第一話 春
1 郡司満
看護師としての業務とは別に、俺は拓海の病室を訪れた。
「拓海、いるか?入るぞ」
返事が返ってこないことも、絶対に居ることもわかっているのに、声をかけてしまう。
拓海とは年が近いこともあって、全身不随になる前はよく話していた。
拓海の親から、拓海が字を書けるようになったという有り得ない話を聞いたから、様子を見にきた。
「久しぶりだな」
部屋にはペンとメモ帳が置いてある、小さなテーブルが置いてあった。
「ちょっと俺の悩みを聞いてくれよ」
そんな言葉が口をついた。悩みを言ったところで、何になるわけでもない。でも、吐き出したい気分だった。
「拓海、文字書けるんだろ?まあ、独り言だと思って聞き流してくれ……」
俺と俺の彼女……船木美伽は、他の寝たきりの患者の病室で、点滴変えたり、色々やってた。
で、そっから昔辞めた看護師の話になったんだ。
俺と美伽とも看護師仲間だったから、共通の知り合いってわけだ。
山元さんっていうんだけど、彼女、美伽のことめっちゃ嫌ってたみたいでさ。
でも美伽はその人のこと好きだから、しょっちゅうメールしてたみたいなんだ。
だから、この前会ったとき、嫌いってことを伝えといて、って言われた。
で、そのこと言ったら美伽が最低、って言って飛び出して行っちゃったんだ。
そっから何故か口聞いてくれないんだよぉ。
教えてよ、拓海……。
教えてもらえるはずがないのに。少し虚しさを感じた。
はぁ、と溜め息をつくと、静かな病室では思いの外響いた。
二分くらい、ぼーっとしていた。すると、ゆっくりペンが動く音がした。
ぎょっとしてテーブルの方を見た。
『ぐんじさん』
細長く、薄い文字でそう書いてあった。
『うそでは、ないよ』
体が動かなかった。
『もじ、かけるんだ』
「……そう、か」
自分でも驚くことに、すんなり信じられた。
『おしえてほしい?』
「ああ」
『ふなきさんをつれてきて』
「……つれてこられるかわかんないぞ」
俺は美伽に口も聞いてもらえないのに。
ペンは動かない。力尽きたのか……。
「ああ、つれてくるよ」
2 船木美伽
なんであいつはあたしに平気で声かけてくるかなあ!
イライラしながら廊下を歩いた。信じらんない。
あいつに言われたとおり、拓海の病室に入る。
「船木美伽でーす。入るよ」
そういえば拓海、文字書けるようになったとか拓海の親が騒いでたけど。
「ねえ、本当にあいつ信じらんない!ちょっと聞いてよ……」
寝たきりの患者さんの部屋で、仕事してたらね、あいつが急に自分でもよくわからないけど、美伽のこと嫌いみたいだ、とかいきなり言ってきたの!
その前は共通の知り合いの話とかしてて、不自然に間があいたと思ったら、いきなりそれ。
あたしたち、結構上手くやってるつもりだったのに……なんで。
ねえ、なんでなの……拓海。
いけない。最後の方、ちょっと涙声になってしまった。
はぁ。あたし、何してるんだろ。
『ふなきさん』
えっ!?
「拓海!?」
ペンが勝手に動いている。
『ぼくには、ぜんぶわかったよ』
「わかったって……どういうこと?これ、どうなってんの?」
あいつはすぐ信じたのかもしれないけど、信じらんない!
『ぐんじさんと、ふなきさんに、いっしょにはなしをしたい』
「わかった……呼んでくる」
一目散に病室を飛び出した。
3 一ノ瀬拓海
もう、本当にあの二人は……。
二人して感情的すぎるんだっての。
僕もこんなの労力使うからやりたくないのに。
腕が痺れてきた。あと何分もつか……。
「郡司満、入ります」
「……船木美伽、入ります」
船木さんはちょっと不機嫌そうだ。
『ほんだいにはいるよ』
ちょっとやばいかも。力尽きそう。
『ふたりのあいだにはかんちがいがあったんだ』
えっ、と二人の声が聞こえる。
『ぐんじさんは、やまもとさんがふなきさんのことをきらいだといったんだ』
「嘘っ……」
「そ、そうだけど、なんでわざわざ?」
ああ、もう。気づけよな。
『ふなきさんは、ぐんじさんがふなきさんのことをきらいだと
おもったんだ』
「あっ」
「……もう。そうだよ。気づくの、遅いよ……」
船木さんが鼻をすする音が聞こえた。
あぁ、僕はどうやら力尽きたようだった。
意識が飲み込まれていく中で、桜の香りがした。
ーFINー