(短編)竜宮の真珠
「だから、ぜひ君たち二人に頼みたいのだよ」
シュリの宮殿の主、尚真王はいつもの得体の知れない微笑を浮かべてそう言った。
「は……。ですが御主加那志前、何故私たちなのですか? 私たちは他にもっと重要なことが……」
尚真はやれやれ、と首を振り、傍らの小机から茶碗を取り上げて一口飲んだ。
「豊見親、君には遊び心というものが必要だねえ。だって『竜王の真珠』の見分けがつくのは君だけだし、万一、一目で分からなくても君南風の霊力があれば見逃すことはないだろう?」
窓辺の籠で、小鳥がちいよ、ちいよと囀っていた。気持ちの良い風が通り抜ける王の私室で相対しているのは、部屋の主・尚真王とミャークの首長・仲宗根豊見親、そしてクメの島の祝女・君南風である。
シュリの都は今、伝説の秘宝「竜王の真珠」が競りに掛かるという噂で持ちきりだった。そして、シュリの王である尚真は、本物だったらぜひ買って来いと駄々をこねているのであった。
渋面の豊見親に尚真は畳みかける。
「君が家宝の『竜宮の真珠』を私にくれるというなら話は別だがね。ああ、だが君がそんな素敵な贈り物を、私なんかにくれるはずがないものねえ……」
「竜宮の真珠」とは豊見親の秘蔵の宝で、「竜王の真珠」と対の秘宝だと言われている。尚真は以前からそれとなく配下である豊見親に献上させようとしていたのだが、このミャークの獅子の話術にのらりくらりとかわされていたのだった。
「あなた様は国王なのですから、その商人に献上させれば宜しいではないですか」
不機嫌に発する豊見親に尚真は微笑を浮かべたまま答える。
「そんな暴力的なことを私がすると思うかね? 民は大切にしないとねえ」
何かを言いかけて止める豊見親を尻目に、尚真は説得の対象を豊見親の傍らの少女に移す。
「君南風、君もそろそろ宮殿の中は飽きただろう? 少し外の空気を吸ってきたまえよ」
「尚真殿。儂は遊びでシュリに来ておるのではないぞ」
まあまあ、と尚真は袂を探る。
「競り会場のすぐ近くに、シュリ一番と評判の飴屋があるらしいのだよ。私の代わりに味見をしてきてくれないかね?」
きらり、と輝いた君南風の目を見逃さず、尚真は君南風の小さな手にさっと金子の巾着を握らせた。
「なあに、偽物かもしれないのだから、散歩だと思って気楽に行ってきたまえ。少なくとも、私は君たちが帰ってくるまではわくわくしていられるのだからね。楽しみの少ない王のためだと思って行ってきておくれ」
そうして、二人は王の部屋から放り出されたのである。
豊見親と君南風は並んで宮殿の廊下を歩く。
すらりとした豊見親と、小柄な少女の君南風が並ぶとまるで父と娘のようである。
「……まったく、あのニコニコ王にはかなわないのう」
君南風の付けたあだ名に苦笑いしながら、豊見親は答える。
「全くですな。形容しがたいお方であらせられる」
あの腹黒、とは豊見親は口が裂けても言わない。肩をすくめた君南風は豊見親を大きな瞳で見上げた。
「それはそうと、お主こんなに長くミャークを空けていていいのかえ? お主、仮にもミャークの頭目なのであろう?」
「……少しは息子たちにも、政治の経験を積ませませんとな」
ほう、と君南風は声を上げる。
「息子とな。……お主も見た目よりは歳が行っているのだの」
ふふ、と豊見親は曖昧に笑う。
「君南風殿もよろしいのですか? クメの島を離れて大分経つのでは?」
「チンベーじゃ」
「は……?」
「君南風。『きみはえ』などというシュリでの名前、せめて儂と二人の時は使うてくれるな」
君南風の言葉に豊見親は小さく笑みを浮かべる。クメの島もまた、ミャークと同じく微妙な立ち位置にあるシュリの属国であった。
「なるほど。私たちは意外と共通点が多そうですな。では、私のこともどうぞ空広と呼んでください」
「そらびい」
君南風が愛らしい唇をぽかん、と開け、目を白黒させる。
「童名ではありますが、親しい者の間ではその名で通っておりますゆえ」
「……お主、意外とかわいらしい名前だったのだのう」
こうして王から貰った金子を携えて、二人はシュリの城下町へと出かけてゆくことになったのである。
城下町は人でごった返していた。
物売りの声、刀をがちゃがちゃ言わせる侍たち、大きな声で何事かを話す南蛮人。ありとあらゆる音と人種が、街には溢れていた。
──魚はいかが、とれたての魚。
──味噌。みそはいらんかね。
──鉄の鍋、鍋はいかが……。
その日の食い扶持を稼ごうと、商人たちがよく通る声を張り上げる。
忙しそうに行き来する人々の波に、可愛らしい少女の声が弾けた。
「全く、かなわんのう!」
素朴な町娘の着物をまとった君南風の小さな姿は、人ごみの中であっちへ押され、こっちへ押されしょっちゅう視界から消える。
「さすがは王都ですな。溢れる豊かさ……繁栄の頂といったところか」
涼し気に答える豊見親……空広も市井の姿に身をやつしている。腰に差した黒塗りの刀さえなければ、どこかの若旦那と言っても通るだろう。ざっくりと髪を結び、ゆるりと腕を組んだ粋な立ち姿に、道行く男女がちらちらと熱っぽい視線を送っていた。そして、その様子を横目で睨み付ける君南風は不機嫌さを隠そうともしない。ぽわ、とした目で空広を見つめていた女の足を力一杯踏みつけてやりながら、君南風は空広に走り寄る。
「こりゃ! お主、ちいと屈め!」
怪訝な顔で屈み込んだ空広の額を、君南風の幼い指がさっ、と撫ぜた。片手には、小さな陶器の入れ物がある。
「落ちておるぞよ! もっとこまめに塗らんか!」
君南風の指先には、このクメの祝女が編み出した秘薬──肌色の軟膏がついていた。
仲宗根豊見親は十字傷のミャークの武人として知られ過ぎている。競りにはお忍びで行くようにと尚真に命じられていたから、最初は頭巾でもかぶろうかと言ったのだが、「かえって目立つわい!」という君南風の一言で却下された。
そこで君南風の一計により、油に顔料を混ぜて肌の色に似せたものを塗ると、顔の傷はきれいに見えなくなった。
「お主、こうするとなかなかの美形ではないか。これからも毎日これを塗ればよいのに」
目を丸くする君南風に、空広は苦笑いと共に答えたものだ。
「あの傷は私の誓いであり、誇りでありますゆえ」
ふ……ん、と首をかしげると、君南風はしみじみと言う。
「ニコニコ王のいうことにも一理あるの。お主、もう少し楽に生きてもよかろうに」
空広はほんの少し俯くと、ふ、と小さく笑う。
「楽でないのはあなたも同じでしょう、君南風殿。祝女というのは責任が重いと聞いております。その中でも、クメの祝女の頂点に立つというあなたであればなおさらでは?」
そこで君南風もまた俯いて黙った。
「……儂はのう、空広殿。特別なのじゃ」
「特別、ですか」
ほんの少し君南風は頷き、呟く。
「祝女はの。普通は神に仕えて、季節の儀式をしたり、舞を舞ったり歌を歌ったり……。もちろん儂もそういったこともするが」
少し言葉を切ってから、鈴を転がすような少女の声が続く。
「儂はな、クメの島に何かあった時のための『特別』なのじゃ。
深刻な危機や強大な敵……そんなものが姿を現したときに先陣を切って戦い、犠牲になるために産みだされた……『特別な道具』なのじゃ」
──だからのう……、そう何かを言いかけて言葉が続かないこの少女に、空広は何ともいえない気持ちになった。
どこにでも、試練を受けるものはいる。
だから今、町の雑踏の中にあって、文句を言いながらも目を輝かせる少女の姿が哀れにも、愛らしくも思えた。
再び往来に押しのけられ、君南風は地団駄を踏んだ。おもむろに傍らの空広の着物を掴むと、ぴた、と引っ付く。どうしたのか、と自分の腰のほどまでしかない小さな姿を見下すと、君南風は両手を上に伸ばしてきた。
「どうされました?」
「わからんか。『だっこ』じゃ」
唖然とする空広に、君南風はほれ、さっさとせんか、と畳みかける。
果たして、君南風は空広の腕の中に納まることになった。
「ほうほう、これは楽じゃ! それに高い。お主はいつもこんな高さから儂を見下しているのじゃのう」
君南風を抱えた空広は盛んな往来を行く。誰も振り返らないということは、不自然ではないということだろう。
そんな気持ちを見透かしたように君南風は言う。
「儂らはきっと、父と娘のように見えておるぞ」
その声がどこか弾んでいるのに気付いて、空広はくすぐったい気持ちになる。
「どうじゃ空広、お主も自分の子を思いだすじゃろう」
空広の着物を掴んで得意そうに笑う君南風に、空広は苦笑いを返す。
「子供は何人もいるのですが……。こうして自ら抱き上げたことなどありませんでした」
君南風は零れそうな大きな瞳をさらに丸く見開いた。
「では、儂がお前が抱き上げた初めての子供というわけじゃな。……ふむ」
とたんに少女の瞳にいたずらっぽい光が溢れた。
「おとうさん! わたしお菓子が食べたいなあ」
ふっくらとした指が差したのは、饅頭や焼き菓子が盛られた菓子屋の露店の列。一瞬あっけにとられた空広に、君南風が有無を言わせず笑いかける。南風のような笑顔に乗せられて、空広も君南風の遊びに付き合うことにする。
「仕方ないな。一つだけだぞ」
二人は顔を見合わせて、どちらからともなく吹きだす。
そして娘を抱き上げたままの父親は、露店の列に小走りに駆け出した。
「君南風殿……そろそろやめたほうが」
「いや、まだいける……まだいけるはずじゃ!」
空広が止める間もなく、君南風はもう一つ菓子にかぶりついた。
揚げ菓子。薫餅。金楚糕。変わった異国の果物の飴がけに、木の実の粉で作った焼いた菓子。今君南風が口に入れたのは、鮮やかな色をつけた餅だろうか。
露店の列には、見たこともない色とりどりの菓子がずらりと並んでいた。その様子は、貴重な舶来の砂糖をたっぷり使った甘い宝物殿のようである。
空広が唖然と見守る前で、君南風は露店の菓子を端から一つづつ食べ、気に入ったものは次々と持ち帰り用に包ませた。
両手に溢れた菓子の包みを見かねて空広が布袋を買ってやると、君南風の購買欲はさらに加速した。今や布袋はぱんぱんに膨れ、すぐにも破れそうである。それは君南風の腹も同じはずだが、と空広は首を傾げる。さっきは椰子の実の汁を丸ごと一つ飲んでいたし、山のような菓子がこの小さな体のどこに消えて行くのやら……。自らも焼いた餅の串を齧りながら、空広はクメの祝女の不思議に目を見張る。
空広の視線に、君南風は口の端についた菓子の欠片を拭いながら言った。
「儂の島にはこのように豊富な菓子は無いでな。せっかくの都上りじゃ、儂の召使達にも腹いっぱい食べさせてやりたい」
可愛らしいげっぷを必死で押さえる君南風を、空広は道の端に連れていってやる。満腹で眠くなったのか、とろりとした目をした君南風は路傍の石に腰を下ろし、雑踏に目をやった。視線を追いかける空広に君南風はしみじみと話しかけた。
「見よ、空広」
往来の少し先では菓子屋の露店が途切れ、今度は地べたに座って絵を描くものや、歌を歌うもの……その先の人だかりは異国の仮面劇の一団であろうか。
「これが『豊かさ』じゃ。菓子、歌、絵物語……そんなものが無くても人は死なぬ。じゃが、腹を満たすだけが生きることではないぞ。なんの役にも立たぬもの……それが許されるのが、豊かな生というものじゃ」
遠くを見つめる君南風の瞳は琥珀のようだった。遥かな時を固めて閉じ込めた、美しく哀しい玉によく似ていた。
黙って往来の中にある二人の上に、城下町の雑踏が音楽のように降り注いでいた。
と──二人の目の前を、何かが素早く横切った。
「あ……何を!」
弾かれたように立ち上がる君南風を尻目に、小さなころころした赤犬が駆け去って行く。くわえているのは、君南風が傍らに下ろしていた菓子の詰まった布袋。
「待て! 返さぬかこのイヌコロ!」
真っ赤な顔をした君南風も全力で駆け出す。
「空広、何をぐずぐずしておるか! その長い足は飾り物か! 追いかけよ! 儂の菓子を取り返すのじゃ!」
ぴしゃ、と鞭打たれたように空広も犬を追いかけ走り出す。
雑踏をかき分け進む必死の形相の二人に、街の人々が驚いて振り返る。
「おっとすまんな、わざとではないぞ!」
足を引っ掛け、物売りの籠をひっくり返した君南風が振り返りもせず声だけ投げる。
いきなり突進してきた二人の人間に、往来を悠々と横切ろうとしていた猫が怯えて立ちすくむ。
「驚かせてすまぬ」
凍り付く小さな獣の一歩手前で、空広は君南風を小脇に抱えてひらりと宙に飛びあがる。
猫を飛び越え着地した先で、先程の子犬が面倒くさそうな顔で振り返った。
「わんわん!」
しっつこーい、とでも言わんばかりの声で吠えると、脱兎のごとく子犬はまた駆け出す。
「おかしくはないか、あのイヌコロ⁉ あんな大荷物をくわえてっ……風のように駆けるっ……!」
ぜいぜいと息の上がった君南風に、空広もいぶかし気な声を返す。
「確かに……あのような子犬にしてはこの速さ、この胆力……面妖な」
口調こそ涼し気だが、空広の息も密かに上がっている。なにせ二人はもう、シュリの城下町のほぼ端から端まで駆け続けているのである。
はたして、子犬は町の寂しい一角でぱた、と姿を消した。
「……見失った……!」
ぜえ、ぜえ、としゃがみ込んで息を整える君南風の横で、空広も胸を上下させていた。
「この私の追尾を振り切るとは……」
ぐ、と拳を握りしめた空広はしかし、その小さな音をとらえていた。常人の耳ではとても拾いきれないような、かすかな、だがしかしはっきりと空気を揺らす音。
「……君南風殿。こちらですぞ」
なに、と汗だくの顔で見上げた君南風の手を引くと、空広は毅然と崩れた壁の街並みを進んで行った。
ぱらぱらした土埃が舞う、うち捨てられた町の一角……そこにぽつんと生えた溶樹の大木の下。木の影に赤犬の尻尾が覗いている。
「あのイヌコロじゃ! もはや逃がさんぞ!」
怒りに満ちた声をあげながら駆け出そうとする君南風の肩を、空広はそっと掴んだ。なんじゃ、と見上げる君南風に空広は首を振る。
その視線を追った君南風は、あ、と声を上げた。
木の影に、人間が寄りかかっている。
近づいてくる二人の姿を認めて、子犬が唸り声を上げた。小さなふわふわした足で一所懸命に大地を踏みしめ、可愛らしい牙をむき出して背後の主人を守ろうとしている。
「わんわん! わんわん!」
決死の威嚇の声に、傍らでぐったりと木に寄りかかっていた男が目を開けた。
「ん……どうした……?」
その声に、赤犬は弾かれたように男を振り返った。やっと気が付いたんですね、とでもいうのだろうか、くうん、くうん、と胸を締め付けるような声で鳴き、尻尾を振る。
「な……なんじゃ忠犬きどりか⁉ じゃが、儂の菓子は返してもらう……」
君南風が言い終える前に、男はぱっ、と立ち上がっていた。
「おっ! おまえは偉いなあ! オイラのために食いもんを見つけて来てくれたのかあ!」
そのまましゃがみこむと布袋に手を突っ込む。唖然とする空広と君南風の前で、男は両手に餅と焼き菓子を握り、ぱくぱくとかぶりついた。
「儂の……菓子が……」
茫然と呟く君南風の目の前で、山のような菓子が男の口の中に次々と消えて行く。傍らでは嬉しそうに子犬が尻尾を振っている。
「こ……こりゃ!」
ぽか、と頭を殴られて、ようやく男は君南風と空広の存在に気が付いたらしかった。
「いてえ! なんだよ嬢ちゃん、オイラは食事中……」
「何が食事中じゃ! それは儂の大切な土産だったのじゃぞ!」
「あ……そうなの?」
飄々と笑いながら男は頭をさする。土埃にまみれてはいるが、なかなかの涼し気な青年である。さっ、と立ち上がった姿はすらりとしていて、長く編んだ髪が人の良さそうな笑顔に異国風の彩りを添えていた。
「悪い悪い。いや、でも助かったぜえ。腹が減って、オイラ今度こそ死ぬかと思ったよ」
へらへらと笑った青年は足元の袋から椰子の実を取り上げると、ぽこん、と手刀で割って、ごくごくと飲んだ。
「この……阿呆が! 貴様、何者じゃ!」
ぎゅう、と青年の足を踏み付けた君南風に、青年はぎゃあ、と声を上げる。いってえなあ、もう……とぼやいてから、青年はちっちっ、と人差し指を振ってみせた。
「おっとお嬢ちゃん、オイラのこと知らないの? オイラはさすらいの美形で美声の犬連れ吟遊詩人! 赤犬子様だぜえ?」
「知るか阿呆!」
もう一つ足を踏みつけた君南風に、また一つ赤犬子の悲鳴が上がる。
「……君南風殿。もうこれくらいで勘弁してやりませぬか」
「何じゃ空広! お主、こやつらを許してやる気か⁉」
びし、と指差した先では困り顔の赤犬子が頭を掻き、赤犬は泣きそうな顔で目を潤ませている。
「見ればこの男、空腹のあまり行き倒れ寸前だった様子……」
空広は目を潤ませて見上げる子犬の前にしゃがみ込む。
「この犬も、主人を思うがゆえに道を外れたのでしょう。それを責めるのはあまりに酷かと」
くうん、と子犬が空広を見つめる。
「飢えの苦しみは、私も良く知っているつもりですからな……」
子犬の頭を撫でてやった空広に、君南風はぐ、と言葉を飲み込んだ。
「儂はもう知らん! こんな町外れまで来てしまって、どうするのじゃ! 真珠の競りが始まってしまうぞよ、儂は一人で先に行っておるからな!」
頭から湯気を出した君南風はくるりと背を向け、ずんずんと歩き出す。苦笑いで見送る空広に赤犬子が心配そうに声を掛けた。
「おいおい、あのちっこい嬢ちゃん、一人で大丈夫なのかよ?」
「ああ……。あの方は見たままではないからな」
肩をすくめてみせた赤犬子は、気を取り直したように頭を掻くとぺこ、と頭を下げた。
「いや、でも兄ちゃんが取りなしてくれたおかげで助かったぜ! 兄ちゃん、若いのに人間が出来ていらっしゃる」
そういいながら顔を上げた赤犬子は、しげしげと空広の瞳を覗き込む。そして、そのままじっと視線を空広の腰の刀に移した。
「ああ……『見たままではない』か……」
今度は空広が肩をすくめる番だ。
「それはそなたも、ではないのか?」
二人は目を合わせると、ふ、と笑う。
「こいつは参ったな。まあとにかく……オイラはただ飯ぐらいの恩知らずじゃないぜ。兄ちゃんはオイラの恩人だ、お返しに、オイラの美声、聴いて行ってくれよ」
木の幹に立てかけてあった楽器を取り上げると、赤犬子は弦を合わせ出す。
木陰に腰を下ろした空広の傍らに、赤い子犬が寄り添う。
──むかしむかし、鳥と鰐が大喧嘩。人間たちは大慌て──
梢の葉がこすれる音を合いの手に、心震わす美しい声がシュリの町を包むように広がって行った。
やがて日が暮れる。
空広と君南風は競り会場の外で並んで歩いていた。
何のことはない。競りに出された「竜王の真珠」はうっすら飴色をした普通の真珠の粒だった。
「くだらないのう。見たかえ、あのただの真珠に付いた値段を」
呆れたような顔で君南風が欠伸をする。
「ただの真珠でも、人は夢の値段を付けて買うのでしょうな」
空広も小さく笑う。
「全く疲れた、疲れたわい。それに、王にもらった金子も飴屋に行く前に使い果たしてしまったわい」
君南風の両手には、買い直した菓子の詰まった袋が下がっている。
「飴は私が買いましょう。真珠の代わりに土産の一つもありませんとな」
「そうじゃな。真珠より、飴の粒の方がよいかもしれんのう」
二人は顔を見合わせて笑う。そしてそのまま、君南風は空広の顔をじっと見つめる。
「どうされました?」
見上げる少女は、菓子包みを下げたままの両腕を小さく上げた。
「だっこじゃ。儂は疲れた、疲れたわい」
空広は君南風を抱き上げ、王宮へと歩きだす。
明日からはまた、戦の日々に帰るのだ。
豊見親と君南風に戻るまで、こうしていても良いではないか。
〈おしまい〉