39話
小鳥の鳴き声で目が覚めた。
アルは私を抱きしめながら起きていた。
「おはよう。一子。」とっても嬉しそうに言ってくれた。「おはよう。」と私も言った。もし、このまま起き上がれなくなっても、私は生きていて良いのだろうか。アルに迷惑ばかりかけてしまう。何もしてあげれない。アルの胸に顔をうずめた。「不安?」と優しく聞いてくれた。何と答えて良いのかわからない。ぐりぐりと、アルの胸に顔を擦り付けた。「俺はそれでも嬉しい。一子が起きてくれたから。一子が普通に寝てくれてるだけで幸せだ。」何それ。「今は一子と、こーして話せるのが大いに嬉しい。」基準低ない?「贅沢独り占めイチコ。」ネーミングセンス絶望的。やっぱり一言多い。「確かに。」ふふ。と二人で笑った。体を起こして暫く待つ。大丈夫そう。ベッドに座る。大丈夫そう。それでもアルはバスルームまで抱きかかえて運んでくれた。昨日より全然楽に歯を磨けた。良かった。アルがバスルームを使い終わってから、もう一度お風呂に挑戦した。髪も体もノロノロと自分で洗えた。凄く嬉しい。林檎ジュースをコップ一杯飲んだ。気持ち良かった。
少し自信が出てきた。
約束通り診療所の方は他の先輩医師に了解を貰い、翌朝から登城した。城の方からも人が来て正式に依頼をしてくれた。
私は平民だ。だから当然、用意される部屋は医師であっても使用人の部屋の一室を借りる事になるだろうと普通に思っていた。何より城内では私の滞在を隠したいはずた。ところが通された部屋はアルベルト王の寝室の隣だった。しかも、私にも従者と侍女を付けてくれていた。到着後、すぐに患者を診察した。昨日と容体はさほど変わらない。ただ幾分か表情が和らいでいた。少し話しをしてみよう。そう思ったその時に彼女から手を握ってきた。「イチコです。宜しくお願いします。」「貴方の主治医が来られるまでの間ですが私が担当医としてお側で診させて頂きます。女の医師では不安かと思いますが…」首を振って言葉を遮ってきた。「アルから聞いています。女性の方で良かった。サラ先生ですね。どうぞ宜しくお願いします。私の事はイチコと呼んでください。敬称は必要ありません。」えっ?私の勘違いなのだろうか。それともアルベルト王の命令で演技をしているのだろうか。「女で不安は無いのですか?」ふふ。と笑われてしまった。「何故です?女性の方が気兼ねなく何でも相談できるので、とても嬉しいです。それに私の主治医も女医です。ハルは私と同じ歳で学生の時からの親友なんです。とても面白くて優しくて、しっかりしていて」力なく笑う。話すのも辛そうだ。それでも思い出が幸せなのか優しい顔で続けてくれた。「お酒を飲むと、時々、潰れるまで二人で飲んでしまいますが、腕は確かです。だって私は今こうして生きていますから。早速ですが、私の体の状態をどうご覧になってます?」試されている。この女性は私に何を望んでいるのだろうか。「心臓が弱っていると聞きました。昨日の診察で心音と脈を確認しましたが、しっかりと規則的に動いていました。足にもそれ程酷い浮腫は見て取れませんでした。許容範囲だと思います。「サラ先生はシンキンコウソクを疑ってらっしゃらるのですか?」「シンキンコウソク?」「セイミャクケッセンを生じた側の足が…むくんだり腫れたりすると聞いた事があるので…確認されているのだと…思っていました。」先程よりも更にゆっくり途切れながら話している。彼女は何を言っているのだろう。返事に困って固まってしまった。「シンキンコウソクの病気でセイミャクケッセンですか?」意味がわからず復唱した。「ごめんなさい…私は医師では無いので…ハルから前に聞いたのを…思い出しただけなので…詳しく説明できません…少し休みます。」優しい表情で、すーーと静かに寝入ってしまわれた。会話をするのもつらそうだ。話している間、この女性は私の手を一度も離さなかった。私はどこにも行かないから大丈夫だと言ってあげたかった。貴方に奮われるであろう暴力から少しでも守りたくてこの城に来たのだと伝えたかった。
監視する為だろう。アルベルト王は寝室で仕事をしている。王の場所から彼女の姿が常に見える。時折り人が出入りしているが、彼らからは見えない様に衝立が置かれている。彼女に怯えたところは見当たらない。侍女も執事も皆、私にすら対応が丁寧だ。城の雰囲気はとても穏やかだ。アルベルト王から城の書庫を好きな時に使って良いと言われた。今のところ、彼が声を荒げる場面を見ることも、暴力的な噂を聞く事も無かった。アルベルト王は、まるで宝物を扱う様に彼女に接している。もしかしたら本当にあの痣は治療の際についたのだろうか。
アルに頼んで冷たい水を布に含ませ内出血を冷やしている。サラ先生に「痛むのですか?」と聞かれたので痛みは、わからないです。感じないです。血管を縮小させてこれ以上、痣が広がらない様に抑えたいんです。と答えた。「貴方は医者では無いとおっしゃいましたが、どうしてそんなに詳しいのですか?」と聞かれてしまった。クスッと笑ってしまった。痣を冷やすぐらいの知識程度では詳しい内に入りません。小学生でも知っています。「小学生?」ごめんなさい。6歳から12歳の子供でも知っていると言いたかったんです。小学校は子供達が学ぶ場所です。その学校や家で教えられますから。痣が出来たら初めに冷やすと。そして2〜3日後からは温めると早く消えます。そう答えるとサラ先生は普通に驚いていた。学校の七不思議、夜中に動く人体模型のヤマダくんを思い出した。話したい。音楽室の目が動くベートベンの絵の事も。でも、やめとこう。アルに怒られそうやし。
気持ち良い。凄く眠い。
イチコは今回こちらに来てから時々、ほんの数秒だが体に触れていなくても俺や他の人の言葉を理解し俺たちの言葉を話す様になっている。
周りの者はまるで気が付いていないがイチコが日本語で話しても通じている時が有る。特にイチコがリラックスしている時に俺に対して日本語で話していても何故か何を言っているのか俺にも周りの人間にも不思議と理解できるのだ。イチコが眠る度にその現象は増えていて、今もサラと途中から、どこにも触れていないのに、会話が成り立っている。俺には日本語とこちらの言葉が二重に聞こえているが他の者には、この国の言葉になって聞こえているようだ。マリーでさえ、この不思議な現象に何も言ってこない。違和感が全く無いのだろう。
痣を冷水につけた布で冷やしていると気持ち良いのだろう。ゆっくりと眠りについた。起こしたく無いので、そっと布を取り、額にキスをして水桶と布を侍女のマリーに下げる様に言い手渡した。イチコが起きた時に口にできるようイチコの好きな林檎ジュースを瓶ごと氷で冷やした状態で寝室に持って来てもらう様に頼んだ。サラには何が良いのだろう。紅茶か?侍女にサラの飲み物も何が良いか聞いて用意してやるように頼み、机へ戻るとサラはイチコの腕の傷を見ていた。ハルは妊娠したから向こうの世界でも俺達の言葉を突然、話せる様になったと聞いている。話す相手によって言葉が明確に変わるハルの時とは明らかに違う。イチコの日本語の言葉をこの世界の人間が理解できているのだから。今回こちらに来てからだ。あの夜、数十分の間に俺と何度も互いの世界を移動した事によってイチコは、こちらの世界の住人になってしまったのだろう。そして、俺自身もあの夜以降、変化が起きている。イチコとの今までの出来事を思い出してきている。悲しみも苦しみも、愛しさも、全て。騎士の皆にも同じ事が起きているのがわかる。
もし、あの夜の様にイチコの体が壊れたら、この世界ではどうする事も出来ない。戻してやれるものなら戻してやりたい。ここでは死なせてしまう。だが、イチコは二度と元の世界には戻れないだろう。ロクな治療を何一つ受けていないのにこちらの世界に来た途端にゆっくりではあるが回復してきているのだから。イチコが死にかけた原因は本来は、移動すべきで無かった者が、半ば強制的に異動させられたからだ。マモルの言う通り俺の責任だ。イチコを死なせてしまうと分かっていたなら、抱くことは無かった。だが、この想いは変わらない。変えられない。記憶を消されても残っていたのだから。イチコの体をもとの健康な体に戻せてやれるのかは、まだわからないが、その為なら何だってする。
今は一日、一日が掛け替えのない大切な日々だ。あんな思いは二度とごめんだ。だからこそ、せめて、それ以外の脅威は全て排除すると決めて対処している。隣国にも付け入る隙を与えるつもりは無い。犯罪者とは二度と交渉しない。対処するのみだ。不思議とイチコの為に判断や行動を起こすと皆が住み良い国になってきている。ハルに会わせてやりたい。イチコの家族にも生きている事を何とか知らせたい。父上は城の中にユリアの持ち物か向こうの世界の物が残っていないかヴォルフガングとレオンの二人と調べてくれている。何か残っているはずだ。過去に争いを終わらせたぐらいだ。