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9話

ユイが消え八日が経った。

あれ以来、雨は降っていない。

ユイの名前を覚えているのはテーブルにユイの名前を彫ったからだ。その文字に触れると鮮明にユイの感覚を思い出す。

余りにも言いようの無い感情が湧き上がり辛くてたまらない。眠りたく無くてコーヒーを飲む量が増えた。

仕事帰りコーヒー豆を買い足しに行った。

レクサスに「今日は紅茶とクッキーは要らないのか?」と聞かれ「今まで一度も買ったことが無い。」と言うと少し驚いた顔をしてすぐに寂しそうに「そうだったな。」と返された。買って欲しかったのか?違うな。「今日は」と言った。以前に買ったのだろう。

確認するのが怖い。聞けば買った過去が消えそうで。レクサスは俺と会話するまで紅茶とクッキーを買った事を覚えていたのだから。

消えてしまった物が多すぎるのはわかる。

俺が覚えていないだけだ。

無くなった物で忘れていないのは

テーブルに置かれたピンクと白の野花の入った小瓶。

本に挟んであった銀杏の葉の蝶の形をした栞。

消えてからテーブルに俺が彫ったユイの名前。

ユイを抱いた肌の感触。

これだけが唯一、ユイへの気持ちと記憶を繋ぎ止めている。

今日は人通りが多いので、ラガーを引きながら歩いていると遠くで雷の音がしだした。

これは一雨きそうだ。

どこかで雨宿りをと思った瞬間、見慣れない街並みと見慣れない服を着た女がぼんやり目の前に見えてきた。

女は目だけが見えていて目から下は白い布で隠れている。

顔を覆っている布を取ってくれた。

わかる。「ユイ」だ。

「ユイ」絞り出すように名前を呼ぶ。

「こっちに戻ってきてくれ。」手を伸ばす。

悲しそうに微笑みながらユイが何かを話して泣いている。

「ユイ。手をとってくれないとユイの言葉を俺は理解できない。ユイ。手をとってくれ。頼む。」俺まで泣きそうだ。ユイがこちらに手を伸ばしてくれた。消えてしまいそうだ。ユイの世界でもこちらの世界でも酷い天気だ。

酷い天気?そう思った瞬間。どちらも同時に真っ白に光りバリバリバリと大気が鳴った。


かなり近かった。怖い。と思ったその瞬間、手を引っ張られ

今、ウィルの腕の中にしっかりと抱きしめられている。

ラガーが傍に立っていて、二人と一頭はずぶ濡れだ。

ウィルの顔が今まで一度も見たことが無いくらい強張っている。ウィルがすぐに自分の帽子を被せてくれた。

無言でラガーに二人で乗り「ユイ。しっかり俺に捕まって。」と耳元で優しく声をかけてくれた。

覚えてくれていた。


ラガーは凄い馬だ。力強く美しい。馬の習性は知らないが雷に動じない動物って強すぎると思う。

ラガーはきっと素晴らしく特別だ。

間違いなくラガーはこの国で一番の名馬だと思う。

私は人生で初めて馬に乗った。

思った以上に地面から高すぎて普通に怖かった。

ウィルにしがみついていた。


これてしまった。こちらの世界に。

ウィルは一言も話してくれない。

家についてそのままバスルームに連れてこられ

今、シャワーを済ませて髪を拭いている。

ベッドの上にはウィルの大きなシャツが置いて有った。多分、貸してくれる為に用意してくれたのだと思う。買ってくれた服も靴も見当たらない。胸が痛い。仕方の無いことだけれど。少しこたえた。

ウィルは雨に濡れたラガーのお世話をしているのだろう。

優しい人だから、いつも自分の事は後回しにしている。

そうだ、コーヒーを入れよう。と、寝室のドアを開けようとしたら、ドアが開いた。びっくりした。

ウィルもびっくりして、でもすぐに優しく微笑んでくれた。

私の頬に手をあてて「おかえり」って言ってくれた。

ただいまって言おうとしたのに言えなかった。

キスをしてくれたから。

涙が一粒、溢れてしまった。

何も言わずにそのまま抱かれた。

何度も何度も確認するみたいに。

ベッドで身体を起こしているウィルに抱きしめられながらウィルの心臓の音を聞いていると静かに話しはじめてくれた。

ウィルの世界では私が消えて八日も経っていること。

ケプラーの法則のようなものなのだろうか?

私に買ってくれた靴や服が無くなってしまったのは

捨てたのではなくて、おそらく消えてしまったのだと教えてくれた。

ウィルは服や靴を買ってくれた事も覚えていなかった。

紅茶とクッキーの話をすると、「そうだろうなと思っていた。」と、コーヒーを買いに行った時、たまたま店番に出ていたレクサスから今日は紅茶とクッキーは要らないのかと聞かれたからだそうだ。

そして内緒で作った栞も消えてしまっていた。

私のことを忘れて本を読もうと開いたページに

銀杏の葉で作った蝶の形の栞が挟んであって

触れた瞬間「結が作ってくれた」と分かったと。

でも、分かったと同時に栞が消えてしまったのだそうだ。

ウィルが無くした記憶の中で覚えているのは

私が消えてすぐにウィルがテーブルに彫った私の名前と私が作った栞と野花を入れた小さな小瓶の残像「結を抱いたこと。」だけだった。逆に最後のソレは口にしないで欲しかった。

記憶からも物理的にも消されるって結構こたえる。

だけどこれで、次にこの世界から消えても

ウィルは苦しまなくて済むような気がする。

いつかきっと全てを忘れてくれると思うから。

でも、もし今みたいに「結」と「野花の小瓶」と「銀杏の葉で作った蝶の形の栞」と「抱いた記憶」だけを覚えていたら苦しめてしまうだろう。


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