白の世界 / 黒
白く、白く――
どこまでも続く空白が、ムイの眼前には横たわっていた。
それは雪原などではない。あるのは文字通りの――空白。
白い世界――実体の認識。ムイはその空間に立っていた。自分の身体の認識はできたが、しかし地面を見ることはできない。それでもしっかりと両足で地面を感覚できている。地面はそこにある。
だが、逆に言えば自分と地面以外のものを認識することはできなかった。強い光の中にいるような感覚――それはあるいは暗闇の中にいるのに等しい。
ムイは一歩、足を踏み出した。地面を感じた。地面の材質までは分からなかった。コンクリートのように固いような気がするが、しかし同時に雪のような柔らかさをも感じた。
さらに一歩、また一歩とゆっくりと歩を進めていく。
どこまでも続く無の世界――ムイは立ち止まり、やれやれと肩を竦ませてみせた。
「天国にしてはやけに殺風景なところっすねぇ」
記憶の追跡――巨大な熊との決闘。
薄れ行く意識の中で狼が巨大熊の首筋に牙を立てたところまでは覚えている。飛び散る血の朱色と地面の雪の白色とがやけに合っていて、とても美しい景色を演出していた。
しかし、それでは――
自分は今、天国にいるのだろうか、とムイは思った。
巨大熊に空中で払われ運悪く頭でも打ったのか、と。死んでしまったのかと。
――いいえ、違いますよ。
しかしどこからともなく聞こえてきた声が、ムイの推測を否定した。
それは優しい女の声だった。どこかで聞いたことがあるような気もするし、初めて耳にするような気もする。ただ一つ言えるのは声の主の姿は見えず、声だけがさながら頭の中に直接響いているようだということだ。
「じゃあ、ここは一体どこなんすか」
特に驚くことも疑問に思うこともなく、ムイが訊き返す。
――ここは、あなたの夢の中です。
「夢、っすか」
ムイは頬を掻いた。そういえば似たような夢をこれまでに見たことがあるような気がする。だがしかし、今のように誰かが話しかけてくるというのは初めてのことのはずだ。
「それで、あなたは誰っすか?」
――私はあなたです。正確にはあなたの一部分とでも言いましょうか。
「や、そういう禅問答とか別にいいっすから。答えだけを教えてもらえないっすかね」
――フフ……。
「何かおかしなことでも?」
――いえ、せっかちだなと思いまして。
「はあ」
――それにとても合理的でもある。
「それは友達にもよく言われますね。で、わたしは答えを教えてもらえるんすかね」
――いいえ、今は話すことはできません。けれど、あなたはすぐに答えに辿り着くでしょう。自分の力でね。
「……まあ、良いっすけどね。知らなくても困りませんし。でもこうして話しかけてきた以上、何か他に用件があるのでは? それともわたしをからかうためにわざわざ声をかけてきたんすか?」
――勿論違います。
「では、なぜ……?」
――私は、あなたに力を授けにきました。
声がそう答えると、不意にムイの見ている景色が切り替わった。
と、いうより、ムイのすぐ目の前にそれが出現した。
「これは――?」
それは、闇だった。
深い深い闇――片手の掌に収まりそうなほど小さく、しかし何よりも強力に黒々とした光を放っている。それが物体なのか、あるいは魔法に関係する類のものなのか、傍から見ただけは理解することができない。あるいはどれだけの英知を極めたとしても、人間には到底理解できるものではないのかもしれない。その闇を見つめているとそんな感覚に駆られた。
しかしながらその漆黒の光は冷たい印象は受けず、むしろ温かく感じた。思わず自然と掴み取ろうとしてしまうほどに。
――気をつけて。
脳内に響く声に、ムイははっと“闇”に伸ばしかけた右手を止めた。
――それは力です。とてもとても強力な力です。
「力……」
――強い力は人を幸福にもするし、不幸にもします。その力を極めた時、世界を覆すことも可能かもしれません。
「そりゃあ、おっかないっすねえ」
言いながら、ムイは“闇”を掴んだ。一切の躊躇なく。何の不安も恐怖もなく。そうするのがさも当然だと言わんばかりに。
――あ! ……まったく。もう少し後先考えて行動した方が良いですよ。
「お気遣いどうも。でも――」
ムイは瞳を閉じた。脳裏にはあの巨大な熊の狂気がこびりついている。そして他の塾生の恐怖に駆られた表情も。彼らと過ごした時間はまだほんの数日であったが、死んでほしくないと思った。
「みんなを助けるには、きっとこの力が必要なんすよ」
不思議だった。
これまでの――魔導戦を始める前の自分ならば、ただたまたま居合わせただけの他の塾生を助けようとは思わなかっただろう。しかし現在、それをしようとしている。修行によって得られる力より、仲間の命を優先しようとしている。そんな自分に気が付いて、ムイは心底驚いた。
きっと自分がここまで甘くなったのは、親友のせいだとも思った。
同時に不思議だったのは、“闇”を掴んだ右手の感覚だ。
“闇”はムイの小さな掌の中で弾けるわけでも暴れるわけでもなく、ただ静かにその姿を消した。熱くも冷たくもなく、自然に身体の中に溶け込むような感覚だった。
“闇”は――力は、溶け、浸透した。全身の至る部分、指先から髪の毛の先まで、これまで感じたこともないような“力”を感覚できた。
それは攻撃的ではなく、むしろその漆黒の容姿からは想像できないほど優しい気分にさせられた。それは現在脳内に響いている声に似た印象だった。
透明で広く、美しい。
星々が輝き、どこか儚い冬の夜空に似ていた。
再び脳内に声が聞こえた。
――これであなたは力を手に入れました。それをどう使うかはあなた次第です。
「毒にも薬にもなるってやつっすか」
――ええ。願わくばそれは大切な人のために使って下さい。
「分かりました、覚えておきます」
――本当ですか?
「わたしって、記憶力だけは良いんすよ。だから大丈夫」
――そうですか……いえ、きっとあなたなら大丈夫でしょう。
女がそう言った。ムイは言われるまでもなく、そう信じていた。
ムイは握っていた手を開くと、前を見据えた。白い空間に光が差し込んだ。そして光の方角へと歩き出した。
「最後に一つだけ。わたしはまたあなたと会えるんすかね?」
――ええ、きっと。あなたが魔導戦を続けていれば、またどこかで会えるでしょう。
「そうっすか。それじゃあ、また会いましょう」
――ええ。
「いってきます」
――いってらっしゃい、ムイ。
女が答え、光が広がった。
ムイは、夢から目覚めた。