れられて隣室へ戻る。うさぎとくまが小さく揺れて、扉が閉まった。
その扉が閉まった瞬間、書斎の空気がまた固くなる。
娘がいない場所では、大人は簡単に強くなる。
アデルが机の端を指で叩いた。
「君は……私の立場を分かっていない」
「分かってる」
私はすぐ返す。
「あなたが家を守るために、王都の流れに逆らえないのも分かってる。でも、娘をその流れに入れるかどうかは別」
「別ではない。家の子だ」
「家の子である前に、子どもよ」
アデルが目を細める。怒りではない。悔しさに近い。自分の中の“正しさ”が、娘の明るい声で揺れてしまった悔しさ。
「……理想論だ」
二度目の言葉は、さっきより弱かった。自分にも刺さっているから。
私は言い方を変えない。
「理想じゃない。基準よ」
その瞬間。
廊下のほうで慌ただしい足音がした。近づく音。止まる音。扉が叩かれる。今度は控えめじゃない。焦りが混じっている。
「失礼いたします、公爵様!」
入ってきたのは、別邸の管理を任されている使用人だった。顔色が悪い。呼吸が速い。
「王宮の使いが到着しました。至急、お目通りを、と……」
書斎の温度が、一段下がった。
アデルの顔が固まる。さっきまでの議論が、一瞬で現実に押し潰される顔。
私は背中に、見えない照明が当たる感覚を覚えた。
舞台の外へ出たはずなのに、舞台がこちらへ歩いてくる。
アデルはゆっくり立ち上がる。声は低い。
「……誰の件だ」
使用人が一瞬だけ視線を泳がせ、それから言った。
「……お嬢さまの件で、とのことです」
その言葉で、私の中の冷えが芯まで届く。
アデルが私を見る。その目には、さっきまでの夫婦の衝突とは違う色が混ざっていた。公爵としての計算。父としての迷い。そして、遅れて来た気づき。
照明は、待ってくれない。
私は息を吸い、笑顔の形だけを作る。娘に不安を渡さないための顔。
「……行きましょう」
アデルが頷くかどうかは分からない。
けれど、王宮の使いはもう来ている。
拒否できない“お願い”が、扉の向こうで息をしている。




