ナンバー8を倒すには〈1〉
最近、ジルベールの酒量が増えている。
夕食前から就寝時まで、下手をすればずっと呑み続けていることもしばしばだ。
一方でサクラの朝は早い。
「昨夜も痛飲していたもんなあ、ジルベール様」
いったいどんな肝臓をしているんだか、とぼやきながら自室の寝台を整え、階下の礼拝堂へと向かう。
日の出から間もない時刻とあって、まだ室内は薄暗い。主に宴会場として使われることの方が多い名ばかりの礼拝堂を掃き清め、朝食の支度をあらかた済ませてからジルベールを起こしに行く。
住み込みで働くサクラの一日はだいたいこのように始まる。
しかし今朝は勝手が違った。礼拝堂内に大きな人影が見え、祭壇に向かって何ごとかを一心不乱に呟き続けていたのだ。
ジルベールである。長い黒衣に身を包み、目を閉じて祈りを捧げている姿はいつもの彼とは異なり聖職者然としていた。
その祈りを妨げぬよう、サクラは脇に控えて静かに待つ。
おそらく母語によって唱えられているのだろう。文言の意味は一切理解できなかった。それでもジルベールの低い声には不思議な落ち着きがあり、耳をすましてずっと聞いていたいほどだった。
祈りを終えたジルベールが立ち上がり、胸元へ手をやる。
天窓から柔らかく光が差しこんでくるのを背にして彼は言った。
「まだ酒が抜けていませんネ。うむむ、これは迎え酒をしなければいけませン」
「何でそうなるんですか!」
思わず声を上げてしまったサクラは低い姿勢をとり、そのままジルベールへタックルを仕掛けていく。
手だけで捕まえにいくのではなく、体のすべてを使って低く鋭くぶち当たる。そしてそのまま力を緩めることなく倒し切らなければならない。
これらのタックルの基本はジルベール本人から教えられたものだ。
視察の旅の途中で彼と軽い雑談をした際、「どうやったらわたしでもジルベール様を引っくり返せますかね?」と訊ねたことがあった。
ラグビーをずっと追いかけていく中で感化された部分がなかったとは言えない。女の自分が巨漢のジルベールを倒せたら、それはどれほど爽快だろうか。
以来、彼はいつどこからでもタックルを仕掛けてきて構わないという許可を出してくれた。えらくご機嫌な様子で、だ。
「おう、強烈な当たりですヨ。いいですネ」
不意を突いたはずのサクラのタックルだったが、酔いどれ宣教師は事もなげにがっちりと組み止めてしまう。
毎回こうだ。サクラとしては渾身の当たりをしたつもりでも、規格外の偉丈夫ジルベールにはまったく通用しない。
その理由を問うたときに、彼は笑顔を浮かべてこう言っている。
「だって現役時代のワタシはナンバー8でしたからネ。誰が相手でもそう易々とは倒されませんかラ」
総勢八人のFWの中で最後尾のポジションであり、BK陣との繋ぎ役も担う。それがナンバー8だ。力と速さを兼ね備えただけでなく、判断力も求められる。
納得といえば納得だが、意外にもサクラは負けん気が強い。自分でもこれまでよく知らなかった己の一面だ。
「いつになったらわたしはジルベール様を倒せるんでしょうか」
「焦らない、焦らなイ。サクラのタックルであれば、大抵の人間であればあっけなく転がりますヨ」
今度陛下に試してみましょうカ、と空恐ろしいことを言いだした。こんな戯言に付き合っていては、サクラの命がいくらあっても足りやしない。
なので唐突感は否めないが別の話題を振ってみる。
「まだ東部国境での諍いが収まっていないようですね。ダエン皇のみならず東春妃も気が気じゃないでしょうに、いったいいつまで続くんでしょうか」
「平和であってこそのラグビーですからネ。ぶつかり合うならフィールドで、正々堂々と闘ウ。これからもそうあってほしいものでス」
遠い目をしているジルベールが熱心に何を祈っていたのか、ようやくサクラにもわかった気がした。
◇
凶事と呼んで差し支えないようなひどい出来事が立て続けに起こった。それもサクラの周辺で、である。
一つめはジルベールへの襲撃事件だ。
どうしても酒を買いに行きたいと言い張って聞かない彼とともに、サクラは皇都の酒屋を訪れていた。皇家御用達のような敷居の高い店ではなく、国外の酒も積極的に仕入れる新鋭の店舗である。
「おうおう、素晴らしイ! 目移りしますねエ!」
今にも涎を垂らさんばかりの勢いで、ジルベールは真剣に品定めをしていた。
けれども問題は買い物時ではない。その後の帰路に起こる。
今回は穀物の発酵酒を買い込んだジルベールが、両手いっぱいに酒瓶を抱えて通りを歩いていた。もちろんサクラも従者として手伝ってはいるが、体格的に限度というものがある。
「さあ、急いで帰って乾杯しましょウ」
「何に対しての乾杯なんですかね……」
あきれ返るサクラだが、それでも慣れたものだ。
帰宅後に用意する酒のつまみの献立を頭の中で練り、今夜は遊牧民仕込みの香辛料たっぷり羊肉串焼きでいってみよう、と決めたときだった。
「見つけたぞ、異教の宣教師ジルベール」
ひどく嗄れた男の声がする。
その声を合図にすぐさま別の男二人も駆けつけ、サクラとジルベールは男たちによって三方を取り囲まれる格好となった。
そして男たちは揃って懐から刃物を抜く。おそらくは包丁だ。
怯えるサクラの脳裏には、かつて北部の開拓事業団において皇国と敵対する遊牧民部族による襲撃場面が思い起こされた。
途端に震えが止まらなくなり、手に持っていた酒瓶の中身がちゃぽんちゃぽんと波立ってしまう。
するとジルベールは自身が抱えていた大量の酒瓶をその場にそっと置き、片腕を広げて彼女の前に出る。
「サクラ、ワタシの後ろに下がっテ」
「で、でも、従者のわたしが守られたのでは」
「いいから早ク」
これまでに聞いたことのない、有無を言わせぬ口調だ。
大樹のように広い背中がサクラの目には圧倒的に頼もしく映った。
「いったいワタシに何の用でス」
ジルベールに慌てた様子はない。実に落ち着き払っている。
むしろ相手側の男の方が苛立った態度を見せていた。
「連邦から送り込まれたんだってな、あんた。ラグビーを利用して上手く陛下に取り入りやがって」
「それはまったくの誤解ですヨ。ワタシはあくまでラグビーの良さを──」
「うるせえ! この奸賊めが、死にくされ!」
ジルベールの言葉にも聞く耳持たず、三人の男たちは一斉に襲いかかってきた。
皇都を巡回している警吏はまだやってきていない。
もはや万事休す。唇を噛みしめながらも目を逸らそうとはしなかったサクラが、次に目にしたものはあまりに予想外の光景だった。
「あ、あれ?」
「いけませんねエ。そんな鈍ら包丁では、この肉体に傷一つつけられませんヨ」
平然としているジルベールの言葉通り、暴漢どもの刃は筋肉の鎧に阻まれてまったく突き立てられていなかったのだ。
そんな彼らを見下ろしてジルベールがにっこり笑った。
「鍛え方が足りませんネ。ワタシを倒したくばラグビーを始めることでス」
ささやかな助言とともに、まとめて三人の男たちを抱きしめる。
彼の力強い抱擁は男たちが失神するまで続いた。ようやく解放された男たちは全員が糸の切れた人形のように崩れ落ち、そのまま立ち上がることはなかった。
もちろん死んでしまったわけではないが、彼らはそのまますぐに捕縛されて厳しい取り調べを受けることになるはずだ。
「さ、サクラ。帰りましょウ」
事もなげにそう声を掛けてきた豪傑宣教師だったが、その図体に似合わぬ丁寧さで地面に置いた酒瓶を拾い上げていく。
以上が一度目の凶事の顛末だった。
そこからさほど日を空けず、再びサクラとジルベールは災難に見舞われる。
このときは試合観戦後のスタジアムからの帰り道であった。
まだ皇国内では希少な自動車ではなく、乗合馬車を利用して観戦しに来る客の方がはるかに多い。停留所には数え切れないほどの馬車がひしめき合っており、主に二頭立てであったため、単純に計算して倍の数の馬がいたわけだ。
そのうちの一頭が急に興奮して暴れだした。
おまけにきちんと繋がれていなかったらしく、周囲にいた人間の制止をものともせずに駆けだしてしまう。
さらに間の悪いことに、逃げ出した馬のちょうど進路上にサクラとジルベールが立っていた。
「むう、これは看過できませんネ。他の方たちが危なイ」
即座にジルベールが馬を受け止める構えに入る。
彼とすれば、ラグビーの試合を観戦した客がその帰り道で、不慮の事故によって怪我を負うなどあってはならないことなのだろう。
けれども全力で駆ける馬と剛力のジルベールがまともにぶつかってしまえば、必ずどちらかは、あるいは双方が無事では済まない。
今度はサクラの出番だった。
ジルベール様、と彼の腕を叩いて言う。
「ここは遊牧民育ちのわたしを信じてください」
「あのような暴れ馬ですが、いけるのですカ」
「もちろん」
馬の扱いにおいて、カンノトをはじめとする同世代の子供たちの誰よりもサクラは巧みだった。これは族長ミカフクでさえも認めている。騎乗技術は受け継がれた血ではなく修練によって磨かれていくものなのだ。
サクラは突っ込んでくる馬の目を正面から見据えた。
互いが交錯するかに見えた瞬間、馬の首に腕を柔らかく巻きつけながら、彼女はくるりとその背に飛び乗ってみせた。
鞍や手綱がなくとも馬は御せる。何度も落馬しながら体得した技術だ。
「よーしよし、いい子ね」
たてがみを握ってそうなだめてみたものの、馬の怯え方が尋常ではない。
止まってくれないのであれば、次善の策として人のいないところを選んで走らせるしかなく、サクラもこの暴れ馬にとことん付き合うべく腹を括った。
大勢の観客がスタジアムに集まっていたことが幸いしたのだろう。進んでいくほどに人影も少なくなり、歩調を合わせるように馬の機嫌も落ち着きはじめた。
「大丈夫、大丈夫。誰もあなたを攻撃したりしないよ」
お腹が空いただろうからいっぱいごはんを食べようね、と首筋に優しく触れながら耳元でささやく。
結局、歩調を緩めていった馬は完全に立ち止まった。
ぶひゅん、と穏やかにいななき、すっかりサクラへ信頼を寄せてくれている。
その様子を離れた位置から確認した警吏の一団が、この機を逃すなとばかりに馬を捕縛しにかかる。
けれどもサクラは「近寄らないでください」と強く拒絶した。
「この子は極度の興奮状態にあっただけです。もう問題はありません」
続けて宣教師ジルベールの名を出せば、さすがに無理を通そうとする者などいるはずもない。皇都において彼の影響力は絶大だ。
だからこそ、サクラの中で疑念が拭えない。
先日の暴漢による襲撃事件は間違いなくそうだったが、今回の馬の暴走もジルベールを狙って仕組まれたもののような気がしてならないのだ。
しばらくして「おーイ」と呑気に手を振る彼が駆け寄ってきた。
危機感など一切持ち合わせていなさそうなその顔を見て、反射的に頭を抱えたくなってしまう。もしあのままジルベールが馬と正面からぶつかり、踏み潰されでもしていたら。
きっと本人は、自身がどれほど重要な人物なのかをまったく理解していない。というよりも、そこに意味を見出していないのだ。
つくづく思う。どこまでも彼はラグビーの精神を体現しているのだと。
相手によって己が倒されても、後ろにいる味方にボールを繋ぐことができればそれでいい。これがラグビーだ。気まぐれに弾む楕円球を、どうにかして目的地であるゴールラインの向こう側へ届けるために。




