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第2話 遠足という名の撤退

 夜が明けきる前の屋敷は、音が少ない。だからこそ、ひとつの言葉がやけに響く。


「本日中は遠足ではなく逃走ですね?」


 ノエルが真顔で言った。


 私は寝不足のまま、机に肘をついて彼女を見返す。


「語感が悪いわ」


「承知しました。では“急な田舎行き”で」


「それも言い方が堅すぎる」


 ノエルは一拍置き、紙の見出しを差し替えるみたいに言い直す。


「『空気のいい場所で少し休みます』って言い方にします。普段の用事みたいに聞こえますから」


 普段の用事。昨夜の夜会はまだ耳の奥で眩しく鳴っているのに、ノエルの言葉はそれを、台所の鍋の音くらいまで引き下げてしまう。


 舞台を生活に戻す。彼女はそれができる。


 私は蝋燭の火を見た。小さく揺れる明かりが、今の現実の中心だ。


「荷物は最小に。でも……」


 顔を上げて、ノエルを見る。


「クラリスの安心は最大。そこだけは削らない」


「承知しました。物は減らせます。安心は減らしません」


 この返事だけで、胸の奥に貼りついていた冷えが、少しだけ薄くなる。


 机の上には走り書きのメモが散らばっている。旅支度。馬車。護衛。門の抜け方。使用人への説明。夫への連絡。


 夫、アデル。


 その名前を思い浮かべた瞬間、別の種類の冷たさが背中に張りついた。昨夜の“あの空気”とは違う、もっと現実的なやつ。家の中の力関係、社交界の面子、公爵家の体裁。


 でも今は、体裁を守るために娘を舞台へ戻すわけにはいかない。


 昨夜みたいに、人の目と噂に押し流される前に、娘を連れてこの場を離れたかった。だから今朝は、迷っている時間がない。


「時間は?」


「出るなら今です。夜明け前後は人が少ないので、止められにくいです」


 ノエルの声は淡々としているのに、言葉の芯は硬い。迷いが一切ない。


「よし。クラリスが起きる前に形を作る」


「形は私が作ります。夫人は“笑顔”を用意してください」


 笑顔を用意する。簡単そうで、いちばん難しい。


 ノエルが扉に手をかけた。


「まず荷造りです。必要最小限。ただし……」


 彼女は一瞬だけ言いよどむ。


「お嬢さまの“必要”は、夫人の必要とは違います」


「分かってる」


 分かっている。だから怖い。子どもの不安は理屈で片づかない。削った荷物の分だけ、心が重くなることがある。


 子ども部屋の扉を開けると、薄い光が差し始めていた。朝はまだ眠そうで、カーテンの隙間からだけ入ってくる。


 ベッドの横の椅子に、ぬいぐるみが整然と並んでいる。まるで会議の出席者みたいに。


 うさぎ、くま、そして小さな竜。


 ノエルが何も言わずに私を見る。目が言っている。


 三つ。


 私は先に言った。


「二つまでは許して」


「一つです」


「即答しないで。交渉って知ってる?」


「知っております。時間がない場合は即答します」


 ノエルは衣装箱を開け、必要な衣類を迷いなく選び始めた。薄手のワンピース二着、防寒の上着、替えの靴下。動きやすさ優先。夜会用のドレスには指も触れない。昨夜の布は、今朝にはもう“過去”だ。


 私はぬいぐるみを見下ろし、ひとつずつ持ち上げた。子どもの安心って、案外ずっしりしている。


「クラリスは、抱いて眠るのはうさぎなのよ」


「では、うさぎで」


「でも、くまは……外でおやつを食べるときに必要」


 ノエルの手が止まった。


「おやつに必要、とは?」


「……雰囲気に必要」


「雰囲気」


 ノエルが真顔のまま、くまを一度見て、うさぎを見て、私を見た。


「夫人の雰囲気ではなく、お嬢さまの雰囲気ですね」


「そう」


 ノエルは短く息を吐く。ため息というより、計算の合間の空気交換。


「……中で一つ抱えて、もう一つは予備。予備は荷物として扱います」


 私はくまを抱き上げ、耳を整えた。ふわふわの毛が指に絡む。こういう手触りだけが、昨夜の“正しさの匂い”を洗い流してくれる気がした。


「予備って言い方が冷たい」


「現実的に必要な作業です」


 言い切られると、反論する気が失せる。ノエルはこういう時、ひと文字も揺れない。


 小さな竜のぬいぐるみが、こちらを見上げている気がした。へたった毛並み。何度も抱きしめられた証拠。いちばん“今”に寄り添っているのは、たぶんこの子だ。


 私は迷って、竜をそっと胸に抱いた。冷たい現実に、柔らかいものを挟む。


「ノエル」


「はい」


「この子たちは、戦力よ」


 ノエルが一拍置き、竜を見てから頷いた。


「……承知しました。ですが三つは戦力過多です」


「分かってる」


 私は竜をベッドへ戻し、うさぎとくまを選んだ。胸の奥が少し痛い。でも痛いからこそ、ちゃんと決めた気がする。


 そのとき、ベッドの上でシーツがこすれる音がした。寝起きの息、ぼんやりした視線。


「……お母さま?」


 クラリスが目をこすりながらこちらを見る。昨夜の夜会の空気がまだ肩のあたりに残っているみたいに、少し硬い。


 私はすぐに笑った。用意していた笑顔。温度が足りないなら、足していけばいい。


「おはよう、クラリス」


「おはよう……。きょう、夜会……?」


 その言葉の最後が不安に沈む前に、私は先に光を置いた。


「今日はね、空の広いところへ行くの」


「おそら?」


 クラリスが瞬きをする。空という言葉が、頭の中で大きく膨らんでいくのが見える。


「うん。歩いて、風を吸って、おやつを食べるの」


「……えんそく?」


 目が輝いた。昨夜の照明より、ずっとやわらかい光。私は胸の奥がほどけるのを感じた。


「そう。遠足」


「遠足!」


 クラリスが布団の端をぎゅっと握る。喜びの力が、そのまま朝の勢いになる。


「おやつ、なに?」


「考えておくわ。甘いのがいい?」


「うん。甘いの!」


 背後でノエルが小さく咳払いをした。視線だけで突っ込んでくる。


 おやつは荷物になります。


 私は視線だけで返す。


 安心は削らない。


 クラリスはうさぎを抱きしめ、くまを見て「くまも行く?」と聞いた。私は「もちろん」と頷いて渡した。抱えた瞬間、娘の肩がふっと落ちる。安心が体に戻るのが分かる。


 この子はまだ、怖い話を背負わなくていい。


 背負うのは私だ。


 廊下へ出ると、屋敷の空気がすでに動いていた。使用人の足音が増え、視線が多い。昨夜の退席は必ず話題になる。噂は芽だ。小さいうちに踏まない。踏めば余計に目立つ。


 私は歩く速度を変えない。顔を上げる。目が合った相手には短く、柔らかく。


「おはよう。昨夜は少し疲れが出たの。今日は静養よ」


 驚いた顔が、納得の顔に変わる。人は理由が欲しい。理由があれば、勝手に“丸い形”を作ってくれる。


 ノエルが後ろで、言葉をそろえるように手配を回す。荷物は「急な静養の準備」。馬車は「空気のいい場所で少し休むため」。護衛は「いつも通り」。


 いつも通り、が嘘ではないように見せるのが彼女の技だ。


「夫人、こちらへ」


 ノエルがさりげなく動線を作る。人が集まりそうな場所を避け、裏廊下へ誘導する。表の華やかさから、生活の側へ。


「ノエル」


「はい」


「さっきの言い方、もう一回」


「『空気のいい場所で少し休みます』です。普段の用事みたいに聞こえますから」


「それで行きましょう」


 クラリスはそれを聞いて、うさぎに向かって元気に言った。


「くうきのいいほう!」


 言い方は少し拙いのに、意味はちゃんと届く。私は思わず口元を押さえた。


 荷物がまとめられ、馬車の準備も整う。護衛は必要最低限。派手にしない。目立たない。けれど守りは削らない。


 裏口へ向かう廊下を歩きながら、胸の奥の冷えを数える。昨夜の冷え。噂の芽の冷え。そして、夫の不在の冷え。


 アデルがいない。


 屋敷の主が不在のまま、夫人が娘を連れて領地へ出る。理由がどれだけ穏やかでも、説明がなければ揉める。揉めれば、そこに舞台ができる。舞台はいつだって、人が揉める場所に照明を当てたがる。


 言うべきだ。言わなければならない。


 でも、間に合わないかもしれない。


「ノエル。アデルはどこまで行っているの?」


「今朝も宮廷です。戻りは昼以降」


 昼以降。門が固くなるより後。


 私は唇を噛んだ。黙って出ることはできる。実務的には可能だろう。ノエルが可能にする。けれどそのあとに余計な火種が残る。


 私は立ち止まり、ノエルへ言った。


「書き置きを用意する。使いの者も走らせる」


「承知しました。文面は短く。角を丸く。ですが、主導権は譲らず」


「……あなた、時々こわいわね」


「夫人を守るための段取りです」


 私は書斎の小机を借り、紙を引き寄せた。インクの匂い。ペン先の小さな震え。ここで長文を書くと、言い訳に見える。短く、必要だけを。


 アデルへ。

 クラリスの静養のため、本日中に領地へ向かいます。

 昨夜の空気が娘には負担でした。

 到着次第、改めて報告します。

 娘の意思と体調を最優先します。

 マリアンヌ


 最後の一行を少し迷い、でも消さなかった。ここは譲れない。私は母だ。公爵夫人である前に。


 ノエルが文面を覗き、ほんの少しだけ頷く。


「良いです。余計な敵を作らない文面です」


 ノエルはすぐに使者を手配した。若い従者が呼ばれ、手紙を受け取り、礼をして走る。足音が廊下の向こうへ消えていく。


 追いつくかどうかは運次第。けれど、運に預けないために私は動いている。


 クラリスはもう完全に“遠足の人”になっていた。うさぎにくまを見せて「おやつは甘いの!」と報告し、ノエルの足元にまとわりついて「どこいくの?」と聞いている。


 ノエルが真顔のまま答える。


「空気のいい場所で少し休みます」


「くうきのいいほう!」


 今日はもう、クラリスの中でそれが合言葉になっている。


 そして、門が近づくにつれて空気が少しだけ固くなるのを感じた。


 ノエルが足を止める。門の向こうを一度見て、護衛の配置を見て、それから私へ視線を戻した。


「夫人」


「なに?」


「止められる可能性があります」


 私は息を呑んだ。門番の人数が、いつもより多い。立ち方が整いすぎている。誰かの指示が入っている立ち方。屋敷の者だけの空気ではない。


 王都の照明が、屋敷の門まで手を伸ばしてきた気がした。


 でもここで立ち止まったら、それが舞台になる。止められた夫人。泣く娘。困る使用人。噂の芽。照明が点く。


 私は即答した。


「なら、もっと早く出る」


 ノエルの目が、わずかに細くなる。肯定の合図。


「わかりました。止められそうになる前に、今のうちに出ましょう」


 護衛が前へ出る。ノエルが門番へ声をかける。声は柔らかいが、言葉は迷いがない。


「夫人は本日、静養のため領地へ向かわれます。馬車を通してください」


 門番が一瞬だけ逡巡する。その逡巡が怖い。誰かの許可を待っている顔。


 クラリスが私の袖を引いた。


「お母さま、遠足!」


 その声が明るい。まるで今が本当に遠足の朝だと言い切るように。


 私は娘の頭を撫で、笑った。


「そう。遠足よ」


 その瞬間、門の空気が少しだけ緩む。子どもの明るさは、時々大人の固さに勝つ。


 門が開く。冷たい外気が頬を撫でる。馬車の中が待っている。屋敷の中の視線が遠ざかる。


 私は一歩踏み出した。


 ただし、背中のどこかが知っている。これは終わりじゃない。舞台から降りただけだ。照明はまだ追いかけてくる。夫との衝突も、避けられない。


 それでも。


 今ここで立ち止まれば、誰かが騒ぎにして、逃げ道のない流れができる。だから先に出る。それだけは、間違えない。


 私は馬車へ乗り込み、クラリスの手を握り直した。小さな手があたたかい。遠足の手。


 ノエルが扉を閉める直前、私にだけ聞こえる声で言った。


「夫人。追いつかれる可能性があります」


「分かってる」


 私は窓の外、開ききった門を見た。


「だから急ぐ。遠足の顔でね」


 馬車が動き出す。車輪の音が石畳を叩く。


 舞台の外へ。空の広いほうへ。


 ただし次の場面は、たぶん。


 夫が待つ。

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