百人組手 / 高校入試前日
三月五日――高校入試前日。
低い地響きの音が鳴り響き、一斉に辺りを雪煙が覆った。
白神山地の奥深く、どこまでも続いているような森の先。森林限界を迎え唐突に開けた更地に陽光が差し込み、宙に舞う無数の細かい雪の結晶にぶつかり乱反射させている。
更地の頭上――切り立った断崖絶壁――蠢く影が五つ。
一人目――部隊の指揮官。急斜面を滑り降りながら、両手で構えた銃型魔剣で標的を狙撃。同時に味方へ回り込むように指示。
二人目――指揮官の前方三メートルに位置。スパイクシューズの下に仕込んだ魔剣。氷魔法で足元を連続で凍り付かせ、スケートの要領で斜面を滑走。標的との距離を確実に詰めていく。
三人目――指揮官からの指示を受け右へ迂回。変身魔法によって四肢をチーターのそれへ。人間離れしたバネを利用し圧倒的なまでの加速能力を発揮。標的の側面へ。
四人目――獣人化した味方を追随。魔剣の魔石へ魔力を注入。周囲に発生した光球を連続で射出。援護目的の最適攻撃。
そして――
五人目――一群の標的。十メートルほど先を高速で移動。
それは追撃する四人に比べて圧倒的に小さな人影だった。少女――しかし、彼女をそう呼ぶにはあまりに動きが機敏すぎる。人の姿を保ちながら、その枠組みを外れているかのように。
指揮官の男が叫んだ。
「作戦通りC177ポイントに誘い込め! 向こうがどれだけ速くても、囲んじまえばこっちの勝ちだ!」
一瞬、少女が背後に意識を向ける。敵の位置、スピード、使用魔法を把握。情報をまとめ、彼らが次にとるであろう選択肢――作戦を予測。
「……待ち伏せ、か」
少女が呟いた。
現在彼女たちが滑り降りている斜面―—その下には森林限界の平地が広がっている。そのさらに先にあるのは木々が生い茂る深い森だ。視界は最悪、となるとそこに敵の増援があらかじめ待機している可能性は高い。
「だったら……!」
魔剣へ急激に魔力を注入――“力場”の発生。
瞬き一つ分の僅かな間、ふわりと少女の小さな身体が宙を舞い一瞬にしてその向きを反転させる。斜面への接地。爆発的なまでのブレーキの影響で発生した摩擦が、足元の雪を舞い上げ敵の照準から少女の身体を覆い隠す。
両手の魔剣で器用にバランスを取り左へ跳躍。その脇を獣人化した男の鉤爪型魔剣が掠める。
さらに“力場”を発生――身体の動きを無理やり歪め、上半身と下半身を逆転。勢いを殺さないまま右足を天高く振り上げる。鋭い蹴りはチーターと化した男の腹部を捉え、苦し紛れに放たれた反撃の右腕を、今度は左足の裏側で受け止めた。
その防御方法は少女がこの修行期間に見つけ出したものだった。魔導戦の基本的なルールに従うならば相手の魔剣が自分の魔導着に触れてしまった段階で負けになってしまう。が、足元――スパイクシューズだけは別だった。
それが少女の発見――魔導着の防護特性の盲点。
本来魔導着には直接覆われていない部分、例えば顔面や頭部すらも相手の魔法から守る効果がある。しかしスパイクシューズは地面をより効率よく掴むという目的のため、その魔導着特性の例外に当たる。そしてその事実は、裏を返せば敵の魔剣に触れても敗北しないということに繋がるのだった。
少女は獣人を巴投げの要領で崖下へ蹴とばす。受け身を取りすぐさま“力場”で体勢を立て直し、再び視界内に敵の姿を捉えた。
少女は自分の中の魔力感覚を切り替える。動の感覚から静の感覚へ。彼女を追跡する敵はその一瞬、その小さな身体から立ち広がる圧倒的なまでの圧迫感を感じただろう。
魔気の発動。
少女は息を吐き切るのと同時に屹然と目を開いた。視界が一気に明るくなったように感じる。それは魔気の持つ特性。魔法と物質との境界を正しく認識する能力。少女は敵と自分、そしてその周囲――空気中に雲散する魔力さえもはっきりと認識した。
迫りくる三人の敵。後方二人の元に急激に魔力が集中するのを察知し、刹那の直後、銃型魔剣が連続で二発の魔弾を発射し、もう一人の持つ魔剣が三つの光弾を少女の方向へ弾き飛ばした。
少女は瞬時に魔力感覚を動へと戻す。最小限の“力場”の発生と身体の捻りだけで魔弾を回避。続けて約三秒遅れで接近する光弾は左右上下に不規則に揺れていたが、少女はそれさえも、まるで未来が見えていたかのように無駄のない動きでかわし、あるいはその白色の魔剣で防いでみせた。
そこへすかさず先頭を滑走していた三人目の敵が、氷の刃を少女の頭上から振り下ろした。シューズの底に発生した氷剣である。踵落としの要領で放たれたその鋭い斬撃を、少女は素早くバックステップすることで回避する。完璧な連携に対し、正確無比な防御対応の連続だった。
その瞬間、視界の隅にキラリと光るものを見た。少女はバックステップで浮かび上がった空中から着地を待つことはなく、そのまま空中に発生させた“力場”で自身の背中を強烈に跳ね飛ばした。必然、氷魔法を使う敵との距離が一気に詰まる。しかしそれは攻撃のための接近ではなく、むしろ防御のための接近だった。
少女が一瞬前までいた地面の雪が弾け飛んだ。狙撃だった。少女が認識した光は狙撃手の持つスナイパーライフル――そのスコープが陽光を反射した煌めきだった。
驚くべきは少女の反射神経である。そしてそれも、この地に修行に来て身に着けた技術だった。毎日の百人組手――数え切れないまでの実戦経験がなければ、少女にその判断はできなかっただろう。氷剣をかわした直後に着地しその隙を他の二人に追撃されていただろうし、遠距離からの狙撃にも気が付かなかった。
が、少女はその判断を一瞬のうちに下した。自分が死地に入っているということを、もはや直感的に理解していたのだ。
予想外の動きをされた氷剣の男は思わずたじろいだ。少女は文字通り目と鼻の先に位置しているが、男が後退すれば接近し、右へ動けば右へ、左へ動けば左へ、器用に至近距離を保ち続けた。
こうも距離を詰め続けられれば遠距離攻撃による援護は不可能に等しい。
「くっ……」
男が苦し紛れに膝蹴りを放つ。しかしそれは少女からすれば当然の予測の範疇であり、その動きの先にあらかじめ魔剣を構えておくというのは簡単なことだった。男の膝は吸い込まれるように少女の魔剣へ――衝突――今度こそ少女の身体はフワリと僅かに後方へと飛ばされる。
魔導着への魔剣攻撃判定――転移魔法の発動――氷剣の男の姿がキラキラと細かな光の粒子へと変わっていった。
即座に接近してきていた光球使いの男が、その手に握られた幅広の魔剣を横薙ぎの形で振り抜いた。
少女は上半身を後ろに倒して斬撃を回避する。そしてその勢いのまま両手で地面を掴み起き上がった。が、挙動の大きなその動きは相手の男からすれば攻撃の絶好の機会だった。
男は不敵な笑みを浮かべ、続けざまに斬撃を放った。そしてその内の一撃が少女に命中するかと思われたその瞬間、男にとって信じられないことが起こった。
「がはッ……!?」
衝撃が男の右脇腹を襲った。身体が横に吹っ飛び、思わず呼吸の仕方を忘れそうになる。刹那の出来事であったが、その一瞬は男にとってはひどく長く感じられた。脇腹にはつい先ほどまで確かに少女の手に握られていたはずの白色の魔剣がめり込んでいた。
男にとっては理解不能な状況だった。対戦相手である少女は目の前にいる。しかし魔剣はその少女とはまるで別の方向から飛んできた。
“力場”の応用――少女による奇襲攻撃。
向かい合う二つの“力場”を同時に発動。その中間点に魔剣を固定。発射方向を遮る“力場”の発生時間を短く設定することで、時間差で魔剣を射出することが可能になる。これもまた少女がこの山で身に着けた新たな戦闘技術であった。
少女は男に命中し浮かび上がった魔剣を空中で掴み取る。そして身を屈めたまま男の左側へ――狙撃の射線を遮る防御行動。
魔剣が命中した男の身体はあっという間に光の粒子へと変わっていく。それでも狙撃への盾にするのは三秒ほどが限界であったが、しかし少女が次の行動に移るにはその三秒間だけで十分だった。
一秒――“力場”を薄く広く展開。再び地面の雪を巻き上げ煙幕の代わりに。
二秒――追跡者の最後の一人を視界内に。
三秒――身体を悠然と後ろに傾ける。少女の小さな影は崖下へ吸い込まれる。
魔導着に攻撃を受けた男が完全に消失するのと同時に、少女がいた地点を長距離狙撃による魔弾が通過。
そこへ最後の追跡者が追いついた。落下する少女を目撃していた彼は仕留めたことを確認するために崖下を覗き込む。
その瞬間――
男の眼前に急激に少女の身体が浮き上がった。
フワリと舞う長いポニーテール。慌てて狙撃銃を構えるが既に遅い。何より距離が悪い。少女の蹴りが男が構えた狙撃銃の銃口をあらぬ方向に歪めた。
が、男も決して戦闘経験が浅いわけではない。蹴られた反動を利用して身体を回転させ、腰の後ろに備わっていたナイフ型の魔剣を抜き去り、横に薙いだ。
少女はナイフを自身の魔剣で受け流す。男は一瞬の内にナイフを逆手に持ち直し、さながら歴戦の軍人のように構えてみせた。
ここで少女の戦闘感覚は厳戒態勢に達した。
基本的に魔導戦の選手は魔法のプロフェッショナルではあるが戦闘の――こと近接戦の達者ではない。中から遠距離での魔法を撃ち合い、相手の魔道着耐久値を削り合うというのが最も多い試合のパターンで、むしろ接近戦を想定していないプレイヤーの方が多いくらいだ。
それでも接近戦を想定するというのなら、可能な限り素人でもこなしやすい戦闘スタイルを想定する。使う武器は長く大きく、そして順手持ち――デタラメに振り回しても相手に一撃入れば勝利するのだから、これで十分だとされている。
しかし、現在少女の目の前にいる男は、その常識とまるで逆のスタイルを披露しているのだ。
獲物は短く細いナイフ型魔剣。持ち方は逆手。
男の選択に対し考えられる理由を、数多の戦闘を積み重ねてきた少女の頭脳が一瞬にしてはじき出す。
一つ目の理由――男が近接戦のプロフェッショナルだった場合。本格的な訓練を受けている者ならば、その戦闘スタイルでも頷ける。しかし少女の師匠曰く、この組手の相手の多くは地元の大学生や社会人チームの選手ということだった。そんな中に接近戦の訓練を受けている者が果たしているだろうか?
二つ目の理由――男に秘策がある場合。つまり男の持つ固有魔法に、ナイフの逆手持ちという戦闘スタイルが必要だった場合だが、少女からすればむしろこの理由こそが本命だった。男はこれまでの戦闘において狙撃銃型の魔剣しか使用していない。銃型の魔剣は基本的には魔法に関係なく、魔力さえあれば誰でも使用することができる。裏を返せばその選手が本来持つ魔法を隠すことが可能なのだ。
相手が正体不明かつ強力な魔法を持っている場合、距離をとるのが鉄則である。無論例外はあれど、しかしどれだけ強力な魔法でもその射程距離はせいぜい十から二十メートルほどだ。
が、今の少女はそれが許される状況ではなかった。先程もあったように、別の相手がどこに潜んでいて狙撃してくるか分からない。安全を確保するためには障害物や煙幕を利用して射線を遮るか、あるいは相手の懐に直接飛び込むしかない。だが前者の選択を取れば即座に目の前にいる男がその逆手に持たれたナイフで襲い掛かってくるだろう。
必然――少女はナイフを持つ男の元へ飛び込んだ。
その瞬間、男がニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「掛かったな!」
何かに足を取られ、少女はその小さな上体をグラリと崩した。右手を地面に着き身体を支える。自身の足元に目を落とすと、そこに足は見えなかった。地面の中に――しかし雪や土ではないどこかに――少女の足は飲み込まれていた。
これがこの人の魔法か――!
男が相手からの接近を誘うために敢えてリーチの短い戦闘スタイルを見せつけたのだ。しかし少女がその事実に気付いたのは既に遅かった。
男がステップで踏み込みながらナイフが握られた右腕を伸ばす。しかし――
「な、何ィ!?」
男の視界から、少女の姿が消えていた。そしてその直後、彼は自身の腹部に衝撃を確認した。
それは少女による斬撃――男からすれば絶対にあり得なかったはずの一撃。
「ふぅ……魔気がなきゃ危なかった」
少女が男の背後で、何事もなかったかのように呟いた。
魔気最大の特徴――概念操作系魔法の無効化。
男の魔法は相手の動きを概念的に止めるものだった。だから少女は魔気を纏うことでそれを無効化した。言葉で説明するのは簡単だが、現実においてそれは到底信じられないことだ。一+一を二ではなく他の数字にしたようなものである。
少女がゆらりと身体を持ち上げる。男が光になる。一つ息を吐いて、再び少女が駆けだした。
「あと五十人……!」
「やれやれ、今日くらいは練習を休んでも良かったんだよ」
百人組手を終え、屋敷の台所で水分補給をする少女の背中に老婆のしゃがれた声が投げかけられた。振り向くとそこには少女の魔導戦の師が煙管片手に立っていた。
「いやぁ、まあ、習慣になってるもんで」
「試験を前日に控えた受験生には、到底見えないね」
「大丈夫っすよ。成績は元から良い方だったし、何より師匠が用意してくれた練習相手――大学生のお兄さんお姉さんが、練習終わりに毎回勉強を教えてくれていましたから」
「落ちても私のせいにするんじゃないよ」
「しないっすよ。それに身体を動かしていた方が落ち着くんす。ここまで来たら勉強することなんてないし、むしろ精神面を安定させることの方が大事っすよ」
少女が言うと、老婆は肩を竦ませてみせた。そして視線を窓の外に向ける。
「もうすぐ冬が終わるね」
言われて少女も視線を窓の外へと向ける。窓の外――山々はまだ真っ白な雪に覆われている。だがしかし、そこには確かに冬の終わりを感じ取ることができた。おそらくここに来たばかりの頃の彼女には冬の終わりなど感覚することができなかっただろう。だがしかし、その山はこれまで毎日のように駆け回った山だ。その微妙な変化を認識することは、もはや容易いことだった。
少女は小さく頷く。
「もうすぐ、春が来ますね」