実力の証明
凪下彩は驚愕していた。背後から近づくその少女の気配を感じ取れなかったことに。普段の状態ならばまだしも、試合の直後――つまり、魔気がまだ残っている状態で、精神が鋭く研ぎ澄まされた状態で、他者の気配を見逃したことなどこれまでに皆無だったのだから。
魔気とは、魔力の本質を見極める能力だという。この技術を利用している間は、体内、そして空気中に漂う微量の魔力でさえ、その僅かな動きや流れを正確に認識することができる。この技術を魔導戦に応用すれば、例えば相手が放とうとしている魔法が、どの方向へ、どれだけの威力なのか、事前に察知することができるのだ。現にアヤはカナタと対峙した際、不可視の瞳の軌道を予測していたのではなく、感覚の域で察知し、回避するということをやっていた。
さらに加えて言うならば、姿の見えない相手を魔力の流れから察知することも可能なこの技術であるのだが、つまりそれは視界外の人間の動きを認識できるということに繋がる。だが、しかし、今現在アヤの背後をとったその少女は、その魔力や気配をまるで察知することがなかった。それは一体なぜなのだろう?
いや、考えられることは一つだった。
「霧野さんって言ったかしら。あなた、もしかして」
「ん? ああ、もしかして、これのことっすか?」
瞬間、少女を中心に漆黒の空気が渦巻いた。それはアヤにとっては熟知している存在であり、確信でもあった。この目の前の少女は、魔気を持っている。そしてその魔気で自分の魔気を相殺したのだ。
「いやはや、一昨年に卒業した人がいるってのは聞いてたんすけど、まさか同じ高校にいるとは……まったく人の縁ってのは不思議なものっすね」
「ってことは、もしかしてあなたが、去年の卒業生……?」
「いかにも……ん? どうしてそれを?」
「あ、あははは、いや、実は私も聞いていたからさ、あなたの修行仲間から」
そう、アヤはとある人物からムイのことを聞かされていた。しかし聞いたのは修行先で面白い中学生に出会ったという話だけであり、まさかこれほどまでに強烈な魔気の才能があるとは、思っても見なかった。
「修行仲間?」
「そいつは俺のことだ」
男の声がして、ムイが振り返る。するとそこには二つの見知った顔があった。一つは鋭い視線と強固な意思がにじみ出ているのが窺える男――雪風仁。変身魔法・モデル狼の使い手にして、あらゆる種類の魔剣をハイレベルで使いこなすムイの兄弟子。
「あれ、雪風先輩じゃないっすか。ども、ご無沙汰してまーす」
「相変わらず軽薄な奴だな、久しぶりの再会だってのに」
「久しぶりって言ってもほんの三ヵ月ぶりくらいじゃないっすか。てか、何してるんすか、こんなとこで」
「制服を見て気付かんのか。俺はお前の先輩だぜ。ただしそれは塾じゃあなくて、高校のだがな」
「へぇ。またまた不思議な縁っすね。でもまあ、そういうことならこれからよろしくお願いしまーす」
「だから軽いんだよ、お前は」
口ではそう返しつつも、この再会はジンにとっても嬉しいものであった。ムイの実力や才能は修行期間中に嫌というほど認識している。さらには魔気習得の現場にも居合わせたのだ、そんな彼女が仲間になるというのはこれ以上ないくらいに心強いものだった。
そしてそれはムイにとっても同じである。ジンと共に過ごした期間は短かったものの、彼の実力はそこらの強豪選手を上回っていることは確信できた。神童・菊池華を除けば間違いなく筆頭塾生と言えるだろう。
ムイはジンとの再会を喜びながらも視線をそのすぐ脇の少女――もう一つの見知った顔へと移した。
ムイを真っ直ぐに見据える少女――その顔つきには変わらぬ強さと優しさがあった。おそらく中学時代のムイが最も長い時間顔を合わせ、そしてムイを魔導戦の道へと誘った他ならぬ人物――晴海由佳はただ黙ってムイを見つめている。
しかしムイにはユカが何を言わんとしているのか、それを直感で理解することができた。中学最後の冬休みから高校に入学するまで、実に三ヵ月以上も会っていない。しかし二人の間にある絶対の絆は変わらずである。だから二人がその時交わしたやりとりはたった一つ――
「おかえり、ムイ」
「ただいまっす、ユカさん」
ムイとユカ――二人の間には多くの言葉は必要としなかった。顔を合わせ、互いの目を見て一言交えれば、それで十分であった。そんな二人の間にカナタが割って入る。
「あの、ムイさん、私……」
「ん? ああ、カナタさん、どうもご無沙汰です。立てますか?」
言いながら、少女がその細い右手を差し出す。カナタはそれに引っ張り上げられる形で立ち上がった。その貧弱な見た目に相反して、ムイの右腕は力強い。それだけで彼女がこの冬、どれだけレベルアップしたのか、カナタには何となく察することができる。
「ムイさん、私、あなたを追いかけてここまで来ました」
「ああ、そうだったんすね。そいつは、どうも、面倒をかけてしまったようで」
ムイは若干の罪悪を感じて後頭部を掻いた。
天才は周囲の人物を否応なく変化させる。もっと具体的に言うならば、その天才と共にいたい、尽くしたいと思わせるのだ。それはプロ選手――東雲凛、そして神童――菊池華、彼女たちと対面した時のムイ自身がそうだった。加えてムイが毎日のように百人組手をこなしている時、師匠が言ったのだ。百人の相手もムイと同じように、彼女に尽くしたいと思っている、お前は間違いなく天才だ、と――
ムイからすれば自分がリンやハナと同じ人種――“天才”という生物である自覚はない。だから自分に尽くしたいと思う人間の気持ちの理解に苦しむし、そんな人物を前にした時、ある種の罪悪感を抱くことが多かった。
「いや、まあ、何と言いますか、申し訳ないです。あのー。無理してついてこなくても良いんすよ?」
ムイはバツが悪そうに視線を逸らす。そんな彼女が差し出した右手を、カナタは反論の意を込めて強く握り返した。
「自惚れないでください。私はまだ自分が天才だと思っていますし、ムイさん、あなたにも勝てると思っています。たとえあなたが私と戦ってからどれだけ強くなっていようとも。それを証明するために私はこの高校に来たんです」
「そう言われましても……」
「何なら今すぐ試しても良いんですよ? ほら、魔剣を構えてください」
カナタはそう言い放つとムイの手を振り切り、大鎌型魔剣を拾い上げる。そうしてムイから二、三歩ほど距離をとると、先程までの戦いのように魔剣を構えてみせた。しかしやはり疲労とダメージが残っている。彼女の膝は小刻みに震え、魔剣を握る両手にもそれほど力が入らない状態だった。そればかりか彼女の魔力貯蔵量はほとんど底をついているに等しい。おそらく球型魔剣をあと一回飛ばせばその魔力は完全に尽きてしまうだろうということは、カナタ本人が一番よく分かっていた。
そしてその“限界”に魔力を正確に認識する能力――魔気を取得したムイが気付かないわけがなかった。
「今のカナタさんの状態じゃあ、まともに試合をすることは無理っすよ」
「そんなの、やってみないと、」
「いいえ、分かります。分かるような感覚を持っています。わたしも、そしてそこの部長さんも」
カナタが無言でアヤに視線を投げかける。アヤはそれに言葉では答えなかったが、しかし沈黙が何を意味するのか、それを分からないカナタではない。
「それに、仮に万全の状態で試合をしたところで、今のカナタさんじゃあ、わたしには勝てませんよ」
「どういう、ことですか……」
「や、別に調子に乗ってるとか、そういうことじゃないっすよ? ただの客観的事実です。そして客観的事実をこうして告げるのは、カナタさん、あなたを聡明な人だと信用しているからです」
「……」
「とはいえ、こうして言葉で伝えるだけじゃあ納得しないでしょう。なので――」
ムイは視線をカナタからジンへと移した。
「雪風先輩、わたしと戦ってもらえませんか?」
「ほう……」
それを聞いてジンが静かに頷く。組んでいた両腕を解きながら、
「要は俺を物差しにしようってことか」
「まあ、簡単に言ってしまえば」
ムイの表情は真剣そのものだ。ジンは指示を仰ぐようにアヤをちらりと見た。アヤはジンの視線に僅かに頷いてみせた。判断は任せるということだ。ジンは答えた。
「良いだろう。新人に俺の実力を見せる機会にもなるしな。だがなムイ、俺とお前のこれまでの戦歴は六勝四敗――今からやる試合で俺が勝ったとしても、文句を言うなよ」
「分かってますよ、先輩。むしろそうじゃなくちゃあ、わたしの成長の証明にはなりませんから」