第8章:国会という名の壁
神崎麗奈の奇跡的な勝利は、永田町を震撼させた。
「チーム未来旋風」「新しい民意の誕生」。メディアは、手のひらを返したように、彼らを称賛し、自民党内では、選挙の責任者であった小泉寸次郎への、突き上げが始まっていた。
初登院の日。
国会議事堂の正門をくぐった神崎を待ち構えていたのは、何百人もの支持者からの、割れんばかりの拍手と歓声だった。
「神崎さん、頑張って!」
「日本の政治を変えてくれ!」
その声援を背に、彼女は、決意を新たに、この古く、巨大な迷宮へと、足を踏み入れた。
彼女は、最初から知っていた。
国会が、理想だけでは動かない場所であることを。そして、たった一人の新人議員にできることが、極めて限られているという、厳しい現実を。
『議員立法には、衆議院では20名以上の賛成者が必要』――。
安野のチームは、選挙中から、この「20人の壁」をどう乗り越えるか、シミュレーションを重ねていた。そして、彼らが導き出した答えは、一つだった。
「『協力できる箇所を探し、一緒に進む』。我々の理念を、真正面からぶつけるしかない」
神崎は、まず、自らが選挙で訴えた、「待機児童問題の解決」のための法案を、専門家の助けを借りながら、完璧な形で書き上げた。『未来議会』で集められた、何万という国民の声を、具体的な形にした、渾身の法案だった。
そして、彼女は、その法案だけを武器に、永田町の「ジャングル」へと、分け入っていった。
彼女がアプローチしたのは、野党だけではない。むしろ、彼女が本丸と定めたのは、巨大与党・自民党の中にいるはずの、「隠れた同志」だった。
彼女は、安野のチームが解析した膨大なデータを元に、ターゲットを絞り込んだ。
当選回数が若く、世襲ではなく、そして、過去の議会で、子育て支援に関する前向きな発言をしている、十数名の自民党若手議員。
神崎は、彼らの元へ、一人ずつ、アポイントを取り、頭を下げて回った。
「先生の、3年前の予算委員会でのご発言を拝見しました。この法案は、先生が掲げる理念とも、必ずや一致する部分があると信じております」
彼女は、感情には訴えない。ただ、データと、相手への敬意だけを武器に、超党派での協力を、粘り強く訴え続けた。
その熱意と、法案の素晴らしさに、当初、反応は悪くなかった。
数人の若手議員が、党派を超えて、彼女の試みに、明確な興味を示した。
「面白い。前向きに検討させてくれ」
「君のような人が、国会には必要だと思っていたんだ」
一筋の、光明。
この調子でいけば、20人の壁は、決して不可能ではない。神崎の胸に、かすかな希望が灯った。
だが、その動きは、すぐに、蜘蛛の巣の主の耳に届いていた。
党内で、補選敗北の責任を問われ、苦しい立場に追い込まれていた小泉寸次郎にとって、その情報は、獲物が自ら網にかかりに来たようなものだった。
彼は、すぐさま、水面下で動いた。
派閥の長老たちを通じて、神崎に接触した若手議員たち一人ひとりに、静かな、しかし、絶対的な圧力をかけた。
『――君は、次の選挙で、党の公認が欲しくないのかね?』
『――来年の内閣改造で、良いポストを望んでいると聞いていたが、考えが変わったのかな?』
『――あの新人議員は、我々自民党の敵だ。敵に塩を送るような真似は、党への裏切りと見なす』
それは、脅迫ではなかった。
ただ、永田町という村の中で生きる者にとって、自らの「未来」を、天秤にかけることを強いる、冷徹な「踏み絵」だった。
数日後。
あれほど好意的だった若手議員たちの態度は、一変していた。
神崎の電話に出なくなり、議員会館の廊下で会っても、気まずそうに目を逸らす。
そして、ついに、一人の議員が、申し訳なさそうな顔で、彼女に告げた。
「神崎さん、すまない。この話は、なかったことにしてくれ。私には、守らなければならない組織と、仲間がいるんだ」
一人、また一人と、灯りかけていた希望の光が、消えていく。
神崎が直面した壁は、法律の条文という、目に見える壁ではなかった。
それは、恐怖と、忖度と、そして「長いものには巻かれろ」という、この国の組織に、深く根を張った、旧世代の「しがらみ」という、見えない、しかし、あまりにも分厚い壁だった。
彼女の絶望は、「ルールを知らなかった」という未熟さから来るものではない。
「正しいと分かっていても、人は、恐怖の前では、信念を曲げてしまうのか」という、人間の弱さそのものに対する、深い、政治的な絶望だった。
その夜、神崎は、議員会館の、がらんとした自室で、一人、唇を噛み締めていた。
安野からの電話にも、「大丈夫です」と、気丈に答えるのが、精一杯だった。
選挙には、勝った。
だが、自分は、まだ、本当の戦場に、立つことさえできていない。
神崎は、自らの無力さに、打ちひしがれていた。




