◇Chapter 3〈Elites at Academy〉
終了宣言を受けて、講内の生徒達は一斉に外へと向かった。
人の波が、東西南三つある入口の方へと押し寄せる。
カインは大勢の生徒でごった返すそれらの入口ではなく、舞台裏にあった北口から大講堂を出た。
その場所は建物の影になっていて、夏から秋に切り替わったばかりの風が心地よい。
カインは妹達と合流すべく、まずは東口の方へと向かって歩き始めた。
どうして東口かと言えば、彼女達の座っていた席から最も近いのがそこだから。
そしてどういうわけか、カインの後ろをエドモンド・ヒラリー生徒統括会長が付いてくる。
「あの、エドモンド先輩……」
エドモンドはかなりの長身だ、二メートルに迫るのではないだろうか。ウスマンより更に大きい。身体は細く引き締まっており、スタイルも抜群だった。
そのアクアマリンの瞳を見ると、カインは必然的に上目遣いにならざるを得ない。
「ん、どうしたんだい?」
「どうして、僕に付いてくるんですか?」
「あぁ、私は君と妹さんに用事があってね。君と居れば会えるだろう?」
確かに、その通りだ。
カインには、自分が言っておかない限り彼女が自分を置いて帰るなど想像できないし、現在進行系で妹と合流しようとしている最中である。
彼から納得できる返答が返ってきた事に、内心で僅かな意外感を覚えた。雰囲気から何となく、はぐらかされる様な気がしていたのだが。
「……用事というのは何ですか?」
「それは、後でのお楽しみだよ」
見た目は理知的な青年なのに、彼は今いたずら好きの少年の様な笑みを浮かべている。
はぐらかされた。
どうやら、カインの受けた印象は間違いではなかったらしい。
大講堂の角を通り過ぎて日陰が終了、直射日光が肌に刺さる。体感温度が三度ぐらい上昇した様に思えた。
東口まではそれなりの距離があるが、人で溢れた様子がここからでも分かる。
近づきながら、人混みの中に妹とルームメイトの姿を探す。
一番目印となるのはアーサリアだ。あの光沢ある金髪は集団の中に居てもさぞ目につくだろう。
眼球だけを忙しなく動かして、黄金の輝きを探す。そして、見つけた。
ちょうど入り口から出てきた所のようだった。
ダンスでも踊るかのような足さばきで、女子二人が人波の合間をくぐり抜ける。そして置いていかれる俊介は最早あきらめモードに入っており、二人を見失わないようにしながら周りに合わせてゆっくりと進んでいる。
ルルワとアーサリアがどの場所で人混みから脱出してくるのか当たりをつけて、カインはそこへ向かった。
近付いて来たカインに、彼女達も気付く。僅かに動きを速くして、人の群れから抜けた。ルルが兄の方へと駆け寄る。
「兄上。先程の挨拶とても良かったです!」
「はは、ありがとうルル」
妹の白銀の髪を優しく撫でる。頬を羞恥に染めながらも、嬉しそうに顔を緩めた。
二人にアーサリアも合流すると、ルルワは「もう、良いです」とカインの手を頭上から退けた。
「リア、僕の挨拶はどうだったかな?」
「そうね、結構良かったんじゃないかしら」
「そっか、良かったぁ」
ホッとしたよ、と息を吐く。
そんな三人にエドモンドが話しかけた。
「いや~、仲が良いようで何よりだねぇ」
「貴方は……エドモンド・ヒラリー生徒統括会長?」
ルルワの言葉には、何故ここに居るのかという驚きの色が含まれている。だがそんな事はつゆも気にせず話しかけるのがエドモンドだった。
「覚えてくれたみたいで嬉しいよ。新入生次席――ルルワ・インテグレータさん」
彼は人の良い笑みを浮かべ、彼女を見下ろしている。
「アーサリアさん」
「はい、何でしょう」
「私はこの二人に用事があるんだけど、連れて行っても良いかい?」
「ええ、構いませんよ」
「良かった。それじゃあ二人共、私に付いて来てね」
早速どこかへ向かって歩き出したエドモンドに、双子は当惑を隠せない。
「ほら、行ってきなさいよ」
「あ、ああ。じゃあリア、また後でね」
「了解よ」
アーサリアは去っていく二人を見送って、続いて振り返った。そこに居るのは、人混みの中に置き去りにされた俊介だった。
「あれ、カインとルルワは何処行った?」
「二人なら、エドモンド会長が連れて行ったわよ」
「エド義兄さんが?」
アーサリアは内心で、義兄さん? とその呼び方を疑問に思ったが、エドモンドが俊介の姉である玲衣の恋人だったことを思い出して納得する
「ええ、用事があるんですって」
エドモンドが向かっていったのは、本校舎を挟んで大講堂の反対側にある建物だった。入り口には『学園都市中央司令所(マッシャーブルム・セントラルコマンドセンター)』の文字が刻まれた看板が建てられている。
そこは、学園都市守衛隊の司令所だった。
学園都市守衛隊とは、有事――つまり海獣が襲来した際の防衛戦力を集めた部隊だ。当然、実戦部隊は全て海能者で固められている。
「先輩、どうしてこんな場所に?」
正解はほぼ予測できていたが、一応尋ねる。
「君の考えている通りだよ」
「……僕たちを生徒統括会に勧誘する……いえ、所属させるためですか?」
「お、正解だ」
前にも述べたが、生徒統括会とはこの学園のありとあらゆる行事を取り仕切る生徒の代表者集団。しかし、それとは別の側面も持っている。
それは、有事の際の指揮官集団という、学生にしては少々物騒な内容だ。
この学園に入学してくる生徒は、全員が海能者。しかも皆高い能力を持っている。それこそ、実戦でも十分に活躍できるほど。
その戦力を都市防衛に用いないのは、あまりに勿体ない。故にIAAの生徒は、防衛戦への参加が求められることがある。これは生徒達の実戦訓練という側面も併せ持っていた。
そう行った事態が発生した時に、生徒達の指揮官として働くのが生徒統括会のメンバーというわけだ。
その都合上、統括会の本部はこの司令所内に設けられている。
「各学年の首席、次席、三席の子が所属するのが決まりでね」
例外も無いわけじゃないけど、と付け加える。
「三席も、という事は……」
湘権も呼ばれているんですか? と言う前に、後ろから彼の声が聞こえた。
「カイン!」
「湘権⁉」
振り返ると丁度、早足で駆け寄ってきた湘権が踵でブレーキを踏んで停止した所だった。その後ろを、玲衣が微笑ましい表情をして歩いてくる。
「三日ぶりだな、ルルワ君。カイン君は、さっき会ったばかりか」
入学式で登壇したカインは、式開始前と終了後、舞台裏で玲衣と挨拶を交わしている。一方、彼女の言葉通り一昨日ぶりに会った――式場で見たのはカウントしない――ルルワが玲衣に勢いよく詰め寄る。
「レイ先輩! 統括会の副会長だったなんて聞いてませんよ」
「あれ、言ってなかったか?」
「聞いてないです」
「そうだったか、すまん」
素直に謝る様子からは、隠していたとかではなく純粋に忘れていたのだろうと分かった。
二人が親しげに話す様子を見て、湘権がカインに聞いた。
「ねえ、もしかして二人はレイ先輩と知り合い?」
「ああ、ルームメイトのお姉さんなんだよ」
「へぇ、そうだったんだ」
なるほど納得、と頷く湘権。
「そろそろ、案内したいんだけど」
「ああ、そうだったな。話し込んで悪かった」
玲衣が振り返って謝る。
「いや、気にしてないよ」
「そうか、なら良かった」
一見普通の会話なのに、カインは見えないハートが飛び交っている様な気がした。
エドモンドはさらりと慣れた様子で恋人の手を握って歩き出す。互いの指を絡めた、恋人繋ぎというやつだった。
「じゃあ三人とも、こっちだよ」
幸せそうな空気を撒き散らし進むカップルの後ろ姿を見て、恋人ができたら関係円満のコツを教えてもらおうと思った三人である。
一定間隔でドアの並んだ白一色の味気ない廊下を進んでいくが、統括会本部に到着するまでの間カイン達は誰ともすれ違うことはなかった。
「着いたよ」
エドモンドは正面の、校章の刻まれた扉に生徒証を翳し開ける。
「ようこそ、生徒統括会へ!」
爽やかな笑顔でそう言った後、エドモンドは「いや~、このセリフ言ってみたかったんだよねぇ」と顔を歪めた。妙に気合が入っていると思えば、そういう事だったらしい。
だらしない顔だなぁ、と一年生の三人が思う。
「エド、だらしないぞ」
玲衣もそう思っていたようだ。恋人の容赦ない指摘にエドモンドは「おぅふ」と変なうめき声を上げる。しかしすぐに調子を戻して、案内を再開した。
「さて、じゃあ会議室の方へ向かおうか」
先程の下りは無かったかのように、エドモンドは先へと進んでいく。しかし動揺しているのか、玲衣とは手を繋がず一人でだ。
扉を潜るとその先にはまだ廊下が続いていた。どうやらこのドアは、区画を区切る意味合いのドアだったらしい。
廊下はすぐ先で突き当りのT字路となっている。先導するエドモンドは、そこを左に曲がろうとした。
「エド、会議室は右だ」
呆れを多分に含んだ声が玲衣から発せられる。
「あれぇ、そうだっけ」
間違えちゃったか、と百八十度身体を回して今度は右に進むエドモンド。カイン達はその後ろを追いかけた。
「エドモンド先輩って、もしかして方向音痴なんですか?」
「ああ、そうだ。慣れた場所でも地図無しだと偶に迷子になる」
カインは、格好良い会長のイメージががらがらと音を立て崩壊していくのを感じた。
「……何か、親しみやすい感じですね」
「……そういう事にしておいてくれ」
この後も、エドモンドが会議室の扉に気づかず通り過ぎてしまうというハプニングがあったものの、無事(?)目的地である会議室まで到着した。
「さて、みんなは来てるかな?」
彼が勢い良く扉を開けると、一瞬騒がしい話し声が聞こえてきてすぐ静かになった。
彼越しに見える室内の中央には存在感のある大きな長方形の机が鎮座し、その両側に背もたれ付きの椅子が七つ並ぶ。カインから見て手前の誕生日席には他と比べて豪華な椅子がある。
両側の椅子には九人の個性豊かな先輩が座っていた。
彼らが生徒統括会のメンバーである事は明らかだ。
統括会の構成員は各学年三人の十五人の筈。だが椅子に座っているメンバー九人にカイン達三人と玲衣、更にエドモンドを合わせても一四人、一人足りないと思われた。
「よし、皆揃ってるな」
しかしエドモンドはそう言って、堂々と室内に入っていく。最年少の三人はそれに続き、玲衣が最後に扉を閉めた。
エドモンドは手前の椅子に座るなり、くるりと椅子ごと回転して三人の方を向いた。玲衣は座らず立ったままだ。
「さて三人とも。早速で悪いけど、自己紹介をしてくれないかな」
三人は先輩達からの視線をひしひしと感じた。
「そうだね。まずは、端っこの君からだ」
「ぼ、ボクからですか⁉」
最初に指名された湘権が素っ頓狂な声を上げる。どうやら彼は、指名を受けやすい星の下に生まれたらしい。
「そう、君からだ。簡単なのでいいから宜しく頼むよ」
エドモンドが笑う。相手に有無を言わせない、圧を感じる笑顔だった。
「わ、分かりました」
「うん」
緊張している様で、湘権は何度か吸って吐いてを繰り返す。そしてある程度落ち着いた所で口を開いた。
「ボクは湘権と言います。崑崙共和国の、慕士塔格出身です」
崑崙共和国。そこは世界でも四つしか無い――実質的には三つと言われる事さえある――陸上国家の一つ。二つの陸上都市と複数の中小規模海上都市で構成されている。総人口は世界二位の二千七百万人。
慕士塔格とは、その二つの陸上都市の内の一つ。首都である公格尔に次ぐ人口を誇る大都市だった。
「入学席次は三席。先輩方、どうぞ宜しくおねがいします」
湘権はペコリ、と軽くお辞儀をして締める。それを聞いた先輩達は皆拍手をして、彼に歓迎の言葉を掛けた。
「簡潔だが良い自己紹介だったな」
「そのとおりだね。それじゃあ次は……二人まとめてしてもらおっか」
「あ、はい。分かりました」
双子だからなのだろう。確かに、二人で一緒に自己紹介したほうが分かりやすいかもしれない。
カインは妹に目配せしてから自己紹介を始める。
「僕はカイン、カイン・インテグレータです。そしてこちらが双子の妹で……」
「ルルワと言います。私達は十字教船ノアの出身です。私の入学席次が次席で、兄上は首席でした」
「「先輩方、どうぞ宜しくおねがいします」」
双子は最後に息を揃えて一礼した。
二人にも湘権と同じ様に、先輩達から拍手と歓迎の言葉が贈られる。それが終わると、エドモンドはうんうんと頷いて「じゃあ今度は、私たちが自己紹介するとしようか」と姿勢を正した。
「まずは私から。三人とも知ってるだろうけど、私の名前はエドモンド・ヒラリー。この生徒統括会の会長をしてるんだ」
改めて言われるまでもなく知っている情報だった。
「因みに、出身はHIF。城郭都市エベレストだね」
ここで初めて、知らない情報が出てきた。
HIF――正式名称をヒマラヤ諸島連邦――とは、崑崙共和国と同じ陸上国家である。その名の通り、中央ユーラシア海域南部のヒマラヤ諸島に造られた三十の陸上都市国家と、それに付随する多数の海上都市で構成された連邦だ。
総人口は五千万人にも迫ると言われ、堂々の世界一位に君臨している。
城郭都市エベレストとは、連邦国の最大都市で、地球上で最も栄えた都市とさえ称されることもある陸上都市国家。HIFは名目として全都市平等を掲げているが、実際にはエベレスト一強だとも言われている。
これで私は終わり、と再び背もたれに寄り掛かるエドモンド。
「オーケー、次は私だな」
コホン、と小さく咳払いをした玲衣。
「私は本栖玲衣、洋機艇フジの出身だ。生徒統括会の副会長なんて物をやらせてもらってる」
三人とも宜しく、と柔らかな笑顔で手を差し伸べてきたので、カイン達は玲衣と順番に握手を交わした。
この後は、会議室内に居た九人の先輩達も自己紹介をして、他愛もない雑談をしてから解散となった。カインはさり気なく会議室に居ないもう一人の事を聞いたが、先輩達曰く大講堂で式の後片付けをしているらしい。そのうち合う機会もあるだろうとの事だった。
先輩達はまだ残るらしいので、三人は玲衣に司令所の出口まで見送ってもらうと一緒に寮へと帰った。
エドモンドが暇なあまりに座ってる椅子をぐるぐる回していると、新入りの三人を見送った玲衣が会議室に戻ってきた。
「玲衣、おかえり」
彼がそう迎えると、彼女は嬉しそうに破顔して頬を染める。即席幸せ空間が形成されるが、それはその場に居た一人の言葉によって破壊された。
「センパーイ、そういうイチャイチャは外でやってくださいよ」
ほんのり砂糖漂う空気に物怖じすることもなく水を差したのは、エドモンドより二歳年下の三年生――ウィリー・アンソールドだった。彼は特徴的な赤毛をオールバックにしており、両の耳には小さな銀のリングピアスが嵌っている。
癖なのだろうか、頬杖をついた右手の親指でそのピアスを弄っている。
その彼の頭に、しっかりと握られた拳骨が落とされた。ドスッと重い音が鳴る。
「こらウィル!」
その拳の主――ウィリーと同じく三年生のトーマス・ホーンバインはやれやれ、と肩を竦めると「先輩方、うちのウィルがすみません」と謝った。ウィルというのはウィリーの愛称だ。
「いてて。おいトム‼ オレは一体何時から、お前の家の物になったワケ?」
「黙っとけ」
「グヘッ」
再び拳骨が落とされ、ウィリーは呻き声を上げた。
トーマスは一見すると線の細く華奢な体つきではあるが、実際はかなり筋肉質な身体を持つ。目に掛かる長い前髪が与える控えめな印象とも異なり、言うことはキッパリと言い切る人物だった。付け加えると、親友のトーマスにはしょっちゅう拳骨する。
誰も「無事か?」などとは訊かない。これは二人のじゃれ合いのような物で、付き合うだけ時間の無駄だということを学習していた。
実際、拳を受けたウィリーは「いてぇ」と漏らしながらも平然とした様子だ。
「それでエド、あの三人はどう?」
玲衣が椅子に腰掛け問うた。あの三人というのは勿論、カイン、ルルワ、湘権の事を指している。
「う~ん」
かの有名なブロンズ像――考える人の様なポーズで唸るエドモンド。
「…湘権君は、まあ普通に凄く優秀って感じかな。実技の点は低いみたいだけど、座学は段違いだ」
会議室の壁面の一つにはディスプレイが内蔵されていて、そこに今、湘権の検定試験の詳細な結果が映し出された。
「うわぁ、実技四百九十六点ってマジっすか」
「マジだよ。しかも、落とした四点はこの問題だった」
これを見てくれ、と映したのは四科目ある筆記試験の最後の科目、海洋学の最終問題。一問で四点という高い配点を与えられたその問題だけを、湘権は間違えていた。この問題は所謂『満点を取らせないための問題』であり、解けなくて当然だ。
「あぁ、こりゃしょうがないっすわ。てか、これ取れたヤツって居たんすか?」
「居たんだなぁ、これが」
そう言ってエドモンドが手元の端末を弄ると、ディスプレイの表示が変わる。
そこに映っているのはカインとルルワ、二人の試験結果だった。エドモンドが操作して、海洋学の最終問題を映し出す。
双子はその問題を正解していた。
「この二人だよ」
「……ジョーダンじゃないっすよね?」
この問題に正解できる事は、そう言いたくなるほど驚くべき事だった。
「残念だけど、本気も本気だよ」
――しかも二人共、海洋学が満点なんだよねぇ。
エドモンドの付け加えたその言葉に、全員が耳を疑った。
「そ、それは本当か⁉」
ガタッと椅子を倒したのにも気づかず、玲衣はエドモンドに詰め寄る。
「ああ、本当」
近いから戻って、と玲衣に促したエドモンドは、壁面の表示を双子の試験結果に切り替えた。そこには確かに《筆記試験―海洋術:一〇〇点満点》と書かれている。
「信じられない……」
トーマスが呆然と溢した。
「そういえばレイ、あの二人が中央枢機卿の縁者だっていう噂は……」
「本人に確認した。その通りだと言っていたよ。母君が中央枢機卿だと」
「そう。中々……面白い二人みたいだねぇ」
エドモンドは心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
九月十二日――火曜日、午前八時。
皆で朝食を済ませたカイン達は制服姿で寮を出た。今日から授業が始まるのである。
四人は朝独特の爽やかな空気を感じながら、本校舎へと続く道を歩く。
「とっても気持ちいいわね」
「そうですね」
のんびりと話す女子二人。
「なあカイン、初めて登校する気分はどうよ」
ニヤリとからかうように俊介は言った。
「そうだね。何か、現実味がなくてフワフワしてる気分」
だけど、凄く嬉しいな。
カインはそう控えめに笑った。
「……お、おう。良かったな」
純粋な笑顔に、見とれそうになった俊介である。
本校舎に入ると、吹き抜けの大空間が彼らを迎える。
感動にも似た気持ちが湧き上がるが、数日すれば慣れて何も思わなくなるのだろう。それは少し、悲しいことのように思えた。
彼らの所属する一年A組の教室があるのは五階。四人は五階までを吹き抜けに面したエスカレーターで登る。
そこから廊下を移動して、端末に記された教室の場所に到着したのだが、どうにもその場所に覚えがあった。
「ここって、五〇一教室があった所じゃねえか?」
俊介の言った通り、その場所は五〇一教室――カイン達が能力検定の筆記試験を受けた教室のあった場所と一致している。しかしあの時とは違い、掲げられた教室表札には《1‐A》の文字が刻まれている。
困惑はあるものの、何時までの廊下に突っ立てる訳にも行かない。少なくともこの教室が一年A組の教室であることは間違いないので四人はその中に入った。
内装が変わっていたかと言うとそういう事もなく、長机と椅子が並ぶばかりの単調な教室である。
白板には座席表が表示されており、入ってきた他の生徒もそれを見てから着席していた。
カインが首席という事もあって、さり気なく視線を向けられながらも進む。
「ちょっとゴメンね」
通路を挟んで雑談中だった二人にそう声を掛けて、その間を通らせてもらう。恐縮した様子で直ぐに退いたので、逆に居た堪れない気持ちになった。
十分に近づいた所で座席表を見ると、どうやら席の場所は試験の時とほぼ変わりない様だった。
カインは教室の後ろに戻って、入り口とは反対の壁に面した自らの机に生徒端末やその他小物を入れたトートバッグを置く。その中から端末を取り出して、今日の時間割を確認した。
《一~四時限目:LHR。
五時限目:数学。
六時限目:社会科――世界史》
各時限は五十分、その合間には休憩時間が十分ずつ。四時限目と五時限目の間には昼食を取るための四十分休憩があり、始業は午前八時三十分から。十分間のSHRの後に一時限目の授業が始まる。
今日は午前中が全てLHRとなっていて、クラス内での自己紹介や校内設備の案内などが行われる予定だった。
「さて……」
机に腰掛けたカインは左手の袖を少しだけ捲くって、そこに着けられた腕時計を見る。
白を基調としたデザインに、青と金がアクセントに用いられている。
この腕時計は内部に超小型コンピューターを内蔵した独立端末でもあって、試験の時はカンニングと判定されるので着けてこなかった。心拍計測や、タイマーの設定、メッセージの送受信などが出来るすぐれものである。
軽量で、着けていても殆ど気にならないのも良い。耐久性にも優れ、ある国の軍で正式装備への採用も予定されているらしい。
画面をわずかにタップして表示された時刻は八時十一分、始業までは今暫く時間があった。
手慣れた様子で画面を消したカインは視線を戻し、教室を見渡す。
ルルワ達は皆、近くの席に座るクラスメイト達と楽しそうに談笑している。邪魔するのも悪いだろうと、カインは読書で暇を潰すことにした。
机の上から降りて椅子に座ると、バッグを脇のフックに掛ける。そこから、生徒端末ではない個人用の端末を取り出した。
これは統一規格の電子書籍閲覧用端末で、電子書籍を読むことに特化したデバイスである。十六:九のディスプレイがある薄型軽量の端末は、様々なデザインが発売されている。
カインのそれは、光沢感のある銀色のボディに金色でイニシャルの『C.I.』があしらわれた特注品だった。
画面をタップすると、所有している電子書籍の一覧画面が表示される。
あまり数の無い蔵書の中からカインが選んだのは《半世紀戦争Ⅰ》。一昨日ルルワ達が見てきたという映画の原作だ。
端末を横向きにして、見開き表示でカインはそれを読み進めた。
「へぇ、貴方もそれを持ってたのね」
文字列に集中していると、カインに後ろから声が掛けられた。振り返るとそこには、書籍端末を覗き込む様にするアーサリアが居た。
「リア、どうしたの?」
「その端末、他に持ってる人見たことがなかったから思わず、ね」
「リアも持ってるのかい?」
「ええ、これよ」
リアが差し出してきたのは、カインと同じ色合いの書籍端末。しかし色使いは逆で、ボディが金色でイニシャルが銀色だった。
勿論だがイニシャルの文字も違い、カインのC.I.に対してアーサリアはA.A.である。
「これ良いわよね、凄く読みやすい」
「確かに、そうだね」
「このディスプレイの質感とかね、手触りが紙みたいで落ち着くわ」
「それ分かる!」
思わず大きな声で同意してしまうカイン。
一般に販売されている書籍端末のディスプレイはツルリと滑らかで、カインの好みではなかった。
しかしながら、それを理解してくれたのはアーサリアが初めてである。
ルルワ曰く「違うのは分かりますけど、使い心地は変わらない」らしいが、カインからすれば全く違うのだと言いたい。
「しかもこの重量感がまた堪らないわ。普通のって軽すぎるもの」
「うんうん」
気づけばカインは読書そっちのけで、アーサリアとの会話を楽しんでいた。
「何かこれ、お揃いみたいだね」
「っ⁉」
互いの端末を見せあっていた時、カインがふと思いついたかのようにそう口にした。
同じ色合いで同じ大きさ。イニシャルの位置も、狙ったかのように一致している。オーダーの時は五箇所から選べたので、確率的には二割か。
「ってあれ、リアどうしたの?」
反応が無いことを訝しんで彼女の方を見るカイン。
「っいえ、何でも無いわ、何でも」
急に素っ気ない態度で顔を背けるアーサリア。僅かに頬が上気しているのが見える。
「じゃあっ、私は席に戻るから」
「あ、うん」
早足で自分の座席に戻っていく彼女を、カインは困惑の眼差しで見送った。
「どうしたのかな?」
彼女が去った理由は全く分からなかったが、もしかしたら理由なんて無いのかもしれないと思いながらとカインは読書を再開した。
その暫く後、カインの隣に湘権がやって来る。
試験の時の反省からか、彼が教室に入ったのは始業時刻の二分ほど前だった。多少早くはなったがそれでも、生徒の中では最も遅い入室である。
「おはよう湘権」
「うん、カインおはよう!」
カインが右手を上げて挨拶すると、湘権も同じ様に右手を上げる。二人は何となく、その掌同士で叩きあってハイタッチ。パチンと小気味よい音が鳴った。
椅子に座った湘権は相変わらずの可愛らしい笑顔を浮かべ、カインの方に手を差し出す。
「カイン、お隣さんとして改めて宜しくね」
「うん、こちらこそ宜しく」
カインはその手を握り返した。
二人が手を離すと丁度、教壇側の扉が開いてウスマンが姿を表した。見れば時計は八時二九分、始業まであと一分である。彼は教室内を見回す。
「おや、今日は全員揃っているようですね」
小さく溢して彼は教壇の椅子に座ると、机上に端末を置いて何か作業をし始めた。
時間が迫ってくると、他人の席に移動して生徒や端末を覗き込んでいた生徒が徐々にそれを止めて、自分の席で両手を膝の上に置き姿勢を正した。
喋り声が無くなり静かになった教室に、始業を知らせる軽快なチャイムの音が鳴り響いた。そうするとウスマンは直ちに端末を片付けて立ち上がる。
「では、朝礼を始めましょう」
教室にいる全員が、教壇のウスマンに視線を向けている。
「起立‼」
鋭い声に、生徒達は一斉に立ち上がった。そんな中で一人の女子生徒が、勢い余って椅子を倒してしまう。
ガタッという大きな音が、静かな教室中に響いた。皆の視線が、一斉にその方を向くのも仕方がない。
「あっ、その、ごめんなさい‼」
倒してしまった女子生徒は恐縮しきった様子で謝ると、ビクビクしながらも静かに椅子を起き上がらせる。
それを見届けてから、ウスマンは柔らかな声に戻して「皆さん、おはようございます」と挨拶した。生徒達も一斉に「おはようございます」と復唱する。
「どうぞ、着席してください」
それを合図に、生徒達は再び椅子に腰を下ろした。
「皆さん、今日の時間割は確認していますね?」
はいと答える者や、無言で頷く者も居る。全員が様々な方法で肯定の返事を示した。
それを確認してからウスマンは話を進める。
「では早速ですが、自己紹介を初めていきたいと思います」
まずは私から、と彼は手元の端末に軽く手を触れた。
後ろの白板に文字が浮かび上がる。
「私の名前は、ウスマン・ムアリウムと言います。綴り(スペリング)はこれですね」
そう振り返って指差したのは白板の文字。そこには黒のセリフ体で《Uthman Muelium》と書かれていた。
「西ティリチミールの出身です」
西ティリチミールとは陸上都市の一つ。総人口は二百万人程と言われている。
その都市の最も特徴的な点を述べると、世界で唯一国同士の領土が隣接する場所だということだ。
ほぼ全ての陸上都市は、一つの島に一つの都市が建造されている。当然ながら、その領土は一国の物である。だが唯一の例外であるティリチモール島には東西に一つずつの都市が建造されていた。
その片方が、ウスマンの出身都市であるという西ティリチミール。もう片方を東ティリチミールと言った。
この二都市はその分断状態を揶揄して、分断都市ティリチミールなどと呼ばれることもある。
「授業は、海洋学と世界史を担当することになっています。この一年A組の担任でもありますね。趣味は釣り、でしょうか」
カインは一瞬、ウスマンが海辺で眩しい陽光を浴びて釣り竿を垂らしている様子を思い浮かべた。結構似合いそうである。
「これから一年間よろしくおねがいします」
ウスマンがそう締めると、生徒達は拍手を送った。
「私に何か、質問がある人は居ますか?」
一人の男子生徒が、その右手を高らかに掲げた。
「シュンスケ君、どうぞ」
その生徒――俊介が椅子から立ち上がる。一体何を質問するのか、とクラスメイト達が注目する中、俊介が問う。
「ウスマン先生ってご結婚はされてるんですか?」
予想外の質問に、クラスメイトが驚いたような表情を見せる。
俊介は興味本位で聞いたのだろうが、それは教師に対して失礼とも取られかねない質問であった。
それを質問するのか⁉ という驚愕を大半の生徒が抱いた。
ウスマンの年齢は三十歳半ば。彼が未婚で、それをコンプレックスに思っていれば、逆鱗に触れる可能性さえある。
だが幸いにも、その質問が虎の尾を踏むことはなかった様だ。
「ええ、妻と息子が居ます」
ウスマンは穏やかな笑顔でそう答えると、左手を掲げて薬指の結婚指輪を見せた。シンプルなリングだが、しっかり手入れしているのだろう。滑らかで光沢がある。
「ありがとうございました」
満足した様子で俊介が座る。
ウスマンは、他に質問はありますか? と尋ねるが、挙手した者は居なかった。
「次は皆さんの自己紹介です。私と同じ様に、名前と出身都市、出来れば趣味なども言ってください。質問タイムは無しで」
ここから、と左前の席に座る生徒を指して「後ろへ順番にお願いします」と説明するウスマン。
「最後列で折り返して、今度は前に順番です」
彼が「では、どうぞ」と告げるのを合図に最前列左端の生徒が立ち上がって、早速自己紹介を始めた。
自己紹介が予定よりも早く終わったということで、校内施設の案内は五分程の休憩を挟んでから始まった。
とは言っても、いきなり教室を出て施設を見に行く訳ではなく、まずは教室で校舎内の構造が大雑把に説明される。
現在白板に表示されているのは、現在カイン達がいるIAA本校舎の全体3Dマップだ。
「本校舎の中で普通教室があるのがここ、一から五階までの東側です」
そう言いながらウスマンは淡い青で表示された該当箇所を指差す。
普通教室というのは、この一年A組教室などのクラス教室や数学科教室、化学実験室など一般校――海能者の育成を行わない学校――のカリキュラムでも使われる教室の名称である。
IAA本校者には、その巨大さを活かして一から五階の各階にそれらの教室が一揃い用意されている。しかもその設備は、二年ごとに更新され最新の物に変わるという。贅沢なことこの上ない。
「その反対、西側にあるのは全学年で共通して使う施設ですね」
マップ上のエリアが淡い赤に染まる。
「まずは一階ですが、ここには能力測定室があります」
皆さんも能力検定で使ったでしょう? とウスマン。
「奇数番の測定室は操作量、操作速度、生成量、生成速度を。偶数番の測定室では操作強度、操作精度、生成精度を測定できます」
これが分けられている理由は、測定するために要求される機器の種類が異なるからである。
「二階と三階は学園図書館になっています」
それを聞いた生徒が一様に、驚いた声を漏らす。
現代において、図書館という施設は殆ど存在しない。その理由は、紙媒体での出版物がほぼ存在しないからだ。
反故の大洪水以来、紙というのはプラスチックや金属にまして希少価値を上げた。原材料である植物繊維の調達が極めて難しくなったからである。そのため、ほぼ全ての書籍コンテンツは電子出版されるのみ。一部のマニア向けに紙媒体で出版される物もあるが、それも非常に高価である。
大抵の学校施設では、生徒全員がアクセスできる電子書籍ライブラリという形で『図書館』は存在していて物理的に空間を専有しているのは非常に珍しいことだった。
「貴重な紙資料が沢山ありますから、扱いには注意してくださいよ」
ウスマンは大事な注意事項を極めてあっさり述べて次の階の説明へ移る。
「四階と五階は、全校生徒で使う大食堂です」
一階の測定室と同様、能力検定の時に立ち入ったことのある場所だ。
「ここ以外での食事は原則禁止ですので、昼食はこちらで食べてくださいね」
因みに、大食堂は寮の食堂と違い大半のメニューが無料である。
「次に、この本校舎で一番大きな施設を紹介しましょう」
エントランスの奥、北側の空間が淡い緑色で塗られた。高さは何と、吹き抜けと同じ十階分。更に空間は地下にも広がっていて、そちらもかなりの深さがある。
「大水槽」
ウスマンが、その場所の名称を述べた。
「水深を自在に調整可能な、海能者の能力訓練場です」
この施設の存在こそが、IAAが海能者育成の最先端を行く所以だった。
通常、海能者の訓練は実際の海を使って行われる。
それは、水深の深い場所で行う事の多い対海獣戦闘を想定しての事だ。そこまで水深のあるプールを用意することは難しいのである。
しかし、海とて自然の一部である以上、常に訓練に理想的な環境という訳にはならない。雷雨の時など、訓練が中止になることもあるだろう。
だがこの『大水槽』は、室内に用意された人工環境であるが故に、常に理想的な状況を作り出すことが可能である。その訓練の質は極めて高い水準で安定しており、それが強力な海能者を育てることに繋がるのだ。
その後も施設の説明は続いたが、カイン達とはあまり関係の無い施設が殆どだった。重要な所と言えば、一階と六階にある校医常駐の保健室に加えて十階の職員室ぐらいではないだろうか。
この学園は教育機関であると同時に研究機関でもあるため、上層階には様々な研究室など生徒とは無縁の設備も多いのである。生徒達が立ち入るのも基本的に十階までで、それ以上の階には入場規制があった。
校内施設の説明が終わると、カイン達はウスマンの案内で実際にその場所へと向かった。
能力検定の時に立ち入った能力測定室は飛ばし最初に向かうのは、二階の学園図書館である。
教室を出て、吹き抜けのエスカレーターを下り二階へと移動。そこから廊下を歩いて西側へと向かう。
先頭を行くウスマンが図書館へ繋がる扉に近づくと、それは人の接近を感知し自動で開く。彼はそのまま中へと入り、生徒達もそれに続いた。
その先に広がっていたのは、二階分の吹き抜けとなった広い空間。シンプルな白い本棚が広めの間隔で立ち並び、天井の発光パネルが室内を紙が傷まないよう配慮された柔らかな光で照らし出す。奥の方には本を読むためだろう机の置かれたスペースも見て取れた。
「「「「おぉ」」」」
独特な雰囲気のある空間に、生徒達が感嘆の声を上げた。ざわめきかけた生徒達。
彼らを、何処からか聞こえてきた手を叩く音が制す。
「は~い。皆さん静かにしてくださ~い」
間延びした声を出しながら、一人の人物が音のした方から歩いてきた。
背丈は湘権より一回り高く、女性としては平均的。凹凸のある均整の取れたプロポーションで、シナモンの髪をモスグリーンのシュシュでポニーテールに纏めた、僅かに垂れ目な妙齢の女性である。尖った鼻梁には花モチーフの施されたローズゴールドの丸眼鏡が乗っていた。
白いブラウスの上に纏うのは、濃紺の生地に金糸で縁取られたジャケット。同じく濃紺のフィッシュテールスカートを穿いている。
彼女が何者なのか、という生徒達の抱いた疑問にウスマンは素早く答えた。
「この人はリディアさん、学園図書館の司書をしてくださっている方です」
「リディアと言います。一年A組の皆さん、よろしくお願いします」
折り目正しく挨拶した彼女は、ウスマンと一言二言会話をしてから生徒達の方へ向き直る。
「これから、リディアさんが図書館の中を案内してくれますから、くれぐれも勝手に何処かへ行かない様にしてくださいね」
彼の注意に、生徒達は「はい」と揃った返事を返した。
「では皆さ~ん、私に付いてきてくださいね~」
リディアの説明は分かりやすく、元の入口付近まで戻ってきた時には皆、この図書館の構造を大雑把にだが覚えることが出来ていた。
その途中他クラスともすれ違ったのだが、彼らを先導していたのはリディアと同じ意匠の服――学園司書の制服との事――を纏った老齢の女性だった。リディア曰く、彼女こそが司書の纏め役――司書長なのだそう。確かに、その貫禄ある立ち姿は彼女がその役に相応しい人物であると教えてくれる。
「調べ物の際は、是非ともこの学園図書館へお越しくださ~い」
彼女が最後にそう締めくくって、図書館案内は終了した。
ウスマン率いる一年A組の生徒達は図書館を後にし、続いて向かったのは六階にある体育館である。
先程は降りたエスカレーターを今度は上り、五階を通り過ぎて六階へ到着すれば直ぐそこにあるのが体育館へ繋がる扉だ。
この階には第一から第八までの体育館、そして保健室が設置されている。カイン達の眼前に控える扉には『第二体育館(the Second Gymnasium)』のプレートが掲げられていた。
今度は手動で、ウスマンが扉を開ける。
その先に見えたのは、南と東が全面ガラス窓となっている開放的な空間だった。
生徒達はぞろぞろと続いてその中へと入る。
床は安全に配慮しての事か、弾性のある合成樹脂コーティングで木目調――勿論だが、実際に木材を使っているわけではない。
室内はバスケットコート二面分が収まる広さで、吹き抜けのため天井高も十分にある。発光パネルは図書館のそれよりも強い光を放ち、吊り下げられたバスケットゴールの存在感を高めていた。
壁面はつるりと滑らかで、ボールなどが乗って取れなくなる心配は無さそうである。
「随分と広いわね」
建物の構造上仕方がないのか部屋を二分する線上には三本の柱が立っていたが、それでも随分広く感じる。それに窓から広がる雄大な景色が影響しているのは間違いないだろう。
澄み渡った濃い青の空、そこを流れる純白の雲。眼下には芝の茂ったIAAの敷地が見え、東こそ市街地のビル群に遮られ何も見えないが南には果てしなく広がった海と水平線がある。
六階でこの景色なら、最上階ではどんな景色を見られるのだろうか。
上層階が立入禁止なのは、正直言ってどうでも良いと思っていたカインだが、この時ばかりはもっと上へと言ってみたいと思ったのである。
隣接する保健室で、校医から保健室の使い方や注意事項を教わった後。
一年A組はこの学園の目玉施設、大水槽へと向かった。
大水槽は一階から十階までの各階に入り口がある。ウスマンは生徒達を六階の入り口に案内した。
彼が端末を弄ると、重厚な稼働音の後に他の施設とは一線を画する分厚さの扉がゆっくりと滑らかに開いていく。ガチリと噛み合うような音で、扉は全開した。
「ここから先は床が傾いているので注意してください」
そう言って硬質な足音を響かせながら、ウスマンが中へ入る。生徒達もそれに続く。
扉の先は吹き抜けの大空間、その中ほどに張り出す形で設けられた廊下だった。ウスマンの注意通り、床が内側へ向かって僅かに傾いている。あくまで誤差の範囲だが。
道幅は三メートル程、内側には転落防止用と思われる金属柵があった。
「すっげぇな、おい」
「そうだね」
俊介が柵から下を見下ろしながら言った言葉に、カインが同意を示す。
吹き抜けの底には不規則に波立つ広い水面、そこまでの高さは凡そ二十メートル。深すぎて光が届かず、水底を見る事は出来ない。だがウスマンに見せられた本校舎の3Dマップを信じれば、水深は五十メートル以上ある筈だ。
しかも水深は自由自在だというのだから、こんな施設、世界に数えるほどしか無いだろう。これを凄いと言わずなんと言うのか。
「へえ、そんなに凄いの?」
後ろに居たアーサリアが、私にも覗かせて、と来るのでカインは場所を譲る。興味津々な様子で彼女は下を覗きこんで「ひゃっ⁉」と上ずった声を上げた。
及び腰で一歩後ろに下がろうとして、その足が空を切る。
「リア⁉」
倒れかけの彼女を見て、ルルワが慌てたように声を上げた。
金色の髪がふわりと広がって、このまま尻もちをつくかと身構えるアーサリア。しかし、予想していた衝撃はやってこなかった。
ぽすっと、冷たい何かが全身を包む様に優しく受け止める。自身を受け止めた液体を呆然と見つめてから、ゆっくりと彼女は後ろへ振り向いた。
「あ、ありがと」
必然的に上目遣いとなりながら感謝を述べる。転倒しかける醜態を晒したからか、アーサリアの頬は羞恥で赤い。
「どういたしまして」
カインは嫌味のない笑顔で礼を受け取ると、受け止めていた水を操って彼女を立ち上がらせた。残った水は、役割は果たした、と言わんばかりに消滅する。
「大丈夫?」
「ええ、貴方が受け止めてくれたおかげで何とも無いわ」
言葉通り何とも無いのだが、彼女は癖でスカートの後ろを軽く叩いた。
「兄上、流石ですね」
誇らしげに胸を張ったルルワに「ルルがやったわけじゃないでしょ」とツッコミを入れるアーサリア。
「それにしてもリア、高い所苦手だったんだね」
「そ、そんなわけじゃない!」
「あれ、違うの?」
随分と可愛い悲鳴あげてたけど、とカイン。
「それは‼」
「それは?」
「……なんというか、心構えが出来ていなかったと言うか………」
徐々に萎んでいくアーサリアの声に、何だか可笑しさがこみ上げてきてカインは笑った。
「ちょっ、笑わないでよ‼」
「まあ良いじゃないの、高いとこ苦手なアーサリアちゃん?」
「黙りなさい!」
「ぐっふぅ」
茶化すように言った俊介の鳩尾に、鋭い肘打ちが突き刺さる。彼は呻き声を上げて崩れ落ちた。
「まったく、自業自得です」
俊介を見下ろしたルルワが心底呆れたように溢す。
「カイン、俺の鳩尾がまだ痛むんだが……」
「仕方ないって、あれだけ良いのが決まったんだから」
今は校内案内も終わり、昼休憩の最中。あと十分程で午後の授業が始まるといった時間だ。
食堂から教室への帰り道を、俊介は「いてぇ」と腹をさすりながら進んでいる。
「全く、呆れるとはこの事ですね」
その様子を見た、並んで歩くクラスメイトの一人が辛辣に言った。
彼は名をニコラス・クリンチ。俊介とは隣同士の席に座る男子生徒だ。オーキッドグレーの髪にオパールグリーンの瞳、シルバーの眼鏡を掛けた理知的な顔立ちをしている、がしかしその本性は、能力検定でワースト十人に入る程に頭が悪い男である。因みにそれは自己申告。
通称:見た目だけ賢そうなバカ(俊介命名)。
「うっさいわ、バカ」
八つ当たりも含めて言い放った俊介。
「バ、バカとは失敬な⁉」
「事実だろ」
ぐうの音も出ないとはまさにこの事か。彼は落ち着くために眼鏡を上げようとして失敗、むしろ眼鏡が顔からずり落ちる。
「じ、自分の眼鏡がぁ」
あわや床と正面衝突、という所でカインの能力で生み出された水のクッションがそれを受け止め、ゆっくりと持ち上げられた眼鏡はカインの手元に収まる。
「はい」
「あ、ありがとう。感謝する」
「どういたしまして」
渡された眼鏡を掛け直して、ニコラスは安堵のため息をついた。カインはそれが伊達眼鏡な事に気付いたが、態々言ったりはしなかった。
「それにしても、カインの水操作って凄いよね!」
一緒に歩くもう一人である湘権が、普段と同じ明るい調子で言う。
「そうかな?」
「そうだよ! あんな柔らかく物を受け止めるのって凄く難しいんだからね」
そう言われて、カインはある出来事を思い出した。
「今日の課題はこれだ」
あらゆる物が白い室内で、白衣の男が唯一色のついた物体を指しながら言った。
「赤ワインですか?」
机上のグラスに満たされた赤い液体を見て、まだ幼かった頃のカインが尋ねる。
「そうだ」
男の口から、課題の説明が行われた。
高さ一メートルのテーブルから、ワインが三割ほど入ったグラスを落下させる。カインはそのグラスを割ること無く、床にワインを一滴も垂らすこと無く受け止め、テーブル上の元の位置に戻さなくてはならない。
但し、使うのは用意された百ミリリットルの水のみ。手や足など身体を使う行為は禁止。また、グラスの落下前に能力を待機させておく事と、能力でワインを操る事も禁止する。
グラスが落下を開始してから床に衝突するまでの時間は凡そ0.452秒。そのごく僅かな時間のうちにカインは、能力を発動させ水を操り、しかも割れやすいワイングラスを割らないよう柔らかく受け止める事を要求されているのだ。
更に、グラスの元あった位置も正確に記憶しなければならない。
「理解しました」
説明を終えた男に、自分はその内容を理解したと意思表示をする。それを確認した男は一つ頷いた。
『主の年より二三〇七年四月十九日、船内時刻午前三時〇一分。統合体一号、固有名称〈長男〉の流体操作能力実験、第二〇一号の記録を開始します』
無機質な機械音声がそう告げる。
同時にテーブルの端に置かれたワイングラスが不可視の力に押し出され、傾く。完全に落下状態へ移行したと認識した瞬間、カインは静かに能力を発動させた。
机上のガラス容器に収められていた水が飛び出し、慣性も考慮した最短軌道で素早くグラスの下側へ滑り込む。そこで水の塊は二つに分裂し、一つはグラスから零れ出たワインを回収しに向かう。
残った水はグラスを薄い膜状に包み込んで、減速させていく。空を舞う紅い雫も同様水で覆われて、それが一滴も溢れることは無かった。
仕上げにグラスを持ち上げて机の上に立て位置を微調整。ワイン入りの水泡から、改めてワインを注ぎ直す。
その一連の動作に掛かった時間は、一秒にも満たないごく短かい時間だ。
《指定流体の滴下……確認できず。指定容器の損傷……確認できず。指定位置との誤差……0.012ミリ――許容範囲内。以上より、実験課題の達成を認定しました》
再び機械音声が室内に響いた。
「す、素晴らしい……」
男は震えた声でそう漏す。
「A級の上位でも成功率五割の課題を、まさか一度で成功させるとは……再誕調整をした甲斐がありましたよ。早急に報告書を作成し、猊下に報告しなくては………」
狂気を孕んだ恍惚の表情をして部屋を出ていく男、その後ろ姿をカインは冷めた目で見送った。
「カイン、どうしたの? ぼうっとして」
気付くと、湘権が目の前でカインの顔を見上げていた。
「いや、ちょっと昔のことを思い出してただけ」
「そっか、なら良かった」
明るい調を意識して答えれば、湘権はそれで納得したのか歩みを再開する。カインもそれに続いて動き、頭の中では、どうしてあの時の事を思い出したのだろうか、と思考した。
その要因は恐らく、湘権が話題を振ってきたからでもあるし、ニコラスがあの白衣の男に似ていたからでもある。
それにしても、随分と前のことを思い出した物だ。カインにとってはあまり良い思い出でも無いが、同時に懐かしくもある。不思議な感慨にも似たその感情を抱いたまま、彼は教室の扉を潜った。
席に座り湘権と話していたら昼休みはあっという間に終わりで、五時限目の授業開始を知らせるチャイムが教室に鳴り響いた。
二日後、九月十四日――木曜日。午後一時七分。
昼食を食べ終えたカイン、俊介、湘権とニコラスの男子四人組は教室ではない別の場所に居た。昼休みが終わるまで後少し、授業に遅刻しないかと心配になるがそれは無用である。
四人――否、四人を含むクラスメイト達が居るのは、十階分の高さがある大空間――大水槽の一階部分。今日の五時限目に行われる授業は海洋学で、朝のSHL時に大水槽の一階部分に集合するよう連絡されていたのだ。
一階部分の床面積は上層階のそれと比べ広めで、生徒全員が集合するのにも十分な広さがあった。
彼らの服装は制服。IAAの制服は水中での活動を考慮して設計されており、海洋学の実技授業も制服姿で行われる。
「おぉ、冷たい」
金属柵の下から手を伸ばして水面に触れた俊介がそんな感想を漏らした。
「シュン、そんな事をしていると………怒られますよ」
ニコラスの言葉に俊介が振り返る。そこに居たのは、ニッコリといい笑顔で自分を見下ろすウスマン。しかし、その目は全く笑っていない。
「シュンスケ君」
「……はい」
「何かあるといけませんから、その様な事は謹んでくださいね」
「……はい」
俊介がおとなしく腕を戻したのを確認してから、ウスマンは離れていった。
昼休み終了のチャイムが鳴る。
それを合図に、生徒達はウスマンの方を向いて姿勢を正した。
「礼‼」
カインが大きく声を上げると、生徒達は揃った動きで「よろしくお願いします」と一斉に頭を上げる。半秒の後、今度も揃って頭を上げる。
「はい、よろしくお願いします」
楽にしていいですよ、とウスマンが言って、生徒達は身体の力を抜いた。
「今日は初めての授業なので、簡単な事から始めたいと思います」
「まずは、皆さんの水中での能力を確認させてください」
ウスマンはそう言って、全員にプールの中へ入るよう指示した。
転落防止の柵には一定間隔で開けることの出来る箇所が用意されていて、生徒達はそこから水中に飛び込む。
誰一人躊躇うこと無く、慣れた様子でその身を投げ出していく。ここに居るのは全員が海能者、水中こそ彼らのホームグラウンドである。
カインは水中に潜ると早速、肺の中に水を取り込んだ。それと入れ替わるように、空気の泡が口から大量に溢れる。
他の生徒達も同様、口から空気を吐き出して肺の中を水で満たしていた。一見すると、溺れている人の集団である。
だが海能者は〈水中適応〉により水中でも呼吸することが出来るため、溺れてしまう心配はない。空気と水を交換する際は少し苦しいが、慣れてしまえばそれまでだ。
肺から完全に空気が抜けたと判断するなり、カインは別の場所から潜った妹と合流した。彼女は水底の方を見ながら、水中に居る故に普段とは音色の変わった声で『深いですね』と漏らした。
『そうだね』
プールの底は光が届かないため黒に限りなく近い青で塗りつぶされている。太陽光であればある程度届いたかもしれないが、ここは校舎の北側で直射日光は差し込んでこない。
最後の一人となったウスマンが、プールの中へ飛び込む。彼は生徒達の倍以上の速度で空気を抜ききった。
『皆さん、用意は良いですか?』
ウスマンの声が水中に響き渡る。その質問は、空気を抜きれたか? という意味だ。生徒達は頷いたり、声を上げたりして彼に返事を返した。
肺から空気が抜ききれないと、声を出すことが出来ない。また、水中での移動を妨げる事もある。この技術は基礎中の基礎だが、同時に最も大事な事でもあった。
全員がそれをしっかり出来た事を確認したウスマン。
『では、ウォームアップを始めたいと思います』
私の後についてきてください、と言って彼は壁と平行に泳ぎ始めた。
身体を水平に傾け、足をゆっくりと水かきのように動かしている。速度はそれほど速くもない、早歩きと同じぐらいだろうか。
カイン達も身体を傾けると、足を動かして泳ぐ。そして忘れてはいけないのが、能力を使った泳ぎの補助。
身体の周りにある水を操作して、前方へ進む水流を生み出すのだ。
カイン達はウスマンの直ぐ五メートル後ろに着けて、きっちり等速で彼を追った。後ろを振り向くと他の生徒たちも遅れずに追従できていて、長い列の様な物が形成されている。
最初の曲がり角。ウスマンは壁際ギリギリまで身体を寄せると、まずは片手で壁を押して回転。続いて足で壁を蹴って方向転換を果たす。
『もう少し早くしていきますよ』
直後にそう言って加速する彼。今度は小走りの速度だ。
カイン達もウスマンと同じ様に曲がって加速、曲がる前と同じ位置を保つ。後続の生徒達も次々と方向転換してついてきた。
曲がり角の度に彼は加速していき、丁度四回目の加速の時。
『ここからは等速で行きますよ。あと一周です』
速さは全力疾走の一歩手前と同じ位。生徒達が最初に飛び込んだ位置をかなりの勢いで通り過ぎる。そのすぐ後ろをカイン達が続いた。
十秒足らずで次の曲がり角がやってきて、ウスマンは速度を緩めること無く巧みな身体捌きで進行方向を変える。カイン達は余裕の表情でそれに続くが、生徒達は後ろに行く程余裕がなくなりその表情は険しい。
実技が苦手な湘権やニコラスらのグループなどは、速度に追いつけず徐々に距離が開いている。周回遅れとまでは行かないだろうが、半周遅れぐらいにはなりそうだ。
カインはチラリと正面を泳ぐウスマンを伺ってから、大丈夫そうだと判断する。
そしてその能力で、自分が乗る水流だけでなく湘権達の周囲にも干渉した。
速度が持ち直す。その要因が分からず湘権などはキョトンとしていたが、カインの視線に気付いた途端に納得の表情を見せる。
(あ、り、が、と)
口の動きだけで湘権はカインにそう伝えて、すぐに正面を見据えた。
ウスマンは、湘権らの速さが増したのにカインが関わった事に気付いたが、咎める事でもないかと考える。
ただ、釘を刺しておくことも忘れない。
『カイン君。クラスメイトをアシストするのは構いませんが、程々にしてくださいよ』
そうしなければ、ウォームアップの意味が無くなってしまう。
ウスマンは能力を使って、その声をカインにだけ届ける。
『分かってますよ、勿論』
その返答を聞いたのも、ウスマンだけだった。
ウォームアップが終わる。
一部の優秀な者だけは開始前と変わらぬ様子で、それ以外は、程度に差はあれ疲労の滲んだ様子をしている。
『はぁ、はぁ。疲れたよぉ』
『おつかれさま』
ぜぇぜぇ、と激しく空気――ではなく水を吸い込む湘権を、カインが肩を叩いて労う。その隣でも、配役をニコラスと俊介に変えて同じ様な事が行われていた。
どうやら実技が出来ない二人――ニコラスは筆記も出来ない――にとっては、ウォームアップだけでも疲労困憊となるには十分だったらしい。
三十秒程で、湘権達を含む全員が呼気を整える。ウスマンはそれを確認してから、手を打ち鳴らして集合するよう言った。
『皆さんにやってもらうのは動作補助の練習です』
動作補助というのは、先程のウォームアップでもやったように水中での動きを能力でサポートする技だ。海能者のアドバンテージである、水中での機敏な動きはこの技能から生み出される。
動作補助は、どれだけ細かい動きを補助できるかが一つの指標となる。
D級では移動を、C級では腕や足の動きを、B級では肘や膝の動きを、A級では手首足首の動きを、などと言われることも多い。なお言うまでもないことだが、この場合の『~級』とは海能者の階級を指す。その階級の海能者であれば、それを補助することが出来る様になっていると言う、一種の指標である。
『今学期中に移動の補助を完璧にした上で、四肢の補助も教えていきますのでそのつもりでお願いします』
ウスマンの宣言は、生徒達にそれほど驚かれることもなく受け入れられた。
IAAの生徒達はそもそも、最低限の基礎を身に付けた状態で入学する。移動の補助と言う基礎中の基礎は、大半が高い練度でそれを身に着けていたのだ。
湘権やニコラスのように出力が足りない生徒は居るが、技術面で見れば全く問題ない。二から三回程度の授業で移動の補助は終了し、四肢の補助へと移っていく事だろう。
『目標は、このコースを二十秒以内に移動できるようになることです』
彼はそう言って、取り出した端末に手を触れた。
すると水中に、半径一メートルほどのリングが一定間隔で配置された、不規則な軌道で曲がるコースが出現した。水中に三次元投影を行ったのだ。
コースの合計距離は、百五十メートル程だろうか。
カインは目測でそう当たりを付けた。
再びウスマンが端末を操作すると、投影映像は跡形もなく消え去る。
突然、カインの胸ポケット内で振動が起こった。
『皆さんの端末に、先程のコースの三次元データを送信しておきました』
先程の振動は、その受信音だったらしい。
『三人か四人のグループを作って、グループ内で互いに教えあってください。私は全体を回りながら個別に指導していきますから』
それから、と彼が付け加える。
『コースへの挑戦をしたければ私に言ってください。授業中いつでも受け付けます』
説明が終わると、生徒達は一斉に周りと集まってグループを形成していった。
カインのグループは、俊介と湘権、そしてニコラスが一緒である。
凄く出来る人が一人、そこそこ出来る人が一人、出来ない人が二人。それなりにバランスの良いグループなのではないだろうか。
カインと俊介がそれぞれ、湘権とニコラスに教えるという形になりそうだ。
『よろしく』
見知った仲だが、様式美としてカインがそう挨拶する。そうすれば、他の三人も同様に返してきた。
『それじゃあ、早速練習を始めよっか』
カインなら、今直ぐにでもあのコースをクリアすることが出来る。
しかし彼はあえてそうせずに、この授業ではグループ内の指導に専念した。