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第17話 噂は、生活を狙ってくる

 噂は、誰かの噂話として耳に入るものだと思っていた。

 耳に届いて、胸の奥をざらつかせる。眠りを浅くする。夢を連れてくる。


 けれど、違った。


 噂は、生活から入ってくる。


 朝の台所は、いつも通りの匂いをしていた。お茶と焼き菓子と、少しだけ果物の甘い匂い。

 それなのに、ノエルの足音だけが、いつもより硬い。


 彼女は戸棚の前で一度止まり、振り返って言った。


「砂糖が、いつもより少ないです」


「少ない?」


「はい。いつもは一袋届くのに、今日は半分しか来ていません。『在庫が少ない』そうです」


 半分。

 たったそれだけで、朝の甘さが削られる。


 私は湯気の立つお茶を一口飲み、息を整えた。

 砂糖が半分。笑い話にできるなら、甘さが減ったお茶くらいだ。


 でも、その甘さが減ると、子どもの顔が曇る。


 クラリスは支度の途中で、机の上の小さな菓子皿を見ていた。

 いつもより数が少ない。すぐに気づく目だ。


「お菓子、きょう少ないの?」


 胸がきゅっとした。

 噂が、もう娘の目の前まで来ている。


 私は笑って、皿を少しだけ手前に寄せた。


「今日はね、少なく見えるだけ。ほかの甘いものもあるよ」


「ほかの……?」


「果物。りんごとか。あと、今日は特別に、はちみつも少しだけね」


 クラリスは少し考えて、「りんごは好き」と言った。

 その言葉に救われる。好きと言えるうちは、生活はまだ勝てる。


 ノエルは淡々と続けた。


「小麦粉も、入荷が遅れるそうです」


「小麦粉まで?」


 言った瞬間、喉がひゅっと冷えた。

 小麦粉がないと、焼き菓子だけではない。パンも、簡単なおやつも、子どもの安心も作りにくくなる。


 ノエルは頷く。


「『今週は様子を見たい』と」


 様子。

 噂はいつも、様子を見るという顔をする。責任の匂いを消し、こちらだけを焦らせる顔。


 私は一度、机に指先を置いた。

 手が震えないように。


「町へ行きましょう」


 ノエルが頷く。


「馬車を出します。歩くより目立ちにくいです」


 目立ちにくい。

 それが“用意された生活”の中で、いちばん現実的な武器になっているのが悔しい。


 クラリスがぬいぐるみを抱えて立った。


「わたしも?」


「もちろん。一緒に行こう。お買い物は遠足みたいなものよ」


 遠足と言うと、クラリスの目が少し明るくなる。

 舞台じゃない言葉。生活の言葉。


 馬車が出る。車輪の音が庭の砂利を軽く踏み、私の胸もほんの少し軽くなる。

 王都の門の音とは違う。ここには“逃げられない音”がない。


 ……なのに、噂だけが追ってくる。



 市場はいつも通り賑やかなのに、私たちの周りだけ空気が薄い。

 声が少し小さくなり、笑い声が遠巻きになる。


 私はそれを責めない。

 怖いのは人の心ではない。人の心を縛る仕組みだ。


 いつもの粉屋に声をかけると、店主は肩をすくめた。


「奥さま……今日は、少しだけで」


「理由は?」


「……王都の方から、いろいろ話が来ましてね。いや、噂です。噂ですよ。ですが、商売ってのは――」


「分かります」


 私は相手が言い切る前に、先に頷いた。

 “怖いものに近づきたくない”という気持ちを責めたら、こちらの負けだ。敵を増やす。


「困らせたくて来たわけではありません。今日は、状況を見に来ただけです」


 自分の言葉が、淡々と乾いていくのが分かる。

 それでも、この乾きは必要だ。泣くのは後でいい。


 店主は少しだけ顔を上げた。


「……奥さまがそう言ってくださるなら」


 それでも量は増えない。

 だが、相手の目が戻っただけでも、今日の収穫だ。


 商会に着くと、リュシエンヌが腕を組んで待っていた。

 相変わらず距離が近い。近いのに、踏み込み方が上手い人だ。


 私を見るなり、彼女はため息ひとつ。


「奥さま、噂はね。胃じゃなく財布から攻めてくる」


 私はその言葉に、笑いそうになって、笑えなかった。

 笑ったら負ける気がした。負ける相手が誰かも分からないのに。


「……攻めてきました」


「でしょう? 『取引しない』は言わないのよ。言うと角が立つから。『今は様子を見る』『量を減らす』。これがいちばん効く」


 彼女は指を二本立てた。


「心と生活、両方削れる」


 私はクラリスの手をそっと握った。

 合図ではない。でも、先に温度を渡す。


 クラリスは私の手を握り返し、ぬいぐるみの耳を撫でた。

 その仕草に、少し落ち着く。


 リュシエンヌは声を落とした。


「神殿が絡むって噂が立つとね、商人は臆病になるの。臆病じゃないと、この仕事は続かないから」


 臆病。

 それは悪口ではない。生きるための感覚だ。


「噂はどこから?」


「王都から。早いわよ。パンより早い」


 軽いものほど早い。

 そして軽いものほど、形を変えるのも簡単だ。


 私は息を吸って吐いた。


「どうしたら、止まりますか」


 リュシエンヌは即答した。


「止めない」


「……止めない?」


「止めようとすると、噂は面白がられる。『止めたい理由』が餌になる。だから、居場所をなくす」


 居場所。

 噂の居場所は、生活の隙間だ。隙間に入り込んだら、削る。


 リュシエンヌは口角を上げた。


「奥さまとお嬢さまの話を、『悪い噂』じゃなく『いい噂』にする。言い換えよ、言い換え」


 言い換え。

 昨日、夢の台詞をほどくためにやった遊びが、今日は現実の刃を鈍らせる道具になる。


 リュシエンヌが指を鳴らす。


「子ども会。読書会。お菓子も付ける」


 ノエルが横で、淡々と言った。


「お菓子会は、清潔さとお金の管理が大事です」


「そこがあなたの怖いところよ」


 リュシエンヌが笑う。ノエルは顔色一つ変えない。


「怖くありません。正確です」


 ……正確が怖いのよ。

 私は心の中だけで突っ込んだ。


 クラリスが小さく言った。


「……ほん、よむの?」


 その声が、私の背中を押した。

 娘が“やってみたい”と言える。そこに勝ち筋がある。


「うん。みんなで短いお話を読む。来たい子が来るだけ。無理はしない」


 クラリスは少し考えてから頷いた。


「……わたし、きく」


 聞く。

 言うより先に、聞ける。小さな成長が、生活を守る盾になる。


 私は決めた。


「やりましょう。子ども会」


 リュシエンヌが満足そうに頷く。


「そうこなくちゃ。奥さま。噂は真偽で殴ると増える。生活で上書きすると薄くなる」


 生活で上書き。

 私の勝ち方だ。



 別邸に戻ると、ノエルがもう戦場の顔になっていた。

 戦場と言っても、椅子と布と皿の戦場だ。


「場所は広間。窓が多い。出入り口は二つ。子どもは散ります」


 エミルが「散る……」と小さく呟いた。

 ノエルが即答する。


「はい。散ります」


 断言が強い。

 でも、間違っていないのが腹立たしい。


 私はクラリスの髪を整えながら確認した。


「クラリス。嫌になったら、どうする?」


 クラリスは私の手を見て、小さく握った。


「ぎゅってする」


「そう。合図が出たら、休憩にする」


「うん」


 ノエルが横で言った。


「休憩場所は廊下側の小部屋。扉は半分開けておきます。閉めると逆に不安が増えます」


 エミルが感心した顔をする。


「……舞台袖の扱いが上手い」


「生活です」


 ノエルがきっぱり言った。

 生活。最強の盾。


 エミルは読書会用の本を選んだ。

 難しいものは避ける。短く、絵があって、終わりが優しい話。


 クラリスも本棚の前に立ち、一本を指さした。


「……これ」


「どれ?」


「どうぶつの……あったかいの」


 あったかいの。

 その言葉が、私の胸をほどく。


「それにしよう」


 ノエルは紙を広げ、さらさらと書き始めた。


「必要数。椅子、杯、布巾、果物、焼き菓子。手拭き。水差し。ごみ入れ。……会計記録用紙」


「ノエル、そこまで?」


「はい。『不透明』と言われる前に、透明にします」


 言われる前に封じる。

 ノエルの実務は、やっぱり戦場だ。


 医師ハーゼも顔を出した。

 顔色が薄い。今日は在庫ではなく本人が薄い。


「……子ども会ですか……」


「はい。短時間で。無理はしません」


「神殿が絡むと……胃が……」


 ノエルが薬草茶を差し出す。

 いつもどこから出しているのか分からない。


「飲んでください」


「……ありがとうございます……」


 ハーゼが飲み干し、少しだけ呼吸を整えた。


「……奥さま。良いと思います。生活を増やすのは、心にも効きますから」


 私は頷いた。

 生活は、照明より強い。照明より長い。



 当日。


 広間の窓を少し開け、風を通す。

 匂いがこもると、息が詰まる。息が詰まると、夢が来る。


 椅子は丸く並べられていた。

 丸い。角がない。逃げ道がある。


 ノエルが言う。


「扉は開けておきます。出入り自由。押さえつけない」


 押さえつけない。

 それが、母の仕事だ。


 最初に来たのは、近所の子ども二人と、付き添いの母親一人。

 次に三人。次に四人。


 子どもたちは落ち着かない。視線があちこち飛ぶ。椅子に座っても、すぐ立つ。

 散る。確かに散る。


 エミルが本を開き、柔らかい声で読み始めた。

 言葉が広間に落ちる。照明ではない。火でもない。灯りみたいな言葉だ。


 子どもたちは、少しずつ静かになる。

 絵を覗き込み、笑い、声が弾む。


 クラリスは私の隣で座っていた。

 背筋は少し硬い。けれど目は絵に向いている。


 読み聞かせが一区切りついたところで、子どもたちがざわざわ動く。

 お菓子の時間だ。


 ノエルが動く。皿、果物、焼き菓子、手拭き。

 動きが速い。正確。無駄がない。散っても困らない配置になっている。


 私は思わず囁いた。


「ノエル、これ……」


「会計も整えました」


「……そこまで?」


「はい。後から『寄付の行方』を聞かれる前に、聞かれても困らない形にします」


 聞かれる前に、困らない形。

 生活の設計図だ。


 子どもたちが勝手に話し始める。


「このおうち、床が鳴る!」


「生きてるってことだよ!」


 誰かが言って、みんなが笑う。

 クラリスも小さく笑った。頬が少し柔らかくなる。


 その瞬間が、今日の核だった。


 そして、来た。

 自己紹介。


 子どもたちが「あなたは?」と自然に聞く。

 悪意はない。舞台の問いじゃない。生活の問いだ。


 クラリスの肩が少し上がった。

 私は娘の手元を見る。娘は私の指をぎゅっと握る。


 合図。


 私は握り返し、耳元で短く言った。


「大丈夫。短くでいい」


 クラリスが一度息を吸って吐き、

 それから小さく立ち上がった。


 ぬいぐるみを抱えたまま、少しだけ顔を上げる。


「……クラリスです」


 子どもたちが「クラリス!」と繰り返す。

 繰り返しは魔法みたいだ。怖さを薄める。


 クラリスは続けた。


「……本、すきです」


 その瞬間、子どもたちがぱっと笑った。


「じゃあ、本の人だ!」


「本のひとー!」


 誰かがふざけて言って、みんなが笑う。

 クラリスも笑った。ちゃんと、笑えた。


 胸の奥で、何かがほどける。

 噂より強いものが、今ここにある。


 生活。

 笑い。

 子どもの声。


 会は短時間で終えた。

 長くやると疲れる。疲れると夢が来る。


 片付けが始まり、子どもたちが帰り支度をする。

 私は最後まで笑顔で見送った。


 ――そのとき。


 玄関の方で、静かな声がした。


「失礼いたします」


 振り向くと、神殿の紋章が見えた。

 にこにこした顔。柔らかい声。逃げ道を塞ぐ温度。


 使いの男が広間を見回し、感心したように言った。


「良い活動ですね。子どもたちのために。神殿も後援を」


 後援。


 甘い言葉。

 紐の匂い。


 背筋が冷える。

 けれど私は、顔を崩さない。


 噂は財布から攻める。

 後援は、その財布に結ぶ紐だ。


 ノエルが、すっと一歩前へ出る気配がした。

 エミルも息を止める。

 リュシエンヌが目だけで「来たわね」と言う。


 私は息を吸って吐いた。


 対決しない。

 成立しない状況を作る。


 次は、その番だ。

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― 新着の感想 ―
母親視点だとストレス半端ないなと思いながら、神殿側も頭抱えてそう。 他の子供達にとっても行きたくない場所になれば静養する人も増えそうですし。そうなると悪役は誰なのかと追及されると大変ですし。 学級…
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