アルファヴィルの魔法使い
一九六七年の五月、サンディエゴにある海兵隊の新兵訓練基地でちょとした事件が起きた。俺は当時十九歳。デンバーの田舎町から志願してきたばかりの甘ったれで、始まって間もない基礎訓練キャンプに嫌気がさしていたところだった。
訓練は想像を絶する過酷さだった。肉がねじれ、骨は悲鳴をあげ、容赦なく血が流れだした。肺炎や化膿性の皮膚疾患で小隊を去る者も少なくなかった。俺は基地に配属されて三日もしないうちに、人間の尊厳や個人主義が幻想にすぎないことを学んだ。戦地で生き延びるために必要なのは、自由ではなくM-16なのだ。
俺が所属していた二三七小隊には変わり者が集まっていた。女好きで有名なジョン・ブラット。彼は海兵隊に志願する前、アーリアン・ブラザーフッドのメンバーの愛人に手をだしたことで命を狙われているという噂だった。それにロビンソンだ。こいつは背の低いお調子者で、みんなから“ダフィー・ダック”と呼ばれていた。世渡りが上手い男だった。軍曹の前では喫煙者を装って、食後に許可された一本の煙草を他の連中に回していたのだ。後にダフィーのささやかな処世術がいくつか露見して、二十四時間の営倉行きが決まったときは多くの仲間が悲しんだ。
とりわけ、エドワード・メイスンは奇妙な男だった。どうして奴が海兵隊員に志願したのか、最初の体力検査で脱落しなかったのか、神経をやられて腰抜けみたいに逃げださないのか、誰もが不思議に思っていた。成績は下の下。ひょろひょろした長身の優男で、いつも眼鏡の曇りを気にしていた。虫一匹殺せない、ママの子宮に闘争心を忘れてきたような男だ。銃剣訓練ではいつも軍曹に怒鳴られ、コンクリの床で百回の腕立て伏せを命じられていた。メイスンを見かけるたびに罵倒する訓練下士官を除いて、奴に話しかけようとする者は誰もいなかった。
ある晩のことだ。俺は居住棟でメイスンが何かを書いているのに気がついた。
就寝前の一時間は自由時間だ。犬以下の扱いを受けてヘトヘトになった新兵が、家族からの手紙を読んだり、恋人の写真を眺めてマスをかくことが許される唯一の時間だった。ベッドに寝転んで暇を潰していた俺は、隣でメイスンが熱心にペンを走らせているのを見た。手紙かと思ったが、そうではないらしい。
俺は好奇心に駆られ、初めて奴に声をかけた。
「おい、何を書いてるんだ」
「小説だよ」メイスンは手をとめずに答えた。「小説を執筆してるんだ。戦争が終わったらエース・ブックスに持ちこんでみるつもりさ」
基地で小説なんか書いている奴に出会うのは初めてだった。奴の手元を見ると、すり切れた手帳に細かい文字がビッシリと綴られていた。
「どんな話だ?」と俺はたずねた。
「ある男が戦場で死んで、生まれ変わる話だ」
「悪趣味だな。死ぬのはベトコンにしてくれよ」
メイスンはそれを聞くと、笑いながら首をふった。「いいや、死ぬのは僕だよ。主人公の名前はエドワードだからね。物語の冒頭でAK-47の弾を眉間にくらって、ジャングルのど真ん中で野良犬みたいに死んでしまうんだ」
気味が悪い野郎だな、と思った。ときどき、自殺願望に突き動かされて海兵隊に志願する連中もいると聞く。この男もその類なのだろう。
俺の嫌悪感が伝わったのか、メイスンは慌てて弁解した。
「そんな顔をしないでくれ。物語には続きがあるんだ」
そう言って、彼はベッドの下から一冊のスケッチブックを取りだした。ずいぶんと手垢で汚れている。表紙をめくると、鉛筆で描かれた精緻な風景画が現れた。
「なかなか上手じゃないか。これはどこだ?」
「アルファヴィル」
聞いたこともない場所だ。ヨーロッパの小国だろうか。
「なぁ君、トールキンは読んだかい? ロバート・E・ハワードでもいいが」
「いいや。知らんね」俺はそっけなく答えた。
「フランク・ボームはどうだ。『オズの魔法使』の映画は知ってるだろう」
それなら観たことがある。たしか五歳か六歳のころ、母がラリマースクエアの映画館へ連れて行ってくれたのだ。内容はあまり覚えていないが、当時は翼の生えた猿が恐ろしくてスクリーンを見ることができなかった。
俺が頷くと、メイスンは満足そうに「それだよ」と言った。「僕が書いているのはそういう小説だ。ドロシーが戦場で死んでオズに生まれ変わるんだ」
「喋るかかしが出てくるのか?」
「いいや。舞台は僕の頭の中で生みだされた世界だ。アルファヴィルという名前の国で、架空の大陸の南西に位置している。そこでは人々が機械の代わりに、聖なる石で不思議な術を使うのさ。魔法使いの杖みたいにね」
メイスンはアイスキャンディを買ってもらった男の子のようにはしゃいでいた。こんなに饒舌な奴だとは知らなかった。俺は説明を聞きながら、F-4でナパーム弾を落とす代わりに魔法を使えたらどんなにいいか考えた。「面白そうだな」
「本当かい?」今の言葉がよほど嬉しかったのか、メイスンは目を輝かせた。「実をいうと、小説のことは誰にも話したことがないんだ。君が初めてさ。これが完成したら……その……原稿を読んでくれないかな?」
「オーケー、楽しみにしてるよ」
俺は自分のベッドに戻って、仰向きに寝転んだ。小説のタイトルを聞きそびれたことに気づいたが、わざわざ起き上がって確かめる気にもならない。メイスンが隣でペンを走らせる音を聞いているうちに、俺は浅い眠りへと落ちていった。
●
やがて俺たちは基礎訓練の四週間目を終えた。
この時期に入ると、もはや新兵たちは東洋人を人間だと思わなくなっていた。
連中の目は細く、俺たちの青い瞳に劣っている。連中の鼻は低く、俺たちの高い鼻筋に劣っている。連中は野蛮で、残忍で、この世に存在する価値がない……
だが、実際にベトナム人を見たことがある者は誰もいなかった。新兵にとってベト公とは、射撃訓練に用いるすげ笠を被った人型の標的を表す言葉で、それ以上の意味を持たなかった。人間を殺すことには抵抗があっても、物を壊すのは容易い。日々の訓練では、敵は物にすぎないと徹底的に叩きこまれた。一斉に「殺せ!」と叫んでライフルを撃つたび――雨粒が良心の岩石を穿つように、俺たちの人間性は緩やかに、着実に削り取られていくのだった。
そして目に見える形で変化が訪れた。
初めに、ロビンソンが善良なお調子者ではなくなった。かつて隊の仲間たちを笑わせたジョークは、東洋人に対する口汚い罵倒に変わった。もはや誰もダフィーとは呼ばなかった。奴は自分で煙草を吸うようになったのだ。ブラットはことあるごとに「ベト公の村を焼き払う前に、女を百人殺してやる」と公言した。誰かが「連中のAKを股に突っこんでやれ!」と合いの手を入れると、彼はさも嬉しそうにツバを吐くのだった。
しかし、メイスンだけは別だった。彼は東南アジアの民主化にも解放戦線の残虐行為にも興味を示さず、相変らず小説の執筆に夢中になっていた。メイスンは書くことによって、何かと戦っているように見えた。それが彼の戦争だったのだ。
二三七小隊の中ではメイスンへの不満が高まっていた。ロビンソンの冗談に笑うことも、ブラットの宣言に同意することもないメイソンは、周囲から異端者と見なされていた。新兵たちはすれ違いざまに彼を小突き回し、厳しい訓練の鬱憤を晴らそうとした。また、あるときは夜中にメイソンの戦闘ブーツを汚泥に放りこんで、彼が訓練下士官に叱咤されるのを喜んだ。
俺たちは壊れていた。アメリカも、ベトナムも、何もかもが壊れていた。
事件が起きたのは、基礎訓練キャンプが終わりに近づいたころだ。
ある日、夕食を終えた俺は配給されたマールボロを一本持って食堂裏に向かった。すでにブラットとロビンソンの姿があった。俺たちは煙草を吸い、しばらく三人で話し合った。メイスンの話題になったとき、俺はふと口にした。
「知ってたか? あいつ、小説を書いてるんだぜ」
ほんの話のネタのつもりだった。別に口止めされていたわけでもない。
だがブラットは異様なほど興味を示して、その原稿がどこに隠してあるのか知りたがった。ベッドの下だと答えると、彼は唇をめくり上げてツバを吐いた。
翌日は早朝から閲兵場でガーハイム軍曹のスピーチを聞くことになっていた。
軍曹はクアンティコとキャンプペンドルトンで勤務したあと、軟弱な新入りどもを矯正するためサンディエゴの指揮官に着任した。合衆国の精神を体現する偉大な軍人だ。誰もがガーハイム軍曹を尊敬していた。言葉の隅々にまで正義と信念が染みこんだスピーチを聞くたび、隊員たちは誇らしさで涙を流した。
「海兵隊員は決して死ぬことはない!」軍曹は叫んだ。「PKMの一斉掃射で腸をぶち抜かれようと、RPGロケット砲をドタマにぶちこまれようと、お前らは絶対に死なん。なぜならここにいるのは世界で最も勇敢な精鋭部隊、海兵隊だからだ。海兵隊は血を分けた兄弟だ。全員でひとりの人間だ。たとえお前がくたばろうと、今隣にいる奴が必ずお前の意志を継いでくれる。海兵隊の灯火を絶やすことなど、断じて不可能なのだ。ましてやベトコンごときに!」
そのとき、俺のすぐ背後からガサガサと物音がした。
「これからお前らは戦場へ行く。想像を絶するほど過酷な場所だ。だが、いかなるときも仲間を見捨てることは許されん。たとえ爆風で右腕がちぎれようとも、左腕一本で仲間の救出に向かわなければならん。死の陰の谷を歩いても、お前らは災いを恐れない。理由がわかるか? お前らが、誇り高い、海兵隊員だからだ!」
軍曹が聴衆に背を向けた一瞬のうちに、それは起こった。
突然、頭上から数百枚の紙切れが舞い落ちてきたのだ。まるで白昼夢でも見ているような光景だった。他の隊員たちも同じように、呆気にとられた様子で紙吹雪を眺めている。すぐ隣にいたロビンソンが、一枚の紙片をキャッチして俺に渡した。「おい、天国から絵はがきが届いたぜ」そこには、あの幻想的な風景画が描かれていた。地上に存在しない国、アルファヴィルだ。
異常事態に気づいたメイスンが床に這いつくばって紙片を集めていた。俺たちの足元に散らばっているのは奴の小説と挿絵だった。後ろでブラットが笑っている。深夜のうちに盗みだしておいたのだ、と俺は悟った。冗談にしてもやりすぎだ。
当然、閲兵場は大騒ぎになった。軍曹はスピーチを中断し、怒り狂って俺たちに詰め寄った。不幸なことに、最初に軍曹の目にとまったのは犯人であるブラットでなく、豚のように這いつくばって紙片を拾い集めるメイスンの姿だった。
「これは何だ?」軍曹が詰問した。
「小説です、サー」メイスンが答えた。
「お前が書いたのか?」
「それは……」
「書いたのか書いてないのか答えろ!」
「自分が書きました、サー!」
「ミスター・メイスンは作家様か?」
「ノー、サー!」
「無学な教官を見下してるのか?」
「ノー、サー!」
「クソ小説が祖国より大切か?」
「ノー! サー!」
哀れなメイスンは顔面蒼白で、今にも倒れそうだった。
張りつめた緊張が場を支配していた。もう誰も笑っていなかった。ロビンソンも、ブラットでさえも。いつ爆発するともしれない不発弾を前にしたように、全員が硬直していた。「小説家のミスター・メイスン。ついでにクソ軍曹のクソ言葉をゲーテの教えの隣に刻みつけてくれるか?」
軍曹はそう言って、メイスンの手から紙の束を奪い取った。
「――こんなもの、戦場ではクソの役にも立たん!」
ガーハイム軍曹は雷のような大声でがなり散らし、メイスンに残りの紙切れを一枚残らず集めさせた。そして隊列の正面に投げ捨てると、容赦なくジッポーで火をつけたのだ。俺たちはその様子を黙って見つめていた。一切が灰に変わっていく。虚構の風景画も、別人に生まれ変わったエドワードの物語も……
メイスンは直立不動の姿勢をとったまま、爆ぜる炎をじっと見つめていた。その表情からは何の感情も読み取ることができなかった。ただ、彼が小声で「昇火士」と呟いたのを覚えている。俺には意味がわからなかった。ブラットにもロビンソンにも、誰にも理解できなかっただろう。
その後、メイスンは二三七小隊からの落第を言い渡された。
人づてに聞いた話では“脱落組”が集まる腰抜け専用施設へと移され、一ヶ月遅れで訓練を修了したらしい。俺たちは当初の予定どおり六月にキャンプを卒業した。
●
翌年ブラットはケサンの作戦に参加し、索敵中に負った傷がもとで亡くなった。彼を殺したのは便衣兵の女だったそうだ。ロビンソンはその数ヶ月後、カンボジアの東部で死亡した。煙草を吸っている最中に背後から撃たれたと聞いた。
俺は歩兵訓練連隊で四週間の訓練を積んだあと、航空支援や司令部事務の短期任務を転々とし、年末に歩兵分隊へと配属された。ベトナムの戦況は大きく変わりつつあった。秋に行われた大統領選挙で反共主義者のグエン・バン・チューが当選したという話だった。同時に、アメリカにも変化の波が押し寄せていた。十月にワシントンD.C.で最大規模の平和集会が開催されたのだ。世論は反戦ムード一色で、俺たちは「人殺し」と罵られながら戦地へ発つはめになった。
誰もが政治的な現実から目を逸らすために酒とマリファナに溺れ、ジェーン・フォンダやラクエル・ウェルチの胸元のことばかり話し続けた。
いったい何のために戦うんだ? 何のために命を賭けるんだ?
平和主義なんかクソ喰らえ。
俺たちは国境を越え、クアンチからダナン基地へと向かう計画になっていた。非武装地帯でヘリを降ろされた分隊は、キャプテンに引率されるボーイスカウトみたいに、深々と緑が茂るジャングルを歩き始めた。隊の連中は新米ばかりで頼りなく、始終ビクビクとあたりを見回していた。だが、隊長のディーンは別だった。彼はイア・ドラン渓谷の戦闘に参加し、翌年の索敵殺害作戦では功績を認められてブロンズスターメダルを受勲していたのだ。
ベトナムの冬は気温が高く、神が地上を火炎放射器で炙っているような猛暑だった。それに熱帯雨林の葉はカミソリみたいに鋭い。俺たちは数ヤード歩くたびに皮膚を裂かれ、体中から血を流していた。ベンハイ川に沿って西へ向かっていくと、両岸を崖に挟まれた悪路にさしかかった。まるで死の陰の谷だ。そこで隊長は最年少のカーターを斥候に立たせ、俺たちはその場で待機することになった。
「嫌な予感がする……」衛生兵のパワーズが呟いた。
「何がだ?」
「チャーリーが待ち伏せしてる。みんな殺されるんだ」
戦場では誰でも頭が変になる。だが、パワーズの悲観主義は群を抜いていた。
奴はことあるごとにベトコンが来たと大騒ぎし、野営地では少年兵と勘違いして現地のガキを撃とうとした。隊長がとめなければ殺人罪でロンビン刑務所に送られていたことだろう。「みんな殺される」が口癖で、機関銃手のコールハウスによく怒鳴られていた。平時のパワーズはお荷物以外の何物でもなかったが、噂によると隊長の推薦で隊に加わったという話だった。射撃の腕前だけは天才的で、キャンプペンドルトンの技量訓練では最高成績を叩きだしたらしい。
俺はパワーズを刺激しないよう、できるだけ優しい口調で答えた。
「大丈夫だ。伏兵はいないし罠もない。カーターは無事だ」
「ああ……それならいいが……」
「ほら、ほうれん草でも食って落ち着けよ」
俺は袋からアンフェタミンの錠剤を取りだしてパワーズに与えた。これは隊の秘密兵器だ。一錠飲めば誰だってポパイになれる。二錠飲めばブルース・ウェインになれる。俺は三錠飲んだ。これでクラーク・ケントだ。
パワーズはドラッグのおかげで正気を取り戻し、口笛を吹き始めた。俺の心も瘴気が晴れたように澄んでいる。実に気分がいい。神は天にあり、すべて世はこともなしだ。何もかもがうまくいきそうだった。こっちにはディーン隊長がついているし、海兵隊員が未開人ごときに殺られるはずがない。
だが三十分経ってもカーターは戻ってこなかった。
突然、前方から乾いた銃声が聞こえてきた。交戦だ。身構える隊員たちに、ディーン隊長は散開してカーターの救出に向かうよう命じた。俺はCAR-15ライフルを両腕に抱えて、ぬかるんだ赤土の中をゆっくりと進んだ。アンフェタミンのおかげで足の震えはとまったが、代わりに眼球が小刻みに震えている。
クソッタレ、肝心なときにラリってきやがった。
俺は溶けた脳みそに電気を流しこむため、軍用ナイフで左腕を刺した。
しばらくすると、ジャングルの向こうに開けた草地が現れた。古代の闘技場みたいな円形広場で、中央には横たわってうめき声をあげるカーターの姿が見えた。胸を撃たれたのか、迷彩服がどす黒く染まっている。俺は足をとめた。どう考えても米兵をおびき出すための餌だった。シルベスターがトゥイーティーに仕掛ける罠よりわかりやすい。こんなのに引っかかるのはアホだけだ。
だが、ディーン隊長は躊躇することなく草地に飛びだした。俺の鼓膜にガーハイム軍曹のスピーチが反響していた。たとえ爆風で右腕がちぎれようとも――
「敵襲!」コールハウスが絶叫するのと同時に、31口径マシンガンの集中砲火が始まった。俺は木立の陰に飛びこみ、赤土の泥に腹を伏せて背嚢で頭を覆った。草地の仲間たちは隊列を組み、ベトコンが飛びだしてくるのを待ち構えていた。
「落ち着け!」隊長が怒鳴った。「待ち伏せだ、敵は多くない。ひとまず」
タン、と虚ろな音がしてディーン隊長の命はそこで途切れた。
腹ばいのままCAR-15ライフルにしがみついていた俺は、彼の頭が後ろにのけぞる瞬間を見た。何もかもがスローモーションで、静止画みたいに鮮明だった。隊長が死んだと理解するのに五秒かかった。戦場では永遠に等しい時間だ。
ひとまず何だ? ひとまずどうしろってんだ?
統制を失った分隊は混乱に陥った。AKを構えたチャーリーどもがなだれこんで、俺たちを包囲しようとしていた。コールハウスはM60機関銃を手当たり次第に掃射し、パワーズはジャムったコルト・ガバメントを振り回していた。他の連中も撃ったり、脅えたり、喚いたりしていた。俺は恐怖で動くことさえできなかった。
空には鉛色の雲が垂れこめ、不気味な風が吹き荒れ、あたりには黄色い葉が舞っていた。何十、何百もの悪魔が迫ってくる。翼の生えた悪魔が俺を殺そうと躍起になっている。「みんな殺されるんだ」声だ。「ましてやベトコンごときに」声が聞こえる。「戦場ではクソの役にも立たん!」ああ。「AKを股に」助けてくれ。「天国から絵はがきが」誰か。「海兵隊員は決して死ぬことはない!」
神様。
恐怖と絶望がピークに達した瞬間、俺の脳に奇妙なことが起きた。
時間の感覚は失われ、体中が力であふれていた。やけに頭が冴えている。草地を取り囲む狙撃兵の姿を、ひとり残らず見わけることができた。腹にぶちこまれた銃弾を鋼鉄のように弾きかえすことができた。今なら高性能爆弾の爆発にも耐えられる。俺の吐息はすべてを凍らせ、眼球が発する熱線は戦車の装甲すら溶かしてしまうだろう。意識を天に向け、ふわりと空に浮かびあがった。ベト公が悲鳴をあげている。俺は鋼鉄の男になったのだ。
ひとり、またひとりと仲間が倒れていった。今や生き残っているのは俺とパワーズとコールハウスの三人だけだった。信じられないことに、コールハウスは激戦地のど真ん中に立って、聖書の一節を喚き散らしながらM60を掃射していた。
「私の魂は黙って! ただ神を待ち望む!」
一分間で四百発もの銃弾を発射して、60は地上の罪を洗い流していた。
「私の救いは神から来る!」タタタタタ……
「神こそ我が岩! 我が救い! 我が櫓!」タタタタタ……
「私は! 決して! 揺るがされない!」最高にクレイジーだ。
コールハウスの巨体を中心に、死体がドーナツ状に散乱していた。
弾薬が尽きると、コールハウスは60を放棄して近くのベトコンに飛びかかった。軍用ナイフで敵の喉をかっ裂き、ごぼごぼと噴きだす血を浴びて、奴は次々と殺戮を繰り広げた。まるで古代ローマの偉大な剣闘士を見ているようだった。
もう一方の激戦地では、パワーズが恐ろしい的確さでベトコンを仕留めていた。俺が目撃しただけでも、パワーズが45口径で撃ち殺した敵は十六人に及んだ。彼は45口径がジャムると即座に仲間のイサカM37を拾い、近くのベトコンを七人殺害した。弾がなくなるとベトコンから奪った56式自動歩槍を撃ちまくり、反撃に遭えば破片手榴弾を投げて敵を撹乱した。その隙にカーターの遺体から45口径を抜き取ると、再び一弾一殺の勢いで敵兵を始末するのだった。噂通りの神業だ。パワーズの撃った弾は必ず敵の急所に命中した。ときには複数のベトコンを一発で仕留めることもあった。奴が弾を外すところは一度も見なかった。
敵部隊はコールハウスとパワーズに恐れをなし、一目散に撤退しようとしていた。もはや襲ってくるマヌケはいなかった。勝利の女神は俺たちに口づけし、おまけに舌まで入れてくれたのだ。
俺は歓喜の雄叫びをあげた。「ざまあみろ!! マザーファッカー!!」
次の瞬間、緑の迫撃砲が草地のど真ん中に撃ちこまれた。
カーターやディーン隊長の遺体は粉々に吹き飛び、俺の体も爆風で宙を舞った。気がついたときには、あたりは砂埃で何も見えず、ひどい耳鳴りで何の音も聞こえなかった。右腕の感覚がない。ちぎれてはいないが、神経が死にかけている。俺は背嚢から包帯を取りだし、応急処置で右腕を固定すると生きている仲間を探した。
煙が晴れていく。AKを構えたベトコンがすぐそばに立っていた。
間近に見る敵は目が細く、鼻は低く、野蛮で、残忍で……人間だった。
彼は狙いを定め、俺の眉間めがけて弾をぶちこんだ。
●
俺は大地に寝そべり、抜けるような青空を見ていた。
うっすらと星々が煌めいている。まるで、幼いころに祖母が見せてくれた宝石箱みたいだ。戦場とは思えない静けさだった。銃声も爆発音もない。耳に届くのは、さわさわと心地よい梢のざわめきだけ。
ここはどこだ? 敵はどうした? 俺たちは勝ったのか?
上半身を起こすと激しい頭痛がした。ドラッグの沈痛効果が切れたらしい。だが痛みを感じるということは、俺はまだ生きているということだ。見渡せば、あたりの様子はすっかり違っていた。濛々と立ちこめていた白煙は跡形もなく消え失せ、熱帯雨林のジャングルは牧歌的な森林へと姿を変えていた。石畳で舗装された細道がどこまでも続いている。道に沿って、ポツリポツリと家屋らしき建物が見えた。石を積みあげて建てられた古めかしい外観で、どう見てもアジアの建築物じゃない。俺はガキのころにCBSチャンネルで観た『トム・ソーヤーの冒険』のミュージカル番組を思いだしていた。ここはセントピーターズバーグにそっくりなのだ。
そのとき、遠くのほうから足音が聞こえてきた。俺はとっさにCAR-15を構えようとして、装備も背嚢も手元にないことに気がついた。完全に丸腰だ。しかし、不思議と恐怖は感じなかった。近づいてくる人影は中世の修道僧みたいなローブを着て、目深にフードをかぶっていた。武装している様子はない。便衣兵にしても不自然だ。現地のクリスチャンだろうか? そいつは俺のそばで立ちどまり、驚いたように首をかしげると、ゆっくりとフードを脱いだ。
七十歳くらいの年寄りだった。近くで見るとひどく背は曲がり、石の杖をついていた。深いしわが刻まれた顔は俺のほうを向いているが、丸眼鏡をかけた目は焦点があっていない。ほとんど見えていないのだろう。だが、老人の濁った瞳はたしかに淡いブルーを帯びていた。少なくともベトコンではなさそうだ。
俺は英語で話しかけた。「アメリカ人か?」
老人は質問に答えなかった。ただ微笑みながら、よくわからないことを言った。
「……ほらね、言ったとおりだろう」
このジイさんは耳が遠いか、イカれているに違いない。ここがどこにせよ、一刻も早く帰らなければならなかった。まだ戦争は続いているのだ。
俺は困惑しながら「クアンチに戻りたいんだ」と告げた。せめて市街に向かう方角だけでも知りたかった。ここが南ベトナムでないなら――カンボジアかラオスの国境を越えてしまったのなら、大使館に連絡する必要がある。
老人はやけに楽しそうに「どっちにあるのか見当もつかない」と言った。まるで舞台役者みたいな口調だった。「でも、まずは砂漠を越えるべきだ! そうすれば家まで簡単に帰れるはずさ。砂漠を抜ける方法は空しかないよ。僕もここへは竜巻で飛ばされて来たんだから」
ジーザス。完全に狂ってる。
俺は老人との会話を諦め、石畳の道をまっすぐ東へ向かうことにした。どこに続いているのか知らないが、民家があるということは人里が近いのだろう。その場を立ち去ろうとしたとき、老人に迷彩服の裾を引っ張られた。
「何だジイさん。まだ用があるのか?」
「いやいや、僕はとてもいい人間だ。ただ、ダメな魔法使いだってことは認めなくちゃいけない」そう言って、老人は手にした杖を振りかざした。先端には占い師が使うようなクリスタルの球体が取りつけられている。俺は身の危険を感じ、反射的に身構えた。
「心配いらないよ、ドロシー。今気球を飛ばしてあげるから」
老人が呪文のような言葉を呟き始めると、急にあたりの闇が濃くなった。その一言一言が生命を持って、太陽から光を奪っているようだ。寒気を感じる。気がつけば、俺の体は立ちのぼる薄い靄のヴェールに覆われていた。どこから現れのか、銀の蛾の群れが天に落ちていく。俺は逃げだそうとしたが、目に見えない力で押さえつけられているように、微動だにできなかった。
「ファック!」俺は叫んだ。
魔法だ! このジイさんは本物の魔法使いだ!
冷気に包まれた足の感覚がなくなっていく。見れば、俺の下半身はすでに半分以上が消滅していた。以前ベトコンが仕掛けた対人地雷でヘソから下を吹っ飛ばされた死体の映像を見たことがあるが、あれよりひどい有様だ。生きているのだから余計にタチが悪い。俺は気が狂いそうだった。
世界が輪郭を失っていく。視界はぼやけ、靄は濃度を増し、何もかもが暗闇に溶けていく……老人が唱える呪文を聞いているうちに、俺は深い無意識の海へと沈んでいった。
目を覚ますと、俺はジャングルの茂みでアホみたいに口を開けて倒れていた。すでに陽は沈み、あたりは闇に包まれている。何時間も気を失っていたようだ。上半身を起こすと、地獄のような光景が飛びこんできた。装備を漁られた米兵の死骸がゴロゴロと横たわっていた。薄気味悪い鳥がそこら中に群がっている。俺は胃液を吐き、よろよろと立ちあがった。いつからラリっていた? どこまでが現実だ? これも夢の中なのか? 十ヤードほど離れた場所で、パワーズの遺体を見つけた。手にはジャムった自動小銃が握られ、後頭部の半分が失われていた。コールハウスは60のそばに跪き、神に祈るような姿勢で死んでいた。彼らが殺したはずの敵の遺体は見つからなかった。
こうして、隊は俺ひとりを残して全滅した。
なぜ敵が俺を見逃がしたのか知らないが、パワーズは正しかった。
周囲にベトコンがいないことを確かめたあと、俺は木立のほうへと駆けだした。無線で救助ヘリを要請し、着陸地点に向かうつもりだった。
俺は一度も休憩することなく歩き続けた。
目的地にたどり着いたのはそれから十時間後だ。奇襲に備えてクレイモア地雷を仕掛け、救助ヘリを待っている間、俺は眠ることもCレーションを食うこともなく狙撃の恐怖に脅えていた。
正気を保っているくらいなら完全にイカれたほうがマシだ。俺は残っていたアンフェタミン錠剤をすべて飲みこみ、胃の刺激に耐えきれず吐きだし、ゲロに混じった錠剤を拾って口に含み、また吐きだし、そんなことを延々と繰りかえしていた。
そのかいあって、しばらくするとまた幻覚が見え始めた。ビキニのラクエル・ウェルチが現れ、俺の頬にキスをした。小さなミッキー・マウスが手のひらの上で踊っていた。俺はドル札を何百枚も燃やし、ライフルの銃身をパイプ代わりにしてマリファナを吸った。これまでの人生でいちばん愉快な気分だった。俺はドアーズの替え歌を口ずさみ、世界のすべてが手に入ったと喜んだ。
カモン・ベイビ・ライト・マリ・ファナ……
救急ヘリが到着したとき、俺は失禁しながら気絶していた。
●
俺はダナンの野戦病院へ運びこまれ、手術を受けることになった。思ったとおり右腕の神経は完全にイカいれていた。これでお払い箱というわけだ。俺は間もなくパープルハート勲章をもらい、本国へと戻されることが決まった。
退院後、基地でメイスンと再会したのは偶然だった。戦場での出来事について四回目のヒアリングを受けた俺は、情報部の建物を出たところで声をかけられた。
「君、サンディエゴの二三七小隊にいたサトラーだろ?」
振りかえると、懐かしい顔が微笑みかけていた。一瞬、誰だかわからなかった。訓練基地を出て以来、メイスンがどこで何をしていたのか知る者はいない。てっきり本国で事務員でもやっていると思っていたので、ナムにいるとは意外だった。
「ずいぶん雰囲気が変わったね。とにかく生きててよかった」
メイスンの言うとおり、俺は半年前とは別人のように変わり果てていた。頭には白髪がまじり、ジャングルでくぼんだ頬は決して元に戻らなかった。鏡をのぞくと、眼孔の奥で猛禽のような目玉がギョロギョロと動いていた。
「せっかく会えたんだ。少し話せるかい?」
もちろん、と俺は答えた。
それから俺たちは互いの近況を話しあった。メイスンは一週間前にこっちへ来たばかりで、衛生兵として歩兵部隊に同行していると言っていた。彼は政治をよく知っていて、来年の大統領選を契機にベトナムの米兵は削減されるだろうと予測した。「じゃあ、俺たちのしていることは何なんだ?」そうたずねると、メイスンは困ったように首を傾げてしまうのだった。
ふたりとも、あの日の出来事には触れようとしなかった。二三七小隊の思い出はメイスンにとって楽しい話題ではなかったはずだ。今でも小説を書いているのかとたずねたかったが、自分にそんな資格がないことはよくわかっていた。それに、メイスンは俺が原稿を盗んだ犯人だと疑っていたかもしれない。
「これからどうするんだ?」と、別れ際にたずねた。
「明日、補給部隊といっしょに南へ向かうよ。旧正月の間は平和だから」
「サイゴンか?」
「いや」メイスンは言った。「アルファヴィルへ行くんだ」
それが彼の書いていた小説の舞台だということを、俺はすぐに思いだすことができた。あの美しい風景。夢の中で見た牧歌的な景色が、いつか見たスケッチブックの絵と重なった。メイスンは幻想の世界を捨ててはいなかった。仲間たちに尊厳を踏みにじられ、目の前で小説を焼かれ、生き地獄へと送られてもなお、メイスンは“想像すること”によって戦いを続けていたのだ。
「ああ……行けるといいな」俺は心からそう言った。
「行けるさ」と彼は答えた。
それから俺たちは挨拶をして別れた。もう二度と会うことはないと、なんとなくわかっていた。ひょろひょろの背中が建物の角に消えたあと、理由はわからないが俺は少しだけ泣いていた。
年が明けてしばらく経ってころ、俺はベトナムを発った。
ダナンの大激戦を免れることができたのは人生最大の幸運だ。もし一週間でも出発が遅れていたら生きて祖国の土を踏むことはなかっただろう。帰国後カリフォルニアで暮らし始めた俺は、右腕の後遺症とPTSDに悩まされた。出征前と同じような暮らしは望めなかった。特にあの「サイゴンの処刑」やソンミ村の件が報じられて以来、社会から爪弾きにされたも同然だった。帰還兵はアメリカ中から敵意を向けられ、罵られ、拒絶され、軽蔑された。ディスカウント・ストアに入れば「殺人鬼には売らない」と追いだされた。市営バスに乗れば「血の匂いがする」といって降ろされた。どこもかしこも地獄の延長だ。
やがて俺はこの世に絶望し、カリフォルニアを離れた。
今日までずっと故郷で暮らしている。
デンバーに戻ってから、繰りかえし悪夢を見るようになった。血で赤く染まった戦闘用ブーツを履いた俺は、M60を抱えたコールハウスとパワーズ、それに射撃訓練用の標的を引き連れて黄色い道を歩いている。やがて翼を生やしたベトコンが大空を埋め尽くし、遠くから軍曹の怒鳴り声が聞こえるのだ。「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」それから世界が燃えあがる。標的もコールハウスとパワーズも灰になっていく。俺は恐怖で震えている。道のずっと先には、消防士の制服を着たメイスンが見える。いつも彼に追いつこうとするのだが、メイスンの姿は虹のように揺らぐばかりで、決して追いつくことはできない。虹の彼方なんてどこにもない。俺は大声で喚き続ける。助けてくれ。俺をここから救いだしてくれ。壊れているんだ。アメリカも、ベトナムも、何もかもが壊れているんだ……
六八年一月、メイスンはテト攻勢下のフエで襲撃に遭い、二十歳で亡くなった。基地で俺と別れてから二週間後のことだった。遺体は他の仲間たちと同じように、アーリントン国立墓地へと埋葬された。これまで数えきれない人々が海兵隊記念碑に花を手向け、彼の魂が安らかに眠れるように祈りをささげてきた。
だが、俺はそこに彼がいないことを知っている。
エドワード・メイスンは魔法の国に生まれ変わり、今も戦っているのだ。
《完》