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最強の海洋  作者: 空ノ横笛
◇Episode 1〈Silver Integrator〉
2/6

◇Chapter 1〈Twins from the Ark〉

 海洋暦二〇〇年九月八日――金曜日、カラコルム諸島時(KIT)午後三時。

 果てなく続く大海原の真ん中を一隻の船が進んでいた。洗練された白いボディを持つ中型の高級クルーザー。そのデッキには両者銀髪をした二人が並んでいた。

 一人の少女は濃紺のブラウスに水色のリボンを締め、軍服にも似た意匠の白ブレザーを纏う。胸元には水晶を思わせる透明なロザリオが、陽光を反射して煌めいている。

濃紺の膝上丈スカートは肩口で切りそろえられた髪と共に海風に靡き、その可憐な容姿は美少女と言うに相応しい。

 もう一人は濃紺のワイシャツに水色を基調としたネクタイを締め、少女と同様のブレザーを羽織る。胸元にはやはり、少女と同じ透明なロザリオが輝く。

ブレザーと同じ白地のスラックスはその細く伸びた足を際立たせていた。腰まで届く長い髪が揺れる様子はとても美しく、切れ長の目が見た者に怜悧な印象を与える。

美少女というよりも美人と表現したくなる容貌。だが生憎と、この人物にその表現は適切ではなかった。

何故ならば、その性別が男に他ならないからだ。如何に見た目が美人であろうと、女でない人物を美人と呼ぶことは憚られる、少なくとも一般的には。

 同じ意匠の服を着ている二人は些細な違いはあるものの、顔立ちや体格もどこか似通っている。それもその筈で、この二人は同じ母の元に生まれた双子の兄妹だった。

唯一、二人の間で明確に異なる要素、それは瞳の色だ。少女の瞳は海を思わせるサファイアブルーなのに対し、少年のそれはアメジストにも似たロイヤルパープルをしている。

「そろそろ船内に戻りましょうよ。学園都市まであと三十分です、荷物の支度をしないと」

「いや、僕はまだ大丈夫。もう少し風に当たっていようかな」

「そうですか、了解です」

 そう言って、少女は船内へと戻っていく。少年――カインは妹が船内に戻ったのを確認してフゥっと息を漏らした。

視線を下に向けて揺れる海面を覗く。するとそこに小さな魚影が一つ、船と並走するように泳いでいた。カインは右手の人差し指を、フッと跳ね上げる様に動かす。

すると海面を突き破って、その魚が飛び上がってきた。いや、魚らしきものと言うべきか。

 体長一五センチ程の平たいシルエットは魚そのもの。しかしその体は青く透き通って、とても生物の身体とは思えない。

 カインは魚モドキが眼前の高さまで来た所で、見事にその尾ビレを掴む。魚モドキはバタバタと全身で暴れるが、カインの手からは逃れられなかった。

(綺麗だなぁ…)

 身体越しに光が屈折する様はカインに何とも言えない美しさを感じさせる。

 この透明な魚モドキは海獣(オーシャン・ビースト)と呼ばれる摩訶不思議な生き物だ。今から凡そ二百年前――〈反故の大洪水〉などと呼ばれる天変地異の直後に現れた謎の生命体。

判明しているのは、彼らの身体を形作るのが海水と同じ組成の物質であること、彼らは通常の手段では傷つけられないこと、そして……。


人を襲うこと。


 彼らの身体は地球上に嘗て存在した、もしくは現在も存在する海棲生物を模している。カインが今掴んでいる海獣も、過去存在したか現在も存在する魚の形を模したものだろう。当然だが、魚以外の形を成す海獣も居る。

 彼の手に捕らえられた様な小さな海獣は等級外海獣と呼ばれるもので、原則的に人を襲わない、或いは襲われても害を与えられない海獣である。まあ身も蓋もない言い方をするならば、とても弱い、という事だ。

 等級外と言うからには当然、等級の付けられた海獣というのも存在した。彼らは人を襲う海獣であり、その危険度に応じてA級からD級までの四等級に区分される。その中にも更に細かな区分があったりするのだが、それは然るべき時に述べるとしよう。

 そして人類には、そんな海獣達に対抗するかの如く新たな能力を獲得した者達が居た。海洋系異常能力保持者――通称海能者(アクエリアス)。海を操る能力を持った人類の希望。こちらも海獣同様に誕生の経緯は不明だが、海獣と同様に反故の大洪水が終わってからその存在が確認された。

 海獣は通常の手段では傷つけられない――正確には傷が残らない。

一時的に傷をつけられたとしても、周囲の海水を取り込むことで直ぐに再生してその傷を消してしまうからだ。

だが海能者は、そんな海獣に傷を残す事ができる。原理は未だ解明されていないが、海能者の能力によって与えられた傷は再生されない。

彼らは海獣に『攻撃』することが出来る唯一の存在だった。

 海能者はその特性から、反故の大洪水以降の海洋世界(オーシャンワールド)において上位者――即ち特権階級としての地位を確固たるものにしている。何せ、海獣の襲撃から街や人を守れるのが海能者を置いて他に居ないのだから。

 カイン達双子が向かっているのは、そんな海能者達の中でも選りすぐりに優秀な若者達が集まる場所。国際海洋(インターナショナル・)異能者学園アクエリアス・アカデミー――通称IAA。現在存在する最大規模の国際組織、海洋都市連盟によって運営され、学園都市マッシャーブルムに存在するその学園は、対海獣戦力として次世代の強力な海能者を育成することを目的として今から丁度百年前に設立された。

 十五歳で入学した少年少女達には、世界で最も恵まれた学習環境で五年間、優秀な海能者となるための教育が施される。

双子の着ている服は、まさにそのIAAの制服だった。

「IAAに入学して来なさい、って。僕らは別に入学する必要ないと思うんだけどなぁ。母上は何を考えてるんだか…」

 魚の海獣を眺めながらカインが溢す。

 彼が学校という施設に入るのはこれが初めての事だ。必要ない、と言葉では言いつつも、カインの口は機嫌の良さそうな弧を描く。

「兄上~、そろそろ戻ってきてください」

 気づくと結構な時間が経っていたらしい、船内から妹の呼ぶ声が聞こえてきた。

了解、と妹に返事をしてカインはデッキから去っていく。彼に捕まえられていた哀れな海獣は、お手本の様な放物線を描いて海の中へと投げ戻された。


 カインが船内に戻ると、妹は荷物の支度を終えて紅茶を飲もうとしているところだった。

アンティークな丸テーブルの上にはガラス製と思しき透明なティーポットと、紅茶の入ったカップとソーサーが二組置かれている。カインを呼び戻したのはおそらく、彼の分まで紅茶を入れてくれたからだろう。

「紅茶ありがとう、ルル」

 ルル、というのは妹――ルルワの愛称だ。

「いえ、自分のついでですから」

 そう言ってから彼女は自分のカップに口をつける。優雅で洗練された仕草と彼女の容姿が相まって一枚の絵画のようにも感じられる。カインも妹と対面になる椅子に腰を下ろすと、ソーサーごと少し持ち上げてからカップを口元まで運び一口。

「やっぱり、ルルが入れてくれる紅茶は美味しいよ」

「ほ、褒めても何も出ませんから」

「はいはい」

 声は素っ気無いが、頬が軽く染まっていて照れを隠しきれていない。

 我が妹ながら可愛らしい、などと思っていると、《もう十分程で目的地に到着します》と船の航行制御プログラムが無機質な合成音声で告げた。

「兄上、荷物は大丈夫ですか?」

「平気だよ、ほら」

 カインが視線を向けたところには、特にかさばっている様子もないメタリックのスーツケースがある。彼の荷物は全て、その中に収納されていた。。

「確かに、兄上は荷物が少ないですからね」

 一方でルルワはかなり多くの荷物を持ってきている。今使っているティーセットもその一つだ。

学園は全寮制なので、どうしてもこういった持ち物が多くなってしまう。

 カインは私物があまり無いので無理もなく収まっているが、着替えなどといったかさばる荷物は配送で送っている。予定では今日の夜か明日の朝に学園の寮に届くとなっていて、スーツケースの中に入っている衣服はパジャマと下着が一セットだけだ。

「では兄上、私はティーセットの片付けをしてきます」

「了解、手伝おうか?」

「いえ、結構です」

 妹がキッチンの方へと消えていくのを見送ってから、カインは正面の大きなガラス窓に目を向けた。

 その向こう側には、果てしない大海原とそこにポツンと巨大な都市が存在した。


 高級クルーザーだけあって、搭載されたコンピューターも優秀らしい。その到着予定時間は極めて正確だった。アナウンスから丁度十分後に、双子の乗る船はIAA専用の港へと入港する。

 そこは既に、双子と同じ新入生であろう少年少女や、談笑をする保護者達で大いに賑わっていた。

IAAに入学する者の殆どは、別の都市を出身地とする。強力な海能者の家系は総じて財産も多い傾向にあり、だからこそ個人所有の船でこの学園まで来る生徒も珍しくは無い。高級クルーザーでやって来ることも、希少な例だが、一学年に数人は居た。

にもかかわらず、双子の乗る船はかなりの注目を浴びていた。その船から降りてきた二人も同様に。

先程まで賑やかに話していたグループも、声を潜めてカイン達をチラチラと見ている。

「兄上、何故私達はこんなに見られているのでしょう」

「さあ?」

 さっぱり分からん、といった様子でカインは肩をすくめた。実際、彼にとって見れば何故自分達が注目されるのかは全く分からなかった。

「……まあ、気にする必要もないし、早く寮に行こう」

「そうですね」

 少々居心地の悪い思いをしながら、双子は港中央に構えるIAAに続く大きな門へと進んでいった。

 かなりの注目を受けていながらも、双子に声をかける者は誰も居なかった。

 大理石だろう乳白色の石で造られた門には精緻な彫刻があちこちに施されている。そこをくぐって、双子は並木道の続く学園敷地内へと消えていく。


 双子が校内に入って少しすると、港内は徐々に騒がしさを取り戻していく。ただ、その話題は先程までとは異なって、銀髪の()()の話へと変わっていた。そう、()()の話に。

「なあ、あの紋章って……」

「あぁ、枢機卿(カーディナル)の紋章だ」

 二人の新入生が見ていたのは、あの二人が乗っていた船、その船首に描かれた紋章だった。

 大きな緋色(カーディナルレッド)の十字架。特徴的なのは、十字架の四つある端部がひし形にくり抜かれている所だろう。さらに交差部分は真円にくり抜かれ、その中にまたシンプルな意匠の十字架が見て取れた。

その紋章は、世界中にたった五人しか居ない枢機卿の位を示したものだった。

「しかも、中央枢機卿セントラル・カーディナルか……」

 枢機卿というのは元々、教皇を補佐する聖職者である。だが、反故の大洪水を経て、幾度かの組織改革に伴ってその役目は大きく変わっていた。

 カトリック教会の総本山――十字教(Catholic )船ノア(Ark Noah)。数ある海上都市の中でも名の知れたその洋上艇は、上空から見ると名前通りに十字架を模した形をしている。それぞれが東西南北を見事に向いているため、方角ごとに北エリア、南エリアなどと呼ばれていた。そして枢機卿は、各エリアから選ばれた聖職者の代表なのだ。

 北方(ノーザン)枢機卿(カーディナル)南方(サウザン)枢機卿(カーディナル)西方(ウェスタン)枢機卿(カーディナル)東方(イースタン)枢機卿(カーディナル)と呼ばれる彼らは、それぞれの行政の長としての役目も担っている。

 枢機卿の残り一人は、教皇直々の指名によって選ばれる中央(セントラル)枢機卿(カーディナル)だ。その役目は教船の中枢、十字架の交差部にある十字船大聖堂(クロスアーク・カセドラル)の管理である。また、他の枢機卿とは異なり、その姿や名前が公表されたことはなかった。

ただ一つ、まことしやかに囁かれる噂として「中央(セントラル)枢機卿(カーディナル)は女である」というのがある。そのことから一部では『方舟の(Saint of)聖女( the Ark)』などという異名が与えられていた。

 紋章の十字架の交差部、その中にある十字架は担当エリアが中央部であると表している。つまりあの紋章は中央(セントラル)枢機卿(カーディナル)のそれだ。

 その紋章が描かれた船から降りてきた、あの二人は果たして……

「…孫、とか?」

「いや、娘という線も否定できないぞ」

「それにしても、すごく綺麗だったよね」

「そうだな、あんな美人初めて見た」

 まさかカインが男であるとは、誰も思っていなかった。


校内に入れば、双子を見る視線は殆ど無くなった。

「兄上、寮は何処にあるでしょう」

「たぶん、近くに案内板とかが……あったね」

 すぐ近くに見つけた案内板に視線を巡らす。そこには校内の大雑把な地図と、各施設の簡単な説明が書かれている。

「えっと、寮はここから坂を登って…左に曲がった所を道なりに行けばあるみたい」

「分かりました」

 広い道路の左端、磨かれた石タイルの、中央から一段盛り上がった歩道を歩いていく。道沿いには一定間隔でLED灯が配置されていて、夜になれば明るい光を放つことだろう。

進んでいくにつれて、IAAの本校舎がその威容を見せ始めた。

三十階建ての超高層ビルは、一面のガラス窓で陽光を反射して煌めく。縦に一筋走る灰色の線はコンクリート製の支柱だ。屋上からはいくつかの細い柱が立てられ、白地に青色でこの学園の運営母体である|海洋都市《Ocean States 》連盟(Federation)の紋章――オリーブの枝を交差させた輪に囲まれた五重の同心円――が描かれた旗が靡いていた。

 傾斜のきつい坂を登りきると現れる円環交差点(ラウンドアバウト)、中央には石畳の広場と、時計を兼ねた大きなオブジェが鎮座している。

そこを左に曲がった先に寮があるはずだ。

 湾曲した道を歩いて、分岐点で左へと体を向けた。視線を上ければ、六階建てのこれまた大きな建物が見て取れる。

 ふと、前から一人の女性が歩いてきた。

艶のある黒髪を三編みで後ろに垂らし、少し吊り目な目元は手元にある端末にだけ向けられている。僅かに色の濃い肌は、彼女がアジア系であろう事を示していた。

 年は二十歳くらいだろうか、カイン達よりも大人びた風貌をしている。私服姿だが、おそらくIAAの生徒だ。最高学年の五年生であると思われた。女性としてはかなりの長身で、カインよりも背が高い。

 双子は軽くお辞儀をして隣を通り過ぎた。

 彼女はすれ違ってすぐ後ろへと振り向き、薄っすらと笑みのようなものを浮かべた。


 その後、何人か先輩とすれ違って双子は寮へと到着した。

 ガラスの自動ドアを潜れば、そこはさながら高級ホテルのロビーだ。

 磨かれた灰色石のタイルが敷き詰められた床には赤のカーペットが敷かれ、吹き抜けの天井からは煌めくシャンデリアが吊るされている。歓談エリアだろうソファやローテーブルの並べられた場所では在校生と思われる私服姿の人がちらほらと見られる。

 だが、そんな彼らもチラチラと双子の方へと視線を向けていた。整った容姿もそうだが、身に纏う何処か高貴な雰囲気がそうさせるのだろう。

 双子は視線が向けられているのを感じながらも、それを意識から排除して奥にあるフロントへと向かう。

 そこには、特に人が居るわけでも無かった。カウンター越しに一枚の暗いディスプレイが存在するだけだ。

 カインは手元の端末に、家へと事前に送られてきた生徒証を翳す。

《入学おめでとうございます、新入生カイン・インテグレータ》

 いつの間にか、音声波形を示しているのだろう青色の円環が画面中央に映し出されていた。

《そちらは、ルルワ・インテグレータですね。入学おめでとう》

 ルルワは、生徒証を翳していないのに自らの名前が出たことに驚くが、よく見るとディスプレイ上部に複数のカメラが付いている。どうやら映像からルルワを認識したらしい。

《お二人の部屋はこちらになります》

 淡白な、男性とも女性ともつかない声がそう述べれば、画面には《カイン・インテグレータ、六〇八区画五号室。ルルワ・インテグレータ、六〇八区画二号室》と表示された。

「同じ区画(セクション)か……」

「そうですね」

 この学園の寮では、区画(セクション)という独特の生活共同体が存在する。

それぞれ同学年の生徒が五名ずつ所属し、共用のダイニングを兼ねたリビング、キッチンやバスルームなどが区画ごとに与えられる。簡単に言うならば、シェアハウスの同居関係とほぼ同じだ。

勿論、寝室は個人用のそれが用意されている。

双子は同じ区画に配置されたことを嬉しく思った。

「じゃあ、行こっか」

「はい、兄上」

 二人が去ると、ディスプレイは再び暗くなった。


 フロントから少し行った所にエレベーターがある。双子はそれに乗り込むと、六階のボタンを押した。

「あっ! ちょっと待ってぇ」

 扉が閉まろうとした所で、慌てた様子の声が聞こえる。

カインがドアを開くボタンを押すと、閉まりかけの扉が一周停止し、再び開く。

「あ、ありがとう」

 頭を下げて礼を言ってきたのは、ルルワと同じ制服を着た新入生だろう少女だ。

 長い金髪をハーフアップにしており、綺麗な卵型の顔にスラっと伸びた鼻梁、ターコイズブルーの瞳を持っている。身長は、ルルワより少し低いくらいだろうか。

 彼女は両手で、大きな可愛らしい装飾の施されたキャリーケースを持っていた。

「どういたしまして。それより、君も六階でいいのかな」

「え、ええ。それでお願いするわ」

 寮には、各階ごとに一学年分の生徒が住んでいる。同じ階、という事は同じ学年の証だ。

 扉が閉まると、三人はエレベーター独特の加重感を感じ始めた。扉上部に付けられたディスプレイは籠が上昇していることを示す。

「六階ってことは、あなたも新入生なの?」

「そうよ」

 ルルワの質問に、少女は肯定の返事をした。

 現在寮は、二階が五年生、三階が四年生、四階が三年生で五階は二年生、そして最上階の六階が新一年生に割り当てられている。因みに寮の部屋は卒業まで変わることはない、来年度の新入生には、空いた二階が割り当てられることだろう。

「私はルルワ、これから五年間よろしくね」

「こちらこそ宜しく。私はアーサリアよ。リアでも、何だったらアーサーと呼んでくれたっていいわ」

 アーサーは男性名ですよ、と思ったのかは知らないがルルワの顔に苦笑が浮かぶ。

「それは流石に……。私は普通にリアって呼びます。それと、私のことはルルで」

「分かったわ、ルル。ところで、そちらは貴女のお姉さん?」

 アーサリアは、隅の方で黙っていたカインを見ながら言った。二人の間に血縁関係があるのは、初対面でも分かるらしい。

「いえ違います。姉じゃなくて兄ですね」

「へぇー、お兄さんなのね―――――ってその見た目で⁉」

 見事なツッコミ。

 確かに、長いまつげに縁取られた目や桜色の唇、細い眉毛を持つ顔は女性のそれにしか見えない。勘違いしてしまうのも無理はないだろう。カインも、勘違いされる事に関しては諦めている。

 だからといって、この髪型やらを変えるつもりもなかった。自分にはこれが一番似合うのだという自信すら持っている。

「こんな見た目だけど、兄のカインです。よろしく、アーサリアさん」

「よ、よろしく」

 二人が挨拶を交わした所で階数表示が六になった。僅かな浮遊感と共に扉が開く。

 降りたところは、一階の歓談エリアと似た用途を持っているようだった。正方形の室内、その真ん中が一段下げられていて、いくつかの円卓とそれを囲むように椅子が置かれている。その奥はエントランスと繋がる吹き抜けに面していて、巨大シャンデリアを吊るす鎖が見える。

 そこでは、多くの新入生たちが交友関係を広げようとしていた。

 エレベーターから出て来た三人に、一斉に視線が集まる。

 それぞれ系統が違うとは言え三人は優れた容姿の持ち主だ、注目を集めるのも仕方がない。

「そう言えば、アーサリアさんは何処の区画なの?」

「リアでいいわよ、貴方も。えっと、確か六〇八ね」

 彼女の口から発せられたのは、偶然にも双子と同じ番号だった。

「それ、私達と同じ区画です。ねえ、良かったら一緒に行きません?」

「そうね、一緒に行きましょうか」

「二人共、僕らの区画はこっちみたいだよ」

 カインは素早く案内板を見つけると、自分達の区画の場所と道筋を確認して二人に伝えた。

 三人は連れ立って移動していく。

 見えなくなるまで、広場に居た生徒は皆、彼らを目で追っていた。


 三人は、六〇八区画(セクション)と書かれた金属プレートの掲げられた金属扉の前に到着した。

 この寮は上空から見ると口の字型をしていて、カイン達の区画は丁度その曲がり角部分に存在している。因みに、くり抜かれた中央には巨大な庭園がある。在校生のカップル達にとっては、ムードがあると人気らしい。

プレートには、部屋番号の他に小さな文字でこの区画に所属する五人の名前が記されていた。勿論だが、カイン達の名前もある。

 先頭にいたカインが生徒証を翳すと、扉がシュッと音を立てて横にスライドした。

広い玄関口、そこから小さな段差を挟んでリビングへと繋がる。

「やっと来たか」

 奥から、高身長な少年が顔を出した。

 漆黒の短髪で、同じく黒の瞳を持つ。少し色の濃い肌は、アジア系の特徴だ。白のポロシャツにモスグリーンのカーゴパンツを穿いている。細身だが、服の上からでも鍛えられているのが分かった。

 彼はカイン達を見ると、愛嬌のある笑みを浮かべる。

「君らが俺のルームメイト?」

 同じ区画のメンバーは生活空間の一部を共有する。そう考えるとルームメイトと言う呼び方も間違いでは無いだろう。

「そうだね」

「お、やっぱそうか。俺は本栖俊介(モトス・シュンスケ)、シュンって呼んでくれよ」

「オーケー、シュン。僕はカインだ」

「ルルワです」

「アーサリアよ」

 三人が名前を言えば、俊介は視線を往復させながら「カイン、ルルワ、アーサリア」と何度か小声で繰り返す。

「よし覚えた、ってあれ。カインって事は、もしかしなくてもお前、男だったりする?」

 案の定、俊介はカインの名前と見た目の違いにひどく戸惑っているようだ。まあ、こういったリアクションには慣れている。

「そうだよ」

「えっ、マジで⁉」

「マジで」

 俊介としては冗談のつもりだったのだが、真剣に肯定されるとどうして良いのか分からなくなる。

「ま、まあ。何時までも玄関でっていうのはあれだし、取り敢えずリビングで話そうぜ」

 左手を振って、リビングに繋がると思われる廊下を示す。

俊介の招きを受け、三人はそのまま進もうとした。だが足を踏み出した所で、俊介から僅かに慌てたような声が発せられた。

「おっと、そこからは土足厳禁だから」

 彼が指差したのは、玄関口から床への切り替わり地点にある小さな段差だ。見れば俊介は、靴を履いておらず裸足だった。

 三人はそこで靴を脱ぎ、俊介の待つリビングルームへと向かった。


 リビングに置かれていたL字型のソファに全員が腰を下ろす。

 靴を履いていないのが落ち着かないのだろう、アーサリアは何処かソワソワしている。一方で双子は特に気にしている様子はない。

そんな状態で、まず口を開いたのは俊介だった。

「んじゃ改めて、俺は本栖俊介、出身は(よう)()(てい)フジだ」

 洋機(Mechanical)( Floating )フジ(City Fuji)――極東の海に浮かぶ世界最大規模の海上都市。人口は三百万人を超えている。また、独自の『ニホン文化』でも知られ、観光地としても高い人気を誇る。

 室内で靴を脱ぐのも、このニホン文化の一つだったとカインは記憶していた。

「次は私かしら?」

 アーサリアが尋ねると他の三人が頷く。

「えっと、私はアーサリア、アーサリア・アンブローズよ。出身は……」

「ちょ、ちょっと待った⁉」

「……何?」

 途中で遮られたからか、アーサリアの声は少し苛立ちめいたものを感じさせる。だが、遮った本人の俊介にはそれに気付く余裕はなかった。何故なら……

「アンブローズ家ってあそこだよな、英艇唯一の公爵家」

 それを聞いて双子は「そういえばそんな家があったなぁ」と、IAAに来る前に詰め込まれた知識を思い出した。

 アンブローズ公爵家――英艇(British )ベン(Marine)( City)ネビス(Ben Nevis)の軍事を預かる、王家の血を引く由緒ある家系。強力な海能者を輩出する事でも知られている。

現当主――ウーゼル・アンブローズ=マーリンなど世界に僅か十三人しか居ない特級海能者の一人だ。

海能者は原則として、能力の強さでA級からD級までの四等級に分けられる。そして特級海能者とは、その枠に収まらない強さを持つ者達の事を指してた。

 英艇ベン・ネビスは、フジと同じく世界最大規模の海上都市の一つ。反故の大洪水以前から続くイギリス王室によって統治されている。人口は二百五十万人程。

「ええ、そうよ」

「おいおい、そんなのもう姫様じゃねえかよ」

 確かに、公爵令嬢ともなれば最早姫と言っても過言ではないだろう。ただアーサリアは、その言い方が癪に障ったのか僅かに顔を歪めてから、逆転の言葉を放った。

「貴方がそれを言う?フジの五大財閥が一つ――本栖グループの御曹司さん」

「げっ」

 今度は、俊介が嫌な顔をする番だったらしい。

 本栖グループとは、洋機艇フジに本社を置く国際的な企業グループだ。金融業に食品生産、軍需産業や電子工業など幅広いジャンルを手掛けている。それを経営しているのが、本栖一族――つまりは俊介の実家なのだった。

 本栖一族の総資産は、ゆうに五兆統一価値電子通貨(ユーベック)を超える。

 フジには、こういった一族経営の巨大企業グループ――つまり財閥が五つ程存在するが、本栖グループはその中でも突出していた。

「私より貴方の方が良い生活してたんじゃあない?」

「なわけ無いだろ、うちは庶民派なんだよ」

 公爵令嬢が厭味ったらしく述べれば、御曹司がちょっと理解し難い理由でそれを否定する。庶民派の御曹司とはこれ如何に。

 言い争いが激化しそうな気配に、すっかり蚊帳の外だったカインが軽く咳払いをする。

 それが聞こえた様で、二人はバツの悪そうな顔を浮かべて矛を収めた。

「ゴメンなさい二人共」

「あぁ悪い。次はお前らの番だったな」

「いや、気にしてないよ。な、ルル」

「はい」

 二人は本当に気にしていない。ただ、あのまま続くとかなり時間が掛かりそうだと考えて止めただけだ。

「僕はカイン、カイン・インテグレータ。さっきも言ったけど、男だよ」

「私はルルワ・インテグレータと言います、兄上とは違ってちゃんと女ですよ」

「僕ら双子なんだ。出身は、十字教船ノア」


 自己紹介としばしの雑談を終えて、俊介を除く三人はそれぞれの部屋で荷物の整理をする事となった。俊介は、既に終わらせたのでリビングでのんびりする。

 最初に整理を終わらせたのは、最も荷物の少なかったカインだった。

私物のラップトップを備え付けデスクの上に置いて、聖書をその脇にある棚に。その他、細かな物が入ったハードケースを収納すると、ついでに制服から私服――七分袖の白いカットソーとベージュのテーパードパンツ――へと着替えた。

脱いだ制服をハンガーに掛けクローゼットに収め、カインはリビングルームへと戻る。

「お、早いじゃん」

「荷物は殆ど郵送だよ、たぶん明日届く」

「なるほどな。それにしても……」

 俊介は少し言いづらそうにしてから、僅かに目をそらして言った。

その理由は、開いた襟刳から覗く鎖骨が何とも言えない色気を醸し出していたからだった。

「…その、似合ってるぜ」

 彼が何故目をそらすのかは分からなかったが、褒められたので感謝の言葉を返しておく。

「そう?ありがとう」

「そのロザリオ、着けっぱなしなのな」

 俊介が言ったのは、カインの首に掛けられた、水晶製にも見える透明なロザリオのことだ。

「ああ、これね。母上に貰った、っていうか持たされたんだよ」

 左手で十字架部分を優しく持ち上げる。そうすえば、窓越しに部屋へと入ってくる太陽光を浴びて輝いているように見えた。

 その中に、ふと幾何学的な模様が見えたのは気のせいだろうか。


 しばらく後、ルルワとアーサリアも私服姿でリビングへと戻ってきた。

ルルワは兄のそれと同じ白のカットソーにベージュのロングスカート、アーサリアはダークグレーのシフォンブラウスに紺のガウチョパンツを穿いていた。

その頃には、太陽は大分傾いていて、眩しい西日が部屋の中をオレンジ色に染め上げている。

「…もう一人の方が来ませんね」

 五人の生徒が存在する筈のこの区画だが、ここに揃っているのは四人だった。

「あぁ、そいつ何か、身体が弱いみたいでよ、しばらくは来れないらしい。俺が到着した時に居た教師に言われた」

「そうだったんですか」

 身体が弱いというのはどういう事か気になったが、どうやら当分、この区画は一人欠員状態が続くようだ。

「ところで、今日の夕ご飯はどうする?」

「食堂で良いんじゃないか」

「そうね」「そうですね」

 カインが問うと、俊介の意見に女子二人も賛成した。

 この部屋には、大きなアイランドキッチンに調理器具一式も用意されている。料理するという手もあるが、入寮初日で疲れているからか、誰もそれは言わなかった。

料理できる人が誰も居ないわけではないと信じたい。


 この寮には、食堂が幾つか存在する。

まず、各階に一つずつある普通の食堂だ。メニューは学生の財布に優しいリーズナブルな値段設定となっている。

そして、一階に存在する少しお高い食堂だ。メニューはそれなりの値段がするが、週一程度であれば通うのもありだろう。まあ、それ以上の頻度で通う生徒も少なくないと聞くが。

最後に、別館に設けられた高級レストラン――最早食堂とは呼び難い――がある。こちらは完全予約制で、少なくとも二日前には予約をしなければならない。メニューは当然、かなり値が張るがそれに見合った、或いはそれ以上の味が約束されている。

カイン達は部屋を出て、一階の食堂へと向かう事にした。

エレベーターホールに入ると、やはり大勢が視線を向ける。妙に俊介に視線が集中しているのはおそらく、美少女三人(本物×二+偽物×一)が一緒にいるからだろう。男子からの妬みの視線と、女子からの蔑みの視線に胃が痛くならないか心配だ。

エレベーターでも、途中の階から乗ってきた先輩からそれとなく視線を向けられる。

一階のエントランスは、多くの人が行き交っていた。そこには、生徒のみならず教師も存在している。

食堂へと向かう道すがら、一際存在感を放つ人物が居た。黒髪の三編みに僅かな吊り目――寮への道で双子がすれ違った女性だ。

彼女は、カイン達三人を視界に収めるとゆっくりとこちらに近づいてきた。

「やあ弟よ」

 目の前で立ち止まった彼女の第一声がこれだった。それに答えたのは勿論カイン、ではないもう一人の男子――俊介。

「久しぶりだな、姉さん」

「なんだ、つれないな。昔みたく『玲衣お姉ちゃん』と呼んでくれて良いんだぞ」

「断固拒否する」

 どうやら姉弟らしい二人は、身内らしさ溢れるやり取りを交わしている。

それが終わると女性は俊介と一緒にいる三人に視線を向け、カインとルルワを見て僅かに驚いた表情を見せた。

「おや、今噂の白百合の姉妹(ホワイトリリィ・シスターズ)ではないか」

 これを聞いた瞬間、双子は思考の一時停止を余儀なくされた。ホワイトリリィ、シスターズ?彼女は一体何を言っているのだろうか、と。

「え、えっと。それはもしかして私達の事、ですか?」

「ん? そうだが」

 カインより素早く再起動を果たしたルルワが尋ねるも、返答は無情な肯定だった。

「その、私達は姉妹じゃ無いと言いますか」

「そうなのか? しかし……」

 それにしては容姿が似ている、と続けようとしたのだろう。だがそれを遮ってルルワが告げた想定外の返答に、女性は思わず節句した。

「兄妹、です」

「……」

「私が妹で、こちらが兄になります」

 今のカインはユニセックスな私服を着ていて、胸の膨らみが無い事を除けば女性にしか見えない。そんな人物を「兄です」などと紹介されてもどう反応すれば良いのか。

「姉さん、その気持はよく分かる」

「はい、よく分かります」

 うんうん、と頷きながら自分より背の低い姉の肩にポンと手を乗せる俊介。反対の肩に、アーサリアも手を乗せる。

「あ、ああ。二人共ありがとう」

「いえ、大したことじゃ無いですよ」

「そうそう」

 彼らは何故か、自分達が固い絆で結ばれたような錯覚を覚えた。

「ところで……三人は俊介のルームメイトなのか?」

 女性が俊介に尋ねる。三人、というのは勿論カイン、ルルワ、アーサリアの事だ。彼は頷くことで姉の質問を肯定した。

「そうか、それならば今日の夕食は私が奢ろう。弟がこれから世話になるのだからな」

 三人は顔を見合わせてから、有り難くご馳走になる事を決めた。


 食堂まで案内してくれた女性の後に続いて新入生四人はテーブルに着く。六人席の片側に俊介と女性の姉弟が座り、もう片方には双子とアーサリアが座った。

「そう言えば、自己紹介がまだだったな。私は本栖玲衣(モトス・レイ)、五年生だ」

 それを聞いて、自分達もまだ名前を言っていなかったと気づいた三人がそれぞれ名乗る。

「カイン君にルルワ君、アーサリア君だな、覚えたぞ」

 俊介と同じ様に視線を往復させるのを見て、カインは姉弟なんだなぁ、とそんな感想を抱いた。

 玲衣は「好きに頼むと良い」と言ってメニューの表示された端末を三人に渡すと、自分も端末を取ってメニューを見ていく。メニューの端末は四個しか無く、俊介は仕方なく姉の手にあるそれを覗く事にした。

「姉さん、ちょっと俺にも見せろよ」

「あぁすまん、存在を忘れていた」

「おい!」

 姉弟のじゃれ合いを傍目に、三人は料理を決定して注文ボタンを押す。料理が運ばれてくるまでは少し時間がある、カイン達は明日以降の予定などについて話しながら待つことにした。


「レイ先輩、僕らって、何か噂になってるんですか?」

 全員が自身の注文した料理を堪能した帰り道、宣言通り奢ってくれた玲衣にカインが尋ねた。彼女が遭遇した時に「今噂の」と言っていた事が気になっていたのだ。

「ああ、そうだな…」

 その話題は双子のみならず他の二人も気になるようで、全員が耳を傾けている。

「…中央(セントラル)枢機卿(カーディナル)の直系が来たらしい、と話題になっていたよ」

 枢機卿(カーディナル)という単語を聞いた瞬間、二人が石化したかの如く動きを止めた。双子は、一瞬キョトンとした顔をしたが、しっかりと納得した様子を見せる。

「単刀直入に聞くが、本当なのか?」

 一種の緊迫感さえ伴った声で玲衣が問うた。

「ええ、そうですよ。母が中央(セントラル)枢機卿(カーディナル)です」

「……そうか」

 何の気負いもなくそう言ってのけたカインを見れば、それが真実なのだと納得せざるを得ない。その事に、俊介とアーサリアは勿論、噂を聞いていた筈の玲衣さえ驚かずには居られなかった。

 それだけ、中央(セントラル)枢機卿(カーディナル)という名は重いものなのだ。


 明くる日、九月九日――土曜日。午前七時。

「おはよぉ」

 カインがパジャマ姿のままリビングへと顔を出すと、既に俊介が起きてテレビを見ている所だった。

このIAAでは、出身地を離れて暮らす生徒達のために世界中の放送局全てが視聴できるようになっている。俊介が見ていたのは、洋機艇フジのニュース番組らしかった。

「おう、おはようカイン」

「あら、おはよう」

 キッチンの方から顔を覗かせたアーサリアとも挨拶する。カインは彼女のエプロン姿を見て、公爵令嬢でも料理できるのか、などと妙な感慨を覚えた。

「リアは料理中か」

「ええ、もうすぐ出来上がるわ」

「了解、それじゃあルルを起こしてくるよ」

 

 アーサリアが作ってくれたのは、サラダとソーセージ、トーストした食パンと言う何ともシンプルなメニューだった。だからといって不満がある訳でもなく、全員で美味しく頂いた。

「この材料、いつの間に用意したんだ?」

 単純に疑問だったのだろう、俊介がプレートを片付けながら尋ねる。

「昨日、夜の内に頼んでおいたわ」

 一体どうやって、と尋ねる前に俊介はアーサリアの視線がある場所を指していることに気づいた。それは、一区画に一台ある総合端末。学園に関係する事の大半は、この端末を使えば済ませることが出来る。勿論、食材の注文をして区画に届くよう手配することも可能だ。

「あ、そう言えば……カインに通知が来てたわよ」

「僕に?」

「ええ、荷物が届いてるとか」

 その荷物が郵送で送った着替えなどであると思い当たったカインは、すぐさま端末に向かって、自分宛ての通知を確認する。

 通知一覧の最上部には、確かに荷物が届いた旨の通知が存在していた。それを開くと、荷物をどうするか、と聞かれたのでこの区画まで運ばれるようにしておく。

《到着予定は七時四十五分となります》

 用は済んだので、カインは端末の電源を切ると三人の座るソファへと向かった。(ルルワ)の隣に腰を下ろす。

「今日の予定は……」

「学園生徒能力検定よ」

 学園生徒能力検定。それはIAA生徒の実力を計るために行われる総合試験だ。数学、理科、社会科、海洋学――海能者の歴史や海獣の種類、対処法などを学ぶ科目。自然科学の分野ではない――の筆記試験と、海能者としての実力を計る実技試験を丸一日掛けて行う。

 IAAは世界中から学生を募集する都合上、一学年二百五十人の生徒の内二百人が、各国からの推薦を受けて入学してくる。残る五十人は学園の入学試験に合格した者達だが、入学時点では各生徒の能力を計る共通の物差しが存在しない。

そこで行われるのがこの能力検定で、学園はこれの成績を見て様々な判断などを行う。所謂入学首席という奴もこの試験の成績で決まってくる。

「はぁ……面倒だわ」

「同感だ」

 やる気の無さそうな事を言う二人、双子も内心ではそう思っている。

 だが、そういった様子は少数派で、大半の生徒は今回の試験で良い成績を取ろうと、今頃は試験範囲の内容を小さな脳が破裂せんばかりに詰め込んでいる筈だ。

「何時に何処集合だっけか……」

「八時半に本校舎の五〇一教室ですよ、兄上」

 それぐらい覚えておいてくださいよ、とルルワは肩をすくめる。


 予定通りの時刻に定期巡回ロボットによって届けられた荷物を自らの部屋に運ぶと、カインは中に入った衣類をクローゼットに移した。そのまま、パジャマから制服へと着替える。

 寮から本校舎までは歩きで十分程だが、余裕を持って八時頃には部屋を出たい。試験会場への持ち物は唯一つ、生徒証だ。カインはそれをブレザーの内ポケットに入れてある。

 リビングへ戻ると、既に着替えを済ませていたのは俊介だけだった。

「やっぱり、女子は着替えに時間がかかるもんなのかねぇ?」

「さぁ」

 女子制服の方が男子のそれと比べ着づらいとは妹から聞いた事があるカインだが、俊介が言っているのはそういうことでは無いだろう。

「……そう言えばさ、お前って女装した事とかあるのか?」

全力で「無い」と言いたい所だったが、生憎とカインには幾度も経験があった。

見た目の所為もあって、私服姿も女装と言える可能性さえある。付け加えるのなら、カインの私服のおよそ半数は女物だった。そちらの方が似合うのだから仕方がない。

だからといって「ある」と答えてしまうのも憚られた。

カインがどう返せば良いのか迷っている所に、丁度女子二人が制服姿で戻ってくる。

「……全員揃ったね、それじゃあ行こうか」

 俊介から「ごまかしたなコイツ」という視線を向けられて、カインはスッと目を逸らした。そんな二人の様子に、女子は揃って不思議な顔をしたのだった。


 四人はエレベーターホールに到着する。

二百五十人もの生徒が似通った時間で寮を出るので混雑していそうなものだが意外とそんなことはなく、多少人が多い感は否めないものの混雑という程でもなかった。

 丁度到着したエレベーターに乗って、一階のエントランスへと向かう。

 エントランスへ到着すると、制服姿で本校舎へと向かう新入生の他に、私服姿でくつろぐ上級生たちの姿がカイン達の目に入った。

「そういえば、先輩たちは休みなのか……」

 スケジュールでは、明後日行われる入学式兼一学期始業式までが夏休みであり、その前に登校日があるのは新入生だけだ。上級生たちは、残り僅かしかない夏休みを満喫していた。

「早く行きましょう、あれを見てるともっとやる気を無くしそうだわ」

確かに、とアーサリアの意見に同意し四人は寮を出た。


 本校舎に近づくにつれて、カイン達はその巨大さに圧倒された。

 幾つかの新入生グループは、ビルの頂上を見上げて立ち止まっている。

遅れないように注意してね、と心のなかで警告しながらその横を通り過ぎる。

 入り口のドアは全開され、多くの新入生を吸い込んでいく。

「「ぁ…」」

 中に入ると、双子は揃ってその開放的で美しい空間に感嘆の声を上げた。

 エントランスは何と驚く事に十階までを貫く吹き抜けで、正面には校章――水瓶座のモチーフが、海洋都市連盟の上に重なっている――の描かれた巨大な垂れ幕が掛けられている。

縦方向に伸びる直方体の空間の外側には、半時計回りの螺旋状にエスカレーターと階段が配置され各階を繋いでいた。

 床面には白と黒の滑らかな石タイルがチェス盤の様に敷き詰められ、植物の植わったスポットが散見される。

 カイン達は新入生の流れに沿ってエントランスの中央を通り登り口まで向かうと、そのままエスカレーターに乗った。

「……ここ、凄いね」

「ええ、そうですね」

 この場所に初めて来た双子が素直な感想を口にする。

「何度見てもここは凄いわよね」

「本当にな」

家族の連れとしてこの場所を訪れたことのある俊介とアーサリアもそう述べた。

「あれ、二人はここに来たことあるのか?」

「ええ」

IAAは原則立ち入り禁止だが、年に一度の学園祭では特別に一般開放され、多くの人達が訪れるのだ。姉が在籍中の俊介は勿論、伯父がこの学園に務めているアーサリアも学園祭には幼い頃から毎年訪れていた。

二、三、四階と順調に上がって五階に到着すると、吹き抜けに面した廊下を少し進み目的地――本校舎五〇一教室に辿り着いた。そこを通り過ぎて行く生徒がちらほら居るのは、会場が幾つかの教室に分けられているからである。

中には長机と椅子が幾つも並び、席の三割程は既に埋まっている。既に着席していた新入生の大半は、持ち込んだ私物の端末を眺めて試験直前の復習中だ。

席は既に決まっていて、机に内蔵されたディスプレイには割り当てられた生徒の名前が表示されている。

「頑張ろうぜ」

「ああ」

 男二人は、拳をぶつけ合って互いに鼓舞してそれぞれの席へ向かう。

「頑張りましょう」

「ええ、負けるつもりはないわよ」

 一方の女二人も、部屋でのやる気の無さを感じさせない意気込みで自らの席へと腰を下ろした。

 着席してから、机に生徒証を翳すことで本人確認をする。

時間が近づくにつれ、教室内には新入生がどんどんと入って来て、席もどんどんと埋まっていく。

一つの長机を二人が使うため、所々でお隣さん同士の挨拶風景が見て取れた。俊介、アーサリア、ルルワも隣に来た生徒と挨拶を交わしている。

だが、カインの隣は未だ空席のままだ。

講義で使うのだろう正面に設置された白板型ディスプレイの左上に表示された現在時刻は刻々と集合時刻――八時三十分へと近づいていく。

残り一分を切ると、教壇側にある扉から試験監督の教師が入ってきた。

浅黒い肌をした、端正な顔立ちの男はダークブラウンをした癖のある長髪を後ろで結っており、アッシュグレーの瞳は鋭い。背丈は恐らく百八十を超えるだろう、かなりの長身だ。年は三十代半ば程か。

上はキッチリした白のワイシャツに、下は黒のスラックスを穿いている。

彼は手元の端末に視線を落とし、続いて室内を見回すと言った。

「…まだ一人、来ていない者が居るようだが」

 間違いなく、カインの隣に来るはずの生徒のことと思われた。

 教師はある生徒に視線を向けると「彼がどうしているか、知っているか?」と尋ねた。同一区画のルームメイトだろう。

「いえ、彼に『もう少し勉強するから先に行って』と言われたので」

「……そうか」

 それだけ言って教師は時刻の表示を一瞥した。集合時間まであと二〇秒。

 十五秒。

 十秒。

 遂に残り五秒になった所で、入り口の扉がシュッと軽快な音を立てて開いた。そこに立っていたのは身長百五十センチ程の小さな少年。随分と急いできたのだろう、呼吸は荒く、顔も上気して赤くなっている。

「はぁ、はぁ……ごめんなさい、遅れました……」

 少年がそう言い終わると丁度、集合時刻になった事を告げるチャイムの音が響いた。

「あ、あれぇ……遅刻かと思ったんだけどなぁ」

「……まあ、良いでしょう。席に着きなさい」

 教師の言葉に僅かな呆れを感じ取ったのはカインだけではあるまい。

 少年が室内を見回して自分の席を探すので、カインは右手で手招きする。彼はそれに気付くとカインの隣の席へと近づいてきた。それにつれ、彼の細かな容貌が露わになる。

 黄みがかった肌、小さな顔は可愛らしい童顔でとても一五歳とは思えない。純黒の髪は長めで、少し内気そうな印象を受ける。パッチリとした赤の瞳が目を引いた。

 少年はカインの隣に腰を下ろすと、彼の方を向いて朗らかな笑顔を見せた。

「ボクは湘権(シャン・シュエ)。お姉さん、よろしくね!」

 純粋そうな、それはもう純粋そうな瞳で見つめられながらそう言われたカイン。

この学園に来てから何度目か分からない誤解を受けつつも返事をする。口元が僅かに引きつってしまうのは、仕方ないことかもしれない。

「う、うん。よろしく。僕はカイン。あと、男だから僕の事をお姉さんって呼ぶのは止めてほしいな」

「え、そうなの?」

 最後の方は小声だったが、湘権にはしっかりと聞こえた様だ。だが、あまり驚いた様子ではない。

 思ったより控えめな反応に、むしろカインの方が驚いていた。

「じゃあカイン、お互い頑張ろうね」

 先ほどと同じ、朗らかな笑顔を浮かべた彼を可愛いと思ってしまうのは、最早不可抗力だろう。

「うん、頑張ろう」

 この後は、教師から改めて今回の試験の概要が説明された。

 まず午前中の筆記試験。数学、理科、社会科、海洋学の順でそれぞれ一時間行われる。理科と社会科の間には十五分の休憩が挟まる。

 その後、四十分の昼食時間があってから、午後の実技試験へと移る。

 筆記試験開始は集合の五分後である八時三十五分からだ。

 残り十秒。

 五秒。

 一秒。

「それでは、始め!」

 教師の掛け声がかかると同時に、机の画面に試験問題が表示される。生徒たちは配布されたペン型デバイスを一斉に動かし始めた。


 四時間も問題を解き続けるのは、十五分の休憩時間があったとは言え辛く、筆記試験が終わった時の講堂はまさに屍の山の如き状態だった。

「……お……終わった」

 一人の生徒が、何か複数の意味が込められていそうな言葉を溢す。

 完全に使い果たした気力を、四十分後の実技試験までには回復させねばならない。

疲れた様子の生徒たちは、教師に案内されてこの教室と同じく本校舎五階にある大食堂へと案内された。その様子を傍から見ると、さながらゾンビの群れとそれを引き連れる死霊術師(ネクロマンサー)だ。

途中、他の教室で試験を受けていた生徒たちとも合流して、大食堂に到着した。

大食堂は校舎外壁に面していて、五階と四階を繋ぐ吹き抜け構造をしている。一面のガラス窓から差し込む昼過ぎの太陽光が、食堂内を明るく照らし出す。

観葉植物の鉢植えが所々に配置され、白を基調とした室内に色を与えている。

 カインはルームメイト達と合流しようと視線を巡らせる。するとすぐ近くに、アーサリアを見つけることが出来た。

「やあ、リア」

「……カインね」

 アーサリアはやはり疲れた様子で、声に覇気がない。

「ルルとシュンは……」

 人混みの向こう側に、二人が合流してカイン達を探しているのが見て取れた。アーサリアと共にそちらへ向かうカイン。

「あ、兄上」

 ルルワが彼に気付いて駆け寄ってくる。俊介もそれに続いた。

「…疲れた……マジで疲れた………」

 俯いて、生気のない表情をした俊介。ルルワにも、俊介ほどではないが疲労の影が見える。

 四人は近くの適当なテーブル席に座ると、それぞれが無言で端末を手に取り料理を注文した。

「……試験、どうだった?」

「まあ、それなりって所ね」

 アーサリアの思うそれなりがどの程度かは分からないが、少なくとも酷い点数を取るということは無いだろう。

「そういうカインこそ、どうだったのよ」

「うーん、まあまあって感じかな」

 カインは試験の時の記憶を思い返して答えた。自分の知識で分かる所はすべて解き切ったので、後悔の残る結果では無い事だけは確かだ。

「ルルは?」

「かなり出来たと思います」

 ルルワの自信ある答えが聞けた所で、丁度食事が運ばれてきた。

《お待たせしました、ご注文のお届けです》

 白い円柱形をした自走ロボットから料理の乗ったトレーを取ってテーブルに並べていく。すべてのトレーがテーブルに置かれると、ロボットは静かに席を離れていった。

 周りにある席でも、試験の手応えなどを尋ねあっている場面が多くあった。何箇所か、まるで通夜のような雰囲気で無言の食事をしている所があったが、そういうことなのだろう。


 ゆっくりとした食事が終わったのは、昼休憩終了の十分前だった。

 空の食器を乗せたトレーを、食堂の脇にある返却口の棚に置く。そうすれば奥から伸びてきたアームがトレーを掴み、調理場の内へと引き込む。

 その後休憩が終わるまで、食事をしてすっかり疲れの取れたカイン達は試験の手応えなどの話をし、教師の呼びかけを待った。

「五〇一教室で試験を受けた生徒、集合してください」

 休み時間が終わると同時に、カイン達の試験監督をしていた教師が声を上げる。速やかに集合した生徒たちへ、彼は実技試験の予定を伝えた。

「これから君たちは、一階の第一測定室へと移動して能力測定を行います。項目は順に、操作量、操作速度、生成量、生成速度です。その後は、第二測定室で操作強度、操作精度、生成精度の測定となります。では、付いて来なさい」

 教師は生徒たちに背を向けて、食堂の出口へと向かう。生徒たちは、小声で雑談などをしながら彼の後に続いた。

 エントランスの吹き抜けでは無く、別の場所にあった階段を下りて一階に着くと、第一測定室はすぐそこにあった。

 先頭に居る教師が、金属光沢のあるカードをドアの隣りにある端末に翳す。金属扉がゆっくりと開いていく。

 ドアが完全に開き切る前に、教師は演習場の中へと入っていく。生徒たちもそれに続いた。

 真っ暗だった室内が、突如として白い光で満たされる。天井のLEDライトパネルが点灯したのだ。測定室の全貌が露わになる。

入り口の反対側は、水に満たされた深さ五メートルはあろうプールとなっていて、それを三等分するように二つの仕切りが設けられていた。プールを挟んで向こう側の壁は、下半分が的のような模様のついた金属パネル、上半分が大きなディスプレイになっている。

 そして、手前左側の壁には入り口と同じ金属扉があった。そこには『第二測定室』と刻印されている。どうやら、この第一測定室と第二測定室はすぐ隣にあるようだ。

「それでは、測定を始めます。順番は気にせず三列で並んでください」

 指示通り、生徒たちが三列に並ぶ。教師はそれぞれの先頭を、三分割されたプールの手前に移動させる。

「まずは、手本を見せてもらいましょうか」

 そう言って僅かに悩む素振りを見せてから、教師は中央列の先頭に立っている小さな少年、湘権を見た。

「そうですね。シャン・シュエ君、お願いします」

「ボ、ボクですか⁉」

 いきなりの指名に、驚きと不安が綯い交ぜになったような表情の湘権。

「はい、貴方です」

「わ、分かりました……」

 にっこり、といった表現が似合いそうな笑顔で念押しされた湘権がおずおずと前に出る。教師はそれを見てから、手元のタブレット端末で幾つかの操作を行った。すると先程まで沈黙していた壁のディスプレイが起動する。そこにはただ、ライトグリーンのデジタル数字で《0》と表示されているだけだ。

「最初の測定は、操作量ですね」

 海能者は海――正確には物質組成が海水に近い液体環境に関する能力を持っている。

 その能力はまず〈共通能力(コモン・アビリティ)〉と〈固有能力(ユニーク・アビリティ)〉の大きく二つに分類される。

共通能力とは、全ての海能者が使うことの出来る能力の事を言う。今回の能力検定で測定するのはこの共通能力だ。

一方、固有能力とは文字通り、その個人にのみ使うことの出来る能力の事を言う。ただ、海能者の中には固有能力を持たない者も居た。また、固有能力は海能者にとって個人情報のような物であり、あまり開示することはない。

共通能力は更に〈操作(コントロール)〉と〈生成(ジェネレート)〉、〈水中適応(アンダーウォーター・アダプテーション)〉に区分されている。

操作(コントロール)〉はそのまま、液体を操作する能力で、〈生成(ジェネレート)〉は液体を生成する能力。〈水中適応(アンダーウォーター・アダプテーション)〉は液体中でも呼吸を可能とする能力だ。

検定ではそれぞれに細かな計測項目を設けることで、その能力にどれだけの適正があるかを計る。ただし、水中適正に関しては個人差がほぼ無いと言われているため、測定対象ではなかった。

操作量の測定では、目の前のプールからできるだけ多くの水を持ち上げて、その限界量を計る。

更に一歩前へ出た湘権は両手を重ね、プールに翳すようにしてから、目を瞑って集中する。そして目を開けると両手を高く持ち上げた。それに連動して、直径一メートル程の大きさをした水球がプールから浮かび上がってくる。

プールの水が減ったことを感知して、ディスプレイの数字が上昇していく。

湘権の額に汗が垂れる、それだけ全力を出しているという事だった。

水球が完全にプールから分離する。それと同時に数字の上昇も停止した。

「うん、ありがとう。もう良いですよ」

 教師にそう声をかけられると湘権は一気に脱力して、水球も形を失ってプールに戻る。

「記録は五百三十一リットルですね」

 湘権はそれを聞いて、少し落ち込んだ表情をしたものの「ありがとうございました」と言ってから列の後ろへと向かう。

 ディスプレイに表示されていた《531》の数字が、教師が端末を操作すると再び《0》に戻ってしまった。

「それでは、どんどん測っていきましょうか」


 測定は三つのプールで同時進行していった。凡そ千五百前後の数字が多く出て、稀に五百台や二千台といった極端な値も見られた。それらの記録は、ディスプレイにランキング形式で表示されており、測定待ちの生徒も測定が終わった生徒もそれを見ては「あぁ」だの「おぉ」だのと盛り上がっている。

そして右側のプールでは、遂にアーサリアの番が訪れた。彼女のルームメイトでは既に俊介が二千四百七十リットルという高記録を出し、暫定二位の座にいる。

プールの方へ一歩踏み出すと、丁度同じタイミングで中央列から前に出てきた生徒が目についた。サラリと流れる白銀の髪を持った美人、風な見た目をした男――カインだ。特に身構えるでもなく、自然体で佇むその姿は一種の余裕さえ感じさせる。

彼もアーサリアが出てきたのに気がついたのだろう、彼女の方を向くとお茶目な様子でウィンクをしてみせた。その様子がまた様になっていて、何処か癪に障る。

 絶対にカインより高記録を出す、と決意を固めてアーサリアは目を閉じた。途端、周囲の音が遠ざかっていく。とても集中できている証だ。

 両手を重ね合わせて前へと向け、そこにあるはずの水を掌握する。身体を動かさずとも水を操作することは出来るが、こちらの方がやりやすい。

 目を開ければ、自分の目の前にあるプールとディスプレイだけが妙に鮮明で、他の場所は目に入らない。

 ゆっくりと両手を持ち上げて行く、そうすれば実に直径二メートル半に迫る水球がプールの中から姿を表す。ディスプレイの数字がかなりの早さで増えていく。

 一滴の汗が、アーサリアの頬を流れた。

 水球が完全にプールから離れても、数字はまだ少しずつ増える。プールから浮かび上がる複数の小水球が大水球に吸収されていく。

 小水球も完全に打ち止めとなった時、アーサリアにはディスプレイに表示された《3701》の数字が燦然と輝いて見えた。僅かだが自己ベストを更新する数字だった。

「ふぅ」

 ゆっくりと力を抜いて、水球をプールの中へと戻す。その半分ほどが沈んだ所で、アーサリアは完全に制御を手放した。半球状に飛び出していた水面が崩壊する。

「……凄い…」

 集中状態から引き戻された思考が、誰かの漏らした感嘆の声を拾う。

だがその声は、決してアーサリアの記録に対して向けられたものではなかった。彼女の隣に居る、カインに向けられたものだ。その事は、アーサリアも分かりきっていた。

何故ならば、彼のプールが目に入った瞬間、アーサリアもまたその人物同様に感嘆の声を漏らしたのだから。

プールの上に透明な細い四角柱が一定の間隔で幾つも浮かんでいる。追加の柱が、水面からゆっくりと顔を出す。それが水面から離れるより早く、また追加の柱が上がってくる。

今までの測定者は、全員大きな球という形で水を操作していた。それは、その形状が最も自然で操作が容易いからだった。一般的に、水球と四角柱では操作量が二割程変わると言われている。

にも関わらずカインは水面に手を翳すどころか、目を瞑って集中している様子さえなかった。ただ、最初と変わらぬ自然体で沢山の水柱を見つめている。

遂に四十本目の柱が上がってきた。追加の柱は、もう無い。

最後の水柱が水面から離れると、ディスプレイの数字は四千丁度になっていた。

一瞬の後、全ての水柱は同時に形を失ってプールへと戻る。

 アーサリアは既に自分の記録を越された事などどうでもよくなっていて、その様をただ綺麗だと思いながら見つめていた。

 カインは、全力を出していない。ここに居る全員がその事を理解していた。だが、それに文句を付ける者はおらず、気づけば誰もが惜しみない拍手をカインに贈った。

「……カイン君、入学時の検定でこれだけのスコアを出したのは貴方が初めてですよ」

 無言で生徒たちを見ていた教師も、流石に驚いた様子で声を掛ける。カインはそれに笑顔で「ありがとうございます」と言って、列の後ろへと戻っていく。その途中、彼の二つ後ろに並んでいた妹の肩を叩くと、耳元で何かを告げた。

 アーサリアはそれを見てから、自分も測定が終わっていたことを思い出した。少し早足気味に壁際を通って最後尾へと向かう。そして隣に居るカインに、興奮冷めやらぬ様子で話しかけた。勿論、測定の邪魔にならないよう出来るだけ小声でだが。

「カイン、貴方凄いじゃない‼」

「そうかな?」

「そうよ‼」

 思わず強く言い返すと、何が面白かったのかカインは突然笑い出した。訳が分からず、アーサリアはどうすれば良いのかと少し慌ててしまう。

「ごめんごめん。いやぁ、そんなに心の篭もった『凄い』は初めて言われたからさ」

「……初めて…」

 カインは何の気無しに言っただろうその言葉に、アーサリアは強い引っかかりを覚えた。

 初めて、それはつまり、今までに経験が無いという事だ。彼は、心の篭もった『凄い』を今まで、一度も、言われたことが無いのだ。

 公爵家という、気高き身分に生まれたアーサリアは、一般家庭と比べると家族の繋がりが薄い。接する時間は、両親よりも住み込みの使用人の方が多かっただろう。それでも、彼女が何かを達成したときに両親は『凄い』と心から言ってくれた、使用人達だってそうだ。

 だが、カインにはそう言われたことが無いと言う。あれだけの事が出来るにもかかわらず、そう言われたことが無いと言う。

では一体、彼は一体どんな環境で育ったというのか。分からない。

アーサリアには全く分からなかった。

「リア、前空いてるよ」

 左斜め前から掛けられた声に、思案に耽っていた思考が現実に引き戻される。

また一人、測定が終わったのだろう。列が一人分前に進み、彼女の前には一人分の空白がある。カインの言葉は簡潔ながらそれを指摘するものだった。

「あ、ありがとう」

 少し前へと移動し、隙間を詰める。隣のカインは視線を列の先頭、測定に入ろうとしている妹の姿に定めていた。

アーサリアは心の中で「ルル、頑張って!」と声援を送る。

 プールの手前に立ったルルワが、振り返って兄を見た。カインが頷くと、彼女も頷き返してから顔を正面に戻す。

 ふぅと息を吐き出してから、兄とは違い目を瞑って集中する。ただ、手を翳す事はしなかった。

 ルルワが目を開くと同時に、凪いだ水面の奥側が迫り上がってくる。

 水面から分離したのは、小さな水球だった。それが三つ、ほぼ同時に湧き出す。横一列に並んだ水球がシンクロした動きで上昇していくと、その後に続くかのごとく、再び三つの小水球が現れる。それの繰り返しだ。

水球が列を成して上っていく。それに合わせてディスプレイの数字は一定の早さで上昇し続けていた。だが、上昇した水球によってディスプレイが遮られた。

水球の列は、ある高さまで到達した所で軌道を手前に曲げる。その様子は横からだと大きな円弧を描くように見えている筈だ。列の先頭が水面に最も近づいた辺りで、新しい水球の供給が途切れた。

そして列の先頭がその最後尾と繋がって、見事な円環を完成させた。それはもう少しだけ回転を続けてから、一斉に弾けてプールの中に戻った。

邪魔だった水球が無くなり、全員の視線がディスプレイの表示する記録に集中した。

その記録、三千九百九十九リットル。

アーサリアを超えて、暫定二位のスコアだ。全員が「おぉ‼」と沸き立つ。カインの時と負けず劣らない反応だ。

「まさか、これだけの能力を持つ兄妹がいるなんて………」

 教師は心底驚いた様子で、自分が今声を出している事にも気付いていないだろう。

ルルワは後ろに振り返って一礼すると、スタスタと列の最後尾へと戻ってくる。

「………狙ってたな」

 カインが小声でそう漏らした。そう、彼女は意図的にこの数字を出しているのは明らかだった。カインの記録のひとつ下を。

「四十三×三×三十一で三千九百九十九ね」

 アーサリアは兄弟揃っての凄まじい記録に圧倒されて、むしろ冷静になっていた。

 先程ルルワが作ってみせた水球の円環。あれは一つ四三リットルの水球が三列、各列三一個で合計三千九百九十九リットルとなる。四千を狙い一足りなかったのではなく、最初からその数字を狙っているのは明白だ。

「ルル、お疲れ様。でも、普通にもっと記録出してくれてよかったのに…」

 カインは彼女がこれ以上の記録を出せることを一切疑っていない。いや、知っているのだろう。彼女にまだまだ余裕があることは先程のパフォーマンスを見れば明らかだ。

「いえ、兄上の記録を越すなど、恐れ多いです」

「……遠慮しなくて良いって言ったのに」

 さっき、戻ってくる途中に何か言っていたのはそれだったのか、と一つの疑問が解けた。

「はい、ですので遠慮せず兄上のひとつ下に調整しました」

 満面の笑みで、ルルワはそう言い放った。

 そういう事では無い。

カインは妹の主張に一瞬呆けたような顔をして、続いて呆れたようにため息をつく。

「はぁ、まあ良いよ。それから、さっきの凄く綺麗だった」

「あ、兄上。ありがとうございます‼」

 褒められたのが本当に嬉しかったのだろう、形の良い笑みを浮かべながらルルワは最後尾に向かった。


 そこからの実技試験は、正直に言ってカインとルルワの双子による独壇場だった。

 操作速度測定は、水球をプールの手前から奥の金属板まで移動させ、その速度を計る。凡そ秒速三千センチメートル程が平均だった中、双子は秒速六千センチメートルと五千九百九十センチメートルというハイスコアを記録した。言うまでもないが六千の方がカインだ。

生成量測定と生成速度測定は同時に行われた、空にしたプールに出来るだけ早く、どれだけの水を生成できるか計る。生成量で、双子は平均を大きく引き離す四千リットルと三千九百九十九リットルを記録。勿論、生成速度でも毎秒四百リットルと三百九十九リットルという超高記録を出した。

隣の第三測定室で行われた操作強度、操作精度、生成精度の測定でもそれは変わらず。実技試験の全てにおいて、双子は歴代の最高記録に匹敵する圧倒的な記録を打ち立てたのだった。


同日午後四時、IAA本校舎十階、職員会議室。

 眩しい西日に照らし出された室内は、静寂に包まれていた。厳かな声がその静寂を破る。

「……よもや、これ程の逸材が存在するとはのぅ」

 発言したのは、手元の端末を見つめていた一人の老人だった。

 後ろで結われたロマンスグレーの長髪。皺の刻まれた顔はしかし、衰えを感じさせない覇気に満ち溢れ、アイスブルーの瞳は鋭い光を放つ。

 コンスタンス・アンブローズ、御年六八歳。アンブローズ公爵家現当主――ウーゼル・アンブローズの兄にして、IAA学園長の座につく男。

 彼はA級海能者の中では最強格の一人だが、特級海能者である弟と比べるとやはり、その戦闘能力は見劣りしてしまう。

そのため彼は、早くに公爵家の継承権を放棄すると、この学園で教職に就いた。そして遂に一昨年、学園長の地位にまで上り詰めたのだ。

(この記録、(ウーゼル)の入学時の記録に匹敵しておる……)

 海能者の能力の成長は、成人の少し前にピークを迎えると言われる。IAAが一五歳からの入学な理由も、その時期に優れた指導の元、生徒たちの能力を出来るだけ伸ばすためだった。

 だからこそ、入学時の記録というのは言わば本人の『素質』を表す。

 つまりあの双子には、現役の特級海能者とほぼ同等の素質がある可能性があった。

(いや、それ以上か……)

「此奴らを担当したのはお主だったな、ウスマン。どんな様子じゃった」

 カイン達の試験監督をしていた教師――ウスマンが立ち上がる。彼は若いが、非常に優秀な教師であり海能者だ。A級海能者の中でも上位に位置するだろう実力を持っている。

 彼はコンスタンス老が教えた生徒の一人でもあった。

 因みに、彼の髪型がコンスタンス老のそれに似ているのは、尊敬する恩師に近づきたいという意識の現れだった。

「そうですね……正直、底が見えません」

 その発言に、会議室に居た教師たちが大いにざわめいた。彼の実力はそれだけ認められている。

「皆さん、映像はご覧になったでしょう」

 映像というのは、双子の試験の様子を映したカメラ映像の事を指している。測定場には、複数の地点に高精細カメラが配置され、測定の様子を記録していたのだ。

 その映像には、他の生徒と異なった余裕を感じさせる様が映っていた。

「更に言うと、あの記録。明らかに意図的な調整が行われています」

 兄は常に切のいい数字で、妹はそれのひとつ下。全ての測定結果がその様になっていた。

「全力ではなく、かなりの余裕を持っていたと考えるべきです」

「……かなりとは、どのくらいかね」

 重苦しい声でコンスタンス老が尋ねる。

「少なくとも、私には出来ません」

「……そうか…………………中々面白いではないか」

「はぇ?」

 予想外の反応に、思わず変な声が溢れてしまうウスマン。

「お、面白いですか?」

「ああ、実に面白い。彼らは確か、ノアからの推薦じゃったな」

「ええ、しかも中央(セントラル)枢機卿(カーディナル)の縁者という噂もあります」

 コンスタンス老の傍らに座る教頭が滑らかに答えた。

「ほぅ、あの方と……」

 小声で言ったその言葉を、ウスマンは耳聡く聞き取った。

「学園長、『あの方』というのは」

「気にするでない、こちらの話じゃ」

「……そうですか」

 ウスマンは不服ながら、コンスタンス老の言葉に素直に引き下がる。

「まあ何であろうと、今年は将来有望な若者が多く入学しておる」

 その通りで、今年は双子を除いても実技筆記共に優秀な者達が多かった。特に筆記では、ほぼ満点と言っても過言ではない素晴らしい点数を獲得した生徒も居た。

「教師一同、まずはその事を祝おうではないか‼」

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