魔気 / 対抗
パパパパ、と短い破裂音が連続し、戦いは幕を開けた。
ムイとジン、ほぼ同じタイミングの二人の跳躍は、それぞれ別の方向へと向けたものだった。
少女は相手の攻撃を回避すべく大きく右へ――“力場”を用いた急加速。
対して正面に突進する形で跳躍した半狼の少年は、強化された筋肉で加速を抑制――急停止。回避しようと素早く動く攻撃対象に照準を追尾させた。発砲は途切れない。リロードの必要もない。魔力が尽きるまでは。
右へ跳んだムイの脇を魔弾が掠める。魔弾は実際の銃弾とは異なり、あくまで競技用のものである。故にその軌跡を目で追うことは全くの不可能というわけではないが、しかしそれを回避し続けるなどというのは到底人間離れした技だ――外部から力を加えない限りは。
少女はさらに空中に発生させた“力場”を地面代わりに跳躍――それはまるで重力に逆らっているかのように。空中でダンスを踊るかのように。今度は左へ、大きく。小さな身体が柔らかく空を切る。
いくつもの魔弾が少女のすぐ横を通り過ぎる。もしかしたら何発かは命中していたかもしれない。仮に命中していたとして、しかし数発ではプレイヤーの魔導着耐久値を削り切ることはできない。だがその衝撃や痛み――それを経験した者ならば誰でも覚えるであろう恐怖は、肉体や魔導着の耐久よりも、むしろ精神を侵すものだ。にも拘わらず宙を舞う少女は顔色一つ変えない。改めて彼女は化物だと、ジンは引き金に力を加えながら確信した。
霧野夢衣は自らの判断を疑わない。一度下した決断を最後まで信じ切ることができる。それは意思の強さだとか経験のなせる技だとか、あるいは人間の持つ理性の力だとか、そういったものは既に超越している思考回路だ。
それでいて彼女の決断には間違いがない。直感的に最善手を選択し、それを疑わない。固有魔法こそないが、少女のそういった特性はもはや神域に達していると言っても過言ではないだろう。
「頭のネジが二、三本抜け落ちていやがる……!」
連射を続けながらも、ジンが口の中で呟いた。既に二人の距離は試合開始時の十メートルのおよそ三分の一ほどに迫っている。銃弾を目前にしながらも一切顔を歪めるこのない対戦相手――そんな存在を、化物と称さずに一体何と例えれば良いのだろう。だがしかし、ジンも無抵抗に負けを認めるつもりはない。
少女との距離は三メートル。不意にその気配が変貌するのを、ジンは認識した。魔気の発動――それはかつて修行の地で、悪魔のような巨大熊と対峙した時の感覚に近いものだ。どす黒く、底の見えない深淵を覗いているかのような気分、いや、むしろ覗かれているのは自分の方なのかもしれない――刹那の思考ではあったが、ジンはそんなことを感じていた。
魔気は諸刃の剣だ。相手の行動予想が容易くなる代わりに、一発あたりのダメージ量が大幅に上昇してしまう。だからムイは、十分に接近するまではその使用を控えた。そんなものを利用しなくとも相手が銃型の魔剣を使用している限り、銃口の向きでおおよその攻撃方向は予想できる。自身の持つ動体視力、反射神経、そして魔力の直接放出によって発生する“力場”があれば、銃型魔剣の攻撃を回避するのはそう難しいことではなかった。
しかし、相手との距離が詰まれば話は別だ。反射と目視、あるいは予測で動いていたのでは回避し続けるのに限界がある。間に合わない。さらに相手は変身魔法保持者だ。刃が通らなければそもそも話にもなりはしない。
死地に入っている――!
咄嗟の判断でジンは銃を投げ捨てた。そのまま流れるような動作で腰の魔剣を抜き去る。鋭い金属音が陸上トラックに鳴り響き、その細かすぎる振動はジンの脳と腕を揺らした。
闇雲に構えた魔剣がジンの命を助けた。魔気の発動を認識した次の瞬間のことである。三メートルあった対戦相手との距離が、刹那の間にゼロまで詰められていた。もしもあと数秒、魔剣を抜くタイミングが遅れたら、今頃ムイの刃がジンを捉えていただろう。
ジンは剣を大きく横に薙ぐ。ムイも筋力で劣る彼と正面からぶつかる気はない。その横薙ぎに合わせる形で後方へ飛び退いた。
ふっと息を切ってジンは改めてその細身の魔剣を身体の正面に携えた。もはやここから足元の魔銃を拾うことは叶わないだろう。そんな隙をこの目の前の化物が見過ごしてくれるわけがない。
落ち着け――ジンは心の中でそう呟いた。何も慌てることじゃない。相手が銃型魔剣に対するリスクのある魔気を発動させたということは、その時点で既に彼女の射程範囲に入っていたということなのだろう。“加速”と身体能力を合わせても、射程距離はおよそ三メートル――それは妥当な数字だと言える。相手には物理技しか攻撃方法がなく、その射程も分かっているのならば、やりようはある。
「今の攻撃に反応するなんて、流石は雪風先輩っすね」
ふわりと着地したムイが、まるで息を切らすこともなくそんなことを呟いた。彼女の額には汗一つ浮かぶことはなく、その表情にも動揺は一切見られない。
「俺も遊んでたわけじゃあねえからな。修行期間も、こっちに帰ってきてからも」
「や、先輩のそういう努力を惜しまないところ、マジで尊敬するっすよ」
「冗談よせよ」
半分は本心で、残りの半分は皮肉だった。ジンにしてみればこの目の前の少女が、自分と同じかそれ以上の努力をしていることはすぐに理解できる。しかし、何だ、この実力の差は。いや、“実力”というより、“才能”と言った方が良いかもしれない。ジンは、自分が今後どれだけ強くなろうとも、ムイのようにはなれない――そう確信できた。
「一つ、わたしが魔導戦部に入るにあたって質問しても良いですか?」
「何だ?」
「先輩は、どうしてそこまでして強さを求めるんです?」
「またその質問か」
修行の地――“魔気塾”でされた質問に似た問いかけだった。
なぜ強さを求めるのか。
なぜ上達を願うのか。
なぜ勝利を渇望するのか。
競技に打ち込んでいる者ならば誰でも行き当る当然の疑問である。この質問に対する答え方は大きく三つに分類される。一つは何となく理由を持たないパターン。二つ目は明確に理由があるパターン。そして三つ目は、理由を考えるより先に努力するパターンだ。
きっとこの目の前の少女は三つ目のパターンに当てはまるのだろう――ジンはムイを見てそう感じていた。では、ジン自身は? 彼の中でその問いかけに対する答えは既に明確化されている。以前同じように尋ねられた時は「ただ強くなれればそれで良い」と答えたが、それは本心からの言葉ではない。その本心はもはや墓場まで持っていくつもりだったが、
「……」
ムイの真剣そのものの眼差しを見て、気が変わった。この少女には全てを打ち明けるべきだ。彼の直感はそう訴えかけている。いや、そうしなくとも彼女には既にほとんどのことは見破られてしまっているのだろう。
だから――雪風仁は回答する。
「全国に連れて行きたい奴がいる」
「それは――」
ムイはジンの方を見たまま、チラリと視線だけを、視界の隅に写る一人の女子生徒に向けた。――凪元彩。
「あの人のことですか?」
「そうだ。お前も協力しろ」
「うーん、正直なところ、わたしはまだ先輩も、あっちの部長さんのことも、あまりよく知らないんすよねぇ」
少女は僅かに首を傾ける。しかしすぐにまた真っ直ぐにジンの方を向き直した。ニヤリとイタズラめかした笑みを浮かべて。
「ただ――先輩の話に乗るのもやぶさかではありません。わたしも、全国大会にはちょっと用事がありますし」
「お前の用事ってのは」
「ちょっと最強になりに行くだけです」
その答えに、ジンは思わずキョトンとしてしまった。“最強”になる――今時小学生でも口に出さないような野望だ。だがしかし、この霧野夢衣という少女に関しては、笑い出したくなるほど馬鹿馬鹿しい話だが、不思議と冗談ではないように感じてしまう。
「相変わらず、よく分からねえ奴だな、お前は」
「そうっすか? 先輩ほどひねくれてもないと思いますけど」
「言ってくれるぜ。で、それはそれとして、だ。――この勝負はどうするよ」
「この勝負の目的はあくまでカナタさんにわたしたちの実力を見せつけるってことっすよ。あの人の力はわたしたちが夢を叶えるのに必要不可欠です。なので――」
ムイはぐっと腰を落とし、左手の魔剣を逆手に持ち直した。左の手足を前へ、そして右の手足を後ろへ――クラウチングスタートの要領で構える。
「ここからは、もう少しだけ上げていきます」
――ついてきてくださいよ。
呟きにも似た言葉――ジンは覚悟を決めた。戦略を組み立てた。全身の細胞を活性化させろ。全神経を研ぎ澄ませ。おそらくここから先は、目視の世界を超えている。
二人がふっと息を吐くのと同時に飛び出した――再度の衝突。しかし互いの速度は一度目のそれを容易に凌駕している。
ほんの僅かに速く相手の懐に飛び込んだのはムイだった。少女は左足を軸に回転――逆手に持った左手の小剣で斬撃を繰り出す。が、その挙動はジンの予測の範疇である。彼はこれを急制動とバックステップで回避――二人の間に一足の距離が開く。
しかし、これを予測していたのはジンだけではない。ムイもまた、彼のその回避運動を読んでいた。回転の勢いをそのままに、右の回し蹴りを繰り出す。
ジンはこの蹴りに今度は直感と反射を元に対応――左右の手甲に装備された鉤爪型魔剣で防御した。試合時に履くスパイクシューズは魔導着に属さない。故に魔剣と接触しても敗北判定にはならない。ムイはこれを知っていた。ジンも知っていた。だから二人の身体は動いた。だがしかし、ムイの追撃はこれで終わりではない。
空中に僅かに浮き上がった身体を“力場”を利用して抑制――丁度一回転したその流れで、今度は右の小剣で斬撃を放った。ジンの両腕は回し蹴りに対する防御によって弾かれ、一瞬ではあるが完全なる隙が生じている。この回転斬りを防御する術はないかに思われた。だがしかし――
「変身・狼!」
固有魔法の発動――ジンの肉体は瞬時の内に半狼から完全なる狼へ。それに伴い手足が僅かに縮み、身体が後方へと突き動かされる。
この唐突な変身はさしものムイにとっても予想外のものであった。よって次の攻撃に移るための踏み込みが、ほんの刹那遅れた。そしてその一瞬のタイムラグは、ジンによる「魔気対策」を発動させるには十分なものであった。
後方へ突き動かされたジンは再度魔剣に注入する魔力量を操作――肉体を半狼の状態へと逆戻りさせる。人型でなければならない、その理由があった。
地面への着地と同時にジンは後ろに回していた手を前へ差し出した。ムイは既に再度の跳躍体勢に入っている。彼女の魔法戦略――加速――の性質上、動きを止めることは簡単にはできない。――目の前に黒色の物体が差し出されるまでは。
「――⁉」
およそ三ヵ月に渡った修行期間、その中で行われた無数の実戦でも見たことがない物体――しかしその姿形くらいは、魔導戦に関する知識の薄いムイでも知っている。
――手榴弾!
思考より先に身体が反応する。少女は自らの軽く小さな身体をデタラメに発生させた“力場”によって後方へと吹っ飛ばした。
「いいや、違うね! こいつは――閃光弾だ!」
強力な光がジンを中心に発せられ、二人を包んだ。寸前で回避行動をとったムイであったが間に合うものではない。彼女の視界は一瞬の内に奪われてしまう。
その武器の仕組みは銃型魔剣とほとんど変わらない。注入した魔力を圧縮して放出する――ただし銃と異なるのは放出されるのが魔弾ではなく強力な光であるということだ。光には相手に与える魔力ダメージはほとんどない。が、その強烈なまでの光撃は、直撃すれば数分は相手の視界を奪うのに十分な代物である。
この武器は魔導戦においてはそれほど使用率が高いものではない。光の威力が魔力に頼らない実際の兵器の比にならないほど脆弱だからだ。加えて投擲自体は使用者本人の筋力に依存しがちな点も使いにくい原因と考えられている。では、どうしてそんな武器をジンが選んだのか。
――しまった。
ムイの頭の中は文字通り真っ白になってしまっていた。試合中、視界を奪われた経験がないからだった。たとえ相手に概念操作系魔法で視界を奪うような人間がいたとしても、魔気を習得した彼女にとってそれは問題ではない。だがしかし、閃光弾は概念操作系魔法ではない。魔気で防ぐことはできないのである。だが、最大の問題はその点ではなかった。
閃光弾が発生させる光には魔力が含まれる――つまり、瞬間的にではあるがその爆弾は広範囲に魔力をばら撒く性質を持つのだ。これが魔気習得者にとっては非常に厄介であった。
魔気のもたらす恩恵は大きく二つある。一つは相手の概念操作系魔法の無効化。そしてもう一つは、相手の魔力の流れを察知することによる攻撃予想である。だがしかし、瞬間的に広範囲に魔力をばら撒かれてしまえば、後者の特性は発動不能な状態に陥ってしまう。つまり視界による認識と魔気による察知――相手の攻撃を回避するのに必要な二つの要素が同時に奪われてしまうのだ。
ジンは迷わず相手の懐に飛び込んだ。銃も小剣も失ってしまっていたが、まだ彼には両手の甲に装備された鉤爪がある。ほんの少しでもその鉤爪で相手を切り裂くことができれば、魔剣による直接攻撃が成り立つ。
右腕を鋭く突き出す。閃光弾はジン自身の視界も奪うものであったが、接近戦になればそれはもはや関係がない。心積もりがあった分、隙もないし、何より狼化によって五感も強化された彼にしてみれば、視覚だけでなく聴覚や嗅覚で相手の位置を判断するのはごく自然な選択であった。だからその時のジンには、少なくとも対戦相手ほどの動揺も迷いもなかった。
勝負はジンの勝利に終わるかに思われた。だが、しかし、ここでムイはその才華の片鱗を発揮することになる。
ジンの放った閃光弾に対して後方へ跳躍したムイ。混乱状態にあったとはいえ、相手の追撃を予想するのは容易い。左右に回避するか? いや、相手の攻撃方法は左右の手の鉤爪だ、横の回避ではおそらくかわし切れないだろう。かと言ってさらに後方へ跳んだのでは、現在の“加速”が蓄積されていない状態ならば簡単に追いつかれてしまう。だからムイは跳んだ、横でも後ろでもなく、前へ――!
上半身だけでなく、身体全体を屈めて地面スレスレを滑空――さながら弾丸のように。その動きはもはや身体能力を強化しただけでは再現不能。人間のできる動きを超越している。
視界と魔気を失った今の少女に、相手の位置を特定することはできない。だがしかし、彼女の内に眠る卓越した戦闘センスが、その身体を突き動かした。
体格差のある相手だ、身を屈めれば屈めるほど、攻撃をくらうリスクは少なくなる。その理屈に気付いたのは、既に相手の足に組み付いた後だった。
ムイがとった行動は単純だった。対戦相手の足へのタックル――両手の魔剣を放棄し、子供が大人に絡むように、半狼の少年の足元へと飛び込んだ。
その行為はジンにしてみればまったくの予想外のものだった。左右か、あるいは後方へ回避運動をとると思っていたからだ。まさか逆に突っ込んでくるとは思いもしなかった。だから動揺してしまった。鉤爪型魔剣で足元を薙ぎ払えば良いということを、頭では理解できていても、実際の行動に移すのが遅れた。そしてその遅れこそが致命的なものだった。
ジンの強化された聴覚が、何かが空を切る音を察知した。人間の身体よりもはるかに小さな何か――刹那、ジンの身体が何かの衝撃を受けた。鈍い痛みが駆け抜ける。光の中、僅かに開けた目の前にふわりと浮かび上がったのは二本の“白色の魔剣”――
「ば、馬鹿な……!?」
その魔剣はムイのものだった。いや、しかし、なぜ……? ジンは理解不能に陥った。魔剣が命中した。しかしその魔剣はムイが持っていなければおかしいものだ。
「まさか、お前……!」
ジンが呟いた。
「魔剣を捨てて」
突撃したのか? 丸腰で?
魔導戦の試合で魔剣を手放すなど、もはや自殺行為に等しい行いだ。到底信じられることではない。
ムイの突進は、相手の動きをほんの一瞬でも止めるためのものだった。相手に動き回られては、空中に設置した魔剣で狙い撃つことができなくなってしまう。
「わたしはこれを『時空・二刀流』と名付けました」
光が晴れるのと同時に、ムイが呟いた。
発射する“力場”と抑えつける“力場”――相反する“力場”を同時に発生させ、その間に魔剣を設置する。やがて時間差で抑えつける“力場”が消失し、空中の魔剣が発射される。修行中にムイが編み出した“力場”を用いた近接奇襲攻撃――時間と空間を切り裂く剣――紛れもなく、ムイオリジナルの攻撃方法、炸裂。
しかし、その戦術が前提にあったとしても、ムイが異常なのは変わりはしない。異常――戦闘中に魔剣を手放してしまうこと。片方だけではなく、両方ともを。確かに一本だけ発射するよりも、二本同時に発射する方が命中する確率は高くなる。だがしかし、頭ではそれを分かっていても、実行できる人間がこの世界にどれだけいるだろうか。ジンは驚きよりもむしろ恐ろしささえ感じるほどであった。
少女がその小さな身体を、少年の足元からゆっくりと離した。決着がついた。
「ったく……お前は一々驚かせにゃ気がすまんのか」
「いえいえ、本当に、ギリギリの戦いでしたよ」
ジンが小さく笑みを浮かべた。
ムイが勝利した。