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第18章:寸次郎の焦り

総選挙の火蓋が切られると、小泉寸次郎は、全国の選挙区を、精力的に飛び回った。

党の顔として、劣勢が伝えられる、若手候補の応援演説に駆けつけ、メディアの前では、常に、自信に満ちた笑みを、浮かべていた。


「皆さん! 政治は、人気投票ではありません! 誰が、本当に、皆さんの生活と、この国の安全を、守ることができるのか! どうか、その一点を、冷静に、ご判断ください!」


彼の言葉は、力強く、そして、淀みなかった。

だが、その裏側で、彼の心は、これまで経験したことのない、「焦り」という名の、黒い染みに、蝕まれ始めていた。


その異変の兆候は、彼の陣営が、極秘に行っていた、日々の、情勢調査のデータに、現れていた。

特に、彼が、絶対に負けるはずがないと、信じていた、自らの選挙区。

神奈川県の、その海沿いの街は、祖父の代から続く、小泉家の、鉄壁の王国のはずだった。


しかし、そこに、『チーム未来』が送り込んできたのは、40代の、元・市役所職員だった。

彼は、行政のデジタル化の遅れに、内側から絶望し、早期退職したという、地味で、口下手な男だった。

小泉は、当初、そんな候補者を、全く、相手にしていなかった。


だが、データは、残酷な現実を、示していた。

選挙戦の中盤を過ぎた時点で、小泉と、その無名の挑戦者の支持率は、ほぼ、完全に、拮抗していたのだ。


「ありえない。何かの、間違いだ」

ホテルのスイートルームで、その報告を受けた小泉は、思わず、声を荒らげた。

「私の選挙区だぞ!? あの、小泉家の、地盤で、なぜ、こんな数字が出るんだ!」


選対のスタッフが、おずおずと、分析結果を報告する。

「それが。我々の調査では、把握しきれていない層、特に、これまで選挙に行ったことのない、若い世代の投票率が、今回は、異常なほど、高くなる可能性が」


小泉は、愕然とした。

自分が、これまで、有権者として、数に入れてさえいなかった、声なき人々。


安野たちの、新しいやり方は、その、眠れる巨象を、静かに、揺り起こしていたのだ。

追い詰められた小泉は、禁じ手に、手を出した。

彼は、夜、密かに、地元の建設業協会や、医師会の、トップたちと、料亭で、会合を重ねた。


「先生方。今回の選挙、私も、正念場です」

彼は、深々と、頭を下げた。「もし、この苦しい戦いを、乗り切らせて頂けるなら、次の、大型公共事業の入札、そして、診療報酬の改定については、私が、責任をもって、先生方に、最大限の、便宜を、お図りしましょう」


それは、彼が、そして、自民党が、長年にわたって、その権力を維持してきた、「利益誘導」という名の、古くからの、悪魔の契約だった。

彼は、自分が、心のどこかで、軽蔑していたはずの、旧世代の、最も、醜い政治に、自ら、その手を、染めてしまったのだ。


会合を終えた、深夜。

一人、車に戻った小泉は、ハンドルを握りしめ、自らの、不甲斐なさに、打ち震えていた。

父である、元総理の、大きな背中を、追いかけてきた。

いつかは、自分も、父のように、クリーンな改革者として、この国を、導くのだと、信じていた。

だが、今、自分がやっていることは、何だ。

理想を語る、挑戦者から、逃げ回り、旧来の、しがらみに、ただ、ひたすら、媚びへつらっているだけではないか。


安野貴。

その男が、脳裏に、ちらつく。

データと、理想だけで、この巨大な国が、動かせるものか。

俺のやり方こそが、現実的で、正しいのだ。

彼は、そう、自分に、何度も、言い聞かせた。


だが、その言葉は、もはや、かつてのような、絶対的な自信の響きを、失っていた。

それは、まるで、暗い闇の中で、自分の居場所を、確かめるかのような、か細い、自己弁護の、呟きにしか、聞こえなかった。


焦りは、人間を、最も、愚かな過ちへと、導く。

小泉寸次郎という、時代の寵児は、今、まさに、自らが掘った、古い時代の、深い、深い、墓穴へと、その足を踏み入れようとしていた。

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