第10話 断る練習、笑う練習
「ねえ、お母さま」
朝の光は、舞台の照明みたいに刺さらない。窓から入った光が床に落ちて、木目をなぞっていく。別邸の朝は、今日も柔らかい。
クラリスは昨日買った赤いリボンを手に持ち、指先でくるくる回していた。好きなものを手にしているときの子どもの顔には、ほんの少し余裕が生まれる。市場で「これ、好き」と言えたのが、まだ胸の奥で温かいままだ。
その温かさのまま、クラリスはぽつりと聞いた。
「いやって言ったら、嫌われる?」
私は一瞬、言葉を探した。けれど探している間に、横から声が飛んできた。
「嫌う人は最初から嫌います」
ノエルだ。朝食の皿を片づけながら、淡々と。淡々としているのに、言葉だけはよく切れる。
「……っ」
私は思わず、温かいお茶を飲み込むタイミングを間違えた。
「ごほっ……!」
むせる。咳き込む。母親として格好悪い。しかも娘の前で。
クラリスが目を丸くする。
「お母さま?」
「だ、大丈夫よ……」
ノエルが当然のように背中に手を当てる。軽いのに的確で、呼吸の場所を教えるみたいだった。
「夫人。驚くのは理解できますが、真理です」
「朝から正論はやめて……」
私が弱々しく言うと、ノエルは首を傾げた。
「朝は本音が出ます」
刺さる。刺さるけれど、確かに正しい。
クラリスはリボンを握ったまま、ノエルを見上げた。
「……でも、いやって言ったら、きらいになる人もいる?」
「います」
ノエルは即答した。容赦がない。
クラリスの肩が少しすくむ。私はすぐに間に入ろうとしたが、ノエルは続けた。
「ただし、嫌う人は“言い方”で嫌うのではなく、“あなたが断った事実”で嫌います」
「……」
「つまり、“嫌われない言い方”を探しても、相手が嫌うなら嫌います」
クラリスの目が大きくなる。こわい話になりそうで、胸の奥がひやりとした。
でもノエルの声は、そこでほんの少し柔らかくなった。角が、ほんの少しだけ取れる。
「だから覚えるのは、“嫌われない言い方”ではなく、“自分が壊れない言い方”です」
壊れない言い方。
クラリスが小さく息を吸った。私も、息を吸って吐く。
吸って、吐く。
こわいのは、ここでおしまい。合言葉を声にしなくても、胸の中で整う。
「……それを、教えてくれるの?」
クラリスが聞いた。
「教えます」
ノエルは皿を重ねて、静かに言った。
「今日は、“断る練習”です」
クラリスはリボンを見つめ、少しだけ顔を上げた。
「……断る、練習」
「はい」
ノエルは手を洗い、布巾で拭いてから、居間の机に紙と鉛筆を置いた。堅い“何か”ではない。短い言葉を並べるための道具。
「まず、ルールを三つ」
ノエルが指を三本立てる。
「短く」
「柔らかく」
「理由は一つだけ」
クラリスが指を見つめる。
「……みっつ」
「はい。まず“短く”。長いと、相手が口を挟む隙が増えます」
私はまたむせそうになった。隙。口を挟む隙。確かに、確かにだ。
「次、“柔らかく”。強い言葉は、相手の返事も強くします」
クラリスがリボンを握り直す。強い言葉。口調は、選べる。
「最後、“理由は一つだけ”。理由を並べると、相手が“じゃあこうしたら?”と交渉してきます」
「こうしたら、って?」
クラリスが首を傾げる。
「例えば、“今日は寒いから嫌”と言うと、“上着を貸す”と言われる」
「……あ」
クラリスが小さく口を開けた。想像できたみたいだ。
ノエルは淡々と頷く。
「断る練習は、言い訳の練習ではありません。自分を守る練習です」
私はお茶を飲み直す。今度はむせない。朝から学びが多い。
ノエルは紙に、大きめの文字で書いた。
『今日はやめとく』
『ありがとう。でも今日はやめておくね』
『誘ってくれてありがとう。でも今日は家にいるの』
クラリスが指で文字を追う。読めない字もある。でも形で分かる。短い、長い、丁寧。違いが見える。
「一番上は短い」
ノエルが言った。
「うん……」
「真ん中は短くて柔らかい。“ありがとう”が入っています」
クラリスが目をぱちぱちさせる。
「ありがとう、って言うと……やさしい?」
「はい。断っても“あなたは大事”と伝えられます」
「……でも、断る」
「断ります」
潔すぎて、私は少し笑いそうになった。
「三番目は理由が入ります。“今日は家にいる”。理由は一つ。短い」
ノエルは鉛筆を置く。
「この三つを、口で言えるようにしましょう」
クラリスが少し緊張した顔になる。
「言うの、むずかしい」
「最初は誰でも難しいです」
ノエルの声は冷たいのに、責めない温度がある。
「では、練習」
ノエルが手を軽く叩く。パン、と小さな音。
「私が誘います。お嬢さまは断ります」
「……ノエルが、さそってくるの?」
「はい。安全な相手で練習します」
安全な相手。私はその言い方が好きだった。生活は、まず安全を作る。
ノエルは急に表情を変えた。明るく、少し大げさに。
「お嬢さま! 一緒に池のほうへ行きましょう! 魚を見ましょう!」
クラリスがびくっとして、私を見る。助けを求める目。
私は口を出さない。口を出したら練習にならない。代わりに手を握って、目で頷く。
クラリスが息を吸う。
「……きょうは、やめとく」
声は小さい。でも、言えた。
ノエルはすぐに頷き、褒めすぎない声で言う。
「良いです。短い」
クラリスが少し安心して肩を落とす。
ノエルはまた誘った。
「お嬢さま! お菓子を食べに、町へ行きましょう!」
クラリスが少し困った顔で口を開く。
「……ありがとう。でも、きょうはやめておくね」
「良いです。柔らかい」
私は胸の中で拍手した。声に出さない拍手。生活は派手にしない。
クラリスの口角が、ほんの少し上がった。
最後にノエルは、少しだけ意地悪な誘いをした。
「お嬢さま! 皆が来ています。断ると、寂しがりますよ?」
クラリスの表情が固まる。
“皆が”“寂しがる”は、断りづらい。相手の感情で縛る言葉。
私は胸がきゅっとなる。クラリスが唇を噛み、指が震えた。
私は静かに言った。
「クラリス。断るのは悪いことじゃないよ」
クラリスが私を見る。
「自分を守るための道具だよ」
「……どうぐ」
「うん。道具。使っていい」
私は娘の手を包む。
「断っても、好きな人は離れない。断っただけで離れるなら、その人は最初から遠かった」
ノエルの言葉に寄せながら、母の包み方で。
クラリスが息を吸う。少しだけ整う。
「……誘ってくれてありがとう。でも、きょうは家にいるの」
言えた。
ノエルは表情を戻し、淡々と頷いた。
「満点です。理由は一つ。交渉の穴が少ない」
「穴って……」
私は思わず言ってしまい、お茶を飲みかけてまたむせそうになる。
「ごほっ……!」
「夫人。落ち着いてください」
「あなたの名言が刺さりすぎて、喉がびっくりするのよ……」
クラリスがくすっと笑った。小さな笑いが混ざる。
笑う練習も、できている。
昼前、私たちは庭へ出た。
別邸の庭は広くはない。でも息ができる広さだ。草の匂いがして、土が見えて、空が大きい。
クラリスは赤いリボンを髪に結んだ。ノエルが結び方を整える。早い。綺麗。ほどけにくい。生活の技術だ。
「かわいい」
私が言うと、クラリスが照れた。
「……好き」
好きなものを言える回数が増える。それだけで、胸が温かくなる。
庭の柵の向こうから、子どもの声がした。
「ねえ! おじょうさま!」
クラリスがびくっとする。声の方向を見る。柵の向こうに、町の子どもが二人。年は近い。手には木の枝。
「いっしょに遊ぼう!」
「こっちにね、すごい石があるの!」
誘い。練習の本番が、向こうから来た。
クラリスが固まり、視線が私に向く。
私は口を出さない。“自分で言う”を守る。代わりに、目で頷く。手を軽く握る。大丈夫の合図だけ渡す。
クラリスが息を吸う。
口が開く。でも声が出ない。
「ねえねえ、来てよ!」
「今すぐ!」
焦らせる誘い。断りづらい。
クラリスの指が私の手を強く掴む。私の胸も少し苦しくなる。
ノエルが一歩だけ前に出た。出過ぎない。盾にならない距離で、後ろから支える距離。
「お嬢さま。短く」
小さな声。命令じゃない。合図だ。
クラリスが頷き、口を動かす。
「……ありがとう」
町の子がきょとんとする。
クラリスは続けた。
「でも、きょうはやめとく」
声は小さい。でも、言い切れた。
町の子は拍子抜けしたみたいに瞬きして、意外なほどあっさり笑った。
「そっか! じゃあまたね!」
「また今度! リボン、かわいい!」
そう言って、子どもたちは走っていった。断っても、世界は壊れない。怒鳴られない。責められない。笑われない。
クラリスの肩がふっと落ちた。息が吐けた。
そして、小さく笑った。
私はその笑いを見て、胸の奥がじんとした。泣きそうになる。でも泣かない。泣くと、娘が不安になる。母はまず息。
吸って、吐く。
「……できた」
クラリスが言った。
「できたね」
私は頷いた。
「断れた」
「うん。断れた」
クラリスがもう一度、口角を上げた。笑う練習も成功だ。
ノエルが後ろで小さく息を吐いたのが分かった。ほんの少しだけ、肩の力が抜けている。
私が振り返ると、ノエルは庭の端を見ていた。遠くを見る目。今の年齢じゃない目。もっと小さい頃の目。
「ノエル」
呼ぶと、ノエルは瞬きひとつで戻ってきた。
「はい」
「……ありがとう」
ノエルは少しだけ視線を落とし、ぽつりと言った。
「……私も昔、言えませんでした」
声は、いつもの辛口より小さい。
「言えないと、相手の都合のいいように決められます」
少しずつ譲って、気づけば別の形になる。噂みたいに、簡単にねじ曲がる。
私はその言葉を胸に置いた。深掘りはしない。後でいい。今は、彼女が言えたことが大事だ。
「今、言えるようにしてくれてありがとう」
ノエルは顔を上げ、いつもの無表情に戻した。
「現実的に必要な作業です」
その言い方が、彼女なりの照れ隠しだと分かってしまって、私は少し笑った。
「そうね。必要な作業」
クラリスが首を傾げる。
「作業?」
「うん。お母さまとノエルの、だいじな作業」
「……わたしの、ため?」
クラリスが小さく聞いた。
「あなたのため」
私は即答した。
クラリスは赤いリボンに触れて、小さく頷いた。
午後、別邸の中は静かになった。クラリスは昼寝をしている。うさぎを抱いて、寝息が規則的。
私は居間で布を畳んでいた。買った布。生活の布。噂を上書きする布。
そのとき、玄関のほうが少し騒がしくなった。
ノエルの足音。使用人の声。扉の開く音。
そして、封の擦れる音。
私は手を止めた。
ノエルが居間へ入ってくる。手には封書。赤い封蝋。王都の匂いがする紙。
空気が一瞬で冷える。遠くで、舞台の照明が点いたみたいに。
「夫人。王都から」
私は頷いた。クラリスが起きていないのが救いだ。
「……ここでは開けない」
「承知しました」
ノエルは封を机の端に置いた。娘の視界に入らない位置。私の視界には、しっかり入る位置。
心臓が少しだけ早くなる。私は息を吸って吐いた。
吸って、吐く。
こわいのは、ここでおしまい。
夕方、クラリスが起きて焼き菓子を食べて笑って、また庭を歩いた。私はいつも通りに過ごした。封を開けないまま。
娘が寝室へ入って扉が閉まったのを確認してから、私は机の端の封を手に取った。
封蝋を割る音は小さいのに、胸に響く。
中の紙は一枚だけだった。短い。短すぎる。
文字は固い。夫の字だ。丁寧で、冷たい。命令の字。
『戻れ』
それだけ。
私は紙を見つめたまま、しばらく動けなかった。
戻れ。どこへ。王都へ。舞台へ。照明の下へ。
私は息を吸って吐いた。
吸って、吐く。
クラリスが今日、断れた。断っても、世界は壊れなかった。
なら、私も断れるはずだ。
私は紙を静かに机に置き、目を閉じた。
次は、私の番。
断る練習じゃない。
断る本番だ。




