第7章:小さな地殻変動
投票日の夜。
自民党候補の選挙事務所は、テレビカメラと、数百人の支援者で埋め尽くされ、早くも祝勝ムードに包まれていた。壁には、巨大な必勝ダルマが飾られ、テーブルには、高級寿司やオードブルが並んでいる。
午後8時。投票が締め切られると同時に、テレビ各局が、一斉に出口調査の結果を速報した。
『――自民党候補、当選確実!』
そのテロップが流れた瞬間、事務所は、「うおおお!」という、地鳴りのような歓声に包まれた。支援者たちは抱き合い、万歳三唱が始まる。
選対本部長として、この戦いを指揮してきた小泉寸次郎は、マイクの前に立ち、満面の笑みで、勝利宣言を行った。
「皆様! 我々の、伝統と実績に裏打ちされた政治が、国民の皆様から、再び、信任を得ました! これもひとえに、皆様の力強いご支援の賜物です! ポッと出の素人集団に、我々自民党の、牙城を崩すことなど、できるはずもなかったのです!」
そのスピーチは、全国に生中継された。
旧世代の、圧倒的な勝利。日本の政治は、何も変わらない。誰もが、そう確信した。
一方、その頃。
多摩地区の小さな貸し会議室に設けられた、『チーム未来』の開票センターは、通夜のような静寂に包まれていた。候補者の神崎麗奈は、集まってくれた数十人のボランティアスタッフに、申し訳なさそうに、頭を下げていた。
「私の、力が及ばず、本当に、申し訳ありませんでした」
だが、その時だった。
部屋の隅で、ノートパソコンを睨みつけていた安野貴が、静かに、しかし、誰もが聞き取れる声で、言った。
「いや、まだだ。まだ、終わっていない」
全員の視線が、安野に集まる。
彼は、壁のモニターに、自らが独自に集計した、あるデータを映し出した。
「テレビの出口調査は、固定電話を持つ高齢者層に、回答が偏る傾向がある。俺たちのデータによれば、投票所に足を運んだ、若者と、現役世代の投票率は、彼らの想定を、遥かに上回っている。勝負は、ここからだ」
彼の言葉を、信じる者は、ほとんどいなかった。
だが、開票が始まり、一時間、二時間と、時間が経過するにつれて、誰もが、信じられない光景を、目の当たりにすることになる。
開票速報の画面。
序盤こそ、自民党候補が、圧倒的な票差でリードしていた。
しかし、期日前投票の票や、投票率の高い新興住宅地の票が開き始めると、神崎麗奈の票が、まるで猛獣のように、自民党候補を追い上げ始めたのだ。
『おや? これは、どうしたことでしょう。神崎候補、驚異的な追い上げを見せています!』
テレビのアナウンサーの声が、徐々に、困惑と興奮の色を帯びてくる。
自民党の選挙事務所では、あれほど賑やかだった歓声が、嘘のように消えていた。
小泉寸次郎は、貴賓席で腕を組み、顔面蒼白で、画面の数字を睨みつけている。
「バカな。何かの、間違いだ。こんなことが、あるはずがない」
彼が信じてきた、組織票と、業界団体の締め付け。
その票は、確かに、いつものように、彼らの元に入っていた。
だが、彼が「その他大勢の、声なき声」だと見下していた、無数の一般市民の票が、彼らの組織票の、分厚いコンクリートの壁を、静かに、しかし、確実に、突き崩し始めていたのだ。
そして、運命の、午前0時過ぎ。
全ての票が、開かれた。
テレビの画面に、最終結果のテロップが、打ち出される。
アナウンサーが、もはや絶叫に近い声で、その文字を読み上げた。
『神崎麗奈、当選確実! 大逆転です! 歴史的な、大番狂わせが起きました!』
『チーム未来』の、小さな貸し会議室。
一瞬の静寂の後、爆発したような、歓喜の叫び声が、天井を揺るがした。
神崎は、その場に崩れ落ち、ボランティアの仲間たちと抱き合って、ただ、涙を流していた。
それは、金も、組織も、知名度も持たない、ごく普通の人々が、巨大な権力に打ち勝った、奇跡の瞬間だった。
安野は、その輪から少し離れた場所で、静かに、窓の外を見つめていた。
彼のスマートフォンに、一つのメッセージが届く。差出人は、夏目響だった。
『見たか、小泉。これが、あんたが見下した、素人たちの声だ』
それは、決して、地滑り的な大勝利ではなかった。
だが、この国を覆っていた、分厚く、固い地盤に、確かに、一本の亀裂が入った。
日本の政治史を、永遠に変えることになる、ほんの小さな、しかし、決定的な、地殻変動の始まりだった。




