誘拐
珍しく店の入り口には鍵が掛かっていた。扉には「本日の営業は臨時休業とさせていただきます」と張り紙がしてある。
彼女の自宅と店は繋がっており、店の入り口とは反対の裏口が自宅の玄関と言える造りとなっていた。だがムイは店の方の扉から出入りすることが多かった。店の混み具合も分かるし、何より僅かに道路に近いからだ。しかし鍵がかかっていればそうもいくまい。仕方なくムイは裏口へと回る。
「ただいまー」
と言いながらリビングに顔を出す。店が休みならば彼女の父親はそこにいると思ったからだ。しかし、その目論見は外れることになった。
リビングにムイの父親――ショウの姿はなかった。それどころか家中探しても彼はいなかった。
どこかに出かけているのだろうかと考えつつ、ムイは時計を確認した。時刻は午後五時。食事の約束は七時半からだからまだ余裕はある。
差し当たり彼女は自室に戻り、ジャージばかりの私服の中から食事に着ていく服を選ぶことにした。ムイ自身はどんな店に入るとしてもジャージ姿で一向に構わないのだが、父親や食事相手が気にするだろうと判断したからだ。
部屋に入りスクールバッグを机の上に放ると、ムイはクローゼットを開いた。ジャージを除けば彼女の私服はほとんどないと言っても過言ではない。辛うじて残るのは以前ユカとショッピングに行った時に選んでもらった服くらいだった。ヒラヒラしたスカートで、ムイ自身はこういった服を嫌っていたのだがユカに勧められて購入したものだ。
服をベッドの上に広げる。何も今から着替える必要もないと判断したムイは、とりあえず制服からジャージに着替えることにした。彼女はどんな服よりもジャージが好きだった。むしろジャージに拘っていると言えるくらいで、同じようで微妙に細部の異なるジャージを何着も持っている。
そしてムイは、さしあたり時間まで学校の課題でもしていようと机に向かうのだった。
ムイが集中状態から解き放たれたのは時計の針が七時を回った辺りだった。家の電話が鳴り、その音が彼女を現実に引き戻した。
父親がいなかったことを思い出したムイは渋々立ち上がり、電話のある一階に向かった。そして店と共有している電話の元に着くと、
「はい、霧野中華店です。申し訳ありませんが本日の営業は臨時休業となっておりますが、」
《晴海由佳は預かった》
勉強で疲弊していた頭脳が、一気に集中力を取り戻した。全神経が受話器が添えられている右耳に集中させられる。
――晴海由佳は預かった。
その言葉の意味を理解するのに数秒を要したが、しかしすぐに冷静さを取り戻す。
「何者っすか」
《なに、ちょっとした誘拐犯さ》
それは明らかに改竄された電子音であり、男か女かさえ分からないようになっていた。
「誘拐って、イタズラじゃあ済まされませんよ」
《イタズラだと思うかい?》
「……」
答えはノーだった。
仮にその電話がムイに対してのイタズラの意を含んだ電話だとするなら、誘拐する相手は彼女の父親に設定するだろう。それを家族でもないユカをとなれば、相手が事前にムイやその周囲について調査しているのは明らかだった。
「それで、要求は何すか。まさかいたいけな中学生に何千万なんて大金を要求するつもりじゃあ、ないっすよね?」
《話が早いじゃないか。要求は簡単だ。今君のお父さんが外出中だね?》
「……ええ、まあ」
――監視カメラ? 盗聴器? いや、事前に外出の予定も調べられていたのか?
ムイは僅かに視線を周囲に向けながら考える。
《店の冷蔵庫に作り置きしてある料理が入っている。それを温めて次の住所に持ってきたまえ》
「はあ」
――料理を? 何が狙いだ……?
《いつもやっている出前と同じことだ。簡単だろう?》
「で、どちらまでお運びしましょう」
誘拐犯が住所を答える。ムイはそれを素早くメモを取った。これも店の手伝いで慣れていることだ。
住所は店からそう離れてはいなかった。とはいえ普通に行ったのでは一時間、魔剣を使って加速したとしても三十分はかかるかもしれない位置だ。
「分かりました、すぐに持っていきます。ですがその前に、あなたがユカさんを誘拐した証拠が欲しいっす。彼女の声を聞かせてください」
《良いだろう》
そして電話を代わる雑音が挟まれた後、
《ムイ?》
「ユカさんですか! 大丈夫ですか? 怪我は……?」
《私は大丈夫、無事よ。それよりごめんね、こんなことに巻き込んじゃって》
「いえ、それこそあなたが気にすることじゃないっすよ。でも、犯人の狙いは……?」
《良い? ムイ、よく聞いて。誘拐犯の狙いは、》
そこでまた雑音が入った。何か物と物がぶつかる音、悲鳴のような声――すぐにそれがユカと犯人がもみ合っている音だと分かった。
「もしもし? ユカさん……? ユカさん!」
《安心しろ、彼女は無事だ》
再度の電子音――誘拐犯の声だった。
《七時までに指定した場所に食事を持ってくるんだな。もし間に合わなかった時は、お前の親友が痛い目に遭うことになるぞ……こんな風にな!》
そして次の瞬間、甲高い悲鳴が電話越しに響いた。間違いない、それはユカの声だった。
《親友を助けたいなら、さっさと料理を持ってくるんだな。それと、くれぐれも警察に通報しないことだな。もしこの忠告を破るなら、親友は二度と戻らないと思え》
「あ、ちょっと」
ムイの制止も虚しく、電話はガチャリと切られた。
ムイは脱力したようにゆっくりと受話器を置いた。
ユカが誘拐された。犯人の目的は料理……?
様々な考えが一瞬にしてムイの脳裏を過っては消えていく。確かなことはこのまま黙っていても何も解決しないということだけだった。
ムイは駆け出した。大急ぎで厨房に飛び込み、冷蔵庫を開ける。するとそこには誘拐犯の言っていた通り、おそらく父親が作り置きしたであろう青椒肉絲が入っていた。ムイはそれを取り出し、電子レンジに突っ込んでスイッチを押すと、今度は住居の方へ駆け出した。
次にムイが向かったのは自分の部屋だった。そして魔剣を装備するためのホルスター付きベルトを大急ぎで自身の腰に巻き付ける。私服ではなくジャージに着替えて良かったと心底思った。魔導戦の試合用スパイクシューズの入った袋を引っ掴むと、部屋を出た。
そしてまた階段を駆け下りると、今度は父親の部屋へと飛び入った。魔剣を管理しているのは父親だからだ。幸いなことにムイの魔剣は入ってすぐの棚の上に置かれていた。ムイは二本の白い魔剣を鷲掴むと、それをホルスターに差し込み、そしてまた厨房へと駆け出す。
料理が温まるのを待つ間、ムイはスパイクシューズに足を突っ込んだ。そしてきつく、念入りに靴紐を結んだ。
電子レンジが温め完了の鐘を鳴らした。ムイは中の料理を取り出すと、それをいつもの出前に使っている銀色の岡持ちの中に入れた。
左右の魔剣を抜く。岡持ちを持ち上げる。そしてムイは店を飛び出した。
全身を流れる魔力を魔剣に集中させる。魔石が白く発光した。
そしてムイは地面を力強く蹴った。凄まじい加速で彼女は顔を僅かに歪ませる。だが長年出前をやってきた習性だろうか、届け先が誘拐犯だったとしても岡持ちの中の料理は一切崩れることのないように気を遣っていた。
――速く! もっと速く!
さらに放出する魔力を強くする。負荷のかかりやすい手足の関節が悲鳴を上げそうだった。が、今の彼女にそれを気にしている余裕はない。
囚われたユカ――親友を助け出すために、それでもムイは加速を止めない。
今日はこれまでのいつよりも速く走れる気がした。