勧誘
霧野夢衣は驚愕していた。まるで世界の中で、自分だけが異なる概念で存在しているようだった。
陸上競技場のつまらない景色が高速で後ろに流れていく。遠くに見える木々や校舎、そして同じタイミングでスタートを切ったはずのクラスメイトたち。中には陸上部でそれなりの記録を出した者もいる。そんな移り行く景色の中を、少女はひたすらに加速を続けていく。まるで身体の中にエンジンがあって、どこまでもアクセルを踏んでいけるような感覚だ。
不意にムイは自分が今、魔剣を手にしていないという事実を再認識した。当然の事実であるが、しかし今の自分の体力と走力が魔法の力を借りていない、自分自身のものなのだと簡単に信じることはできなかった。
「師匠の修行、ヤバいなぁ、ホントに」
思わずそんな呟きが口からこぼれ出た。既に肺と足は悲鳴を上げかけているが、少女の表情はむしろ笑顔である。限界を超えて身体が強制終了するよりも先にゴールに到達するということは、その経験と直感から簡単に計算できることだった。
少女は回想する。今の自分が一体なぜここまで速く走ることができるようになっているのか。考えられる理由は一つである。冬休みと春休みを丸々奉げたあの地獄のような修行期間は、確かな財産として刻み込まれていたのだ。それは体力の面でもそうであるし、また精神面でも同様である。以前の彼女ならば多少体力が上がっても、ほんの少しでも苦しくなれば早々に諦めて流して走ってしまっていたはずだった。
思い返されるのは真冬の雪山と百人に渡る敵の数々。どれだけ肉体的ダメージや疲労を負ったとしても、そこで足を止めては真実の意味で生死に関わる。その恐怖と重圧は、間違いなく少女を強くした。この体力測定での彼女の成果は、あくまでその副産物に過ぎないものだった。
その修行の成果について、ムイは何となくスタートを切るよりも前に認識することができた。直感したと言っても良いだろう。だが同時に、確かな現実としてそれを検証したくなったというのも事実である。
「今日は珍しく本気出すつもりなんで」
スタート前に親友に告げた言葉を復唱する。今やその親友は遥か後方だ。ムイからしてみればスポーツが得意な憧れの親友である。そんな彼女に差をつけているという事実が、何よりムイを喜ばせた。これでようやく、少しかもしれないけれど並べた気がする。それがたまらなく嬉しかった。あるいは魔導戦の試合に勝利した時よりも。
1000メートル――陸上トラック二周半のマラソンを走り終えてムイが水分補給をしながら一息ついていると、クラスの女子の一人が話しかけてきた。
「霧野さんってすっごく足が速いんだね! 何かスポーツでもやってたの?」
「いえ、中学まではバリバリの帰宅部でした……林原さん」
何とか引っ張り出した相手の名前と共にそう答える。記憶力に自信のあるムイだったが、どうにも人の名前を覚えるのは苦手だった。入学して一カ月経とうとしているが、未だにあやふやである。
ムイが林原と呼んだ女子生徒は額の汗を拭いながらはにかんだ。さながら名前を憶えてもらえていたことが嬉しいとでも言わんばかりに。そして事実それは彼女の本心であり、ムイに対する印象としてはとっつきにくい変わり者の優等生というものだった。そんな彼女がムイに話しかけた、その理由は簡単で、彼女もまたムイ自身と同じようにその走りに魅かれたからである。
「いやー、私も足にはちょっと自信があったんだけどね、霧野さんの走りを見て天狗になっていた鼻が折られちゃったよ」
「はあ、それは悪いことをしましたね」
それもまた、ムイからすれば本心からの言葉だった。確かこの林原という少女は陸上部で長距離の選手と言っていたはずだ。入学したての時にされた自己紹介を思い出して、そんな彼女を追い抜いてトップでゴールしてしまったことが、何だか申し訳なかった。
半ば嫌味にもとられかねないムイの言葉だった、林原は気のいい人間で、そのことには言及しなかった。その代わり、ムイにこう提案した。
「ねえ霧野さん、陸上部に入らない?」
「陸上部っすか?」
「そう! 霧野さんなら、間違いなく全国レベルの選手になれるよ!」
そう言って目をキラキラと輝かせる林原に、ムイはどこか親友――ユカの面影を重ねていた。それと同時に魔導戦部の部長――アヤの顔も思い出されて、ああ、これが何かに一生懸命に打ち込んでいる人間の顔なのだと思い至った。そして同時に、自分はそれだけ何か一つのこと――魔導戦に打ち込んでいるのだろうか。そんな疑念にも似た感情が湧きあがる。果たして今目の前にしている少女や、これまで出会っていた魔導戦選手の面々のように、自分は真剣に魔導戦に取り組んでいるだろうか。
これまで魔導戦を続けてこられた理由は、第一に親友の期待に応えるためであり、第二に自分が到達できる限界の強さに挑戦するためであった。そんなムイに、ふと新たな“動機”が浮かび上がった。――自分は本当に魔導戦が好きなのだろうか? それを検証するという動機が。
「あの、誘ってもらえて嬉しいんすけど、実はわたし、もう魔導戦部に入っていまして」
「魔導戦部? でもあの部って、確か廃部になったんじゃ……」
「いえいえ、これまで人数が足りていなかっただけで、廃部にはなってないっすよ」
「あ、そうなんだ。うーん、でも、それならしょうがないかな。残念だけどね」
「はい、ホントすみません」
「ああ、良いの良いの、気にしないで。そっか、魔導戦部か……良いんじゃない? 頑張ってね」
そう言って、林原は爽やかな笑みを浮かべてみせた。それはこれまでムイが戦ってきたプレイヤーがよくしていた表情だった。自分にも、いつかあんな顔ができるだろうか。ムイは漠然とそんなことを思った。
そこで別のクラスメイトが遠くから林原を呼んだ。彼女は「それじゃあね」と軽く挨拶してムイの元を走り去ろうとする。
「あのっ」
そんな林原をムイが呼び止めた。
「林原さんも、陸上、頑張ってください」
それは今のムイができる精一杯の“実践”であった。これまで自分が出会ってきた選手たちのように爽やかに格好良く、そしてさりげなくはできていないかもしれない。いや、間違いなくできていないのだろう、ということはムイ自身が一番よく理解している。しかしそうしたかったのだ。そうしたかったからそうした――ムイには後悔はない。
「うん、ありがとう」
ムイの意図が通じたのか、いや、おそらく通じてはいないのだろう。林原にとって誰かにエールを送る、あるいは誰かにエールを送ってもらうということは日常茶飯事だ。だが、ムイはそれで良かった。仲間の元に駆けていく林原の背中を見送りながら、ムイは独りでに満足した。
「勿体ないなぁ、せっかくの勧誘を断っちゃうなんて」
林原の背中が十分に見えなくなったところで、違う声がムイにかけられた。それは彼女がとてもよく知る声である。
「盗み聞きっすか、趣味が悪いっすよ、ユカさん」
答えると「ごめんごめん」と言いながら、物陰からユカが姿を現した。どうやら彼女も無事に完走したらしい。もっとも見るからに体力がなさそうなカナタとは異なり、元からスポーツをしていたユカのことはそれほど心配はしていなかったが。
「でも気になるじゃない。人嫌いで人見知りのムイが、誰かと二人っきりで話してるなんてさ」
「別に話くらいしますよ。今もこうしてユカさんと二人きりで話してるでしょう?」
「それとこれとは、」
違うと言いかけてユカは言葉を飲み込んだ。それではまるで自分がムイにとって特別な存在のようではないか。そんな照れくささが彼女を制止した。
ユカはコホンと咳ばらいを挟んで、改めて話を元に戻す。
「でも本当に良かったの? 陸上部の誘いを断っちゃってさ」
「良いんすよ。わたしには他にやるべきことがあるんで」
「凪元部長や雪風先輩と一緒に全国に行くってこと?」
「それもありますけどね、違います」
「じゃあ何さ」
「うーんと、まあ、簡単に言ってしまうと、確かめたいんすよ」
「自分がどこまで強くなれるのか?」
「自分が本当に魔導戦が好きなのか――です」
そう言ったムイの顔を、ユカが覗き込む。
「何すか、ニヤニヤしちゃって」
「いーえ、ただ、良い目をするようになったなって」
「何すか、それ」
意味の分からない皮肉を言われたような気がして、ムイは僅かに唇をとがらせた。ユカのからかうような口調は今に始まったことではないが、いつまでも気にかかってしかたのないものだった。それは決して不快からくる感情ではない。ムイがユカのことをもっと知りたがっている証拠だ。
「ま、何でも良いけどね。私はあんたが確かめたいって言うならついていくだけだからさ」
「はあ、ありがとうございます」
「それで、その答えは見つかる見込みはあるのかね?」
「ええ」
ムイは陸上トラックに視線を向ける。そこではまだ何人かの生徒が残っていて体力測定のラストスパートを踏ん張っている最中だ。
「このチームでならきっと、見つけられると思います」
それは直感ではなく、確信と言っても良いものだった。
そして遠くでようやくカナタがゴールラインを超えたのが見えた。