第9章:次の一手
『YATAGARASU』のオフィスは、重い沈黙に包まれていた。
スクリーンに映し出された神崎麗奈の顔には、隠しきれない疲労と、深い絶望の色が滲んでいた。国会という名の壁に、たった一人で挑み、そして、跳ね返された彼女の報告は、チームの若いスタッフたちの心を、冷たい水で打ちのめすには、十分すぎた。
「私の力が、及ばず、申し訳ありません」
画面の向こうで、深々と頭を下げる神崎に、誰も、かける言葉を見つけられなかった。
その沈黙を破ったのは、安野貴の、意外なほど、明るい声だった。
「いや。最高の仕事だ、神崎さん。ありがとう」
えっ、という表情で、全員が安野を見る。
安野は、椅子から立ち上がると、オフィスの中心に置かれた、巨大なホワイトボードの前に立った。
「考えてもみろ。たった一人の兵士を、敵の城に送り込んで、王の首が獲れると思っていたのか? ありえない。今回の神崎さんの戦いは、偵察だ。我々の最初の斥候が、敵の城壁の厚さと、そこに張り巡らされた罠の正体を、その身をもって、完璧に報告してくれた。これ以上の成果はない」
彼は、チームの仲間たちを見渡し、不敵に笑った。
「そして、何より、最高のデータが取れた。『協力できる箇所を探す』という、我々の美しい理想が、旧世代の『恐怖の支配』という、醜い現実の前で、どれほど無力か、という、極めて貴重な実験データだ」
その言葉に、羽生翔太が、食ってかかった。
「実験データって! 安野さん、神崎さんは、あなたの駒じゃないんですよ!」
「ああ、そうだ」
安野は、羽生の目を、まっすぐに見据え、静かに、しかし、有無を言わせぬ力で、言った。
「彼女は、駒じゃない。この戦争における、最も重要な『変数』だ。そして、俺は、その変数を、これから、もっと過酷な場所に、立たせ続けることになる。それが、この戦争に勝つための、唯一の方法だからだ」
彼は、ホワイトボードに、日本の全選挙区が描かれた、巨大な地図を映し出した。
そして、その上に、今回の補欠選挙で得られた、詳細な投票行動のデータを、色分けして、重ね合わせていく。
「見ろ。俺たちの戦い方は、確かに、旧世代の組織票には勝てなかった。だが、これまで選挙に行かなかった、都市部の若い世代、そして、子育て世代の、眠っていた票を、これだけ掘り起こした」
地図の上には、神崎が勝利した多摩地区を中心に、新しい民意の熱源を示す、赤いゾーンが、鮮やかに浮かび上がっていた。
「この『勝ちパターン』を、他の選挙区に、水平展開すれば、何が起きる?」
安野は、まるで、チェスのグランドマスターが、数十手先を読むかのように、語り始めた。
「次のターゲットは、ここだ」
彼が指し示したのは、首都圏、そして、関西圏の、大都市近郊の選挙区だった。
「これらの地域は、自民党の地盤が比較的弱く、俺たちの手法が、最も効果を発揮する可能性が高い。次の総選挙で、俺たちは、ここに、神崎さんのような『新しい象徴』を、一斉に、何十人も、立てる」
彼の言葉は、もはや、感傷的な決意表明ではなかった。
それは、全てをデータと確率で読む、冷徹な戦略家が描く、次なる戦いのための、具体的な「設計図」だった。
「神崎さん」
安野は、スクリーンの向こうの彼女に、静かに、しかし、非情なまでの命令を下した。
「あなたには、これからも、苦しい役回りをさせることになる。国会の中で、たった一人、孤立した『象徴』として、旧世代の理不尽さを、その身で受け止め、国民に、見せつけ続けてほしい。あなたが、中で耐えてくれている間に、俺たちは、外で、次の、そして、本当の決戦の準備を、全て、終わらせる」
神崎は、息を呑んだ。
そして、数秒の沈黙の後、彼女の瞳に、再び、強い光が宿った。
「承知、しました。それが、私の役目ならば」
安野は、深く頷くと、チームの全員に、そして、自らに、宣言した。
「俺たちの、本当の目標を言う」
「――自民党を、単独過半数割れに追い込むこと。」
その言葉に、オフィスは、水を打ったように静まり返った。
そして、次の瞬間、若いスタッフたちの瞳に、絶望ではない、新たな闘志の炎が、一斉に灯った。
安野貴は、高虫蛹とは違う。
彼は、理想を語らない。ただ、勝つための、最も確率の高い、最善の一手を、導き出すだけだ。
そして、そのためなら、仲間を、最も過酷な戦場に送り込むことを、決して、躊躇しない。
次の一手は、すでに、打たれていた。
それは、旧世代の政治家たちが、まだ誰も気づいていない、静かで、しかし、王手をかけるための、決定的な一歩だった。




