雷帝
ムイの脳内にはさらに混乱が広がった。
誘拐犯によって呼び出された場所――それは彼女自身もよく知っている場所だ。
闘技場――森林ステージ。かつて羽柴勇人と刃を交えた始まりの場所。
一体なぜ犯人は自分をこんな場所に呼び出したのだろう。細心の注意を払いながら、ムイはゆっくりと木々の間を進んでいく。
時刻は午後六時五十分――宙には深い暗闇が広がっているが、闘技場内には燦燦と照明灯の灯りが差し込んできていた。ムイはユカが今日闘技場で試合があると言っていたことを思い出した。あるいはこの用意の整った設備はその試合の名残りなのかもしれない。
ムイは左右の魔剣で自分の背丈ほどもあるかと思われる植物を薙ぎ倒しながら、遂に闘技場の中心部分まで辿り着いた。
闘技場中心部――佇む人影が一つ。
人影――その右手には黄色に金の装飾が施されたおそらく魔剣と思われる槍。暗い青のフードを深く被っており、その顔を窺うことはできない。体格は大きくも小さくもなく、男か女かの判断すら難しかった。
フードの人物はそっと照明灯の一つを指さした。
ムイが照明灯を見る。すると照明灯のライトの一部が何かの影で遮られていることに気が付いた。眩しさに目を細めながら照明を見ると、その影が人間によって発生していることが分かった。距離があるためそれが誰か判別することはできない――否、彼女には分かった。その影が親友――ユカだということが、彼女と付き合いの長いムイには理解することができた。
ムイは料理の入った岡持ちを差し出しながら口を開く。
「約束通り、料理は持ってきました。今すぐユカさんを解放して下さい」
「……」
フードの人間――誘拐犯は何も答えない。その代わりにその人物は今度はちょいちょいと地面を指さした。それが岡持ちをその場に置けという指示だと理解したムイは、その指示に従うことにする。
ムイが指示に従ったのを見届けると、誘拐犯が彼女に向けて何かを放った。ムイは魔剣を放すことなく器用にその投げられた物体をキャッチすることに成功する。
誘拐犯が放ったのは白い球体――それも、とても見覚えのある球体だった。
「魔導着……」
ちらりと視線を上げて誘拐犯を見ると、その人物は袖を少し捲り上げた。衣服の下には既に魔導着を装備している状態だった。ムイにしてみればそこまで見せられれば誘拐犯が何を言わんとしているのか理解するのは十分である。
「つまり人質を返して欲しければ魔導戦で勝負しろってことっすか」
誘拐犯は何も言わない。しかしその代わりにその槍型の魔剣をムイに向けて構えた。
ムイがどうするか。どうするべきか。それは考えるまでもない。
彼女はジャージのファスナーを開き、露わになったその白い胸元に球体を押し付けた。球体は弾け、一瞬にして少女の全身を包み込んでいく。
全身を魔導着の防壁が覆うのを感覚すると、ムイは両手の魔剣を構えた。
「後悔しないで下さいね。今のわたしは最高にキレてるんすから」
フードの人間がポケットからコインを取り出す。槍を構えたままそれを片手で軽く弄ぶと、親指に乗せて宙に弾き飛ばした。チンという甲高い音と共にコインが舞い、照明灯からの光を乱反射させる。
そして――コインはゆっくりと地面に落下して、デタラメな方向へ跳ね返った。
開戦の合図――ムイは一気に魔剣に魔力を注入。前方へ跳躍するのと同時に“力場”を全身に発生――圧倒的なまでの加速で突撃。目に見えないほどの速さの斬撃――狙いは敵の胴体。
一閃――消失。ムイの魔剣が空を斬る。体勢を崩す。
ムイの視界から敵の姿が消え失せた。さながら魔法のように。だが、決して相手が姿を消す魔法を使用したわけではない。
ムイは無理に体勢を整えようとはしなかった。代わりにその勢いを殺さずに――“力場”を発生――クルリと空中で前転してみせる。そしてその過程で、敵の姿が目に入った。
敵――魔石は発光していない――最小限の動きでムイの攻撃を回避。身を屈めたまま空中のムイ目掛けて槍を突き出す。
ムイは身体を捻りながら着地。敵を視界に捉える。同時に右へステップ――槍が彼女のいた地点を粉砕した。
フードの人間が地面に突き刺さった槍型魔剣を、土を巻き上げながら引き抜き、土片がムイの顔目掛けて飛ばされた。ムイはそれを魔剣で払いのけるが、しかし完全に防ぎきることはできず彼女の視界――その左半分が奪われた。
だがしかし、ここでムイが動揺することはない。前進する敵に向けて回避行動をとることはなく――逆に突進していった。
全力の“力場”の展開――同時に相手を妨害する“力場”を。
加速の“力場”と減速の“力場”を同時に発生させたムイの魔剣は、これまでにないほどの輝きを発揮していた。それはかつて羽柴優斗と対戦した時のものとは比べ物にならないほどのものだった。
「まあ、“力場”くらいは出せるか」
フードの中から声が聞こえた。それは女の声だった。
誘拐犯――フードの女は減速の“力場”を受け流すようにして身体を回転させ、そしてそのままの勢いで接近するムイを槍で横薙ぎにする。
一瞬の交差――双方の魔剣が鋭い金属音と共に激突し、空中で火花を散らせる。
ムイの突進には加速による威力の上昇があった。が、しかしフードの女はいとも簡単にそれを受け流してしまう。さながら闘牛士のように。
着地――土片で潰された目を拭いながら突進。攻撃を回避されてもフードの女を中心に、闘技場内の木や“力場”を足場にして再度の突撃――ムイはまるで閉所で投げられたスーパーボールのように連続攻撃を仕掛けていく。動きは継続的に加速を続け、そこから繰り出される斬撃もまた鋭さを増していく。
フードの女はその連続攻撃を受け流し続けた。その度に闘技場に金属同士が激突する音が響き渡ったが、しかしそれでもムイが加速と攻撃を止めることはない。
加速――斬撃――加速――斬撃――加速――。
より重く、より鋭く――激突の瞬間に身体を回転させることでさらに威力を増加。
一体何度その過程が繰り返されただろう。ここまで的確すぎるほど無駄のない動きでムイの攻撃をかわし続けてきた、あるいは受け流し続けてきた女の息が、僅かだが乱れ始めた。しかしそれでもムイは攻撃を止めない。止めることなどできない。あるいは世界で最も大切な親友を誘拐した犯人を、彼女は許すことができなかった。
既にムイの体力と魔力は底を尽きかけている。度重なる加速と斬撃の繰り返しは彼女の筋肉や関節に負荷をかけ続け、今にも倒れてしまいそうだった。いや、攻撃を止めた瞬間、身体機能の強制停止が起きてしまうことは確かだった。それを彼女自身が理解していた。それでも攻撃を止めなかった。
「くっ……!」
ムイの攻撃を受け流し切れずに、遂に女が後ずさった。
すかさずムイは最後の力を振り絞ってさらに加速をしていった。もはや自分の身体がどうなっても構わない勢いだ。魔剣と敵との距離は着実に縮まっていた。
「ははっ、ヤッバ……!」
女が呟く――戦いを心底楽しんでいるような、嬉々とした口調。
その次の瞬間、ムイの攻撃の風圧によって女のフードが剥ぎ取られた。露わになったのは声から推測できる通りの女性の顔だった。年齢は三十代前半くらいだろうか。ムイの父親――ショウよりも僅かに若いように見受けられる。
ムイの斬撃が、露わになった女のショートカットの髪の毛を掠める。そこから女は無理矢理身体を捻って槍でその斬撃を受け流した。
間髪入れずにムイは正面に“力場”を展開――そこから反射する形で蹴り、滑空。再度女に斬りかかっていく。
「――ッ!?」
女の魔導着とムイの魔剣との距離が数センチまで迫ったその時――不意にムイは自らに減速の“力場”を向けて急停止した。
それは直観と言っても良いものだったかもしれない。戦闘者としてではない。ムイの生命としての直感が、彼女の身体を後ろに押し戻した。
「へぇ……勘も良いみたいだね」
女がニヤリと笑みを浮かべる。その瞬間、ムイの背筋にはゾクリと鳥肌が立ち、自身の魔力が乱れるのを感じた。
刹那――その周囲を眩い閃光が走った。光は一瞬だけだったが、しかしそこからムイがその正体を推察するには十分すぎる強さだ。
「雷――!」
空中でムイが呟く。
女の周りでは未だにパチパチと音を立てて僅かな光が走っている。その様子はさながら身体の周囲に雷雲を纏っているかのようだ。
失速し始めていたムイは、慌てて身体にかける“力場”を再発動させる。最大速度に至るまでそう時間はかからないだろう。が、その一瞬の隙を敵の女は見逃さなかった。
女が槍型魔剣をムイに向け、ほんの少し魔力を流した。
火花――閃光――バチバチと音を立てながら女の周囲に雷が走った。雷は集合し、その大きさを増していく。そして一瞬にして、女の頭の上に無数の雷撃の刃を発現させていた。その威力は一見しただけで、ほんの一撃でも直撃してしまえば敗北に繋がるものだということは明らかだ。
――雷帝の気まぐれ。
女の唇が僅かに動きをみせる。そして槍をムイの方へゆっくりと伸ばした。
無数の電撃がムイ目掛けて発射された。
かつて羽柴優斗と対戦した際、無数の水球に追われたことがある。が、現在相手にしている女の雷撃は、水球とは比べ物にならないほどの速さだった。それはあるいは光にも匹敵するかもしれない。
ムイは空中でその光景を見た。さながら雷撃の雨が横殴りに降り注いでくるかのような光景だ。綺麗だとも思った。だが、あれに直撃してはならない。しかし今さら跳躍の方向を大きく変更することはできなかった。それほどまでに彼女の突進は加速されているし、雷撃は鋭いものだ。
雷撃との正面衝突――激しい光が辺りを包み込む。
「ちょっと本気出しすぎちゃったかしら」
女が呟く。
「トラウマになっていなければ良いんだけど……」
やがて光の霧が少しずつ晴れてきた。女が目をこらす。その刹那――彼女はこれまでにないほどの殺気を背後に感じて勢いよく振り返った。
「なっ……!?」
そこにはムイが未だにパチパチと電撃の余波を受けながら魔剣を向けて迫っていた。女は反射的に槍を振るって防御する。
空中で再度両者の魔剣が激突した。しかし、そのことで発生した金属音はこれまでのものとは異なり、とても弱く鈍いものだった。
女の槍撃によって僅かに弾かれたムイの身体は、ふらふらと後退する。もはや立っているのがやっとのことで、その意識は既にほとんどない状態だ。しかしそれでもその双眼はしっかりと女を見据え、魔剣を降ろすことはない。
「私の雷撃を受けたのに、一体どうやって……?」
女は疑問に思った。
彼女は自分の技の威力を誰よりも理解している。確かにムイに向けたのは手加減に手加減を加えた隙だらけのものだったが、それでもあれを回避しきるのは不可能だ。一撃ならば分からないが二撃も命中すれば魔導着の耐久値を削り切るには十分な威力を秘めている。しかし現在のムイの状態を見るからに、おそらく命中したのは一発だけだろう。だがそれが理解できなかった。あの距離、あの速度での接近ならば、二撃と言わずに十発ほどは命中していてもおかしくはなかったはずだ。だが、ムイは確かにそこに立っている。彼女の魔導着を辛うじてではあるが耐久値を残している。
――一体、なぜ……?
再度おぼつかない足取りで接近してくるムイを子供をあやすように払いのけながら、女はムイが先程までいた位置――つまり雷帝の気まぐれを受けた位置を見直した。
「なあるほど」
女がニヤリと笑みを浮かべて頷いた。その場を一見しただけでムイが自分の攻撃をどのように防いだのか理解するには十分だった。
ムイが攻撃を受けた位置――その地点の地面が、不自然にめりあがっていた。
ムイがどのようにして女の雷撃を防いだのかは簡単なことだった。彼女が無数の雷撃を目にした時、攻撃の目標を女から地面へと変えたのだ。彼女の全加速、全体重を乗せた一撃はいとも容易く地面を抉り、瞬時に空中に無数の土片を撒き散らした。
雷撃は土片へ――簡易的な防壁の形成。そのほとんどの威力は損なわれ、ムイに届いたのはほんの僅かだった。
「まったく大した才能だわ。瞬時にそこまで思い付くなんてね」
女が髪の毛を掻き上げながら、興奮を隠しきれない口調で呟いた。久方ぶりに自分の背筋に鳥肌が走っていることに気が付いた。無意識に口角が上がっているのに気が付いた。
「流石は先輩の娘さんだなぁ」
しかしその呟きはもはやムイには届いていない。だがそれでもムイは前進を止めない。まるで何かに操られているように、彼女の魔剣は真っ直ぐに女を捉え続けている。
それを見て女はやれやれと言わんばかりに肩を竦ませてみせた。
「頑固なところも先輩譲り、か」
次の瞬間――ムイの視界から女が消えた。
そしてバチンッ、とまた強い衝撃がムイの細い首筋に走った。それはスタンガン程度のほんの僅かな雷撃だった。しかし、塵に等しいほどしか残されていなかったムイの魔導着耐久値を削り切り、彼女の意識を完全に奪うのには十分すぎるものだった。
ゆっくりと倒れるムイの身体を女が支える。そして耳元でそっと呟いた。
「今はゆっくり休みなさい。目が覚めたらきっと……」
そこから先を、ムイが聞き取ることはできなかった。