雀荘・国士無双
夜の商店街は好きだ。
夕方の時よりもずっと。
なぜなら人が少ないから。
ムイはそんなことを考えながら走る。走る。走る。
両足がしっかりと地面を掴み、蹴るのが分かる。コンクリートの冷たく固い感触。全身で空気を切り開いていく感覚。スピードに乗れば乗るほど心地いい風が頬を撫でる。
彼女の左手には料理が入った岡持ちが握られている。本来ならば今のスピードで駆ければ中身は悲惨なことになるのだろうが、彼女の場合は違った。決して中身を溢したり、崩したりすることはない。
さらに付け加えると、彼女は頭の上に乗せたコップから水を一滴も溢すことはなかった。水は彼女が進むたびに大きく揺れてはいるものの、いつも淵ギリギリでくるりと内側に戻ってくる。――“魔法”のように。
息一つ乱さず、顔色一つ変えず、そんな芸当をやってのけているように見えるムイだったが、それでも彼女自身としてはかなり厳しく感じていた。もしその商店街が夕方と同じだけ混雑していたらと思うと、背筋が凍る思いだ。
それでも商店街に人がいないというわけでもなく、時折視界に現れる仕事帰りのサラリーマンだとか、あるいは部活帰りの学生だとかを、ムイは高速でかわしていく。その流れるような動きはバスケットの世界的なプロ選手か、あるいはアメリカンフットボールのランニングバックのようだった。
アーケード商店街を丁度端から端まで移動すると、目的地である雀荘・国士無双が見えてきた。
雀荘・国士無双はもう十年以上もそこに店を構えている。古い店だから、既に外観はボロボロで表に店名がついたランプが光を灯しているだけだった。だから初めて見た人間にはそこが営業中だということは分かりづらくなっている。
経営状態もそこまで良いとは言えず、数少ない常連客だけでもっている状態だった。
しかし、その雀荘はよくムイの家に出前の注文を寄せられるお得意様でもあった。
ムイは出前の手伝いを始めた十歳の頃からよくこの雀荘に来ている。そしてその度に中の常連客にお菓子やお小遣いを貰うのが習慣になっていた。
そういうわけで、中学三年生になった現在に至ってもムイはこの雀荘を訪れる度に少しだけうきうきせざるを得なかった。
ムイは両手の剣を腰の左右のホルスターに入れると、扉に手をかけた。
「こんちゃーっす、食事をお届けに参りましたー」
扉を開けると、いつも通り、煙草の臭いが彼女の鼻をついた。しかしこの臭いは別に嫌いではないし、むしろ安心すると言っても過言ではない。そのことを以前、ユカに話したら変わっていると言われ、ムイはそれ以来そのことを公言することはない。
店内にはざっと見ただけでも五台の全自動雀卓が置かれている。しかし彼女がここに配達しに来ている中でそれらが全て埋まった所を、未だに見たことがなかった。今晩も三つの台が使用中で、内一つは常連客が固まっている。
その入り口から最も近い卓を囲む常連客らはムイを見ると軽く笑顔を見せたり会釈したり手を挙げて挨拶したりしたが、どこか緊張している面持ちだ。どうやら勝負も佳境らしい、と彼女は察する。
入ったところで店内を見渡していると、奥から店長が出てきた。店のロゴが入ったエプロンを付けた男性だ。三十代半ばほどに見えるがムイがそこに通い出してから全くと言って良いほど見た目が変わっていないから、本当はそれ以上なのかもしれない。いつも穏やかそうな顔を浮かべており、実際彼の性格も穏やかそのものだった。接客業であるということを差し引いてもムイは彼が怒ったりイラついたりしているところを見た事がない。
「ああ、ムイちゃん、おつかいご苦労さま」
「いえいえ、毎度贔屓にしてくれてありがとうございまーす」
「もうちょっとしたら一段落つくと思うから、悪いけど待っててもらえる?」
「分かりましたー」
ムイは岡持ちと頭に上の水の入ったコップを会計台の上に置くと、フラフラと店内を見て回ることにした。
雀荘・国士無双に配達するようになってから、彼女は興味本位で麻雀のルールを覚えていた。本来ならば未成年の彼女がこういった店に出入りするのはご法度だが、出前を注文した客から料金をもらうまで店内で待つことが多かったから、暇つぶしのためである。勿論金銭を賭けたことはないが、面子が足りない時は常連客に混ぜてもらうことすらあった。そして今では大抵の客に勝ち越すまでに、その実力を上げていた。
そういうわけで、彼女は場の優勢劣勢、あるいは打ち手の大体の実力は見れば分かる。埋まっている三つの雀卓の内、常連客が入っている卓を除く二つの卓では、目立つ打ち手は見当たらない。最終的に彼女はいつも通り、常連客が集まる卓へと足を伸ばしていた。
しかし、その卓に赴いた彼女は一つのことに気が付いた。打っている常連客は三人だけで、内一人は最近店に入ったバイトの大学生だった。いつもなら常連客四人が打つはずなのに。
「あれ? 今日は丸岡さんは?」
「ああ、今日は欠席。用事があるって言ってたな」
「あれだろ、趣味のクラブ活動の方」
「何か大事な試合って言ってたかな」
と、男たちが代わる代わる答える。
一人目の男は痩せ形の男だ。年齢はおそらく三人とも同じくらいだろうが、彼が主導となって対局することが多かった。細い目と顔に僅かに広がりつつある皺が特徴で、ムイがここに通い出してから一番老けたように見える。
二人目に答えた男は中肉中背で眼鏡をかけている。職業は知らないがスーツを着てくることが多く、おそらくサラリーマンなのだろうと思われた。彼は常連客の中では一番ムイに甘い男で、つい最近まで毎回キャンディやらクッキーやらをムイに渡していた。世話好きな性格は関西出身の彼の母親から受け継いだのだと、以前話していたのをムイは覚えている。
そして三人目は小柄で太った男性だった。その三人の中では一番気の良い男で、いつもいじられ役に回ることが多い。しかしその反面、周囲の人間のことをよく観察していて、何か悩んでいそうな人間に対しては積極的に話を聞きに行くような男だ。
この三人に加えて「丸岡」という中年男性も常連として店にいることが多いのだが、その日はいなかった。ムイはそのことが何てことのない世間話の一環だったが気になったのだった。
本来ならば対局中の打ち手に外から話しかけることは褒められたことではないのだが、この場合は麻雀に関することではないし、何よりその三人の常連客はムイに話しかけられることを半ば楽しみにしている節があった。
ムイは近場の空いている卓から椅子を一つ拝借してきて、そこに腰かけながら口を開く。
「あの人クラブ活動なんてしてるんすか。ただの飲んだくれじゃなかったんすね」
「相変わらずムイちゃんは厳しいねぇ……ほれ、立直っと」
痩せ型の男の立直に他の面子は明らかに嫌な顔をした。この男が今日はツイているのだ、とムイは理解できた。
男たちは打ちまわしながら続ける。
「ほら、あの人、高校時代に全国大会に出てるからさ」
「ありゃあ、もう何年前だ。二十年前くらい?」
「あの人、俺らとそう変わらないだろうから……そんくらいかあ。いや、歳はとりたくねえな」
男たちはその言葉に同意しながら笑い合った。
「クラブ活動って言ったって、何やってるんすかね? ゴルフとか?」
「そっちの“クラブ”じゃねえよ」
「じゃあ野球っすか?」
「“グラブ”でもねえよ。ほら、あれだ……」
答えようとした痩せ型の男が言葉に詰まっている。そこを中肉中背の男が援護した。
「魔導戦?」
「そうそれ! いけねえ、記憶力までなくなってきやがった」
「ボケるにしちゃ早すぎじゃねえのか?」
再び笑い声が国士無双に溢れた。
「魔導戦のクラブって、もしかしてシルバー・スターズ?」
「それそれ。監督やってんだとよ」
「……へぇ」
何とも不思議な縁だ、とムイは息を吐いた。まさか自分の知り合いの飲んだくれだと思っていた中年オヤジが、親友が所属しているチームの監督を務めているとは思いもしていなかった。
「丸さんも大変だよなぁ。何せ今日の試合で負けたら監督クビだろ?」
「そうだなあ。今まで結構頑張ってたのにな」
「仕方ねえだろうよ、ここ数年は勝ててねえんだからよ」
「え、ちょっと待って、“クビ”って何すか?」
そう聞き返したムイに、一同の視線が一斉に集まる。
「ま、監督交代ってことだな」
「そしたらチームはどうなるんすか」
「そりゃあ、まあ、一応存続はするだろうけど……どうかな、丸さん結構人気者だったから、脱退者続出で自然消滅なんてのもあるかもな」
「そんな……」
魔導戦にも丸岡本人にも興味はないが、もしそんなことになってしまえばユカが悲しむのは目に見えていた。いくら普段からドライな態度をとっていたとしても、ムイにとって彼女は唯一無二の友人なのだ。そんな彼女が悲しむ顔を見たくはない。
「試合って何時からっすか」
「え? うーん」
男たちが今度は一斉に壁にかけてある時計に目をやった。
現在の時刻は午後七時三十分。魔導戦の舞台となる闘技場は、昼間は高校の部活やプロの試合に使われることが多い。よってクラブチームが使うことができるのは夜の遅い時間が主だった。そのことを計算の内に入れた上で、男の一人が答える。
「試合自体はもうとっくに始まってると思うよ。でもまあ、試合形式は団体戦だろうから、そうだな……そろそろ副将戦ってところか?」
「相手が圧倒的じゃなきゃな。もしかしたらもう終わってるかもしれん」
「嫌なこと言うなぁ、お前も」
気は付けばムイは椅子から立ち上がっていた。靴紐がしっかり結ばれていることを確認して、エプロンを脱ぎ去り店長に放り投げる。
「あ、ちょっとムイちゃん! 出前は!?」
「後で取りに戻ります!」
背中から聞こえた店長の声にそう応え、彼女は店を飛び出した。
左右のブレイドを抜き、いつもより強く魔力を流し込むと、少女は夜の街を疾風の如く駆け出すのだった。