アルバイト
「おおい、ムイ、時間だぞ」
階下から聞こえた父親の声で、ムイはノートから顔を上げた。
六畳一間の自室は実に簡素なもので、勉強机と椅子、それから本棚で大きな家具は全てだ。流行りのアイドルのポスターがあるわけでもなく、可愛らしいぬいぐるみがあるわけでもない。
ムイはすっかり凝り固まった身体を解すように背伸びをすると、机の上の時計に目をやった。時刻は午後七時。家に着いてから学校の課題に取りかかったから、裕に二時間は経過していることになる。気が付けば窓の外に夕陽はなく、視線を僅かに上げるだけで見事な星空を目にすることができるようになっていた。同時に書き込んだノートのページも、それなりの厚みを持っている。なかなかの集中力だったと、ムイは自分自身を褒めたくなった。
椅子を引いて立ち上がり、着たままだった制服から私服のジャージに着替えた。そして腰に革製のベルトを巻き付けた。ベルトの左右にはまるで西部劇のガンマンが銃を収納するようなホルスターが備えられている。
部屋を出て階段を降り、洗濯機に脱いだ服を放り込むと、彼女は台所へと向かった。
台所と言っても父親が経営している中華料理店の厨房も兼任している場所であるから、ムイにしてみれば自宅の一部と言うより仕事場という方が近い感覚だ。
台所では父親が窓の外に向かって煙草をふかしていた。中肉中背、空いているのか閉じているのか分からない糸目が特徴で、ムイからしてみれば自分の目がこの父親のものではなく、美人と評判だったらしい母親に似ていて幸いだった。
本来ならば客足の多い時間帯であるはずだが、僅かに見える店内の客は一組だけというありさまだった。しかし人気がないのは今に始まったことではないから、ムイは驚くこともないし経営状況を心配することはない。
「今日のメニューは?」
「炒飯、青椒肉絲、そして特製タンタンメン」
「げえっ、タンタンメン?」
「そう。タンタンメン。絶品のな」
「絶品って作った自分で言う? しかもタンタンメンって、また運びにくいものを……」
言いながらムイは店の名前が書かれたエプロンを身に着ける。出前に行くのにこのエプロン姿は恥ずかしいと何度も言っていたが、店の宣伝に繋がるということで父親は頑として外す許可を出してはくれなかったのだ。
ムイは溜め息をつきながらカウンターに置かれた三品の料理を銀色の岡持ちに入れる。ほぼ毎日やっていることだから実に手慣れた動きだった。
「で、今日の届け先は?」
「いつものところだ。雀荘・国士無双」
「てことは注文したのもいつものおっさんたちか」
「おっさんって……お得意様なんだから失礼のないようにな」
「分かってるー」
ムイは岡持ちを持ち上げ、そして父親の方に振り返った。そんな彼女に父親から二本の短剣が手渡される。
短剣は両方とも白を基調としたもので、長さは30㎝ほど。それぞれ2キロほどの重さだ。剣の柄の部分には、刀身よりもさらに明るい白色の“石”が埋め込まれている。
ムイは左手で岡持ちと短剣の一本を器用に持ち、逆の手ではもう一方の短剣を握る。
そんな彼女の頭の上に、父親はガラス製のコップを置いた。コップには八分ほど水が入れられている。
「いいか、その水を溢したら」
「溢した分だけ減給でしょ、分かってるよ。……まったく、何のためにこんなことするんだか」
と、ムイは肩を竦ませてみせた。
父親は「良いからさっさと行け」と右手をひらひらさせたかと思うと、すぐにまた窓の外を向いて新たな煙草に火を点けるのだった。
父親に文句を言っても仕方がないし、何より自分の小遣いのためだ。
ムイはそう自分に言い聞かせて、店を出た。