◇Chapter 2〈Entrance Ceremony〉
九月十日――日曜日。
朝起きると、寮の部屋にはある荷物が届けられていた。
「おはよう。ねえシュン、それ何?」
まだ着替えておらずパジャマ姿のカインが、テーブルの上に置かれた荷物を眺める同じくパジャマ姿の俊介に尋ねる。
「〈生徒端末〉だよ」
それは、学園の全生徒に支給される個人用コンピューター端末だった。
この端末には、一般に普及する教科書端末としての機能だけでなく、個人的な用途にも使える様々な機能が存在している。
ほいお前の、と俊介が薄型の折りたたみ可能なタブレット端末と、それに付属するペン型入力デバイスを差し出してきた。端末の背面とペンの尻部分にはIAAの校章が刻まれている。
ありがと、と端末を受け取り、カインは早速右側面上部にある起動ボタンを押す。俊介も別の端末を起動した。
黒かったディスプレイが白に切り替わると、画面中央部に青色でIAAの校章が浮かび上がってくる。僅かな振動と共に、ポップアップメッセージが現れた。
《生徒証を翳し、登録を行ってください》
「あぁ、私室に置きっぱなしだわ」
同じメッセージが出たのだろう俊介がそう言った。カインも、生徒証はクローゼットに掛けられた制服のブレザーの内ポケットに入っている。
「僕のも部屋の中だ」
「んじゃ、取り行くか」
「そうだね」
二人が生徒証を取って戻ると、こちらは既にパジャマから着替えていた女性二人がリビングに居た。
「ルル、リア。おはよう」「お、二人共おはよう」
「はい、おはようございます兄上、シュン君」
「おはよう、カイン、シュン」
朝の挨拶をしっかりと交わす四人。
「ところで兄上、その端末は……」
「ああこれね。生徒端末だってさ」
自分の端末を持つ右手を軽く上げて見せる。
起動すると、生徒証を翳すよう求められる事を二人に伝えると、カインと俊介は端末を再び起動した。
先程と全く同じ様に端末は起動し、生徒証の提示を求めるメッセージが出る。
隣同士で一瞬視線を合わせてから、二人は同時に生徒証を翳した。
《生徒証を確認(Checking Student ID)………照合完了(Collation Completed)》
少しの間《Now Loading》の文字が点滅してから、青いグラデーション背景にアイコンが幾つも並んだメニュー画面へと表示が切り替わる。その右下には小さく、カイン・インテグレータの名前があった。
そしてその真反対、最も左上に位置するアイコンが通知を示す赤い縁取りで囲まれている。今時見ることの無い封筒を模したそのアイコンは《学校連絡》の物だ。同じ様なアイコンには《メール》の物もあるが、学校連絡の封筒には青色で校章の印が押されているのに対し、メールのそれは無地で、そこで見分けることが出来る。
学校連絡には、生徒への学校からの連絡事項が送られてくる。それから、体調不良による欠席などの連絡をすることも出来た。
カインがアイコンをタップして開くと、そこには三件の連絡事項があった。
一番上にあるのは《クラス決定通知》、次に《学園生徒能力検定の結果通知》、そして《新入生代表挨拶に関する通知》。最後の通知には、他とは異なり赤い縁取りがなされ、それが重要事項であると知らせている。
あえてそれを後回しにする理由もないので、まず『新入生代表挨拶に関する通知』を開く。
その中身を簡潔にまとめるとこの様な感じだ。
《貴方は見事能力検定にて新入生首席の成績を見せました、つきましては明日行われる入学式において新入生代表挨拶を行ってもらいます。この端末を持参して、本日午前九時に本校舎十階にある第四面談室へと来るように》
今日はこの学園都市に来てから初めての休日だったので、カインはルームメイト達と親睦を深めようかと考えていたが、どうやらその予定はキャンセルせざるを得ないようだ。
自分が首席に選ばれた事に関しては、正直あまり驚いて居なかった。実技試験で他の生徒(妹以外)を引き離して秀でた成績を出したことは自覚していたし、筆記試験でも十分以上の点数を取れたと思っている。
「あ、カイン。俺ら同じクラスだぞ」
突然、カインの隣で無言のまま端末を見つめていた俊介がそう言いながら自身の端末画面を見せてきた。
そこには生徒名簿が表示されていて《一年A組》の生徒一覧には俊介にカイン、ルルワとアーサリアの六〇八区画メンバー全員の名前があった。湘権の名前も見つけることが出来た。
思わず「おぉ」と声を上げる。
恐らく、区画のメンバー同士が同じクラスになるよう設定されているだけなのだろうが、嬉しいものは嬉しい。
そこに丁度、ルルワとアーサリアがそれぞれの生徒証を持って戻ってきた。
「あ、おかえり」
カインが一旦端末から顔を上げて言うと、アーサリアは「ええ、ただいま」と返してから「カイン、首席おめでとう」と苦笑い気味に告げた。ルルワも「兄上、首席おめでとうございます」とそれに続く。
「二人共、ありがとう」
「えっ、お前首席なのか⁉ ってまあそうだよな」
十中八九実技試験の事を思い出したのだろう、一瞬驚くもすぐに納得した様子を見せる俊介。
「ルルは次席だったし、兄妹揃って凄いわ」
カインはそれを聞いて、彼女が一体何処からそれを知ったのだろうかと疑問を抱いた。それが顔に出ていたのかもしれない、アーサリアは「検定結果の通知に実技、筆記、総合の五位までがフルネームで載っているわよ」と教えてくれた。
早速そこを開いてみると、確かに言われた通りの結果が載った表がある。
「へぇ、リアは実技三位か」
双子の所為で霞んで見えるが、彼女も第四位を大きく引き離した十分に凄いスコアを出している。例年であれば実技は一位間違いなしだった。
「ええ、私としては総合三位も行けるかと思ってたんだけどね……」
筆記の一位がダントツだったのよ、と付け加えた。つまり彼女は、総合三位の座をその人物にまんまと奪われてしまったわけだ。
一体誰なのかと筆記試験の順位表、その一番上を見る。すると驚いた事に、そこに載っていたのはカインの隣で筆記試験を受けた可愛らしい少年――湘権の名前だった。その点数はなんと、五百点満点で脅威の四九六点。筆記試験二位だったカインとの差は実に百点に迫る。
「……マジか」
「えぇ。正直、格が違うって感じだわ」
アーサリアは「貴方達と同じ様にね」と内心で付け加えた。
「この湘権って、どんな奴なんだ?」
「遅刻ギリギリで入ってきた小柄な男の子だよ、覚えてる?」
「ああ、アイツか」
俊介だけでは無く、アーサリアやルルワもそれを聞いてすぐに思い当たった様子だった。
やはり、一人だけ試験に遅れかけた――と言うか遅れた――のはかなり皆の印象に残っているようだ。
「そう言えば兄上のお隣に座っていましたね。試験中はどんな様子でしたか?」
そう問われ、カインは記憶の海から昨日の試験中の物を引き上げた。
「うーん。カンニングになっちゃうから見ては居ないんだけど、音からして結構な速さでペンを動かしてた気がするな。それから……」
「それから?」
「……たぶんだけど、全科目、試験時間の半分ぐらいで問題を解き終わってた」
カインの記憶違いなのかもしれないが、それぐらいの時間が経った所で忙しないペンの音が止んで静かになっていた。あれだけの点を取っているのだから、それは解くことを諦めたのではなく、自信を持って問題を解き終えたに違いない。
それを聞いて、皆は思わず絶句した。
試験全般に言えることだが、それは本来満点が取られることを考慮していない。にもかかわらず彼は満点に限りなく近い点数を取り、しかもそれを試験時間の半分程で終わらせている。それは最早、異常と言わざるを得ないだろう。
「……そ、そういえば、カインは首席だったんだろ。何か特別な連絡でも来てないのか?」
ぎこちない雰囲気を変えようと、俊介が別の話題を切り出した。
「あぁ、明日の入学式で新入生代表挨拶をするから、その原稿を書くのに呼び出されてる」
「そうだったのですか。兄上、頑張ってください!」
「たった一日で、なんて中々大変そうじゃない。大丈夫?」
確かに、言われてみるとそうかも知れない。しかもカインは、原稿に書けるような入学前の思い出話などを全くと言っていい程持ち合わせていない。
まあ、一人で全て書かせるなどという事もない筈だ。教師が手助けしてくれると思われる。
「精々頑張るよ」
「おう、期待してるぜ!」
カインは苦笑を浮かべて「程々にお願い」と言った。
「分かった、程々に期待とく」
「それはそれで嫌だな」
その掛け合いが少し面白くて、全員が軽く笑い声を漏らす。
「それじゃあ、今日は僕が朝ごはんを作るよ」
「では、私も手伝います」
俊介は仲良くキッチンへと向かう双子を少し目で追ってから、くるりと身体を反転させる。
「んじゃ俺は着替えて来るわ」
「了解よ」
アーサリアは私室へと向かう彼の背中を見てから、ふと彼はどれぐらいの成績を出せたのだろうかと思った。
「ねえシュン」
「ん、なんだ?」
「貴方は試験の結果、どうだったのよ」
「………まあ、普通だよ。そう、普通」
俊介は目を逸しながらそう答えた。
その様子から何かを察したらしいアーサリアは出来るだけ優しい表情と声音を意識して彼に語りかける。
「……大丈夫、何とかなるわよ」
「いや普通だって言っただろ!」
「そんなに見栄を張らなくて良いわ。素直に出来なかったと言えば………」
隠しきれていない、僅かに嗜虐的な笑み。
「だ、か、ら。普通だって言ってんだろうがよぉ――――‼」
「それで本当の所、どれぐらいなの?」
朝食を食べ終わった途端に、アーサリアが俊介に向かって尋ねた。どれぐらい、というのは勿論、能力検定の成績について言っている。
「……何度も言ってるが、普通だ」
「じゃあなんでそう間があるのよ?」
普通、というからには悪い成績では無いのだろう。では一体どうして、それを言う前に不自然な間が存在しているのか。何も後ろめたさが無ければ、そのようなものは存在しないはずである。
「いや、だってよ……」
「……だって何よ?」
俊介以外の三人が、ジーッと注目するように彼を見つめている。その威圧感に彼はゴクリと唾を飲んで、半ば自棄糞になって叫んだ。
「お前らが、凄すぎるんだよ!相対的に俺だけ出来ないみたいじゃんか‼」
「「「確かに」」」
見事に重なった同意の声に、俊介はあえなく撃沈した。
彼の成績は、実技六十八位、筆記百三位、総合七十九位と、決して悪くない、それどころかむしろ良い方だ。だが生憎と、ルームメイトと比べるとかなり見劣りしてしまう。
アーサリアは実技三位、筆記十二位、総合四位。
ルルワは実技二位、筆記五位、総合二位。
そしてカインに至っては実技一位、筆記二位、総合一位と、文句なしの首席である。
その三人と自分の成績を比べるのが間違っているのだ、だからそんなに落ち込む必要は無いのだ。
俊介は必死に、心の中でそう言い聞かせた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「はい兄上。行ってらっしゃい」
「良い原稿が出来るよう願ってるわ」
「頑張れよ、カイン」
パジャマから制服へと着替えを済ませ、折り畳んだ生徒用端末をズボンのポケットに入れると、カインは寮の部屋を出発した。現在時刻は八時三十一分、指定の時間までは正直かなりの余裕がある。
ゆったりとした歩調で廊下を進んでいくのだが、すれ違うたび妙に注目されている様な気がした。
カインはその美貌故、かなり視線を集めやすい。だが彼が今浴びている注目は、それとは少々毛色の異なるものを含んでいた。
それは、学年首席に対する畏怖と敬意、それと困惑だった。
実は、能力検定の順位表の名前部分をタップする事で、その生徒のクラスや出身都市などのシンプルなプロフィールと顔写真を閲覧することが出来る。
今や大半の者が、彼が学年首席であるということを知っているのだ。そう、彼が。この女性にしか見えない容貌を持つ学年首席が、男であると知っているのだ。
カインがエレベーターホールに入ると、そこに居た全員から一斉に視線が向けられた。思わずたじろぎそうになるって、ふとその中に彼は見知った顔を見つけた。
相手も、カインが気付いたことが分かったのだろう。椅子から立ち上がる。
カインは相手の所に辿り着くと、最初に祝いの言葉を贈った。
「筆記試験、一位おめでとう」
相手の少年――湘権は、それを聞いてとても嬉しそうな笑顔を見せた。
「うん!ありがとうカイン」
「凄いよ、ほぼ満点だったもんね」
「えへへ、それほどでも無いよ」
より一層頬を緩め、照れたように頭を掻く。謙遜も過ぎると嫌味になるとは言うが、彼のそれは不思議と不快感を与えない、柔らかさの様な物があった。
「カインこそ、学年首席でしょ。ボクより全然凄いと思うな」
「そうかな?ありがとう湘権」
嬉しくて、偶に妹にするのと同じ様に思わず彼の頭を撫でてしまう。
「ちょ、ちょっと、いきなり何するのさ⁉」
「あ、ゴメンゴメン」
恥ずかしかったのか、頬を染めてわざとらしく怒る様には微笑ましさを感じる。その生暖かい目に気付いたのだろう、湘権は羞恥に駆られ、コホンと控えめな咳払いをして別の話題を切り出す。
「と、ところでカインはどうして此処に?しかも制服で」
この場に居るほとんどの人は私服姿で、制服を身に纏うのはカインと僅かに数名だけだ。その数名もブレザーは着ておらず、意図的に制服を選んだというよりは、仕方なく着ているように見える。大方、それ以外に服が無かったりするのだろう。
だから彼は態々、カインが制服姿である事に触れたのか。
特に隠すことでもないので、正直に答える。
「ほら、僕って首席でしょ」
自分の事を首席と言うのは、少し気恥ずかしい。
「だから明日の入学式で代表挨拶があってね、その原稿を書きに行ってくるんだ」
そして「制服なのは、礼儀として、かな」と付け加えた。するとどうしたのか、湘権は急に申し訳無さそうな顔をする。
「そ、そうだったんだ。時間、大丈夫?」
どうやら、自分を相手にしていた所為でカインが遅れるのではと心配してくれたらしい。
「うん、大丈夫。時間には余裕あるからね」
「そっか、それなら良かった。ゴメンね、引き止めちゃって。大変そうだけど、頑張ってきてね」
カインは「もちろん」と言ってから、エレベーターの方に向かおうとした。
「あ、そうだ」
だが聞こえてきた湘権の声に振り返る。
「ん、どうかしたの?」
「連絡先、交換しとこうよ」
彼の手にはいつの間にか、折り畳まれた生徒端末が握られていた。
カインはズボンから端末を取り出し、畳んだまま起動する。
そこから《メール》のアイコンをタップする。連絡先一覧には既に、ルームメイト三人の名前が並んでいる。
《湘権さんから、連絡先登録のリクエストが来ています》
承認しますか、と問われたので《YES》を選択。
連絡先一覧に、湘権の名前が加わった。
「じゃあね、カイン」
「うん、またね」
カインは今度こそ、エレベーターの方に向かって行った。
ボタンを押して、籠が上昇してくるのを待つ間、ふと起動したままだった端末の時刻表示を見る。
現在時刻、八時四七分。
「……ちょっと急いだほうが良いかも」
丁度開いた扉を早足気味に潜り、カインは素早くドアを閉じるボタンを押した。
目的地の、第三面談室前に到着したのは呼び出し時刻の丁度一分前だった。
扉をノックすると「入ってきて良いですよ」という何処かで聞いた覚えのある声と共に扉が開く。
「失礼します」
軽く一礼してからカインは部屋の中へと入る。
外壁に面しておらず窓のない室内はしかし、天井に設置されたLED照明によって十分な明るさが確保され、落ち着いた雰囲気の内装がよく見えた。
壁は白と紺のツートンカラーで上下が分かたれ、床にはグレーのカーペット。淡い藍色の一人用ソファが四つ、大きなガラス天板のデスクを囲む。
そのうち最も奥に位置するソファに、一人の人物が座っていた。
「どうもカイン君。昨日ぶりですね」
その人物は、カイン達の試験監督をしていた男性教師だった。彼の整った顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
彼はソファから立ち上がると、カインの正面まで来て右手を差し出した。
「私はウスマン。今年度の一年A組の担任を務めることになっています。よろしく」
カインもそれに応え、自身の右手で彼の右手を握る。
「カイン・インテグレータです。これからよろしくお願いします、ウスマン先生」
二人が握手を解くと、ウスマンはその右手で手前側にあるソファを示した。
「どうぞ、座ってください」
カインは「ありがとうございます」と言ってからそのソファに着席する。遅れて、ウスマンもデスクを挟みその対面にあるソファへと腰を下ろした。
「端末は持ってきていますね?」
「はい」
そう確認され、カインはズボンのポケットから、端末とセットのペンを取り出してデスクに置いた。
それを見てウスマンは満足げに軽くうなずいた。
「良かった。数年に一度程ですが、忘れる生徒が居ると聞いていましたから」
忘れていたらどうなったのか、興味を覚えないこともない。
「では、時間も勿体ないですし説明を始めましょうか」
そう言うなりウスマンは、その右手でデスクの透明な天板を軽く叩いた。軽い起動音と同時に、天板に青白い光のラインが走る。
「中々格好良いでしょう。お気に入りなんですよ、これ」
その声は何処か弾んでいて、その言葉が本当なのだと教えてくれる。
天板にIAAの校章が浮かび上がって、消える。だが僅かに走る光のノイズが、それが起動状態であることを示していた。
透過ディスプレイ内蔵型ガラス、しかもタッチ検出機能付きと思われるそれは、中々お目にかかれる物では無い。この天板だけでも三十万ユーベックは下らないだろう。
クルーザー内にあったようなアンティークな木製家具も良いが、こういったスタイリッシュなガジェットも素晴らしい。小さい物で良いので、来週の休日に購入しよう。
そんな事を考えていると、正面から軽い咳払いが聞こえてきた。来週の予定へとトリップしかけていた思考が戻ってくる。
「連絡でも伝えたと思いますが、カイン君がするのは、明日の入学式での新入生代表挨拶です。その原稿を、今から書いてもらいます。内容にはあまり関与しませんが、公序良俗の範囲でお願いしますよ、くれぐれも」
念を押して言われたので「一体、昔の新入生代表はどんな原稿を書いたのか」と気になったが、カインは素直に頷いた。
「挨拶は三分程を想定しています。多少長くても構いませんが、五分以内には収めてください。私は原稿が完成するまでこの部屋に居ますから、アドバイスなどが欲しければ言ってくださいね」
それは有り難かった。カインには自分だけで僅か一日で原稿を書き終えられる自信は無い。というか、大半の学生には無理だろう。
「それと、カイン君はキーボードと手書き、どちらの方が好きですか?」
その意図は分からなかったが、カインは正直に「キーボードです」と応えた。
「そうですか、分かりました」
ウスマンはその右手の人差し指で、天板に『K』の字を書いた。指先を追うように、光の文字が現れる。
彼がそれを囲む円を書くと、光の文字が消える。そうして現れたのは、ディスプレイ上に投影された青白く光るキーボードだった。
「おぉ」
そのギミックに、カインは思わず感嘆の声を漏らした。
先程ウスマンが書いた『K』はつまり『Keyboard』の頭文字だった訳だ。
彼はそれの表示位置を、滑らせるようにカインの目の前へと移動させた。
「此処に、端末を立て掛けてみてください」
彼の指が示したのは、移動したキーボードのカインから見て奥側のスペースだった。そこには、何かを置けと言わんばかりの長方形のガイドがある。
カインは端末を折り畳まれた状態から展開し、背面のスタンドパーツを立て、ガイドの場所に置いた。
《デバイスヘ接続しています(Now Connecting to Device)………接続完了(Connection Completed)》
そんなメッセージが消えたのを確認してから、カインはキーボードに触れた。試しとばかりに『A』のキーを押すと、端末にも《A》の文字が入力される。
「これでどうです?」
「はい、ありがとうございます」
早速とばかりにカインは端末の《ノート》機能を開いて、原稿の作成に取り掛かった。来週、絶対にこのデスクを買おうと決意して。
時は少し遡る。
「それじゃあ、私達はどうしましょうか?」
部屋を出るカインを見送ってから、後ろに振り返ったアーサリアはそう口を開いた。
「そうですね。兄上に予定がなければ皆で懇親会をするのも良かったでしょうが………」
「流石にアイツ抜きでやるのは可哀想だよな」
区画の懇親会に、一人だけ参加できないのはあまりにも不憫だ。懇親会の開催は来週に持ち越しだろう。
しかしそうなると、今日という休日を一体どの様に過ごすか、三人はそれが思いつかなかった。
「お前らは、こっち来る前は休日どうしてたんだ?」
参考になるかもしれないと、俊介がそんな質問をした。こっち、というのは勿論IAA及び学園都市の事だ。
「そうね、大抵読書してたかしら」
「私は映画鑑賞です」
アーサリアとルルワは、特に迷う素振りもなく答えた。ただその内容は、一人で集中して行うものばかりだった。
今日は四人がルームメイトとなって最初の休日。カインが居ないのは残念だが、折角なら三人で一緒に楽しめる事をしたいと思うのが普通だろう。
「そういう貴方はどうなのよ?」
良い提案を出せ、という無言の圧と共に返された質問。
「ん、俺? 普通にゲームとかだけど」
「「…はぁ……」」
それに気付けない俊介に、女子二人は呆れた様子を隠すことも無くため息をついた。だが俊介は、何故ため息をつかれたのか分からず頭の上に疑問符を浮かべている。
「……まあ良いわ。それで、何か良いアイデアは無い?」
「うーん、思いつかないな」
「そう……ルルは?」
「そうですね」
彼女は僅かに思い悩むような仕草を見せてから、何らかのアイデアを思いついたのだろう、ハッとした表情をした。
そして如何にも名案だと言った様子でこう提案した。
「皆で映画を見ましょう!」
「…まあそれも良いのだけどね……」
もうちょっと他の提案は無いかしら、と続けようとしたアーサリアを俊介の声が遮る。
「いや、悪くないかもな」
「シュン?」
「映画を見るって事は、映画館に行くんだろ?」
俊介は「そうだよな?」とも言いたげな様子でルルワに問いかけた。だが返って来たのは予想外の返事だった。
「へっ? 私は普通にこの部屋で見るつもりで言ったんですけど……」
「あ、そうだったの」
先ほどと一転、冷めたような俊介の声。
その直後、ルルワが衝撃的な発言をした。
「……というか、映画館とはどんな場所なのです?」
「「……はい?」」
彼女の言っている事の意味が分からず、二人は揃って素っ頓狂な声を上げる。その様子に何を思ったのか、ルルワは少し焦った様子で言った。
「いえ、知識としては知っているんですが、その、行った事がなくて」
まるでそれを恥じるように、少しずつ小さくなっていく彼女の声。そんな彼女に、アーサリアは優しく声を掛けた。
「それじゃあ、行ってみましょうか」
行く、というのは勿論、映画館に、だ。彼女の記憶が正しければ、この学園都市にも映画館は存在する。そこに行く事としよう。
「お、良いね」
その提案に俊介はすかさず反応した。
彼は早速端末を開いて「なにが上映中かなぁ」などと調べ始めた。
アーサリアも「着替えた方が良さそうね」と口にしながら自分の姿を見下ろしている。
さも行くことが決まったかのような様子に、ルルワは当惑を隠せなかった。
「えっと、本当にそれで良いの?」
思わず、そんな質問をしてしまう。
「当たり前だろ。映画館で見る映画は最高だからな、それを知らないなんて勿体ないぜ」
これなんかどうだ? と端末に表示された上映中の映画の中から一つを示して聞いてくる俊介。
ルルワとアーサリアはそれを覗き込んでから、了承の意味を込めて頷いた。
「良いじゃない、それにしましょう」
「分かった、それじゃあ座席予約しとくぜ」
手慣れた様子で予約をする俊介。
「ほい予約完了。十時からの上映だから、九時一五分くらいに出発するか」
「了解よ。ルル」
外行き用に着替えましょう、とルルワを促して、アーサリアは玄関口を離れ私室へと向かう。ルルワもそれに続いた。
「俺も、着替えるか」
俊介は自分の服装を見下ろしながらそう漏らす。ライトグレーのスウェットの上下。つまるところパジャマ姿だ。
このまま出掛けようと思える様な服装とは言い難い。彼もまた、私室の方へと向かっていく。
全員が着替えて玄関口に再集合したのは、それから二十分後の事だった。
アーサリアは花柄の刺繍が施された白いブラウスと薄緑のガウチョパンツを合わせ、ネイビーのショルダーバックを肩に掛ける。ルルワは一昨日も着ていたカットソーにミントグリーンをしたシフォンのワイドパンツを穿いて、ベージュのトートバッグを右手に持っている。
これは全くの偶然だが、二人の服装は似たような色合いだった。
そして俊介は、白のバンドカラーシャツとダメージジーンズと言う、何ともカジュアルな格好だ。他には何も持っていない。
「ちょっと早いけど、行くか」
三人が部屋を出ると、室内に誰も居なくなったのを感知して扉が施錠された。
迷うこともなくエレベーターホールまで到着する。ボタンを押して、エレベーターが到着するのを待つ。
「リア、何か視線を感じるんですけど」
「奇遇ね、私もよ」
「なんででしょうか?」
「多分だけど、ルルが次席だからじゃないかしら」
「……なるほど、そういうことなんですね」
二人が小声でそんなやり取りをしていると、チーンと軽いベルの音が聞こえ、エレベーターが到着した。
「お二人さん、行くぞ」
「「はーい」」
三人は俊介を先頭に、籠の中へと乗り込んだ。
天気は見事な快晴で、コバルトブルーの空には雲ひとつ浮かんでいない。遠く海の上に、白い海鳥の群れが見えた。
寮を出て、道なりに行くと大きな円環交差点に到着する。此処を左に曲がると本校舎へ、右に曲がると双子が最初に上陸した港へと続いている。
そして街に続くのは、そのまま正面方向に向かう道だ。
馬鹿正直に半周する事もなく、三人は横断歩道で交差点中央部の広場に渡るとそこから更に反対側へと移った。
「そういえば私、学園都市に行くの初めてです」
厳密に言えばこのIAA敷地内も学園都市に含まれるのだが、この学園は色々と特殊な所が多く、実質的には都市の外と言って差し支えない。
「俺は何回かあるな、学園祭の時は街のホテルに泊まるし」
毎年春に行われるIAA学園祭は、何と一週間にも渡る長期の日程で執り行われる。そのため訪れる人の大半が、学園都市で宿を取るのだ。
俊介ら本栖家は毎年その期間は、学園都市一番の高級ホテルのスイートに宿泊している。
「アーサリアはどうなんだ?」
「……言われてみると、私も無いかもしれないわ」
「え、そうなんですか? てっきり何度も行ったことがあるのかと」
驚いた様子のルルワ。
アーサリアは学園内もある程度見慣れた様子で、学園祭に来た事があるのは間違い無い。ならば、街で宿泊した事もある筈だが……。
「学園祭の時は校舎に泊まらせてもらってたわ」
「……マジで⁉」
間抜けな顔を晒しながら、俊介が問うた。
「ええ。ほら、私の父が、ね」
ここまで言えば分かるでしょ、という副音声が聞こえてきそうだった。
そしてアーサリアの父――ウーゼルが特級海能者である事実を思い出した俊介は「なるほど、そういう事か」と納得の表情を見せた。
特級海能者は世界的に見て貴重な存在であるが故に、このIAAでもかなりの便宜が図られる。宿泊所として校舎の一部が提供されるのも、その一つなのだろう。
実を言うとこれには、現在のIAA学園長であり、アーサリアの伯父であるコンスタンス老も僅かばかり関与しているのだが、彼女は態々言わなかった。
「校舎って、具体的に何処に泊まったですか?」
好奇心を隠しきれない様子でルルワが尋ねる。ワクワク、という擬音が似合うその様子にアーサリアは口元を少し緩めた。
「そうね、三十階にある客室に泊まらせてもらったわよ」
「ご、三十階……」
つまり最上階だ。
「……なあ、他に泊まってるやつとかって居なかったのか?」
「さあ、どうかしら? 去年は、銀髪の女の人が居たような覚えがあるけど……」
「銀髪って、ルルワみたいな?」
「そう、ね」
隣に目を向けると、ルルワが小さな声で「さ、最上階……」と言いながら蹌踉めいている。。
彼女の整った顔に、アーサリアはふと件の女性の面影を感じた。
「気のせい、かしら」
そんなこんな話をしている内に、気付けば三人の目の前には街へと繋がる巨大な門が聳えていた。
港にあった門と同じ材質で造られていて、しかしそれよりも二回り程大きい。
その先にあるのは、世界中でたった四十七しか無い陸地都市の中の一つ、学園都市マッシャーブルムである。
十階建て前後のビルが両側に立ち並ぶ、多くの人が行き交う大通り。一際通行人達の目を引く一団があった。
白銀の髪を持つ涼やかな少女に、黄金の髪を持つ優雅な少女。とその少し前を行く漆黒の髪を持つ長身の少年。
絵に書いたような美男美女三人組。言わずもがな、ルルワ達であった。
後ろで並んで歩く少女二人はガールズトークに花を咲かせており、映画館への案内をしている俊介は少しの疎外感を覚える。
ちらりと手元の端末を覗いた。
マップ上には目的地を示す赤いピンと、現在位置を示す青い光点がある。両者の距離は限りなく近い。
「お二人さん、もうすぐ到着だぜ」
「もうですか? ごめんなさい、私達だけで話し込んじゃって」
「気にしなくていいぞ、慣れてるからな」
若干遠い目をしながら、まるで悟りでも開いたかの様な俊介。大方、姉とその友達などに付き合わされた経験があるのだろう。
マップ上のピンが示すのは彼らから二十メートル程先にある十三階建ての建造物だ。そこは学園都市で最も大きな総合商業施設で、今も大勢の客が出入りしている。
館内には服や靴のブランドショップ、宝石店や家具店、他にも日用品などを取り扱う店などがバリエーション豊かに存在する。
目的地とする映画館はこの施設の七階にある。
三人が施設内に足を踏み入れた。
エントランスはアーチ型のガラス天井を持つ開放的な吹き抜けで、大勢の人が行き交う白と赤の石畳で出来た幅広の道が奥へと続く。その中央を隔てるように緑の植えられたスポットが作られ、白いベンチで囲まれている。道の両脇には数多くのテナントが入ったフロアが六つ積み重なっている。
だが何より目を引くのが、道の先――大きなドーム屋根の広場に天井から吊るされた巨大なクジラの骨格標本だ。その体長は恐らく、三十メートルにも迫る。
優雅に泳ぐまさにその瞬間を切り取ったようなポーズのそれは、遠目に見ても圧倒的な存在感を放っていた。
この場所に始めてきたルルワとアーサリアは、それを見上げて畏怖とも感嘆ともつかない声を漏らす。周りでは、二人と同じ様に立ち止まる人の姿も僅かながら見受けられた。
幾度が来たことがある俊介も「やっぱスゲェ」と溢している。
「んじゃお二人さん、そろそろ移動すっぞ」
「え、ええ。悪いわね、立ち止まったりして」
「良いの良いの、俺も最初はそうだったし」
いつの間にか、端末のマップが街を見下ろした構図の物から商業施設内の立体図へと切り替わっていた。しかも、目的地と現在地もそれに合わせて表示されている。
見た所、道の多くにある広場まで移動して、階段で七階まで上がるのが最短ルートだ。
二人を先導して、俊介は進んでいった。
円形の広場、そこを囲むように円形をした階段を登りきると、ガラス越しの陽光が眩しい広々とした空間に出た。
吹き抜け部分から少し距離を取って、七階から十三階までのフロアが積み上がっている故だ。
しかも、円形広場の部分はフードコートになっていて、他の部分と比べても広いスペースが確保されていた。
昼時では無いので食事をしている人の姿はまばらだが、これが食事時となると満席状態でたいそう賑わっているに違いない。なんせここからは、あのクジラの標本を至近距離で見ることが出来るのだから。
映画を見終わったら、ここで昼食を取るのも良いかもしれない。
三人はそんな事を考えながら映画館の入り口へと向かって行った。
その入り口の上には『マッシャーブルム・シネマ(Masherbrum Cinema)』と表示された大型ディスプレイが掲げられていた。
その画面が切り替わり、上映中の映画の予告編を映し出したのを視界の端に捉えながら、三人は内へ入った。
滑らかな石タイルの白い床には赤のカーペットが敷かれ、所々に観葉植物の植えられたスペースとそれを囲むベンチソファが見えた。壁面には映画の予告編などを上映するディスプレイが幾つか並ぶ。
三人から見て右奥にはグッズなどを取り扱う店があり、正面では映画鑑賞中に飲食する食品――主にポップコーンやジュースを販売しているカウンターが。
上映スペースへの入り口は左奥だ。
壁に掲示された時計を見ると、上映時間開始までは暫くの猶予がある。
「んじゃ、ポップコーン買いに行こうぜ」
折角映画館に来たのだ、食べないのは損だろう。
俊介を先頭に、販売しているカウンターへと向かった。
そこには天板に埋め込まれたタッチディスプレイが幾つもあり、客は各々それを使って商品を注文していた。
「俺は、Sサイズの塩にコーラっと」
代表してパネルの前に立った俊介がまず自分の注文を打ち込み、振り返ると二人に注文をどうするか尋ねた。
「そうね、ルルワは希望ある?」
そう聞かれて、ルルワはメニューをじっと見てから遠慮がちに口を開いた。
「……これが良いです」
彼女が指差したのは、塩とキャラメルが半分ずつ入ったLサイズのポップコーンに二つのドリンクが組み合わされた、所謂ペアセットというやつだった。
「分かったわ、私と分けるので良いわね?」
まさか一人で食べるなんてことはないだろう。
「はい、お願いします」
「それじゃあシュン、これでお願い」
「オーケー、ドリンクはどうする?」
「私はピーチティーで」
「私も同じのをお願いします」
言われた通りにペアセットを注文し、そして注文確定ボタンを押した。支払いを求められたので、俊介は私物の端末を取り出し翳した。ピピッという軽快な電子音が支払いの完了を知らせる。
「シュン、別に私達の分まで払わなくても……」
「そ、そうですよ」
「良いんだよ、有り難く奢られろ」
金なら有り余ってるしな、と笑いながら付け加えれば、二人は僅かに不満げな顔をしつつも引き下がる。
その間に、カウンターの向こうで忙しなく動くロボットアーム達がポップコーンとドリンクを注文通りに用意し、専用のトレーに乗せた上で客に差し出す。
それを受け取って――俊介が自分の注文したセットを、ルルワがペアセットを持った――三人はカウンターを離れた。
そのまま上映スペースへの入場口に向かうと、またしても俊介が端末を翳してそこを潜る。
「私達のスクリーンは何番でしたっけ?」
「七〇三だ、直ぐそこだな」
少し通路を先に行った、手前から数えて三番目の扉にその数字が刻まれている。
それは人が近づいたのを感知すると音を立てずに静かに開いて、ルルワ達三人を招き入れた。
三人が観たのは『半世紀戦争』と言うタイトルのノンフィクション作品である。
今から凡そ一世紀半前に勃発した、海洋世界で起こった最大の戦争。その始まりから終わりまでを精緻に描いた、人気小説シリーズを原作としている。
封切りがされたのは大分前だが、その人気は根強く未だ劇場での上映が続いていた。今年の興行収入ランキングでは、ダントツの一位だろうと目されている。
既に次回作の制作が発表されており、それを楽しみにするファンも多いという。
「かなり面白かったわね。何回でも観れるかも」
「そうですね。私は観るのは二度目ですが、やはり楽しめます」
「次回作って再来年だっけか? あぁ、早く観てぇ」
七階のフードコートで、三人は昼食を取りながら先程の映画の感想を話していた。なお映画館でポップコーンを食べたので、食事の量は控えめである。
「あれ?」
全員が食事を食べ終え席を立とうとした所で、俊介はどうしたのか声を溢した。
「シュン、どうしたの?」
「いや、何でも無い。気にすんな」
「そう……」
あの反応で何も無いという事もない筈だが……。
気になって、アーサリアは彼の見ていた方向に顔を向けた。そして一人の女性の後ろ姿を見つけ、納得がいった様子でうんうんと頷く。
その女性とは俊介の姉――玲衣だった。
つまり彼は予想外に自分の姉を見つけて、思わず声が出てしまったのだろう。
「あ、玲衣先輩が居ますね。私ちょっと挨拶しに……」
「ちょ、ちょっと待った‼」
同じく玲衣を見つけたルルワが、彼女の方に行こうとしたのを俊介が焦って止める。
何故止めたのかが分からず、ルルワは不思議そうな顔をして彼を見た。
「ほらルル、もう少ししっかり見てみなさい」
アーサリアはその理由を理解しているのか、ルルワにそう促す。
「……はい」
玲衣の方に目を凝らすと、どうやら彼女は一人で座っているわけではなかった。対面に居る人物と、食事をしながら楽しそうに談笑している。
一見、そこに挨拶へ行く事は何も問題無さそうに見えた。彼女の相手がもし、単なる友人であったのならばだが。
彼女の前に座るのは、玲衣と同い年だろう青年だった。ライトブラウンの滑らかな髪に、引き締まったラピスラズリの瞳。細く伸びた鼻梁には、スタイリッシュなメタルフレームのメガネが乗る。かなりの長身に見えた。
全体的に知的な印象を受ける彼は何処か困った様な表情をしつつも、愛おしそうな眼差しで対面の彼女を見つめている。
ここまで述べれば分かる事だろうが、彼は玲衣の恋人であった。二人は夏休み最後の日を、恋人同士でデートしにこのモールへと来たのだ。
「……お邪魔してはだめですね」
「ああ、そうしてやってくれ」
三人は改めて席を立つと、玲衣の方に向かうこと無くフードコートから離れていく。
「あれ、もしかしてあの子達……」
「エド、どうかしたのか?」
「いや、何でも無いよ。それより。はい、あ~ん」
その後ろには、互いに料理を食べさせ合うカップルの微笑ましい一幕があったとか、無かったとか。
このモールを訪れた主目的は映画館での映画鑑賞だったが、それだけというのも勿体ない。その後三人は特に宛もなく様々な店を冷やかし歩き、今日の夕食とする弁当を買ってから寮に帰った。
その夜の食卓では、疲れた様子で帰って来た兄に今日の事を楽しそうに話す妹の姿が目撃されている。
九月十一日――月曜日、午前七時三十分。
「行ってくるね。僕の挨拶、楽しみにしといてよ!」
「はい!」「せいぜい期待しておくわ」「噛んだら笑ってやるからな!」
相変わらず艶のある髪を靡かせ、カインはルームメイト三人に見送られて寮の部屋を出た。
彼は壇上に上がるので、その打ち合わせなどで式場に一般生徒より早く来るよう言われている。
一方で、一般生徒に分類されるルルワ達は出発するまでもう暫くの時間的猶予を持っている。
そのため彼らは出ていったカインを含む四人分の食器を片付けると、各々読書や、端末を弄って出発の支度をするまでの時間を潰した。
「う~ん、リボンが曲がっている気がします……」
「いや、気の所為だろ」
俊介の目にはそういった傾きは検出出来ないが、ルルワはそうでは無いらしい。
玄関口にある姿見に映る自らの姿を見ながら微妙に調整しては「違う」と再び調整。それを何度か繰り返してようやく納得したのだろう、彼女は「よしっ」と小さなガッツポーズを作った。
今調整した所で、後になればもう傾いている気もしたが、それを指摘するのも野暮だろう。
「あら、私が最後ね」
ゆっくりとした足取りで、制服に着替えたアーサリアが合流する。
彼女は靴箱から学園指定のローファーを取り出して、白い長靴下に包まれた自らの足をそこに収めた。
今日の入学式で、特に持ち物は必要ない。三人は手ぶらのまま部屋を出た。
エレベーターホールまで行くと、丁度出発時間のピークだったのだろう。制服を纏った大勢の新入生が居る。
「エレベーターは、だいぶ待ちそうね」
五機しか無いエレベーターには、それなりに長い順番待ちの列が形成されていた。
一機の扉が開くと、そこに五人程が乗り込む。そして下の階で止まると、先輩方を乗せて再び下へ。
最初は広々としているだろうが、一階で降りる時にはそれなりに窮屈なことは想像に難くない。態々並んでまでエレベーターに乗る必要もあるまい。
今まではエレベーターばかり使っていたが、ここから少し通路を行った先にエスカレーターも設置されている。
「エスカレーターで行きましょう。並ぶのも面倒だし」
「そうですね」「同感だ」
彼らが入ってきた場所の丁度反対側から広場を出れば、直ぐにエスカレーターのある場所へ着いた。
そこに乗り込めば、ゆっくりとした速度でそれぞれの身体が斜め下へと移動していく。
一階分降りると、三人は見知らぬ二年生の先輩に混じりながら更に階下を目指した。
入学式が行われるのは、本校舎では無くその直ぐ東にある大講堂だった。
この施設の最大収容人数は驚くことに、全校生徒数の三倍を超える四千人。外側は全方位ガラス張りで、内部には三フロア構造の広々とした空間が広がっている。ライトの類は点灯していないが、構内は降り注ぐ自然光のみで十分に明るい。
天井からは、鮮やかな青で校章の描かれた純白の垂れ幕が幾つか降ろされていた。
柔らかなクッション付きの座面を持つ席は普段床の中に格納されていて、必要な時に必要な数だけが出される。
今日は余裕を持って、第一フロアにある二千席の内、千五百の席が展開されていた。前方は新入生専用で、在校生はそこ以外であれば何処に座ろうと自由となる。
ただ、暗黙の了解として学年が若いほどステージに近い前方に着席していた。
現状、フロアの席は半分程が埋まっており、全校生徒の半数を少し超える程度が集まっていることが伺える。
その最前列の更に前、ステージを目前とした場所に大小二人の人影があった。大柄な教師が、隣に立つ自分と比べて頭一つ分以上小さい生徒に尋ねる。
「緊張しますか?」
「それは勿論」
生徒――カインは肩を竦めおどけた様子で返した。それを見た教師――ウスマンは「その様子なら大丈夫そうですね」と軽く頬を緩める。
試験監督をしていた時は基本無表情だった彼だが、昨日丸一日カインが原稿を書くのを手伝っていたのもあって二人の距離は少し縮まっていた。
気を紛らわす雑談をしている間にも、大講堂にはどんどんと生徒が集まり、席が埋まっていく。
その集まってきた生徒の中には、ルルワ達の姿もあった。
「あ、兄上……」
ルルワが遠目からカインを見つける。
「え、どこ?」
「あそこです、ステージの前」
彼女が指差しながら説明すると、二人もカインを発見できた様だった。彼女達はカインの方へと進路を向け進んでいく。
途中の人が多い場所を華麗な身体捌きで抜けると――俊介は失敗し置いてきぼりにされた――、カインに大分近づいた場所まで来た。
そこで二人は、彼の隣にもうひとりの人物がいることに気が付く。見たことのある人物だ。
誰でしたっけ、とルルワは記憶を探る。該当する人物は直ぐに見つかった。
「あの人、私達の試験を見てた先生ですね」
ウスマンはあの時、一切の自己紹介をしていなかった。そのためルルワ達は、彼の名前を知らない。
丁度そこで、立ち止まっていた二人に俊介が追いついた。
「俺を、置いてくなよ」
「あ、ごめんなさいシュン君。忘れてました」
「おい」
軽いじゃれ合いの様なものだ。三人は直ぐに歩みを再開した。
俊介は「何か俺の扱い雑じゃね?」と内心で涙を一滴だけ流した、かもしれないが気にすることではない。
三人が前から五列目辺りに差し掛かった所で、カインより先にウスマンが彼らの存在に気づいた。
「カイン君、お客さんですよ」
彼が後ろを見るよう促すとカインはその通りにして、視界に妹とルームメイトの姿を認めた。よっ、と右手を軽く上げながら声を掛ける。
「三人ともさっきぶり」
振り向いたカインの元に、三人は早足で駆け寄った。
「兄上、大丈夫ですか? 緊張してないですか?」
先程ウスマンにされたのと同じ様な質問に、思わず苦笑いを浮かべながら「大丈夫、大丈夫」と妹をなだめる。
その間に、ルルワの少し後ろに立っていたアーサリアがウスマンに話しかけられた。
「お久しぶりです、アーサリア嬢」
教師としての口調ではなく、その言葉には純粋な敬意が伴っていた。彼女を生徒としてではなく、公爵令嬢として接した口調だ。
それが耳に入った途端、彼女の纏う雰囲気が変わった。改めて姿勢を整え、両足を揃える。
「……と言っても、貴女は覚えていないかもしれませんね」
「申し訳ありません。生憎、貴方とお会いした覚えが無く」
「良いんですよ、あの時はまだ三歳でしたし」
どうやらウスマンとアーサリアは、彼女が幼かった頃に面識があったらしい。一方で、その言葉に引っかかる所があったようでアーサリアは思案顔を浮かべる。
「…三歳……という事は。もしかして貴方が、ウスマン先生、ですか?」
「……存じてくださったとは」
「そういう話を父から聞いたのです。学園で教師をしているウスマンという方と、私が三歳の頃に会った事があるんだよ、と」
ウスマンは、アーサリアの伯父――コンスタンスの教え子だ。彼がIAAの教師になる事が決まった年の夏休み、彼はコンスタンスの実家であるアンブローズ公爵家の艇宅――住居として用いる洋上艇――に招待され、その時にアーサリアとも会っていた。
その頃はまだウスマンも二十代と若く髪も今ほど長くなかったが、顔の印象はあまり変わっていない。
家にはその時の動画が残っており、それを観ていたからアーサリアはウスマンだと気付くことが出来た。
「懐かしいですね」
ウスマンはしみじみと、当時のことを思い出しているようだった。
「コンスタンス老に教わった私が、今度はあの方の姪である貴女を教えることになるとは、なかなか感慨深い」
彼の言うコンスタンス老が、学園で働くアーサリアの伯父である事はすぐに分かった。カイン達はその名前を、何処かで聞いた事がある様な気がした。
「おや、噂をすれば、ですね……」
ウスマンが、視線をステージ脇――正確にはそこにある扉から出てきた、灰髪の老人に向ける。
それに釣られて、カイン達もそちらを向く。
卵型の琥珀があしらわれた純黒の杖をつきながらも、しっかりとした足取りでこちらに歩いてくる老人。
ステージ前で段取りの確認を行っていた女性教師が老人に気付くと、彼女は慌てて姿勢を正して頭を下げた。老人は彼女に少し声を掛けてから、再びこちらへと向かう。
老人が、カイン達の正面で足を止めた。
「伯父様、お久しぶりです」
「元気そうで何よりじゃ、リアよ」
老人は好々爺然とした笑みを浮かべながら、その視線をアーサリアから外すと、最初に俊介を、続いてルルワを、最後にカインを見た。
「君が、新入生首席のカイン君か。母君によく似ておる」
僅かに小声で発せられたその言葉に、カインの心は大きく揺さぶられた。危うく驚愕の表情を晒すところだったが、何とか堪える。
「……母上を、ご存知ですか」
それでも、口が動くまでに少しの間は空いてしまった。
双子の母は、聖堂内の居室に篭もってばかりで外出することは殆ど無い。そんな彼女をこの老人は一体どうして知っているのだろうか。
カインの中にそんな疑問が浮かび上がる。
聖堂まで会いに来ていた? それとも、彼女の方から出向いていた? 分からない。
「あの方には色々と借りがあってのう、お主らをよろしくと言われておる」
ホッホッと笑う老人。その表情からは、何も読み取ることが出来なかった。
これ以上考えるのは思考の無駄だ。
そう判断して、カインは思考を破棄する。
「伯父様、そろそろ自己紹介でもしてくださいよ」
「おっと、まだじゃったか?」
「まだです」
「そうか、すまんすまん。儂はコンスタンス・アンブローズ、このIAAで学園長なんてものをやらせてもらっておる」
気軽な様子で口にされたのはしかし、とても信じ難い要職の名前だった。IAAの学園長とは即ち、この学園都市の最高権力者と言っても過言ではない。
アーサリアは知っているので何も反応しなかったが、双子はポカンと口を開けている。
「が、学園長⁉」
すっかり蚊帳の外だった俊介が、驚愕を露わに絶叫する。それは広い空間全体に反響して、大講堂に集まっていたほぼ全員が、その声がした方を一斉に向いた。
その眼圧にたじろぎながらも「す、すんません」と掌を立てて頭を下げると、すぐに興味を失って生徒達は視線を戻す。
一方の教師陣は、コンスタンス老の姿を見つけると「あぁ」納得して、各々の役割へと戻っていった。
「驚かせてしもうたか。すまんの、本栖の御曹司や」
「……い、いえ、大丈夫です」
自分の事も知っているのか、と俊介は内心で驚いた。
言っては何だが、双子やアーサリアと比べ自分が随分と劣っていることを彼は自覚している。彼らを上回る所となれば、実家の資本力ぐらいだろう。
「コンスタンス老、そろそろ……」
時計に目をやりながら、ウスマンが小声で伝える。
「うむ。では若者らよ、また会おうぞ」
「「「は、はいっ‼」」」「はい、伯父様」
四人に背を向けて、ステージの方へ戻っていくコンスタンス老。
「では、私も行きます。段取りは大丈夫ですね? カイン君」
「はい、しっかりと覚えてます」
「なら安心です」
ウスマンはコンスタンス老に付き従ってカイン達の元を離れていく。
しばらくして、入学式の開始を告げるチャイムが構内に響き渡った。
それと同時に陽光を取り込んでいたガラスが曇りだし、光を遮る。
暗くなった構内は生徒同士の談笑が止み、場が静寂に包まれる。
ステージの左脇を降りた場所に、眩しいスポットライトが落ちる。そこに居たのは、マイクを前に背を正した一人の女子生徒。
《これより、海洋暦二〇〇年度、国際海洋異能者学園の入学始業式を始めます》
凛とした女性の声が、スピーカーを通して全方位から聞こえてきた。
聞き覚えのある声だった。
よく見ると、話している女性は俊介の姉――玲衣だった。
どうして彼女が入学式の司会をしているのか分からなかったが、その疑問は次の言葉で氷解する。
《司会は私――生徒統括会で副会長を務めております、本栖玲衣です》
生徒統括会とは、千二百五十人居る学園生徒の頂点に君臨する組織だ。構成人数は十五名――各学年三名ずつ――と僅かながら、この学園にはその存在が必要不可欠である。
ありとあらゆる学校行事を取り仕切る、学園屈指のエリート集団、それこそが生徒統括会なのである。
玲衣がそこに所属しているのは、カイン達からして驚きだった。
どうぞよろしくお願いします、と彼女は一礼する。
《まず初めに、当校学園長より式辞を賜りたく思います》
玲衣を照らすスポットライトが消えると、左側の舞台袖近くに新たなスポットライトが落ちた。
そこに居るのは勿論、IAA学園長――コンスタンス・アンブローズである。
彼は堂々たる歩みで、ステージ中央に置かれた演台の後ろに立つ。
起立、と透き通った声が届くと、在校生は見事に揃う洗練された動作で、新入生はぎこちなくも素早い動作で立ち上がった。
《どうそ、着席しなさい》
わずか一言。だが、彼はそれだけで場を支配する。圧倒的なまでの存在感。
《儂はコンスタンス・アンブローズ。新入生諸君、儂は当校学園長として、君達の入学を大いに祝福する》
講堂内の隅々まで、威厳あふれるその声が届けられた。
《この国際海洋異能者学園は、次世代の人類の守護者となる強力な海能者を育てる為の学園じゃ。その目的に相違なく、学園には毎年極めて優秀で力ある生徒達が入学してくれておる。卒業生達も、優秀な海能者として世界中で活躍してくれておる》
事実、海獣対策の分野において活躍する著名人の殆どはIAAの卒業生だ。他にも、海能者の能力を別な場所に応用した研究で世界的に名の知れた人物なども多い。
《新入生である君達は、将来有望な海能者の卵であり、また君達を見事育て上げるのが私達学園の務めに他ならぬ。だが忘れてはいけない、君達は未だ子供じゃ》
コンスタンス老は最後の一節で、心なしか語調を強める。
《儂はこの学園が、世界最高の教育環境であると自信を持って断言しよう。子供である君達が五年後、大人になり卒業していくまで、儂ら教師は君達のする事、したい事を最大限助け、また導いていく事を約束しよう》
誰一人喋らない講堂内はしかし、熱気に包まれていた。
新入生の心を的確に掴む見事な手腕に、カインは感嘆する。
《君達がこの学園を巣立つ時、君達の前に確固たる己の道が築けている事を約束しよう。自らの意思で掴み取る、自分だけの道を。是非ともこの学園での生活と学びを楽しみ、また自らの糧としてくれたまえ。新入生諸君、入学おめでとう》
コンスタンス老が一歩下がり、舞台袖へ退場していくのを見送ってから、会場は熱烈な拍手に包まれた。
大勢の生徒が立ち上がって、興奮しながら拍手喝采を送っていた。
その後も式典は順調に進んだ。
学園長による式辞の後は、一般校では想像できない程豪華な来賓三名によって祝辞が送られる。
トップバッターは、海洋都市連盟会議で議長を務める人物だった。
その役目の者が来賓として壇上に登るのは、毎年度の恒例である。
彼の話は良くもなく悪くもなく、定型的にも感じられ、コンスタンス老の後というのもあって生徒達の関心を引くことは出来なかった。
その後も同じ、お手本のような――面白みがないとも言う――祝辞が二回続いて、三人目の来賓が壇上から降りる。
《来賓紹介に移らせていただきます》
今年度の来賓は先程登壇したのを合わせて二五人。
彼らは大講堂の外縁部に一列で座っていて、カイン達との距離も遠い。そのため、紹介が述べられるまで誰が来賓として来ているのかは分からなかった。
玲衣の声によって紹介されるのはエリート軍人や研究者、大企業の社長と言った、誰もが各界に名の知れた著名人達。この学園の凄さがひしひしと伝わってくる。
だが生憎、世間に疎い双子は終始「聞いたことはある気がするけどよく知らない」という感じだ。
アーサリアと俊介も、あまり大きな反応を示すことはない。
結果として、六〇八区画のメンバーは他と比べてリアクションが大分薄かった。とそこで、カイン達の席にウスマンが近づいて来る。
「カイン君、もうすぐ出番なのでこっちに来てください」
そう彼は耳元で囁く。
「分かりました」
静かに席を立ったカインはウスマンの後をついて舞台裏へと向かった。彼が見えなくなった直後に、来賓紹介が終了する。
《来賓の皆様、ありがとうございました。続きまして、生徒統括会会長――エドモンド・ヒラリーより在校生を代表して新入生へ歓迎の言葉を贈ります》
それを合図に舞台袖から現れたのは、制服を見事に着こなす長身の青年だった。今まで登壇した来賓と比べても、一回りは大きい。
彼は鈍く光るメタルフレームのメガネを掛けており、スポットライトが当たることで、滑らかな髪に金に輝く円環が現れている。
その容姿を見て、アーサリアは思わずルルワに尋ねた。もちろん小声で。
「ねえ、あの人見覚えが無い?」
「たぶん、モールでレイ先輩と一緒に居た人、だと思う」
ルルワにも心当たりがあったので、彼女はすぐに答えた。
昨日の映画鑑賞後、フードコートで見た玲衣と食事をしていた青年。壇上に居る彼の容姿は、その青年とそっくりだった。
二人は揃って、正解を知っているだろうルームメイトに視線を向ける。
「その通り。昨日モールで姉さんとお茶してたのがあの人だぜ」
隠すことでもないと、俊介は素直に彼女達の言葉を肯定した。
「「おぉ」」
それを聞いた彼女達が、興奮気味に声を漏らす。
その反応を見て、女性というのはやはり恋話が好きらしい、と呆れ半分に思った俊介である。
会話が終わるのと、エドモンドが演台の後ろで止まるのはほぼ同時だった。
彼は一拍おいてから話し出す。
《生徒統括委員会会長を務める、エドモンド・ヒラリーです》
耳触りの良いテノールの声は、心の奥底にするりと入り込んでくる様だった。
《私は在校生代表として、新入生である君達を歓迎します。この学園での生活は、君達に他の場所では経験できない様々な体験を与えてくれる筈です。この学園には、他の場所では出会えないだろう個性的な学友や先輩、後輩、教師が大勢居る》
彼は一瞬、ステージ下に立つ玲衣の方へと目を向ける。
《私もこの学園で、素晴らしい学友や尊敬できる先生方、何より、素敵な女性と出会うことが出来た》
羞恥の様子も見せず、彼はそう言い切り玲衣の方を向くと滑らかにウィンクをして見せた。
むしろ羞恥したのは玲衣で、マイクが入っていないから良いものの、そうでなければオロオロしている様子が筒抜けだったろう。頬も真っ赤に染まっているに違いない。
突然の大勢の前での惚気に、大半の生徒が呆気にとられる。
後方の席に座る、エドモンドや玲衣と同じ五年生だけは「あぁ、いつものやつだよ」と呆れ返っていた。彼らがこういった場所を問わずにピンク色の空気を生み出すのは、五年生達にとっては日常茶飯事らしい。
教師の殆どは「入学式で何やってんだ」と言わんばかりの様子。残った一部は「リア充しやがってぇ」と悔し涙を流さんばかりである。
エドモンドが先程言った『個性的な教師』というのはこういう事なのだろうか。
来賓の内IAA卒業生は凡そ教員と同じ反応で、そうでない人達はポカンと口を開けている。
「レイ先輩、愛されてるみたいで良かったですね」
「そうね、彼女も照れてるけど何だかんだ嬉しいみたいだし」
見れば、玲衣は口元がにやけそうなのを必死に堪えていた。この間会った時の凛とした姿とは別人のようである。少し微笑ましい。
「……姉さん、良かったな」
ボソッと呟いた俊介の声は、誰の耳にも届かなかった。
何とも言えない場の雰囲気を無視して、エドモンドは話を再開する。
《これからの五年間で、君達も私と同じ様に多くの素晴らしい出会いに恵まれるでしょう。この学園はいい場所です。私は後一年程で卒業ですが、正直、もう二年ぐらい学園生活が続いて欲しいと思う事もあります。これからの君達の学園生活が、一生の中でも大切な思い出となるような、素晴らしい物となる事を心から祈っています》
彼が一礼すると、まずは後方から拍手の音がまばらに聞こえ始める。それは徐々に広がり、彼が舞台袖へ去るのを、ほぼ全ての生徒が拍手と共に見送った。
《会長、ありがとうございました。続いて、新入生首席――カイン・インテグレータによる新入生代表挨拶です》
スポットライトを浴びたエドモンドが歓迎の言葉を話すのを横から眺め、本番直前の緊張に舞台裏に立つカインは思わず唾を飲んだ。
そして万が一にも失敗しないため、これからの順序を頭の中で再確認していった。
まずは、玲衣の司会進行をしっかりと聞く。
カインはそれに合わせ舞台袖から出て演台へと向かう。これが約五秒間。
そこで止まり身体を正面へ向けて、一歩前に踏み出してから喋り始める。
原稿は、頭の中にきっちり全部入っている。
挨拶が終わると、次は一礼して一歩下がり、また舞台袖の方へと戻る。これも行きと同じく五秒だ。
大丈夫、覚えてる。
半ば自分に言い聞かせるように、心の中でそう繰り返した。
胸に手を当てながら、深呼吸を三回。最後に息を吐きだせば、もうカインの顔に緊張の陰は無い。
「カイン君、大丈夫ですか?」
「はい、平気です」
エドモンドが話を終え、カインたちの方へと向かってくる。
彼はカインを見て、僅かに微笑んだ様に見えた。きっかり五秒で舞台裏へと戻ってきたエドモンドが、すれ違いざまにカインの肩を軽く叩く。
「頑張ってね」
それだけ言って、彼は奥の方へと去っていった。
まさか声を掛けられるとは思っていなかったのでカインは驚いた。
しかしそうしても居られない、彼が戻ってきたということはつまり、すぐにカインの番がやってくる。
《会長、ありがとうございました。続いて、新入生首席――カイン・インテグレータによる新入生代表挨拶です》
玲衣の声を聞いてすぐに、カインは歩き出した。
ウスマンの方を少し見ると、タイミングは大丈夫だったようで頷いてくれる。
眩しさで思わず、スポットライトが点灯した一瞬だけ目を細めるカイン。
照らし出される神秘的な容貌に、全校生徒のみならず来賓や教師までもが視線を向けている。
心理的重圧を感じながらも、それを表に出すこと無く歩く。
頭の中で、歩いた時間をカウントした。
一秒。
二秒。
演壇と舞台袖の中間地点に到達。少し、早かったかもしれない。ほんの少しだけ、速度を緩める。
三秒。
四秒。
演壇は目前だ、あと一秒。
五秒。
そのカウントより僅かに遅れて、カインは演壇の真後ろで停止した。誤差の範囲と言っても問題ないだろう。
普段より重い気がする足を動かして、一歩前に踏み出す。
《新入生代表――カイン・インテグレータです》
普段聞くのとは違う、マイクを通した自分の声が構内に響いた。
ここから二分、失敗は許されない。
頭の中に思い浮かべた原稿を読むように、口を動かす。
《私は、この学園に入学できたことをとても嬉しく思います》
緊張で少し声が硬い。
《この場所で出会えるだろう学友や先輩方、先生方。これから学ぶだろう多くのことを考えて、私はとても興奮しています。ここでしか無い出会い、ここでしか無い学びが、この学園にはきっとある。そう思うから》
しかし徐々に緊張が薄れ、聞き取りやすい滑らかな声となる。
《私は、学校という場所に通ったことがありません》
その発言を聞いて、大講堂に居た殆どの人物が動揺の声を漏らした。
例外と言えば、事前に原稿を読んでいたウスマンと、彼の生い立ちを知るコンスタンス老。それから妹のルルワぐらいだった。
《幼い頃から、私の学習は常に孤独でした。皆さんが持っているだろう、互いに机を並べて、切磋琢磨できるような存在と、私は出会ったことがない。分からない所を、教え導いてくれるような存在と、出会ったことがありません。それは別に、悲しい事じゃあ無い》
ただ少し、寂しいだけだ。
《でも同時に、そういった存在への憧れとでも言うべき感情が、私にはあります》
一度でも良いから、学友や先輩、教師というものと共に学びたい。何度もそう思った。
《だから私は、この学園に入学できたことを心から嬉しく思い、また多くの出会いに恵まれるだろうこれからの学園生活を、とても楽しみにしています。皆さん、よろしくお願いします。新入生代表――カイン・インテグレータ》
軽く一礼をしてから、カインは一歩後ろに下がる。
行きと同じ場所を、ほぼ同じ速さで、逆方向に歩いていく。
最初はまばらだった拍手が波のように周囲へと広がる。その震源は、最前列の中央部に座すルルワ達だった。
カインが舞台袖に到着し、スポットライトが消灯する。
拍手の音は徐々に収まっていき、大講堂は再び静寂に包まれた。
《ありがとうございました。以上を持ちまして、海洋暦二〇〇年度、国際海洋異能者学園入学始業式を終了いたします》
玲衣が式の終了を宣言すると同時に、曇っていたガラスが一斉に元の透明度を取り戻す。高い位置から降り注ぐ昼の太陽光が、構内を明るく照らし出した。