体力測定
雨宮彼方は絶望した。これさえなければこの世界はどれだけ素晴らしかったのだろうと、本気で考えるほどに。死んだほうがマシだ――そう思ってしまうほどに。
陸上400メートルトラック――一週間ほど前、逆入部試験とも呼ぶべき試合を行ったこの場所であるが、その日のカナタを苦しめているのは魔導戦ではない。
カンカンと照り付ける太陽――まだ四月半ばというにも関わらず、その日は例年の気温を遥かに上回る真夏日和であった。それが現在のカナタを苦しめている一因でもある。
太陽は嫌いだ。きっと私は吸血鬼の末裔なのだろう。
カナタは乾いた口内をそんな恨み言に等しい呟きで満たした。自身の肌、そして真っ白な体毛を鑑みてそう比喩したのだが、それは非科学的なことを否定する彼女の性格から考えればかなりのレアケースであり、それだけ追い詰められているということの証明でもある。
そんな彼女の脇を、今も何人かの体操服に身を包んだ女生徒たちが追い越していった。皆それぞれに苦悩に満ちた表情をしているが、カナタほどではない。晴海由佳もその一人である。
ユカはカナタの隣につくと、僅かに走行スピードを落として呆れたように口を開いた。
「あんた、本当に体力ないのね」
「あなた、の、ような、筋肉馬鹿と……一緒にしないでください……!」
「いや、そんな切れ切れの息で言われてもね」
今にも倒れそうなカナタを横目にユカはやれやれと肩をすくめてみせた。
女子1000メートル陸上――現在カナタたちを苦しめている最大の要因であり、体力測定の種目に選定されている以上、高校生の彼女たちには避けて通れない障害である。とはいえそれを真面目に受ける人間が少ないのは事実だ。上野第一高校は進学校であり、その傾向も顕著である。真面目に受ける人間は性格が元からそうなのか、あるいは運動部の生徒か、もしくはその両方かだけであり、カナタは両方の部類に属している。
しかしそれはあくまで性分と所属がそうであるということだけで、彼女にその競技が向いているのかどうか、という点においては一概にそうだとは言えない。結論を言えば、雨宮彼方の体力と運動能力は絶望的であった。
一体これまでどんな生活をしてきたのだろう――ユカはそれを本気で疑問に思った。
魔導戦という仮にもスポーツをしてきたにも関わらず、なぜこれほどまでに体力がないのか。いや、ないのは体力だけでなく、事前に行われたその他の筋力測定などにおいても、カナタは到底スポーツを続けてきた人間とは思えないほどの絶望的な結果を叩き出してきた。いつもならばそんな醜態を晒せば何かと張り合ってくるユカが黙っていない――十中八九からかってくる(もっともそれはお互い様なのだが)ところが、思わず苦笑するに留まるほどと言えばそれがどれほど酷いのかよく伝わるだろう。今もちょうどユカが一周先に進み、カナタに追いついたところだった。
「私、の、場合、は……体力を使わない……スタイルだから……いいんです……!」
カナタの戦闘スタイルはあくまで“待ち”である。相手の動きを把握し、読み、不可視の瞳の射程に捉える。一撃でも命中させることができれば即勝利になるこの固有魔法がある限り、わざわざ無様に走り回る必要はない。仮に移動が必要になった場合でも、自らの肉体にこの魔法を適用させれば体力を消費せずに浮遊・移動することが可能なのである。ならば体力や筋力を鍛える必要もないだろう――それがカナタの持論だった。
「それってどうなの? 色々なパターンも考えたら、やっぱり体力トレーニングはやっておくべきだと思うけど。プロの選手だって最終的には身体能力がモノを言うってよく言ってるし」
「それは、二流プロ、に限った話で、現に闘神は、体力トレーニングは、してないって言ってる、じゃないですか……!」
「またそんな極論を……」
ユカが呆れたように息をついた。
第一、闘神は魔導戦の世界においてはありとあらゆる比較の対象にならないのが一般的な認識である。それほどまでに他の選手たちと実力に開きがあるのだ。霧野夢衣や凪元彩のように身体能力に依存せず、あくまで魔法主体で戦うという点においては確かに闘神もカナタも同様であると言えるが、しかしその規模や威力は大幅に差があると言わざるを得ないだろう。
「まあ、せいぜい頑張りなさいよ。あんたがそんな様じゃあ、私たち魔導戦部全体がそうなんじゃないかって見られるし」
「余計な、お世話です……! 現に、今もこうやって、全力で頑張ってるじゃないですか」
「全力がそれって……」
ユカは反感を抱くよりも先に何だか少し憐れに思えてきた。実際の能力はさておき、精神の面では限りなくライバルに相応しいと思っていた相手が予想もできないほどに弱り果てていればそうもなる。「敵に塩を送る」という言葉とその由来になった戦国武将の話を思い出して、思わず自分もこの目の前で今にも倒れそうになっている仇敵に肩でも貸してやろうかと思ってしまうほどである。
「そう、言えば……」
いよいよ置き去りにしようかと速力を上げかけたユカを、カナタが呼び止めた。
「ムイ……さんは……?」
それはカナタの精神の支えとなっている少女の名である。思い返せばあの風に翻される長髪のポニーテールを、先程から目にしていない。いや、もしかしたら何度か見かけたのかもしれないし、事実この測定の性質上見かけて然るべきだったが、限界状態に等しいカナタにはそれを記憶に留めておく余裕はない。だがしかし、その少女の姿を一目見れば――いや、たとえ視界に捉えることがなくとも、その存在が共に頑張っているという事実がありさえすれば、自然と元気になれる気がした。ところがユカから返ってきた言葉は、そんなカナタの希望を打ち砕きかねないものだった。
「あー、ムイね」
ユカはややバツが悪そうに頬を掻いた。まるでその返事がカナタにどんな反応をもたらすのかあらかじめ知っているかのように。いや、直感の部分では確信していたのだろう。ユカにしてもカナタにしても、ムイに対する想い――憧れや好意が入り混じった感情は、とてもよく似ている。だからユカは答える際に口ごもらずを得なかった。
「えーっと、あの子なら、とっくにゴールしてるわよ」
「……」
カナタは思わず絶句した。カナタから見たムイは、自分ほどでないにしても、少なくとも運動のできるタイプには思えなかったからだ。魔導戦においては類稀なる才能を示すムイでも、魔剣がなければただの人である。そして人として見た際のムイは、その体格や雰囲気、動作からして明らかにスポーツを得意とする部類の人間ではない。ユカの言葉を聞いたカナタは自分の耳を疑ってしまった。
「や、正直私も結構驚いてる。以前の――去年の冬休みに入る前までのムイは、運動神経は良かったけど、体力はそんなになかったからさ。たとえあったとしても、こんなところで発揮するタイプじゃなかったし」
そうだろう、とカナタは内心で納得した。まさに自分が抱くムイのイメージにピッタリ合う解釈だ。
「でも今日のあの子はちょっと違ってね……スタートの前に、私に何て言ったと思う? 『今日は珍しく本気出すつもりなんで』だってさ。やー、まさかあの子の口から本気なんて言葉を聞くことになるとは」
そしてその本気の結果というのが陸上部を含む全女子生徒を置き去りにした圧倒的なまでのタイムでのゴールである。
ムイがこのフィールドに既にいないこと。そして自分とそれほどまでに差がついてしまっているという事実――それらが一気にカナタに圧し掛かり、彼女の肩をがっくりと落とさせた。
「やっぱり、体力って必要なんでしょうか」
「うん、ないよりはあった方が良いと思う」
カナタの呟きにユカが答えると、彼女は今度こそカナタを残して走り去っていった。