サクラと宣教師ジルベール
漆黒の自動車がサクラのすぐ近くで停車する。
「さあさあさあ、乗ってくださイ」
同じく全身黒ずくめの装いである偉丈夫が洗練された動作で後部のドアを開き、サクラへ先に乗り込むよう促してきた。ただし片腕で楕円球を抱えたままで。
広大な版図を誇るアザナイ皇国であっても、自動車なる最先端の乗り物は全土でまだ百台あるかどうからしい。
要するに雲の上の方々のためだけに存在する足である。
なので当然、地方出の平民であるサクラは乗った経験などない。それどころか馬車以外にも陸上を走る乗り物があるのだと知ったのさえ、皇都にやってきてからのことだった。
そんな彼女を、見事なまでに黒光りする自動車が迎えにやってきているのだ。力強くも規則正しいエンジンのリズムとともに。
元々は異国の宗教施設となる予定だった白亜の建物を背にしたまま、思わずサクラは天を仰いでいた。こんな仕事だとは聞いていない。
彼女はただ、異国の客人の世話係を申し付けられただけだ。
なのになぜ、その客人とともにラグビーリーグの開幕試合を観戦しなければならないのか。それも最上級の扱いを受ける席だというではないか。
「何をためらっているのですカ、サクラ。今日は待ちに待った開幕戦、キックオフに間に合わなくなってはいけませン」
後部のドアを開けたまま目の前に立つ偉丈夫は、サクラの気持ちなどおかまいなしに早く着座しろと急かしてくる。
彼こそが皇国における正式な賓客、宣教師ジルベールだ。
サクラ自身はいわば彼のおまけであり、今回の同行は分不相応にも程がある。喜びや高揚感よりも戸惑いが先に来るのは無理もなかった。
だがジルベールの言葉には従わなくてはならない。
傍にいるだけで圧力を感じるほど、彼はとにかく巨体だ。見上げるような背丈もさることながら、体の幅と厚みが尋常ではない。サクラのような普通の女など、悪気なくぶつかられただけで吹っ飛んでしまうことだろう。
黒く高い外套の襟からは、鍛え抜かれた太い首がちらりと見えている。その上方には伸ばすでも剃るでもなく適度に整えられた髭、意外にも優しげな瞳、色素の薄いもじゃもじゃの髪。
心を無にして諦めたサクラが後部座席の奥へ体を滑り込ませると、すぐにジルベールも続いて彼女の隣へと腰掛ける。その際に車体が大きく揺れた。
「ああ、ワタシの毛むくじゃらな胸は今にも張り裂けんばかりに興奮していまス」
感極まった様子でジルベールは言う。
「お芝居の幕が上がるのを待っている子供と同じですヨ。今日からまた新たなシーズンが始まり、プレーの一つ一つによって激闘の歴史が刻まれていくのですかラ。きっと陛下も同じ気持ちでいらっしゃることでしょウ」
アザナイ皇国において比肩する者なき最高権力者、ダエン皇。
先々々代は稲光の凄まじい夜に生まれたとされるイカズチ皇、先々代は鉄による発展を推し進めたクロガネ皇。そのクロガネ皇の娘である先代は、多数の民族が混在する領土を「円かに統治する」との意を込め、マドカ皇と号した。
そして十八歳の若さで即位した当代のダエン皇であるが、まさに名は体を表す。
楕円球を奪い合って争う球技のラグビーをこよなく愛し、あっという間に大がかりなリーグ戦の開催にまでこぎ着けた。
皇国全土は毎年恒例となったお祭り騒ぎに燃える。
合計24チームが均等に四地区へと分かれ、各地区の優勝チームだけがプレーオフとなる決勝トーナメントへ進出し、死力を尽くして覇を競う。
それだけならば権力者のお遊びとして片付けられる範疇だろう。問題なのは、各チームを所有しているのがすべてダエン皇の妃であることだ。
彼女たちはただチームの勝敗を争っているわけではない。
先代のマドカ皇が女性であったために、その間は伝統的な後宮制度を放棄するような状態が続いていた。だがダエン皇が即位するや否や、自身の息女を皇后にと望む有力者たちの意向によって、雌伏の時を経た後宮制度は復活する。
ただしダエン皇は一つの条件を出した。
「余の正妃たろうとするならば、各々でラグビーチームを所有し、近く開催される大会にて最強の座を勝ち取れ」
しかも二年続けて、である。
並みいる強豪を倒し、大会で優勝するのは至難の業だ。どの妃も目の色を変えてチームを強化するに違いないのだから。
さらに連覇となれば、いったいどれほどの確率が残るのだろう。
「ねえサクラ、アナタも楽しみで仕方ないですよネ」
ジルベールがにこやかにそう振ってきたが、とんでもない話だ。
今からサクラが向かうのは、血眼になった妃たちが一堂に集う開幕戦。
まともな神経の持ち主であれば、絶対に居合わせたくない場所なのは間違いない。もちろんサクラだって逃げられるものなら逃げ出したい。
しかし今、上機嫌で彼女の隣に座っているのは、ダエン皇へラグビーの魅力を熱狂的に説いた張本人なのだ。
東方の連邦国家に根付いている宗教を、アザナイ皇国でも広めるために。
そんな名目でやってきたはずの宣教師ジルベールだが、彼が真に神として信奉しているのは、どうやら楕円球の方だったらしい。
教会となるはずだった白亜の建物も、今ではジルベールの住まいとラグビー関係者を招いての宴会場とを兼ねている。荘厳な宗教施設からは程遠い。
まあ、物事は見方次第でもある。ラグビーをアザナイ皇国全土へ急激に広めたという意味では、彼は宣教師としての本分を果たしたといえるだろう。
引きつりそうになりかけている顔の筋肉を総動員し、サクラも必死の笑みを浮かべて言った。
「ええ、ええ、ジルベール様。震えがくるほどに待ち遠しいです」
「おう、ラグビーに魅せられた者がここにも一人! これを神の恩寵と言わずして何と呼ぼうカ!」
感極まった様子で顔をくしゃくしゃにしている彼には、サクラの皮肉がこれっぽっちも伝わらなかったらしい。
◇
考え得るかぎり、最悪から二番目の状況だった。
サクラが宣教師ジルベールに付き従ってスタジアムの貴賓席に到着すると、すでに総勢24チームを所有する妃たちがずらりと顔を揃えていたからだ。
それぞれの地域や民族の正装を身にまとって着席している妃たちは、遠目からでも強烈な色彩の祭りの様相を呈していた。
中でも特に別格なのは、各地区での戦いを制して昨シーズンの四強となったチームの持ち主。すなわち東春、南夏、西秋、北冬の称号をそれぞれ贈られた四人の妃である。
妃たちはこの四妃を中心として序列の高い順に左右へ広がり、一直線に並んでいた。彼女らはどうせ平民など同じ人間だとみなしていない。遅刻を咎める視線をいくつも浴びたような気がするのは、サクラの被害妄想だろうか。
ただ、真に最悪なのはダエン皇よりも遅れてしまうことだったが、想像すらしたくないその事態だけはどうやら避けられたようだ。
「やあやあみなさん、ごきげんよウ」
従者であるサクラの気苦労など露知らず、ジルベールは笑顔を振りまいて妃たちに挨拶している。
彼に落ち度があるわけではないものの、後ろをついていくだけでどんどん精神が疲弊していく。魂の削り節はいったいどんな味がするんだろう、米に合えばいいのだけれど、などと益体もないことを考えながら、サクラはただひたすらに気配を消してジルベールの影であろうと努めた。
遠慮がちにフィールドへと視線を遣れば、芝の鮮やかな緑が眩しく映る。
皇都には複数のスタジアムが建設されているが、サクラたちが今いるこのスタジアムこそ栄えあるその第一番目だ。
後続スタジアムより簡素な造りらしく、貴賓席であっても半分ほどは屋根で覆われていなかった。序列の低い妃たちは雨が降ってくれば濡れるしかない。
ただしダエン皇がこのスタジアムを非常に気に入っており、大事な試合の開催は決まってこのスタジアムなのだという。
フィールドで戦う選手たちと、それを見守るダエン皇。
本日の開幕戦の主役となる双方がほぼ同時に姿を現した。
雄叫びを上げながらフィールドへ入場してきた両チームの選手たちに目を奪われる間もなく、ダエン皇も悠然と貴賓席の最上段にやってくる。
こんなにも近くでダエン皇の姿を見たことはなかったサクラだが、気づかれないよう慌てて顔を伏せた。
妃たちは誰一人として彼の近くで観戦することを許されておらず、ダエン皇の隣にある正妃が座るはずの椅子は空白のままだ。たとえ別格扱いの四妃といえど例外ではない。ここまでの五年間で連覇を達成したチームはないのだから。
「皆のもの、楽にしてくれていい」
そう言ってダエン皇が独りきりの席へ今にも座ろうとした瞬間、とんでもない無礼を働く者があった。宣教師ジルベールである。
あろうことかジルベールは、ダエン皇へ向かっていきなりラグビーボールを投げつけたのだ。
首筋に冷やりとしたものを感じたサクラだったが、ダエン皇は一切動じずに両手でしっかり受け止める。
「ふむ、取りやすい綺麗な回転だ」
さすがはジルベール殿、とまさかの誉め言葉まで飛び出す。
そういえばサクラもジルベールから聞かされていた。ラグビーにおけるパスは縦ではなく横回転がよいのだと。楕円球の特性を活かしたその回転はキャッチしやすい上、さながら銃の弾丸のようにボールを遠くまで飛ばせるらしい。
けれどもサクラには、銃と言われてもピンとこない。人や獣を殺傷する道具らしいが、実物を目にしたことがない以上当然の反応であった。
「ありがとうございまス……おっト!」
ジルベールが話し終えるのを待たず、今度はダエン皇から真っ直ぐな軌道でパスが放られた。
もちろん屈強な宣教師にとって捕球に問題などない。
それを見たダエン皇がわずかに口角を上げ、ようやく着席する。
「今しがた選手たちを激励してきたところでな。どの選手も新しいシーズンの幕開けを待ち望む、いい表情をしておったぞ」
玉座から話しかけている相手はもちろんジルベールだ。
「いやはや陛下、頼もしいかぎりですネ。こちらも滾りまス」
「うむ。どんな熱戦を見せてくれるか、楽しみで仕方ない」
先ほどのパス交換といい、ダエン皇とジルベールの二人だけで話が進んでいく。
ずらりと居並ぶ妃たちがそこにいないかのような扱いに、サクラも少々疑問を抱かないわけではない。ただし首を突っ込むつもりもなかった。そんなことをしようものなら、命がいくつあっても足りないではないか。
妃たちの列とダエン皇、その中間に陣取ったジルベールのそばに控えつつ、彼女はキックオフの笛が高らかに鳴らされるのを聞いた。




