新しい神様
「神様の話を聞きに行きませんか?」
女は、道を歩いていた僕を引き止めるとそう言った。「すぐ近くなんです。時間、ありませんか?」
「神様の話? それって、宗教の勧誘かい?」
「ええ、そんなところです。宗教はお嫌いですか?」
「興味ないね」
僕がその場を去ろうとすると、女は僕の腕を掴んで言った。「ねえ、ちょっと待ってよ」と女は言うと、蛇のようにするりと腕をからませてきた。「一緒にお茶を飲むだけだったらいいでしょう? わたし、寂しいの…」
そのまま腕を振りほどいて立ち去るべきだった。でも結局僕は、女に手を引かれるまま喫茶店らしき建物へ入った。奥のテーブルで小太りの中年男が酒を飲んでいる姿が見えた。他に客はいないようだった。
「先生、連れてまいりました」と女は言うと、その中年男の向いの席へ座るよう僕にすすめた。
僕は今すぐ帰りたいと思った。
「まあ、座りたまえ」とその男は赤い顔をしながら僕に言った。「君、酒はいけるのかね?……そうか、ダメなのか。残念だなあ…」
あのう…と僕が言いかけると、男は手のひらを見せて僕を制止した。
「君の言いたいことは分かっておる」と男は言うと酒を一口飲んでシャックリをした。「ヒックゥ…。ところでつかぬことを訊くが、君は神を信じるかね?」
「いいえ、信じてませんが」
「ほほう、君はいい筋をしている。なあ、ユミコくん」
男がそう言うと、女はええそうですね先生、と言って頷いた。
「我々の宗教はだな」と男は言った。「神というものを持っておらんのだよ。神は死んだと言われて久しいが、我々の宗教は神が死んだところから始まるのさ。つまり我々の宗教は新しい神を探すことを目的とした宗教なんだよ…。ユミコくん酒を持って来てくれ…」
女がカウンターの奥で酒を探していると、男はア〜とかウ〜とか言いながらソファーにごろんと横たわり、そのままイビキをかいて眠ってしまった。
「あらあら…」と女はあきれたように言いながら、男に毛布を掛けてやった。「さて、わたしたちも帰りましょうか」
男を残して店を出ると、僕と女はしばらく歩きながら話をした。
「変なことに付き合わせちゃったわね」と女は言った。「先生はね、わたしの働いてるキャバクラの常連なの。だからたまに先生のこと手伝ってあげてるのよ」
僕たちは、疲れた顔の会社員や自転車に乗った学生と擦れ違った。
「わたし、これから仕事なの」と女は言うと、僕にピンク色の名刺を渡した。「今度うちの店にも遊びにきてよ。じゃあね」
女は人込みに混ざってすぐに見えなくなった。手を開くとピンク色の名刺が緑色の葉っぱに変わっていた…。僕はその葉っぱを家に持ち帰って本の間に挟んだ。
数年後、僕と結婚した女が僕の本を開いてあの葉っぱを見つけた。彼女は葉っぱの付け根を指でつまむと、指先をこするように動かしながら葉っぱをクルクルと回した。その様子を見て僕は、彼女に新しい神様の話をした。すると彼女はフ〜ンと言って葉っぱを本に戻した。
「で、そのユミコって女となんかあったの?」と彼女は、僕を見ないで言った。「別にどうでもいいけど…」
僕は笑いながら彼女に言った。「だから、その女は狐だったんだよ」
「馬鹿みたい…」
―end―