第1話 舞台の照明が点く前に
鏡の前は、戦場より静かだった。
甘い香りの香水と、磨かれた銀の匂い。衣擦れの音。扉一枚向こうで奏でられる弦の響きは、こちらの呼吸だけを置き去りにして、遠い世界の音みたいに聞こえる。
私は娘の髪に指を通した。金色の髪が灯りを拾ってさらりと落ちる。
「……お母さま?」
クラリスが鏡越しにこちらを見る。瞳はまっすぐで、澄んでいるのに。肩が少し上がっている。呼吸が浅い。小さな体が、今夜という「貴族の空気」に押されているのが分かった。
「大丈夫。髪飾り、少しだけ直すね」
白い小さな花の飾りが、耳の後ろでほんの少しずれていた。指先でそっと戻す。上品で可憐で、よく似合う。だからこそ胸の奥が、ちくりと痛む。
鏡の中の私は、マリアンヌ・フォン・アルテア。公爵家の夫人。社交界ではそれなりに名が通った人間。……そして。
前世の記憶を持ったまま、この世界に生まれ直した人間だ。
それに気づいたのは幼い頃、熱に浮かされた夜だった。白いスマートフォンの光、狭い部屋の天井、帰り道のコンビニ袋。自分が別の世界で、別の名前で、仕事をして、笑って、普通に暮らしていた感覚が、急に胸の中へ落ちてきた。
そして同時に、もうひとつ。
画面の中で進む物語。きらきらした文字。王子。正義の言葉。泣く役の少女。最後に「誰か」が悪者にされ、拍手で終わる結末。
その悪者の名が、クラリスだった。
まさか、と思った。偶然だと願った。けれどこの世界で娘を抱き上げ、名前を呼んだ瞬間、背中を冷たい指で撫でられたみたいに分かった。
今夜は、その物語の匂いが濃い。
王都の夜会。王太子が来る。人が集まる。噂が形になる。目線が、ひとつの中心に揃う夜。
私は笑顔のまま、息を整えた。娘の前で怖い顔をするわけにはいかない。怖い、は心の中で言えばいい。
クラリスが背筋を伸ばし、胸元のリボンをきゅっと握った。
「……わたくし、ちゃんとできますわよ」
その声は、いつもの無邪気さより少しだけ背伸びしていた。貴族らしい言い回しを、どこかから借りてきたみたいに。
それだけなら、微笑ましい。子どもにとって夜会は、大人の世界だ。強がりたくなるのも分かる。
けれど次の一言が出た瞬間、私の中で時間が止まった。
「わたくしが正しいに決まっておりますのよ」
鏡の中で、クラリスがちょっと得意げに顎を上げる。
指先の感覚がふっと薄くなる。胸の奥が、冷える。
知っている。見たことがある。何度も、画面の中で。
その台詞のあとに並ぶものを、私は知っている。
笑い声。ひそひそ話。正義の宣言。泣きながら首を振る少女。最後に集まる視線と、逃げ道のない結末。
もちろん、クラリスは私を安心させようとして言っただけだ。強く見えたかっただけだ。子どもが大人の言葉を真似しただけ。
……それでも、今夜は揃う夜だ。
「……お母さま?」
クラリスが私の表情の変化に気づいたらしい。不安が瞳に揺れる。
私は慌てて微笑んだ。母親だ。ここで怖がってはいけない。
「うん、ちゃんとできるよ。クラリスは、もう十分すごい」
髪飾りをもう一度軽く押さえ、鏡越しではなく、ちゃんと目を合わせた。
「でもね。背伸びしなくても、あなたは大丈夫だよ」
「……背伸び?」
「さっきの言葉ね。『わたしが正しい』って言い切るのは、ちょっと頑張りすぎてる感じがする」
クラリスは頬を赤くして視線をそらした。
「だって、緊張するんですもの」
「うん。緊張するよね」
私は娘の肩に手を置いて、ふわりと下げるように撫でた。肩の高さが少しだけ戻る。
「じゃあ、深呼吸。いっしょに」
ふぅ、と息を吐く。クラリスも真似して、ふぅ、と息を吐く。たったそれだけで、部屋の空気が少し柔らかくなる。
そのとき、控室の外、廊下の気配が変わった。
ざわめきが一段低くなる。足音が揃う。声が明るくなる。空気が、照明を探すみたいに、きらりと方向を定める。
扉の向こうから、誰かが笑って言った。
「殿下がお着きよ」
王太子。
私は笑顔を崩さないまま、喉の奥だけが乾くのを感じた。廊下の向こうで人波ができる。波の中心には、いつだって“中心”が生まれる。
私は扉の隙間から、ほんの少しだけ外を覗いた。
金糸の装飾をまとった青年が、周囲に光を連れて歩いている。背筋はまっすぐで、笑顔は明るい。立っているだけで「正しい」と言い張れる種類の人だ。
その少し後ろに、白い花のような令嬢がいた。
白いドレスが周囲の色を引き算して、そこだけ淡い光になっている。笑っているのに、どこか怯えているようにも見える。周囲の令嬢たちが寄り添うように動き、彼女の表情ひとつで空気が揺れる。
泣く役の子。
前世の記憶が、嫌なほど静かに言った。
正義役の王太子。泣く役の令嬢。
この配置は、誰かを悪者にして終わる配置だ。
悪者の席が、娘の分だけ空いている。
扉の外で、控室の侍女が小声で告げた。
「夫人、そろそろご入場を」
私は頷きかけて、やめた。
鏡の中でクラリスが私を見る。期待と不安が混ざった顔。今夜は頑張るつもりだった。褒められたくて、ちゃんとしたくて。
私は娘の手を握った。
小さな手が一瞬だけ震える。私は指先に温度を込めた。大丈夫、を伝える。ここにいるよ、を伝える。
「クラリス」
「はい」
「今日は帰ろう」
クラリスの目が丸くなった。
「……え?」
控室の空気が、ぴたりと止まる。侍女が息をのむ。扉の外の音楽だけが、こちらの時間を無視して流れている。
クラリスの唇が震えた。泣きそうではない。ただ、理解が追いつかない顔。
「どうして……? わたし、ちゃんと……」
私はすぐに、暗い理由ではなく明るい理由を置いた。娘の心が今夜の空気に引きずられないように。
「明日、遠足にしよう」
「えんそく?」
「そう。空が広いところへ行こう。歩いて、風を吸って、おやつを食べよう」
クラリスは、遠足という言葉を頭の中で転がしたみたいに瞬きをした。
「……おやつ」
「うん」
私は笑った。娘の肩の力が、ふっと抜けるのが見える。
「でも……夜会は……」
「今夜は、人の目が多すぎる」
私は言い切った。難しい言葉は使わない。怖い未来の話もしない。今夜の空気が合わない、それだけで十分だ。
「あなたの心が、急いでしまう。急ぐ夜は、いいことが起きにくい」
クラリスは私の手をぎゅっと握り返した。
「……わたし、急いでました?」
「少しだけ」
「……じゃあ、遠足にします」
その返事が妙に真剣で、胸の奥がほどけた。よかった。娘は私の言葉を信じてくれる。
侍女が困ったように私を見る。
「夫人、今から退席は……」
その瞬間、控室の扉が静かに開き、ひとりの侍女が滑り込んできた。
ノエルだ。
黒髪をきっちりまとめ、淡い色の制服を一分の乱れもなく着ている。顔は涼しい。目だけが、いまの空気を一瞬で読み取った。
「夫人」
「ノエル」
ノエルは小さく頭を下げ、私とクラリスの顔を交互に見て、状況を理解したように頷いた。
「退席ですね」
言い切るのが早い。躊躇がない。
「……ええ」
ノエルは扉の外に目を向け、廊下の人波の音を耳だけで測るようにした。
「正面は混んでいます。裏の通路を使いましょう。馬車はすぐに回せます」
「お願い」
ノエルは「承知しました」と短く返し、ふと私の言葉を思い出したように、目だけでこちらを見る。
遠足……ですか?
私はわざと少しだけ口角を上げた。
そうよ。遠足。
ノエルの目が、わずかに細くなる。
語感だけは平和ですね。
私は危うく笑いそうになって咳払いで誤魔化した。笑っていい。今は笑えるなら笑ったほうがいい。笑いは空気を変える。
ノエルは控室の侍女へ向き直り、丁寧な声で言った。
「夫人はお嬢さまの体調を優先されます。今夜は早めに休まれますので、ご挨拶は後ほど改めて」
侍女が目を見開く。「体調」と言われれば、誰も強く止められない。しかもノエルの言い方は柔らかいのに、道を作る強さがある。
私はクラリスの肩にショールをかけ、髪飾りが外れないように最後に指で確かめた。
「寒くない?」
「だいじょうぶ」
「うん」
私は娘の頬を軽く撫でた。長く触れすぎない。ここで抱きしめたら、娘が不安になる。大丈夫だよ、と言うための手は、軽く、温かく。
ノエルが扉を開ける。廊下のざわめきが一気に流れ込む。
光。匂い。笑い声。
遠くに見える王太子の一団。白い花の令嬢。取り巻きたち。
私は視線を合わせない。合わせたら舞台が始まる。舞台は、目が合った瞬間に役を決める。
ノエルが前を歩き、私とクラリスはその後ろをついていく。裏の通路へ。人の少ない廊下へ。空気が薄くなる場所へ。
背後で誰かが「あら、夫人は?」と囁いた気がした。
聞こえないふりをする。聞こえないふりも、守り方のひとつだ。
裏廊下の角を曲がったところで、クラリスが小さく息を吐いた。
「……お母さま。さっきの人、きれいでした」
白い花の令嬢のことだろう。
「うん、きれいだったね」
「でも……なんか、さみしそうでした」
娘の感受性は鋭い。だからこそ、舞台の空気に巻き込まれてほしくない。
「そうかもしれないね」
それだけ言って、私は娘の手を握り直した。余計な説明はしない。今夜は余計な言葉を増やす夜ではない。
馬車は、思った以上に早く回ってきた。ノエルの段取りが恐ろしいほど速い。
車輪の音が石畳を叩き、扉が開く。外は夜の冷気。香水の匂いが薄れ、代わりに空の匂いが入ってくる。
クラリスが馬車に乗り込むと、急に眠そうに瞬きをした。緊張がほどけたのだろう。子どもは正直だ。怖い空気の中では頑張れても、安心した瞬間に力が抜ける。
私は娘の隣に座り、揺れで頭がぶつからないように支える。ノエルが向かいに座り、カーテンを下ろした。
馬車が動き出す。
夜会場の明るさが遠ざかる。照明がこちらへ手を伸ばすみたいに、背中がむずむずする。
私は目を閉じた。
前世の私は、画面の中の結末を「そういうもの」として見ていた。誰かが悪者にされて、誰かが拍手されて、物語が終わる。
でも今は、画面の外だ。
クラリスの体温が、隣にある。
この子が悪者の席に座らされるのを、私は絶対に許さない。
馬車が少し揺れた。クラリスが私の肩に寄りかかり、半分眠った声で呟く。
「……えんそく……」
「うん、遠足」
撤退ではなく遠足。逃げではなく選択。舞台から降りることは、負けじゃない。守るための、正しい手段だ。
屋敷へ戻り、娘を寝かせ、自室の扉を閉めたとき。
背中に張りついていた冷えを、ようやく吐き出せた。
ノエルが静かに問いかける。
「夫人。今夜はこれでよろしいのですね」
私は頷いた。短く、はっきりと。
「降りよう。この舞台ごと」
ノエルの眉がほんの少しだけ動いた。それが驚きなのか、納得なのかは分からない。けれど返ってきた声は、いつも通り落ち着いていた。
「……承知しました」
私は窓の外を見た。王都の夜。遠くの灯りがきらきらしている。あれは照明だ。人を集め、役を作り、結末へ向かわせる光。
私は、その光から娘を引き離したい。
引き離せる場所がある。領地。空が広い場所。生活の音が勝つ場所。
私は振り返り、ノエルに言った。
「領地へ行くわ。今日中に」
ノエルは一瞬だけ目を丸くして、それからすぐに、いつもの顔に戻った。
「今日中、ですね」
「ええ」
「……遠足が、少々急になりました」
その言い方が妙に真面目で、私は小さく笑った。夜の静けさを壊さない程度に。
「急な遠足ほど、忘れられないものよ」
ノエルは深く頭を下げる。
「では、すぐに準備を整えます。夫人は少しでもお休みください」
私は頷きかけて、寝室のほうを見た。扉の向こうで、娘が眠っている。さっきまで張りつめていた小さな肩が、今はゆっくり上下している。
眠れている。
それだけで、今夜の選択は正しい。
私はもう一度、心の中で言った。
照明が点く前に、暗がりの出口へ向かう。
舞台の外には、空がある。
本作は、短編「悪役令嬢の母になりました。断罪より先に子どもを連れて舞台から降ります。」を、連載向けに加筆・再構成したものです。
短編では「断罪の気配を感じた母が、娘の手を取って舞台から降りる」までを一気に描きましたが、連載版ではその先、
降りたあとに始まる日々、守るために増えていく選択、そして“物語の外”を作っていく過程を、ゆっくり丁寧に追っていきます。
王都の照明から距離を取り、空の広い場所へ。
笑い声のある暮らしの中で、娘が「自分の言葉」を取り戻していく物語です。
どうぞ、舞台の外の一歩目からお付き合いください。
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