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第16話 夢が、台詞を連れてくる

 夜は、音が少ない。

 音が少ないぶん、心臓の音だけが大きくなる。


 別邸の廊下を歩くとき、床が小さく鳴る。ぎし、と。

 あの音は、安心の音だったはずだ。ここは生活の家で、舞台じゃないのだと教えてくれる音。


 けれど今夜は、その音が遠い。


 私は眠りが浅く、何度も目を開けた。

 扉の向こうに何もいないのに、何かが来る気がする。音ではなく、気配が。


 そして、それは小さな声でやって来た。


「……お母さま」


 囁きのような声。息が震えている。


 私は体を起こし、隣の寝台へ手を伸ばした。


「クラリス?」


 暗がりの中で、娘の目が見えた。

 涙が浮かんでいるのに、泣き声は出さない。出したら、誰かに見つかると思っているみたいに。


 クラリスは私の手を探すように伸ばし、指先で触れた瞬間、ぎゅっと握った。


「……みんなが見てる。わたし、言わなきゃって……」


 言わなきゃ。

 その四文字だけで、背中が冷えた。


 誰が見ているのか。何を言うのか。

 答えを今、掘りに行ってはいけない。掘った瞬間、夢の舞台をこの部屋に連れてきてしまう。


 私は握られた手を、ゆっくり握り返した。強くではなく、逃げない程度に。手のぬくもりで「ここ」を渡す。


「大丈夫」


 言葉は短く。


「ここは、誰も見てない」


 クラリスの肩が小さく揺れた。息が詰まっている。


「……でも、光が……」


 光。

 娘の夢には、光が出る。照らす光。逃げ場を消す光。


 私は娘の背を腕で包み、胸に寄せた。抱きしめるのは、捕まえるためじゃない。戻ってくるためだ。


「怖かったね」


 クラリスの額が、私の肩に押し付けられる。


「それは怖い夢だよ」


「ゆめ……?」


「うん。夢は本当じゃない。でも、怖さは本物。だから、怖かったって言っていい」


 クラリスの手が、私の袖を掴み直した。掴む指が小刻みに震える。


 私は合図を思い出す。


 怖くなったら、手を握る。

 今、娘は握っている。合図を出せた。出せたなら、戻れる。


「クラリス。いま、合図が出せたね」


 娘が小さく頷く。頷いた拍子に、涙がぽろっと落ちた。


「……言わなきゃ、って、ここでも思っちゃった」


「思っちゃっていいよ。夢は勝手に連れてくるから」


「勝手に……?」


「うん。勝手に。だから、言わなくていい」


 私は娘の髪を撫でる。

 暗がりでも、髪の柔らかさだけは確かだ。生活の手触りだ。


 クラリスの呼吸が、少しずつ長くなる。

 吸って、吐く。吸って、吐く。


「……お母さま、数えて」


 その言葉が、胸をきゅっと締めた。

 数えれば息が整うことを、この子はもう知っている。


「一、二……」


 私は小さな声で数えた。

 娘の背中に合わせて、息の数を揃える。


「三、四……」


 怖さは消えない。でも、形を変える。

 叫びたい怖さが、泣ける怖さに変わる。泣けるなら、戻れる。


「五、六……」


 クラリスの手の力が、少し弱まる。

 それは「離したい」ではなく、「安心したい」だ。


 やがて娘の目が閉じた。

 眠りへ落ちる直前、囁きが聞こえた。


「……わたし、言わなくて、いい?」


 私は即答した。


「いいよ。言わなくていい。手を握れたから」


 クラリスの指が、最後にもう一度、ぎゅっと握った。

 合図の確認みたいに。


 そして、静かに眠った。


 私は娘の手をしばらく離せなかった。

 夢は本当じゃない。そう言った。

 けれど夢は、心の奥にあるものを持ってくる。心が覚えている台詞を、喉の近くまで運んでくる。


 明け方、私は一つ確信した。


 あの夢は、誰かの声ではない。

 仕組みの声だ。


 光に照らされ、見られ、期待され、言わされる。

 舞台の仕組みが、娘の中で勝手に動く。


 私はもう一度息を吸って吐いた。

 吸って、吐く。


 そして、朝が来た。



 朝の光は、夜の光と違う。

 照らすのに、逃げ道を消さない。


 食堂に近い広間は、昨日の視察のときと同じ場所だ。人の目が自然にあり、出入りがあり、生活の音が混ざる場所。


 ノエルが白い湯気が立つお茶を置き、いつもの顔で言った。


「本日は、顔色が薄いです」


「……薄い?」


 私は思わず笑いそうになった。

 薄いという表現に、妙に現実味がある。


「昨夜、怖い夢を見ました」


 そう言うと、ノエルは頷いた。驚かない。驚かないことが救いになる。


「予想通りです」


 ひどい。予想通りで済ませるのはひどい。

 でも、ノエルらしい。


 クラリスは椅子に座り、ぬいぐるみを抱えたまま、お茶を両手で包んでいる。目の下に薄い影がある。けれど崩れてはいない。合図が効いた顔だ。


 家庭教師エミルが来て、私たちの様子を見てから静かに言った。


「夢は、台詞を連れてきます」


 私は目を上げた。

 題名みたいな言葉だ。


「台詞……」


「はい。夢は、頭が慣れた言葉を持ってきます。怖いとき、身を守るために覚えた言葉。あるいは、周りが求めた言葉です」


 クラリスがぬいぐるみの耳をぎゅっと握る。

 昨日の質問が、まだ残っている。


 エミルは優しく続けた。


「だから、言い換えを練習しましょう。強い台詞を、普通の言葉に変える練習です」


「言い換え……」


 クラリスが小さく復唱した。復唱できるうちは大丈夫だ。


 ノエルが淡々と口を挟む。


「夢にも適用できますか」


「できると思います」


 エミルが真面目に答える。

 ノエルの質問が真面目かどうかは分からないけれど、エミルは真面目に拾う。


「夢の台詞は、返品不可ですか」


 ノエルが続けた。


 私は吹き出しそうになって、慌ててお茶を口に運んだ。

 軽口が一つ入っただけで、胸のつかえが少し取れた。笑えるだけで、まだ大丈夫だと思えた。


 エミルが咳払いを一つして、話を進める。


「言い換えは、舞台の照明を弱めるスイッチになります。強い言葉は、照明に反射しやすい。普通の言葉は、生活に馴染みます」


 クラリスが首を傾げる。


「……ふつうのことば?」


「うん。たとえば」


 エミルが私を見た。

 私は頷いた。今日の練習は、遊びにする。


「ゲームにしましょう」


 私が言うと、クラリスの目が少しだけ明るくなる。

 ゲーム。遊び。舞台じゃない音。


 ノエルが即座に言った。


「採点します」


「採点?」


 クラリスが驚いた。


「はい。点数がある方が、やる気が出ます」


 それは、どこの戦場の理屈なの。

 でも、クラリスは少し笑った。


「……てんすう」


 エミルが紙を一枚取り、ペンを置いた。

 私はその紙に、短い台詞を書き出す。


 強い言葉。

 それを、普通の言葉にする。


 私は一つ目を書いた。


『わたくしが正しいに決まっております』


 クラリスの肩が少し動いた。

 真似口調を思い出しそうな顔。


 私はすぐに、娘の手の近くへ自分の手を置いた。合図はまだ。けれど逃げ道は見せる。


「これをね、普通の言葉にするとどうなるかな」


 クラリスはしばらく考えた。

 口を尖らせ、ぬいぐるみの耳を指で撫でる。


「……わたしは、こうおもう」


 それだけで、胸が温かくなった。


「いいね。続けてみよう」


「……きいて、くれる?」


 私は頷いた。


「すごくいい」


 ノエルが即座に言う。


「八十点」


「えっ」


 クラリスが目を丸くした。


「満点は百点です」


 ノエルが冷静に説明する。

 クラリスが少し口を尖らせた。


「……なんで、ひゃくじゃないの」


 かわいい。かわいいけれど、ノエルは容赦ない。


「理由。語尾が丸いのに、目が強いです」


 何それ。

 でも、クラリスは目をぱちぱちさせてから笑った。


「め、つよいの……」


 笑える。笑えるなら大丈夫。


 エミルが補足する。


「目が強いのは悪いことではありません。ただ、言葉の柔らかさと合わせる練習ですね」


 二つ目。


『当然です』


 クラリスがすぐに言った。


「……そうしても、いい?」


 私は思わず拍手しそうになって、手を止めた。拍手は舞台の音だ。代わりに、にこっと笑う。


「うん。とてもいい」


 ノエルが言う。


「九十点」


「やった!」


 クラリスが小さくガッツポーズをした。ぬいぐるみが揺れて、毛がふわっと光を受ける。生活の光だ。


 三つ目。


『許しません』


 クラリスの顔が少し固くなる。

 許しませんは強い。相手を裁く言葉だ。


 私はゆっくり促した。


「これを、普通の言葉にすると?」


 クラリスは唇を噛み、考えた。

 それから、私の手をちょんと触る。合図じゃない。確認だ。


「……それ、やめてほしい」


 私は頷いた。


「そう。『やめてほしい』は、自分を守る言葉だよ」


 ノエルが言う。


「九十五点」


「なんで五点へるの!」


 クラリスが即座に抗議した。

 その反応が子どもらしくて、胸が少し軽い。


「理由。声が小さいです」


 ノエルが淡々と言った。


「……こえ、おおきく?」


「大きくしなくて良いです。通る声で」


 通る声。

 ノエルは時々、詩みたいなことを言う。


 エミルが笑いながら言った。


「では、もう一度。通る声で」


 クラリスが姿勢を正し、少しだけ顎を上げる。


「それ、やめてほしいです」


 言えた。

 その瞬間、部屋の空気が明るくなる。


 ノエルが頷いた。


「百点」


「やった!」


 クラリスが両手を上げた。ぬいぐるみが落ちそうになり、慌てて抱え直す。

 私は笑ってしまった。


 笑いが混ざると、怖さが薄くなる。

 怖さは消えない。でも、扱える大きさになる。


 エミルが言った。


「こういう言い換えを覚えると、夢の中でも『言わなきゃ』が弱くなります。言葉の引き出しが増えるからです」


 クラリスが首を傾げる。


「ゆめのなかで……?」


「うん。夢の中で、言葉が喉まで来たら」


 私は娘の手を握り、短く言った。


「合図」


 クラリスが小さく笑った。


「……ぎゅってする」


「そう。ぎゅってしたら、お母さまは握り返す」


 ノエルが言う。


「私も扉を閉めます」


 扉を閉める。

 その言葉が、今日も頼もしい。


 私たちはもう少しだけゲームを続けた。

 クラリスが笑って、ノエルが辛口で、エミルが長くなりかけてノエルに切られて、私はその間で息を整えた。


 夢は怖い。

 でも、朝に笑えるなら、まだ大丈夫。


 そう思った矢先だった。


 広間の扉が控えめにノックされた。


 使用人が顔を出し、私の方へ歩いてくる。顔が少し強張っている。

 知らせは、噂だ。


「夫人……町から。王都の噂が」


 私は息を吸って吐いた。

 吸って、吐く。

 噂は、音より早い。


「どんな噂?」


 使用人は言いづらそうに、けれど言った。


「……『公爵夫人が神殿を拒んでいる』と」


 拒んでいる。

 拒否。悪者。


 セレスの微笑みが、まぶたの裏に貼りつく。

 優しい言葉は、拒否しづらい。

 拒否しづらいから、拒否した者を悪者にできる。


 私は表情を崩さないように、指先に力を入れた。


 クラリスがこちらを見る。

 不安の芽が、目の中に生まれかけている。


 私は娘の手を取った。合図じゃない。でも、先に握る。先に渡す。


「大丈夫」


 私は娘に言い、同時に自分に言った。


「噂は、形になる前に、こちらの生活で上書きする」


 ノエルが頷いた。


「噂は軽いです。軽いものほど、広がります」


 エミルが静かに続ける。


「だから、こちらの言葉も短く。こちらの枠も固く」


 私は頷いた。

 夢が台詞を連れてくるなら、噂も台詞を連れてくる。


 けれど、こちらにも台詞がある。


 静養中です。

 医師の指示です。

 必要なことは書面で。


 そして何より。


 合図。


 私はクラリスの手を、ゆっくり握り返した。


 昼の噂は、夜の夢に入り込んでくるかもしれない。

 でも、夢の中でも合図は出せる。


 出せるようにする。

 母親として、私ができる場の設計は、まだ終わっていない。

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― 新着の感想 ―
子供にこの言い換えを教えるのって大変なんですよね。 正しい事をしてるのは自分なので悪くない、と主張を曲げにくい内容なので。 この世界の医師の立場がどのあたりか気になりますね。 貴族社会で先生と呼ばれ…
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