野心〈1〉
「あの宣教師ジルベールが、原因不明の重い病で臥せっている」
そんな噂が皇都を駆け巡っていた。
だが一個人の事情に関係なく、大会は粛々と進んでいく。
すでに第12節、地区優勝争いも佳境を迎える中で御前試合が開催されるのだが、本日のカードは東地区の明星団対青雲団となっていた。
前年の優勝チームでありながらここまでたった一勝しか挙げられず、東地区最下位に低迷している明星団。対照的に青雲団は前年二位に終わった無念を晴らすかのように、ここまで全勝で来ている。
この日も青雲団が勝利すれば、あと3節を残して東地区優勝が確定となる。しかも相手は昨年に苦汁をなめさせられた明星団とあって、スタジアムの雰囲気は試合前から最高潮の盛り上がりを見せていた。
その様子を最上段から満足そうに眺めていたダエン皇が、貴賓席下段の隅で頭を下げている女へと視線を移す。
「なるほど、残念ながら今日のゲームにもジルベール殿はお越しになれないか」
「は」
平伏したまま返答したのがサクラだ。
「病床のジルベール様から陛下への謝罪の言葉を預かっております」
「よい。そんなことに気を回さず、養生して早く快癒してもらいたいものよ」
前節も同様の状況だった。
そのときはサクラもジルベールへの付き添いということで観戦を控えていたが、さすがに二週続けて御前試合を欠席というわけにもいかない。
「そのような事情でございますので、及ばずながら本日、わたくしがジルベール様の名代を務めさせていただきます」
貴賓席の空気だけが、スタジアムの中で隔絶しているかのように冷たく重い。
居並ぶ妃たちの誰かが「──たかが世話係の平民風情が出しゃばって」と呟いているのが聞こえてきた。おそらくは妃たちの総意に近い言葉なのだろう。
けれどもダエン皇の対応は違った。
「サクラといったな。そなたの書く地方遠征のマッチレポートは細部に渡ってよく出来ており、興味深く読ませてもらっている」
今日も話し相手として頼むぞ、とまで口にする。
ダエン皇の厚情に深い感謝の意を伝え、サクラが唇を真一文字に引き結ぶ。
これからどうなるかはわからない。ただ、彼女なりに覚悟をもってこの場へやってきたのは確かだ。
水色を基調とし、胸の部分だけ横に白いラインがあるユニフォームが青雲団。黄と赤による横縞の明星団とは取り違える心配がなさそうだった。
開幕戦でもあった御前試合と比較して、明星団のスターティングメンバーは半数が入れ替わっている。内部がごたついているチーム状況によるものだろう。
ささやかな驚きとしては、14番を背負ってカンノトが先発していたことか。
前節に途中出場の形で復帰を果たしていたものの、後半半ば過ぎからの投入だったためにプレー時間としては20分にも満たない。
あくまで遠目からだが、いつも通りのカンノトに見える。チームどうこうより、暴れ回りたくてうずうずしている、昔と変わらぬ彼の姿だ。
サクラの眼力は旧友を見誤らなかった。
試合開始から両チーム無得点のまま12分が経過したあたりで、青雲団に先制のビッグチャンスが訪れる。
攻勢に出ていた明星団がパスを前に落としてしまい、本来ならばここで笛を吹かれてノックフォワードの反則を取られるはずだった。しかしそのボールを拾ったのが青雲団だったため、彼らがアドバンテージを得てプレー続行となる。
一瞬で攻守が反転し、明星団のディフェンスラインの構築も間に合わない。猛然とゴールラインへ向かう青雲団の選手たちに有利な状況が出来上がっていた。
明星団の守備陣をかわしながら、手堅く外へ、外へと青雲団がボールを回していく。誰の目にもトライが確実だと思われたそのとき、矢のような速さで明星団のBKが突き刺さってきたのだ。
背番号14、WTBカンノトである。
トライを目前にしていた相手選手はタッチラインの外へと押し出され、絶好の得点機を阻まれた。守備でのカンノトの値千金のプレーだ。
思いきり騒いで喜びたいのをどうにか自重しているサクラだったが、代わりに称賛してくれる人物が別にいた。
「やはり只者ではなかったな、あのカンノト」
好プレーには立ち上がって拍手を送るのがダエン皇の常だったが、もちろんこのときも例外ではない。
「まず心構えが素晴らしい。あのプレー、最後の最後まであきらめぬ強い気持ちを持っていなければ、決して生まれることはなかったであろう。見習いたいものよ」
この最大級の賛辞をカンノトが聞けばどれほど喜ぶか。
いや、案外あいつのことだから「自分は何も考えていませんでした」とか言いだしそうだぞ、などと内心で想像してみる。
この後、敵陣へ攻め込んだ青雲団もペナルティゴールは決めて3点を先制した。だがあのビッグプレーがなければ5点、あるいは7点と取られていたのだ。
今日の明星団にはシーズン中ずっと覆っていた沈鬱さがなく、むしろ「まだまだこれから」と前向きな空気で満ちている。
しかし青空に浮かぶ一つだけの雲から雨が降ることもあるように、貴賓席では思いがけない異変が起こった。
「陛下はいったいいつまで、このようなお遊びを続けられるおつもりで?」
場が凍りつく言葉を吐いたのは、他ならぬ東春妃であった。
驚愕を隠せない妃たちが多い中、何人かは複雑そうな表情を浮かべている。決して口にするわけにはいかないが、内心で同意するところもあるのだろう。
東春妃の舌鋒は鋭い。
「国を導いていく我々にとって、ラグビーなどただの遊びでしかありません。どうか陛下の真意をお聞かせ願えませんか。もう茶番にはうんざりなんです」
「ほう、茶番」
一方でダエン皇に慌てた様子は見受けられなかった。
突然の異議申し立てだったにもかかわらず、鷹揚な態度を崩さない。妃からの訴えがいつか出てくるはずだと予期していたのだろうか。
「話を聞こう、東春妃」
「お許しとあらば」
立ち上がった東春妃がさっと裾を払う。
背中の大きくあいたデザインの装いは、彼女をいっそう艶やかに演出する。
「我がチーム、明星闘球団は昨シーズンの大会において見事優勝を果たしました。と同時に、東春妃の名乗りを認められたこのわたくしも、暫定的ながら正妃とさせていただいた。そう理解しておりましたのですよ。ですがこの一年、わたくしが味わったのは他の妃たちとほぼ同列、屈辱的な扱いと申し上げてよろしいでしょう」
「その取り決めについてはすでに十分な説明がなされているはず。今さら──」
「おかしいではありませぬか!」
ダエン皇の発言を遮り、東春妃が感情を剥き出しにして叫んだ。
「なぜそう頑なに陛下は正妃を拒まれるのです! 聡明であらせられる陛下ともあろう御方が、世の道理をわきまえておられぬはずがないでしょう!」
ここで彼女もいったん大きく呼吸して興奮を鎮めようとする。
失礼しました、と優雅な礼で取り繕いなおも続けていく。
「ですのでわたくしは一つの結論に至りました。この国にラグビーなる災いを持ちこみ、陛下を誤った道へ引きずり込んだのはあの男、宣教師ジルベールであると」
敬称をつけず、東春妃はジルベールへの弾劾を開始した。
「幸い、彼の者には重篤な病という天罰が下ったとか。選ばれておらぬ人間が天を欺き、気ままに権勢を振るうなど本来あってはならぬこと。ようやくではありますが、まだ遅くなどありません。これで陛下も正道へとお戻りになれるのです」
「ほう。東春妃よ、つまりこういうことか。もはや余命いくばくもないジルベールに見切りをつけ、ラグビーなどというお遊びを早急に中止し、現在暫定的な正妃であるそなたを恒久的にその座へつけよ、と」
「仰せの通りでございます」
ふうむ、とダエン皇はわざとらしく考えこむ素振りを見せる。
「今日ですでに大会も第12節。このまま順当にいけば、二月も経たぬうちに次の暫定的な正妃が決まるであろう。それでは遅いのか?」
「東方に君臨する連邦国家との戦争が近づいております。いわずと知れた、宣教師ジルベールの出身地でございますね。お戯れの時間が長引けば長引くほど、彼奴らへ好機を与えるのと同義。今はマヤシャー家が対峙して踏ん張っておりますが、すぐにでも国を挙げた戦争準備が必要かと」
さすがに他の妃たちもざわつきだしている。
東春妃の理屈はあまりにも独善的で、他者を顧みていない。だからこそジルベール毒殺などという、短絡的な暴挙を計画したのだろう。
明星団の今季の成績が壊滅的である以上、もはや正当な手段では正妃の座を維持できないからだ。
裏を返せば、彼女がどれほど追いつめられていたか、ということでもある。
ダエン皇と東春妃、二人の間に皇位継承者が誕生すれば、マヤシャー家の当主が外祖父になるわけだ。ならばそのための圧力も凄まじいものだったに違いない。
自分よりはるか上の身分である彼女を、サクラは少し哀れに思った。妃であるがゆえに起こった不幸ではないだろうか。
ここまで淡々と耳を傾けていたダエン皇だったが、「もうよいか」といかにもつまらなさそうな口ぶりで吐き捨てる。
「だ、そうだ。我が敬愛すべき宣教師殿はどう思う?」
「え」
東春妃がどこか幼く聞こえるような声を上げた。
事態を飲み込めないのも無理はないが、ジルベールは試合開始の前からこのスタジアムにいたのだ。貴賓席からは死角になる、フィールドの脇に。
梯子を使って上ってきたジルベールが「はっはっは」と豪快に笑っている。
「なんのなんの、その心配はもう必要ありませン」
サクラのいる場所までやってきて足を止めた彼は、両手の平を広げてみせた。
「なぜならこの十日間ほど故郷へ戻り、連邦の旧友たちに話は通してありまス。なし崩しに戦争が勃発するような事態にはなり得ませんヨ」
他の妃たちの中から「じゃあ重病ってのは」という疑問の声が聞こえてきた。
待ってましたとばかりに、ジルベールが満面の笑みを浮かべる。
「病気なぞあちらが避けるでしょウ。ほらこの通り、今からでも現役に復帰できそうなくらい、気力体力ともに充実しておりますゾ」
天国よりも現世がいいですからネ、とわざとらしい目配せとともに。
これは「天国気分を味わえる美酒」への意趣返しだろう。
呆然とした表情で東春妃がサクラを見た。
「飲ませなかったのか、薬を」
「はい。最初からそのつもりなどありませんでしたから。ただしあなたに自暴自棄になられて戦争を引き起こされてもいけません。ですのでそうと悟られないよう、ジルベール様とともに一芝居打たせていただきました」
もちろんダエン皇にも前もって話を通してあったが、この場でそこまでの説明は不要と判断した。サクラとしてもこれ以上東春妃をみじめな気持ちにさせたいわけではない。
だがそんな配慮も東春妃へは届かなかった。
「よもやわたくしを嵌めるとは。この、裏切り者め……! よくも、よくも!」
激高した彼女が、懐から何かを取り出す。
途中でぐにゃりと曲がっているような、見慣れない筒状のものを握って先端をサクラへと向けてくる。
妃の誰かが「銃だわ!」と甲高い悲鳴を上げていた。




