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悪役令嬢の母になりました。断罪より先に子どもを連れて舞台から降ります。【連載版】  作者: 星渡リン
第2章:舞台が追ってくる

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第23話 静養は、盾になる

「今日は、私が悪者になります」


 ハーゼ先生がそう言ったのは、門の外から馬の気配が増えた瞬間だった。

 朝の空気が、きゅっと固くなる。あの“丁寧な足音”が、道を伝って近づいてくる。


 先生の手には、薬草茶ではなく小さな瓶があった。

 胃薬だ。握り方が真剣すぎて、逆に心配になる。


「先生」


 私が呼ぶと、先生は笑おうとして、うまく笑えなかった。


「奥さま。今日ばかりは、医師の仕事が……政治に近い」


 政治に近い。

 それはつまり、胃に近い。


 ノエルが先生の横に立って言う。


「お茶は逃げません。飲んでから行きましょう」


「……ありがたいですが、今は胃薬が先です……」


 先生は瓶を開け、ひと口飲み込んだ。

 その喉の動きが、私にとっての合図になった。


 盾が前に出る。

 今日は、盾を盾として使う。


 私は息を吸って吐き、頷いた。


「お願いします。先生」


 先生の肩が小さく揺れた。震えている。

 震えているのに、前に出る覚悟の肩だ。


 門の外で、止まる音。

 礼儀正しいノック。

 丁寧で、押しが強い音。


 ノエルが先に動き、私に視線だけで確認する。

 明るい部屋。密室にしない。同席者。逃げ道。


「応接へ」


「はい」


 ノエルの返事は短い。短いほど通る。

 私たちの作戦も、短いほど通す。



 応接室は窓の大きい部屋にした。

 光が入る。人の気配が届く。言葉が閉じない。


 テーブルの上に置くのは必要なものだけ。

 医師の診断書と、神殿の招請状の写し。

 どちらも“こちらが準備している”証拠だ。


 扉が開く。


 セレスが入ってきた。

 にこにこしたまま丁寧に頭を下げる。


「奥さま。ご機嫌麗しく」


 礼儀は厚い。声は柔らかい。

 けれど今日は、背後が重い。


 随行が複数。

 書記のような人が一人。護衛のような人が二人。さらに神官服の影が二つ。

 人数が増えるだけで、空気が押される。


 書記が机に紙束を置いた。

 その音が、やたら大きい。


 ノエルが、ほとんど微笑まずに言った。


「紙は静かに置いてください」


 一瞬、空気が止まる。

 セレスの笑顔は崩れない。けれど、その目が「刺さる侍女だ」と言っている。


「失礼いたしました」


 書記が小さく頭を下げる。


 セレスが穏やかに続けた。


「本日は正式な手続きのため、数名同席しております。安全と記録のためです」


 安全。記録。

 正しい言葉が並ぶと、断る側が悪者になる。


 私は笑顔を装備して頷いた。


「承知しました。こちらも医師が同席します」


 ハーゼ先生が一歩前に出る。

 白衣の袖を直し、深呼吸をひとつ。


 震えている。

 けれど、声は通った。


「医師ハーゼです。本件は医療判断として申し上げます」


 セレスがにこやかに微笑む。


「医師の見解は尊重いたします。ですが、神殿の儀式は“病”を扱うものではありません」


 来た。

 医学の土俵を、神意の土俵へ引きずる言い方。


 先生は視線を逸らさなかった。


「だからこそ、です」


 その言い方が少しだけ強い。

 強い言葉は普段の先生からは出ない。だから、余計に刺さる。


「儀式は刺激です。刺激は症状を悪化させます。病であろうとなかろうと、身体と心は同じです」


 セレスの笑顔が、一瞬だけ薄くなる。

 神殿の言葉を、医学で切った。


 先生は続けた。


「移動は不可。外部刺激は不可。長時間の拘束は不可。これが医師の判断です」


 不可。不可。不可。

 短い。強い。通る。


 セレスは柔らかい声のまま言う。


「医師のご判断は理解いたしました。ですが、我々は“保護”の責務があります。お嬢さまの安全のために」


 安全。

 またその言葉。便利な刃。


 先生は胃薬を握りしめたまま、言い切った。


「安全のためなら、なおさら静養です。今は移動も儀式も負担です。負担は危険です」


 ……先生、強い。

 強すぎて、先生本人が驚いている顔をしている。

 口が動いているのに、目が「私、今の言いました?」と問いかけている。


 ノエルが無言で薬草茶を差し出した。

 先生は受け取り、ひと口飲んだ。

 盾が、盾の呼吸を保つ。


 私はその背中を見て、胸の奥がきゅっとした。


 罪悪感。


 先生を盾にしている。

 私が前に出れば、先生は胃を押さえずに済むかもしれない。

 私が言えばいいのに。私が悪者になればいいのに。


 でも。


 娘のためには、盾を盾として使う。

 私が前に出て感情で燃えたら、噂が燃料を得る。

 先生の“医師”という立場は、燃えにくい。生活に通る。公の場にも通る。


 私は口を挟まない。

 今日はそれを、自分にも課す。


 セレスが穏やかに言った。


「奥さま。お嬢さまのご様子を、我々は確認する必要があります。短時間で結構です。お部屋に伺い、お顔だけでも」


 顔だけでも。

 その言い方はいつも、次の扉を開ける。


 ノエルが短く言う。


「お嬢さまは休んでいます。起こしません」


 セレスが微笑む。


「休んでいるならなおさら。静養の妨げにはなりません」


 妨げにはなりません。

 丁寧な言葉で、逃げ道を削る。


 先生が、もう一度前へ出た。


「妨げになります」


 一言。

 刃みたいな一言。


「緊張は刺激です。知らない人が増えることは刺激です。刺激は症状を悪化させます」


 セレスの背後の随行が、わずかに動く。

 空気が押し返され、また押し返される。


 私はその押し合いの中で、娘の部屋を思い出した。



 クラリスの部屋は、応接から少し離れている。

 扉は閉じてある。声は直接届かない。けれど、気配は伝わる。


 娘はぬいぐるみを抱え、窓の方を見ていた。

 庭の小枝の家が見える位置。入口が二つ、窓が二つ。出ていい場所がある。


 それでも、肩が少し上がっている。

 呼吸が浅くなりかけている。


 私は短く入って、娘のそばにしゃがんだ。


「クラリス」


 娘が私を見る。

 すぐに袖をぎゅっと掴む。


 合図。


 私は握り返す。手の温度で「今ここ」を渡す。


「大丈夫」


 短く。通る言葉で。


「ここは生活。窓がある。出ていい」


 クラリスが息を一つ吐いた。


「……出ていい」


 復唱できる。戻れる。


 私は頷いた。


「うん。今はここ。お母さまもいる」


 クラリスは少し迷ってから言った。


「……わたし、言えるよ。行かないって」


 胸が熱くなる。

 小さな拒否は、強い。


「うん。言えた。もう言えた」


 私は娘の髪を撫でた。

 長く居ない。応接の場が崩れる。場も守りの一部だ。


「すぐ戻るね」


 クラリスが頷く。


「……お母さま、負けないで」


 その言葉が背中を押した。

 勝ち方は、殴ることじゃない。成立しない状況を作ること。


 私は短く頷き、応接へ戻った。



 応接室の空気は、さらに固くなっていた。


 セレスが柔らかい声のまま言う。


「医師のご意見は理解しました。ですが、医学は人の理屈。神意はそれを超えます」


 来た。

 土俵を完全に変える言葉。


 先生の指が胃薬の瓶を強く握る。

 震えている。けれど、引かない。


「神意、という言葉で、身体への負担が消えるわけではありません」


 先生の声が少し掠れた。

 怖いのだ。胃のためじゃない。圧のために。


 セレスが微笑む。


「負担ではありません。守りです」


 守り。

 誰も否定しづらい言葉。


 ここで私が感情で反論したら、舞台が燃える。

 私は深呼吸し、いつもの順番を思い出した。


 対決しない。

 場を設計する。

 透明にする。

 結論をこの場で出さない。


 私は笑顔を装備したまま、短く言った。


「ここで結論は出しません」


 セレスの眉が、ほんの少し動く。


「奥さま?」


 私は続けた。


「医学と神殿の見解が違うなら、正式な場で話しましょう。公的な会議で」


 セレスが、わずかに目を細める。

 公的な会議。それは透明化であり、同時に照明でもある。


 ノエルが一歩前に出て、短く補足した。


「公の場なら誤解が減ります。どちらの善意も、曲がりにくい」


 セレスは微笑んだ。

 微笑みは崩さない。けれど、その微笑みは次の手を探している。


「なるほど。奥さまは慎重でいらっしゃる」


 慎重。褒め言葉の顔をした釘。


 私は頷いた。


「娘の静養が最優先です」


 先生が息を吐いた。

 私が前に出すぎないように、言葉を短く切る。

 盾の前で、盾を支える言い方を選ぶ。


 セレスは一拍置いて、柔らかく言った。


「公的な会議となれば、王宮も同席ですね」


 その一言で、部屋の温度がまた下がった。

 王宮。舞台の中心。照明が強い場所。


 セレスは続ける。


「王都の視線が入るのは、むしろ安心でしょう。奥さまにとっても」


 安心。

 またその言葉。便利な刃。


 私は笑顔を崩さずに言った。


「娘にとっての安心は、ここにあります」


 セレスは微笑みながら引いた。引くふりをした。


「承知しました。本日は無理に進めません。ただし、公的な場の準備は急ぎます。こちらは待ちません。」


 待ちません

 その一言が、丁寧な扉を閉めた。

 お茶は逃げない。でも、善意は待たない。


 セレスが頭を下げ、随行が動き、足音が複数で遠ざかる。

 扉が閉まった瞬間、応接室の空気が少し戻った。


 先生が椅子に座り込む。

 座り込み方が、戦いのあとだ。


「……終わりましたか」


「終わってません」


 ノエルが即答した。


 先生が苦笑しようとして、胃を押さえた。


「……胃が……」


 ノエルがすっと胃薬を差し出す。


「飲んでください」


「……ありがとうございます……」


 先生が震える手で飲む。

 震えているのに、強い言葉を言った。

 その矛盾が、尊い。


 私は先生の前に立ち、深く頭を下げた。


「先生。ありがとうございます」


 先生が目を丸くする。


「奥さま、頭を下げるのは……」


「先生が前に出てくれたから、娘が守れました」


 私は顔を上げ、真っすぐ言った。


「私、無理しがちです。前に出がちです。でも今日は、先生に任せたかった。任せて良かった」


 先生の喉が動いた。

 照れたように視線を逸らす。


「……職務です」


 でも声が震えている。

 職務だけで前に出られるなら、胃薬は要らない。


 ノエルが小さく言った。


「先生、今日は悪者でした。満点です」


 先生がぽかんとした。


「……私も採点されるのですか……」


「はい。ここは採点が多い家です」


 ノエルが真顔で言う。

 私は思わず笑ってしまった。笑いが出るだけで、胸が軽くなる。まだ大丈夫だと思える。


 先生が小さく息を吐き、ようやく笑った。


「……では、私も言います。奥さま。無理は不可です」


 不可。

 先生の不可は、今日は盾になる不可だ。


「はい」


 私は頷いた。


「静養は、盾になります」


 先生が言い切る。

 その言葉が胸に落ちる。


 静養は逃げではない。

 言い訳でもない。

 盾だ。



 隣室から、クラリスの笑い声が聞こえた。

 お茶の時間の笑い。生活の音。

 舞台の拍手ではない、生きている家の音。


 私はその音を胸に入れてから、ノエルに言った。


「公的な会議……王都の視線が入る」


「はい」


「照明が強くなる」


「はい」


 ノエルは短く頷き、続けた。


「だから、窓と入口を増やします」


 窓と入口。逃げ道。呼吸の場所。


 私は頷いた。


「私も増やす。支える手を」


 ノエルが一瞬だけ、ほんの少しだけ柔らかい目をした。


「奥さま。お嬢さまはもう一つ、強い言葉を持っています」


「……強い言葉?」


「『いやだ』です」


 私は笑って頷いた。


「そうね。あの言葉は、強い」


 小さな拒否は、強い。

 静養は、盾になる。

 そして次は、公的な会議。王都の視線。


 舞台は、またこちらを照らそうとする。


 それでも。


 順番は、こちらが決める。

 娘の呼吸を守るために。

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― 新着の感想 ―
今回のお話も面白かったです。毎回どうなるのか更新を楽しみにしています。 個人的に思った事を、今回も感想として書かせて頂きます。 奥様に共感するほど呼吸が出来ない状態が続いてます。公爵家なのに蔑ろにさ…
なんかこう、侍女さんが全てを見通す神の視点でポエティックなセリフを繰り返してますが、もうちょっと読み手に分かりやすく落とし込む事は無いのでしょうか? それともう一つ解らないのが、全てにおいて逃げの一…
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