怪物 / 魔気
屹然と目を開いた。
瞳孔が光を吸収するのと同じ勢いで、ムイは止まっていた呼吸を取り戻す。身体はまるで自分のものではないかのように重い。起き上がろうとすると全身を鈍い痛みが襲った。
状況の理解――巨大熊の首筋に牙を食い込ませる狼。それを少し離れたところで心配そうに見つめる少年と少女。そこまで認識してムイは初めて自分が気を失っていたのがほんの数分だったのだと理解した。
跳ね飛ばされる狼――怪物の懐に飛び込む小さな影。
二体の魔物の衝突――巨大熊と神童――両者の装備する魔石が鋭く発光し、しかしその小さな方だけを遥か後方まで吹き飛ばした。
「ハナッ!」
遠くで少年が叫んだ。そしてその直後、彼が何やら呟いたかと思うと、巨大熊の足元から太く、頑丈な木の根が一斉に湧き出した。
木はあっという間にその熊を凌ぐほどに巨大に成長を遂げ、さながら全方位から万力で圧力をかけるように包み込んだ。
怪物の悲鳴が辺りに響き、しかしすぐにそれは巨木に覆われて聞こえなくなる。
勝った。あの化物を倒した。生き残った。
その場にいた誰もがそう思っただろう。
しかし、現実は違った。
これまでにないほどに凶悪な怪鳥音が辺りに響き渡り、そして化物を包み込んでいるはずの巨木の幹を一斉に弾き飛ばした。
戦慄。恐怖。絶望。
強大な怪物を目の前にして、塾生たちの頭の中は真っ黒に染まっていく。
黒――ムイがようやく立ち上がる――頭の中で渦巻く漆黒。
黒――それは恐怖や絶望といった負の感情とは異なる。
飲み込まれそうになる――深淵――力の放流。
ムイは夢の内容を、はっきりと記憶していた。そしてそれと同時に、これまで曖昧だったはずの“白い夢”を、その全てを鮮明に思い出した。
「“白い夢”……それに、あの女の人の正体も気になるっすけど」
巨大熊を見据える。
今はあれを何とかしなくては。
全身ににわかに力が戻っていくのを感じた。同時に研ぎ澄まされていく感覚――周囲に渦巻く魔力の感知。
今まで見ていた世界とまるで異なる世界が、ムイの視界の中には広がっていた。
生命を物体としてではなく、エネルギーのようなもので認識することができた。個々が放つ魔力だけでなく、空気中を漂う微量の魔力さえも察知することができた。
魔力が揺らぎ、動いた。巨大な生物の元に集まり、増幅されていくのを感じる。そしてそれを観察すれば、相手が次にどちらの方角へと攻撃をするのか推測することは容易だった。この“眼”があれば、相手の攻撃を回避し続けるのは容易なことだろう。
「そうか――」
ムイが今にも攻撃を放とうとしている巨大熊の眼前に立ち塞がった。
「やれやれ、これがそうっすか」
巨大熊が次にどちらに攻撃してくるのか分かる。どう回避すれば良いのか分かる。
状況の理解――回想。
トッププロ――東雲凛との対戦。
リンはムイの攻撃を回避し続けた。どのような仕組みで自分の攻撃を予測し、かわし続けたのか、あの時のムイには分からなかったが、しかし今の彼女にはそれを理解することができた。
魔気――概念操作系魔法を無効化する奥義。しかしその特性はそれだけではなかった。相手の――周囲の魔力の動きを認知する特性をも持ち合わせていた。ムイはそれを直感で理解することができた。
「さて――」
自分の三倍はあろうかという巨大な魔獣との対峙。
巨大熊はムイの中に特別な力を感じ取った。その視線は、目の前の小さな怪物に釘付けにされている。
ムイが呟いた。
「こっから先は本当の殺し合いっすよ」
――キャアアアアッ!!!
ムイの呟きに答えるように怪鳥音が空気を震わせる――開戦の合図――二対の怪物が同時に動き出した。
巨大熊が宙に広げた右手を振るう――魔力の放出――一瞬の内に生み出された無数の衝撃波が空気を破裂させていく。
殺意の察知――少女が右へステップ――巨大熊の左側へ高速で回り込む。
破裂。破裂。破裂。
連続する乾いた音と共に空気が弾け、巻き込まれた地面の雪が宙に舞う。
巨大熊が身体を反転――標的を視界の中央に捉える――一瞬の隙。
ムイはその隙を見逃さなかった――飛翔――“力場”を蹴って怪物の上空へ。
少女の小さな身体がふわりと舞い、巨大熊の頭上を飛び越えた。追撃してくる衝撃波を――さながら舞踏のように――左右にかわしながら巨大熊の背後の地面に降り立つ。
着地の勢いのまま、ムイは頭を下げた――頭上の空気が破裂した――地面すれすれの姿勢のままで突貫。巨大熊の――巨大が故に大きく開いた――両足の間をすり抜けていく。ミズキによる銃撃で傷ついたその右足をさらに斬り付けながら。
巨大熊が怪鳥音を上げながら斬られていない左足の方で地面を揺らし、同時にその周囲の地面が不自然にめりあがった。
ムイは再度“力場”を発生――爆撃のない空中へ。
「――っは」
息を吐く。息を吸う。巨大熊を見下ろす。
短い呼吸の中で再び“眼”に意識を集中――魔力の流れが巨大熊に集まり、そこから伸びた光の道筋が自分の左側へ向けられているのが見えた。
“力場”を蹴り、“力場”で身体を支えた。空中でムイの身体の上下が逆転する。重力などないに等しく見える動きだった。
ムイは地面に向かって跳んだ。その左脇を魔法の牙が襲った。牙は届かなかった。
地面に到達――巨大熊に向かって前転し、落下の勢いを殺すのと同時に標的を自身の刃の射程内へ。
巨大熊の殺意は留まるところを知らない。それが当然のように――本能のように――少女の立つ場所を、地面・空中問わずに爆撃していく。もはやその周囲の地面は白銀の皮膚を剥がされ、醜い土色を露出させていた。
少女の再度の突貫――低姿勢のまま高速で巨大熊の足元へ飛び込む。
――キャアアアアッ!!!
巨大熊の胸元――体内の魔石が今日何度目かの光を放った。怪物と少女の間の地面と空間が破裂した。少女の速すぎる動きを予測しているかのように。
が、ムイは直前のところで急ブレーキ――相手の動きが見えているのは巨大熊だけではなかった。
「いい加減……うるさい」
右へ跳躍するのと同時に、左手の魔剣を投擲した。怪鳥音を遮るように、“力場”による加速を加えられた魔剣はキラリと一瞬だけ陽光を反射させたかと思うと、巨大熊の鼻先へ激突した。
――キャアアアアッ!!!
巨大熊が仰け反る。そしてその巨体はゆっくりと静止し、今度は前のめりに倒れ込んだ。
――やった……?
ほんの僅かな隙だった。一瞬――ムイの動きが減速した一瞬のことだった。巨大熊がその首だけを上げ、少女目掛けて“魔法”を放った。
「――ッ!?」
ムイは咄嗟に空中に飛び、両手を顔の前で十字に交差させた。次の瞬間、衝撃波が少女の身体を後方へ吹き飛ばした。苦し紛れの一撃だったが、確かな重みがあった。相手を殺そうとする確かな重みが。
ムイの身体はハルトとミズキの後方――石造りの塔の壁へ激突することでようやく停止した。幸いなことに意識ははっきりとしていた。直前に魔剣を投げてダメージを与えていたことと、攻撃を空中で受けたことが効いていた。空中で受けたからこそ衝撃を受け流すことができた。
「痛いじゃないっすか……!」
素早く起き上がる。残った一本の魔剣に魔力を流し込み“力場”を形成――ハルトたちの元へと一足で跳躍した。
「ムイ! 大丈夫か!」
駆け寄る二人をちらりと見る。言葉は届いていない――極限の集中状態――ムイの視線は二人の持つ魔剣にピタリと合わせられた。
「ミズキさん、その魔剣って弾を撃つだけなら誰でもできるんすよね?」
ミズキの名を呼びながらも、それは自分自身へ向けたようなものだった。だから彼女の返事を聞くまでもなく、半ば強引にそのドラグノフ狙撃銃を模した銃型魔剣をもぎ取った。
「それからそっちも借りますね」
言いながらムイはおもむろに自身の白色の魔剣を口に咥え、ハルトの持つ深緑の魔剣を左手に取った。
「ちょ、ムイちゃん、どないする気や!」
ミズキの言葉が投げかけられたのは既にムイの背中だった。
ムイは長いポニーテールを翻しながら、口に咥えた魔剣に器用に魔力を流し込んで加速した。視線の先には顔面から血を流しながらも未だ殺意の牙を収めようとしない怪物。両手には60㎝もの長さを誇る魔剣が二本。
――キャアアアアッ!!!
魔石の発光――迫る衝撃波――急停止・急加速。折り重なるようにして放たれる衝撃波の隙間を縫うようにして、左手のドラグノフ狙撃銃で魔力の弾丸を発射する。
魔弾の内の幾つかは巨大熊の“魔法”によって打ち消されたが、しかし同時に数発はその分厚い胴体にめり込んだ。
衝撃波の連続――回避。回避。回避。
一瞬の隙を突いて弾丸を発射――僅かずつだが、しかし確実に巨大熊の体力を奪っていく。
――うん。やっぱりしっくりくる。
直進。急停止。方向転換。衝撃波がすぐ脇を掠める。
誰かが言った。動きが見えないと。まるで悪魔のようだと。だが、今のムイにはそんなことはどうでもいいことだった。
銃弾が命中する度に着実に蓄積されていくダメージに、ムイは一人頷く。急所にでも当てなければダメージを与えられない自分の小型魔剣の投擲よりも、ミズキの銃型魔剣による射撃の方が効果的だ、と。
――そして、
徐々に詰めていた距離――巨大熊の攻撃の間隔が広がっていく――そして次の瞬間、ムイは一気に加速した。右手の狙撃銃を捨てる。片手で持っていたハルトの直剣型の魔剣を両手で持ち直す。
衝撃波をかわす――空中へ跳躍。
――これなら、潰せる。
巨大熊の頭上――刃を下に向けて急降下。
刃が――魔剣が――巨大熊の脳天へと突き立てられた。頭蓋を砕き、脳を貫いたのが、触感として受け取ることができた。
血飛沫が上がる。真っ赤な雨が降り注ぐ。
魔物は――巨大熊は――ゆっくりと、重々しい音を上げながら地面に倒れ込んだ。今度こそ、その巨躯からは抵抗の力が失われたのが分かった。
巨大熊は死んだ。
数秒の間、ムイは何も考えることができなかった。それは周りの人間も同じだった。だが乱れた呼吸が整えられるにつれて、状況を飲み込むことができた。自分たちは勝ったのだと。生き残ったのだと。
ムイはゆっくりと立ち上がった。巨大熊の頭に突き刺さった魔剣を抜いた。再度血が噴き出た。だがその血を浴びずとも、抜いた魔剣も、口に咥えたままの魔剣も深紅に染まっていた。
少女は、自分の身体の中に確かに新たな力を実感した。