《唯華視点》後編〜救ってくれた人〜
男子生徒と肩をぶつけた一週間前から、夢に変化が起きた。
あの白昼夢を見るようになった。一昨日より昨日。昨日より今日。日にちを経る毎に闇の侵食は増し、彼を飲み込もうとする力を強めていき、それに押されるようにして彼の背中が私に近付く。
けれど、それに抵抗するように彼の背中は暖かな光を帯び始め、闇を押し返す場面もあった。
光と闇がせめぎ合う。そんな昔見たヒーロー物、ヒロイン物のアニメのような光景が私の夢の中で繰り広げられ、いつも彼の――大丈夫、俺が守るから――の言葉で夢から覚める。
それは予定調和のようで、私に彼との繋がりを感じさせていて、確信にも似た予感が記憶を掘り起こせと、失ったそこに求める彼がいることを伝えていた。
「最近よく廊下歩いてんね。なにしてんの?」
ショートカットで外ハネ癖っ毛が特徴的なざっくり性格の友人がそう聞いてくる。
「教室見てるみたいだよー」
私の発言の前にのんびり屋な友人が暴露する。
彼女はいつも眠たげに目を細めているくせに、よく周りを見ている。通りすがりにちらりと他教室を覗き見ただけなのに、しっかり把握されていたみたい。
「他所の?」
「そー」
「なんでまた?」
「さー? わたしに聞かれても分かんないよー」
視線が集中する。
どうしよ。男子を探してるなんて言うと、変な勘ぐりを受けるかも。それはちょっと避けたい。
「大したことはないよ? ただ、他に私の知り合いって誰なんだろうなって」
少し卑怯だけれど、記憶喪失のことを引き合いに出す。
みんな「あー」って言い辛そうに、視線を背けた。あながち間違いでもないと思うんだけど、確証がないからなんか罪悪感が……
……兎にも角にも、そう誤魔化して難を逃れた。
◇
ずるりずるりと近づく毎に、闇は大きく、深くなっていくように思う。以前よりも濃厚で、強大に。
暖かな光を放つ彼の背は、それに負けじと踏ん張るも、じりじり押し流されて後退する。
名前も顔も知らない――覚えていない――彼を救う方法を私は模索していた。
………………
…………
……
「――っ!?」
前を人が横切って意識が戻る。
放課後。まだ教室を出ただけで、廊下の真ん中だった。
そこで白昼夢に落ちた私は、感覚で数秒程度、意識を飛ばしてしまっていた。
通り過ぎる男子生徒の背中をなんとなしに見る。見覚えがあった。
忘れない。脳裏に焼き付いている。
「――っ。みんな、ごめん! 用事あるの思い出した! 今日、“しゅママ”行くのなしで!」
“しゅママ”は駅前にある喫茶店で、そこのパンケーキが美味しくて、私達はよくそこでお茶会みたいなのを開いている。
今日も行く予定をいつものメンバーで組んでいたけど、行けなくなった。
「え? 急ね。どうしたのよ?」
「また、明日!」
「ちょっ、ま――っ!」
強気な友人の問い掛けに無視する形で返してしまったことに罪悪感を覚えつつも、私は声の主を追い掛けた。
友人達の戸惑う気配に心中で謝罪しつつ、廊下を走るのは良くないから、ちょっと早めの速度で進む。
夢の中でとはいえ、何度も見た背中だ。少し視線を外して見失ったけど、すぐに見つけられた。
既に靴を履き替え、帰宅する生徒でごった返す昇降口をすいすいと歩いていく。
ちょっ、どうやってるの? あれ。
みんな先に人が抜けるのを待ってるのに、彼だけほんの僅かな隙間を縫うみたいに進んでいくんだけど。
慌てて自分の下駄箱に向かい、学校指定のローファーに履き替え、通れそうな隙間を見つけてできるだけ早く進む。
正門を抜けると左右に道が広がる。
「……いたっ」
遠目に彼の背中が見えた。目算で百メートル前後の位置だ。
未だ生徒の数は多く、走るのは少し危ないかもしれない。
はやる気持ちを抑えて、着実に彼に近づく。幸い、昇降口で見たような不可思議な歩き方はしていなかった。
(もう、少し――っ!)
目算で十メートル弱。そこまで彼の背中に迫った。
「あのっ!」
気持ちが抑えられず、声が出た。思いの外大きな声だ。
周囲の生徒とか、通行人の視線が集中する。それには彼も含まれていて……
「――っ!?」
「え?」
鋭く吊り上がった目を少し見開いて、背中越しに振り返っていた首を正面に戻して足早に歩き始めた。
(は? 逃げた?)
何で? そんな疑問が産まれる前に、私は彼を追った。
注目した人には、凄く奇妙な行動だったかもしれない。ウチの生徒も多いから、変な噂が立つかも……
そんな懸念も有ったけれど、今はそれよりも逃げた彼の方が重要だった。
早歩きの彼に対して私は走った。当然速度は私の方が早く、すぐ彼に追いついた……のだけど、足音で走っているのが分かったのか、確認する素振りもなく彼は歩調を速め、仕舞いには走り出していた。
「あのっ、なんで逃げるんですか!?」
「……っ」
問への回答はなく、代わりに加速が返事と言うように足をさらに早めた。
こうなったらもう意地だ。逃げられれば追い掛けたくなるのが人情。絶対に捕まえてやると、鼻息も荒く、私も加速していく。
記憶を失くす前は女子バスケ部のエースだったらしい私に、体力で勝てると思うなっ!
――そう思って数十分後、彼は息も荒いのにペースを落とさず、信号や人ごみを避けるように曲がりに曲がり、私の知らない風景が長く続く場所に出てもまだ走り続けていた。
「――っ――っ」
「……はっ……はっ」
ほぼ無呼吸のような彼が心配だ。さっきまで荒く呼吸をしていたのに聞こえなくなった。
運動なら、運動部の男子にも負けない私が追いつけない速度を保ち続け、ふらつくことなく真っ直ぐな姿勢で進む。
体力云々じゃなくて、これは精神的なものかもしれない。
逃げる理由は分からないけど、そうしなきゃいけない何かがあるのかも……それってなんかムカつくなぁ。
ずっと走っていると考えがとっちらかって、頭がぼーっとしてくる。
同じところを回っているような気もするし、目新しい場所を走っているような気もする。
ただ明確なのは、見覚えがあるようでなくて、届きそうで届かない背中を追いかけているってこと。
――大丈夫、俺が守るから
不意に、耳朶を振るわさない声が、頭の中かから聞こえてくる。SF映画のテレパシーってこんな感じなのかな? とぼんやりと考える。
――次こそは
そう繰り返された言葉。今も心に残っている。
(あれ? 残ってるってなんだろう?)
――救ってみせる
――諦めない
――何度でもやり直す
――大丈夫だ。まだ俺は……壊れていない
――傍にいられなくてもいい。お前に幸せになってもらいたいんだ
何度も何度も投げかけられた言葉。失った過去からじゃなくて、内から湧き出てくるような、私の魂に根付いたような言葉の数々。
――ユイ…………好きだ
トクンと心臓が跳ねた様な気がした。気づけば風景が様変わりしている。
そこは病室で、多くの機器や管を取り付けられた私がベッドの上で寝ていて、その傍らに彼が立っている。
人工呼吸機をそっと外した彼が、皮膚も髪もボロボロの私を優しく撫で付けて無断で、無・断・で、唇に唇を重ねる。
私を見詰める眼差しは悲しみと、慈しみと、怒りと、愛おしさを、ごちゃごちゃのごっちゃごちゃにしたような混迷した暗さを際立たせていた。
数分のキスを終えて、彼は病室を出ていく。
その背中が、最近夢で見るような闇に呑まれようとしているのが分かった。
彼はこれからも途方のない戦いに赴くんだろう。終わりの見えない戦いに、独りで誰に頼ることもなくて、私を助けるために……
「――って!」
病室を出る彼に伝えたくて出した声が掠れた。喉が渇く。思考に靄が掛かり、遠ざかる彼に手は届かない。
「――まっ――って!」
伝えたい思いは山ほどある。
冷やかされたくらいで私を遠ざけるなとか、勉強の予習復習をちゃんとしなさいとか、試合の応援に来て欲しかったとか、面と向き合って欲しいとか、もっと話がしたいとか、……色々ありがとう、とか……
………………
…………
……
前方を彼が走っている。意識が飛んだのは一瞬だけで、距離は開いていなかった。
ああ。うん、そっか。彼は私の幼馴染だ。幼い頃から一緒で、一緒にご飯食べたり、一緒にお風呂入ったり、一緒に寝たり、怒られたり、褒められたり、心配されたり、多くのことを共有したんだ。
初めての料理も彼に食べてもらったし、中学のセーラー服を一番に見せたのも彼だった。
料理は砂糖を塩と間違えて失敗しちゃって不評だったけど、ちゃんと練習して、味見もして、美味しいって言ってもらえるようになった。
セーラー服は照れながらだったけど、似合ってるって言ってくれた。
ファーストキスだって小学校低学年の時に捧げてる。彼が覚えてるか分からないけど、凄く緊張して、恥ずかしかったのを私は覚えている。
「――待ってよっ!」
精一杯叫ぶんだ。渇いた喉なんて知らない。喉を震わせると少し痛いけれど、伝えたいことがあるんだ。
自己犠牲なんて流行らないって。忘れたままでいたくないって。全部受け止めるって。
あなたが――好きなんだって。
だから……
「――待ってよっ! タカちゃん!!」
愛称を呼ばれたことに驚いたのか、もう限界だったのか、彼は足を縺れさせて盛大にすっ転ぶ。
幸いだったのは、ここが公園で、地面が柔らかな芝生だったことと、彼の転がる先には何もなかったこと。
どう転んだのか、彼は仰向けになった身体を、夕暮れをバックに上体を起こして、唖然とした表情で私を見詰める。
私は走る速度を緩めて、止まらず彼の首にしがみつく様に飛び込んだ。
芝生を摩って青くなった頬やワイシャツの色が私にも伝染る。
見た目以上に筋肉質な彼――タカちゃんは、しっかり受け止めてくれた。
ここで腕を私の背中に回してくれればパーフェクトなんだけど、倒れないように咄嗟に芝生を押さえて耐えたみたい。それは残念でならない。
「ユイ……お前」
どこか不安定に揺れる声音で、私を昔からの愛称で呼ぶ。
そうだ。私はユイ。幼馴染の男の子が親しみを込めて、ユイと呼んでくれた時は凄く嬉しかった。
「ユイ」「タカちゃん」と呼び合うと、以前よりも心の距離が近く感じられた。それは、今も変わりなかった。
「あのね? 思い、出したよ。全部」
「――っ」
息を呑むのが分かる。触れ合った胸の鼓動がドクンと脈打つのが分かる。……ああ、近くにいられるって嬉しいなぁ。
「それだけじゃ、なくてね? 知ってるよ、アナタが守ってくれていたこと……」
「――っ!? 俺、は……守れてなんか――」
言わせないよ。結果がどうあっても、事実がどうあっても、確かに私は救いを感じたから。
だから私は言葉を被せる。
「大丈夫、救われていたから。アナタに看取られて、私は救われていたよ」
彼の耳元で静かに、沁みるように言う。届かなかった声が、届けたかった声が伝わるように。
「そっ、か……そっか。俺は、救えていたんだな。お前の心を」
「……うん」
震えと濡れた声音で聞き取り辛いけれど、タカちゃんの声に安堵の色を感じて私も胸が熱くなった。
(タカちゃん、でもね? 伝えたいことはそれだけじゃないんだ)
すぅ……はぁ……と深呼吸を繰り返し、覚悟を決める。
タカちゃんの肩に手を添えてそっと身を起こし、彼と向き合う。色んな荒事に触れて吊り上がった目と視線を合わせた。少し潤んでいて、見ためよりも優し気な眼差しだった。
ずっとずっと伝えてくれていた想いに、私は応えたい。私だってアナタに負けなくらい……
「――好きだよ、タカちゃん」
そっと私は彼と――タカちゃんと唇を重ねた。
これにておしまい、です。
読了、お疲れ様でした。
この話、思い付いたのが二月の半ば。書き始めて五ヶ月。ようやく完成したのでお披露目しました。書きたかったことの七割は書けたんじゃないかなぁと思うので、満足してます。
毎日更新できる作者さんは凄い。
たかだか九部で五ヶ月掛ける俺はショボイ。