6.月が綺麗ですね
深夜になった。
あれから俺たちは食事をとり、入浴して、すぐに休むことにした。アイリスとシャルロッテは同じ部屋で眠っていることだろう。
俺は一人、この宿の屋根の上にやってきた。
うむ。今夜は緑色の月か。綺麗だ。
もちろん月を眺めてにきたのではない。今日も今日とて特訓である。ここなら、誰かに見られることはないだろう。
掌の上に、煙をわずかに出現させた。
この煙を頭の中でイメージした形に変えていく。
俺が編み出した修行法その一。しりとり訓練法。
くるま、マイク、くり、りんご、ゴリラ、ラッコ、コイル。
頭の中でしりとりをしながら、煙で平仮名と片仮名を作っていく。これを素早くかつ正確にやることで、煙を操る精度を高めようという訓練だ。
ちなみ最初は、文字じゃなくて、粘土のようにそれ自体を煙で作ろうとしたのだが、形のない言葉が意外と多かったり(例えば"ルール"とか)、俺の芸術センスが壊滅的(動物はだいたい全部同じになる)なせいもあったりで、紆余曲折あり文字にすることにした。
次にこの煙の文字に色をつけていく。
修行法その二。カラーリング訓練法。
これがかなり難しい。俺が使える魔法の煙は、いまだに緑と黒だけだ。
それ以外の色をつけようとすると、煙が拡散してしまって形を維持することができない場合が多い。
上手くいったとしても、結構な時間がかかってしまい、これでは実戦では役に立たない。
緑や黒の煙がすぐに習得できたのは、強敵ばかりのあの森で、極限状態のまま戦闘を続けていたからだと思う。
ただの自主訓練では、実戦を重ねるよりも、だいぶ時間がかかってしまう予感がある。
それでも何もしないよりは遥かにいいので、毎夜、こうして俺は煙を操る訓練をしていた。
最初に比べたら、だいぶうまくいくようになってきた気もする。
実戦で使ってもよさそうな色だってある。
この特訓は決して無駄ではないだろう。
――コツ。
ふと背後から物音が聞こえた。
能力を解除し、振り返る。
「……な、なんだ、君か」
黒いドレスを仮面美女、フィーネが立っていた。
「ごめんなさい。驚かせてしまいましたか」
フィーネはそう言って、仮面を外した。タトゥーの描かれた美しい顔が露わになる。
月光を浴びた彼女の銀髪が、夜の風に揺れている。こういう人をミステリアスな美女というんだろうな。
「隣に座ってもいいですか?」
「あ、うん。……まだ寝ていなかったんだな」
「はい。なんだか眠れなくて」
彼女は俺の横、腕が触れ合うくらい近くに座った。
「おい、距離が近いぞ……」
「ダメですか?」
「……ダメじゃないけど」
フィーネはどうしてここへ来たんだろう……。
「えっと、どうかしたのか?」
「あ、はい。ちょっと質問がありまして」
「なんだ?」
「はい。リュートさん、好きな食べ物はありますか?」
「好きな食べ物?」
フィーネは頷いた。
「うーん、なんだろう。俺って、なんでも美味く感じるからなぁ」
「今、一番食べたいものでもいいですよ?」
「んー。……じゃあ、魚の刺身とか?」
川魚は生で食っちゃいけないと聞いたことがあるので、なんとなく、全部焼いて食っている。
街でも刺身は見ないし。たぶん生魚を食べる文化がないのだ。
「ふふ。分かりました」
「……? それだけか?」
「はいっ」
……なんだろう?
彼女はそれからとくに話をせず、ただ俺の隣に座って月を眺めていた。
静かな夜だ。どこかの水路に流れる水の音が、小川のせせらぎのように控えめに聞こえている。
「……。今夜は、月が綺麗ですね」
「……う、うん」
一瞬、どきっとしてしまった。
日本人的な解釈で、好きです、という意味を持つとか聞いたことがあるからだ。でも、ここは異世界だし、考えすぎだろう。
「どうして、俺の前だけその仮面を外すんだ?」
俺は動揺を隠す意味も兼ねて、そんなことを聞いてみた。
「リュートさんは、このタトゥーの意味が分かりますか?」
「意味?」
「…………。やはり、ご存じなかったのですね」
フィーネは困ったような顔で笑った。なんだかその顔はとても辛そうに見えて、俺は初めて彼女の本心が垣間見えた気がした。
「教えてくれないか?」
「はい……。このタトゥーは、罪人の証なのです」
「罪人……」
フォーネは目の下のタトゥーを指でそっと触れながら、話をつづけた。
「私は小さい頃に盗みを働いて、大暴れした挙句捕まってしまいました。それでこのタトゥーを刻まれてしまったのです。それからはずっと罪人として王国に囚われていました」
また王国、か。
「本来は無期懲役だったんですが、運のいいことに脱走できて……。でも、この顔のタトゥーがあると、普通に生きるにはなかなか大変だったんです。それで、こうして仮面で隠すようになり――」
フィーネは仮面を指で持ち上げて顔を隠すようにした。
「――私は、一人でも稼ぐことができる冒険者になりました」
「……どうして盗みを?」
「それは――」
彼女はそこで言葉を止めた。
「――いいえ。これは、話しても楽しくない話です。今日はせっかくリュートさんと再会できた記念すべき日ですから、こんな話はしたくありません。でも、一つだけ信じて欲しいことがあります。私は、盗みをしなければどうしようもない事情があったのです。ああでもしなければ、私は死んでいました。好きで盗みをしたわけじゃあないんです」
フィーネは再び仮面を外す。
「だから、その、私のこと、どうか嫌いにならないでくれませんか? お願いします」
濡れた紫色の綺麗な瞳に、月の光が反射している。
「――嫌いになんてならないよ」
「……っ! あ、ありがとうございます」
フィーネは耳の先まで真っ赤して俯いた。
か、可愛い。
なんだか変わった人だと思っていたけど、こういう表情を見ると普通の女の子に見える。
「嫌いにならないってことは、好きになるってことですよね?」
「……え?」
「嫌いにならないの反対は好きになる、でしょう? そうですよね?」
「…………」
「嬉しい。……リュートさんなら、きっとそう言ってくれると思ってました!」
何も言っていないが!?
「……あ、あのなぁ。過去は過去だろう? 嫌いにならないなんて、普通だと思うけど。それにシャルロッテやアイリスだって、そんなタトゥーのことなんて気にしないと思うぞ?」
フィーネは首を横へ振った。
「ごめんなさい。それはまだ勇気が持てませんから。だから……しばらくは彼女たちには内緒にしておいてくれませんか?」
「……フィーネがそう望むなら、そうするけど」
まあ、しょうがないか。彼女の問題だからな。
「ところでリュートさんはここで何をしてたんですか?」
「ん? あぁ、修行してたんだよ。フィーネ、今から話すことを内緒にできるか?」
「……? はい、それはもちろん」
俺は手のひらの上に煙を出現させた。
「俺、ユニークスキルを持ってるんだ」
「……ユニークスキル」
煙の色を変化させていく。
「【煙の支配者】ってスキルなんだ。まだ修行中で、これの練習をしてたんだよ」
「……すごいですっ! リュートさん!」
フィーネは尊敬の眼差しを浮かべ、いっそう俺に顔を寄せた。
「ち、近いって」
「あ……ご、ごめんなさい。でも、やっぱりリュートさんは特別な力を持っていたのですね。……嬉しい。やっぱり私の感じたことは――」
「え?」
「いいえ、なんでもありません」
フィーネは立ち上がった。
「……修行中にお邪魔してすみませんでした。今日は、リュートさんと出会えてすごく幸せでした」
「え……うん。そう思ってくれたならよかった」
「ダンジョンでの私に期待してくださいね。私、きっとお役に立てますから。……それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ……」
フィーネはドレスのスカートをつまんで優雅に挨拶すると、仮面を装着して、屋根の下へ飛び降りていった。
一瞬、どきっとしたけど、アモンを蹴り飛ばした動きを見ると、ここから飛び降りれるくらいの身体能力はあるのだろう、とすぐに考えが至った。
そもそも、この屋根の上も普通には来れないしな。窓からアクロバティックに跳躍しなければ来ることができない。
……そういえば、フィーネはさっきの質問だけをしにわざわざここへやってきたのだろうか? しかし、よく俺がここにいると分かったな……。
ま、いいか。
特訓を続けよう。
…………。
……。
* * * * *
翌朝、シャルロッテ、アイリス、俺の三人は宿屋の食堂で朝食をとっていた。
パンにバター、ウインナーに牛乳。以上だ。種類は少ないが、シンプルでめっちゃうまい。
フィーネはもう出発していて、この宿屋にいない。扉の隙間に置手紙が差し込まれていて、出かけたことが書かれていた。
「ちょっとシャルロッテ! ちゃんとしなさいよ……」
「んー」
シャルロッテはパンを片手にうとうととボートをこいてでいた。
これまでは野宿だったから、睡眠が浅かったのかもしれない。
昨夜は久々のベッドで、ぐっすり眠れたことだろう。
ちなみにシャルロッテは昨日に引き続き、眼鏡とイヤリングをしている。気に入ったみたいだ。
「もう……牛乳もこぼれてるし」
アイリスがふきんでシャルロッテの口を拭った。
「あはは、ごめんごめん」
うーん。平和だなぁ。
こんな穏やかな場所で、俺は二人の美少女とともに食事をとっている。
なんて心地よい時間なんだっ!
幸せになりたいといつも言ってたけど、そうか、俺はもう十分幸せだったんだ。
父さん、母さん、凛。
俺、異世界で幸せになったよ!
でも俺の物語はまだ終わっていない。
オレはようやくのぼりはじめたばかりだからな。
このはてしなく遠い異世界坂をよ……。
「リュートもちゃんとしなさいよ。っていうかあんた、今すごくくだらないこと考えてるでしょ」
未完!
まあ犀川もどこかにいるしな。真の幸せは、やつを乗り越えた先にある気がする。
「ねえ、リュート」
「ん?」
「あの子の仮面のことなんだけど、何か知ってるの?」
「……さ、さあ」
「ふうん……」
「カール・グスタフ・ユングはこう言った……人はみな仮面をつけて生きているのだ、と……」
「は? 誰よそれ……。ま、いいけどね」
ほっ。とりあえず誤魔化せたようだ。
そんなやり取りをしながら、俺たちは朝食を終えた。
俺たちはすぐにチェックアウトして、いよいよ冒険者ギルド『ハイファミリア』に向かって出発するのだった。