冬休み
「――と、いうわけで明日から冬休みに入りますが、受験生にとっては最後の踏ん張りどころです。体調に気を付けて、各々受験勉強に励んでください」
学級担任の女性教師が話をまとめると、丁度タイミングよく放課を告げるチャイムが鳴った。
受験前の教室には常にどんよりとした、あるいはピリピリとした緊張の空気が流れるものだが、このチャイムが鳴っている時だけはそんな雰囲気も僅かに弛緩する。学級委員長の「きりーつ」という間延びした合図と同時に教室内の生徒たちが一斉に立ち上がり始めた。そしてそのガタガタとした物音で、霧野夢衣は慌てて目を覚ました。かろうじて夢の世界から戻ってきた僅かな意識で何とか周りに合わせて頭を下げ、しかしそこで動かなくなった。
「おーい、ムイー?」
「……」
「おーい」
「……ぐう」
その反応を見た隣の席の女子生徒は、一つ大きく溜め息をつくと右手で手刀を作り――
「ていっ!」
「ぐふっ」
下げられたままのそのポニーテールの頭に叩き込んだ。手刀を受けたムイは反動で机に額を打ち、その痛みで一瞬にしてはっきりと意識を取り戻した。
額を抑えながら顔を上げたムイが瞳に僅かに涙を浮かべて唇を尖らせながら言った。
「痛いっすよ、ユカさん……」
「寝てるあんたが悪いんでしょ」
「むう……」
「良いから早く帰るわよ」
見るとユカは既に帰り支度を終えているようで、その肩にはスクールバッグが掛けられている。しかしムイの目に停まったのはそのバッグではなく、バッグに重なるような形で提げられている魔剣ケースだった。
ムイは促されるまま自身も帰り支度を始めながら尋ねた。
「あれ? 今日ってクラブの練習ってありましたっけ?」
「ううん」
ユカは首を横に振って、
「監督の方針で受験生はこの時期の練習参加が禁止されてるからね。練習はないよ」
「じゃあどうして魔剣なんて持ってるんです?」
「ふふん。聞いたね? 聞いちゃったね?」
そんなユカの反応を見て、ムイは思わず作業の手を止めた。そして「しまった……」と言わんばかりに苦笑いを浮かべる。
「あー、えっと、その話って長くなります?」
「逆にあんたは短く済むと思ってるの?」
「ですよねー」
にっこりと純粋極まりない笑みを浮かべるユカに、ムイは後悔先に立たずという言葉を実感した。この親友に魔導戦関連の話を振ってはいけないということを、彼女はようやく思い出したが時すでに遅しだった。
「語っちゃうよー、私。語っちゃうよー」
「せめて帰りながらでお願いします……」
得意げに前置きするユカに対してムイはそう告げると、力なく立ち上がった。
シルバーウィーク。親友であるところのユカに半ば巻き込まれる形で魔導戦を始めたムイだったが、それ以降――冬休み前日となる本日に至るまで新たに試合に臨むということはなかった。たった一週間で全国区で活躍する数々の強豪選手たちを打ち破ってきたのだから、当然新たな試合の申し込みも多々あったのだが、ムイはそれを頑として断り続けた。
さらに言うと彼女が知らず知らずのうちに加入させられていたクラブチーム“シルバー・スターズ”の練習にも参加することはなかった。その件についてユカに責められることがなかったわけではないが、しかし監督である丸岡が無理に参加する必要がないと明言したためムイの練習参加の義務はもはやないも同然だった。
しかしそれでも毎日の出前や新聞配達がなくなったわけではなく、つまりシルバーウィーク以前の生活と大差ない生活を、現在のムイは送っていた。
そんなことを一人回想していると、ユカの話はようやく一段落ついたようだった。
「――つまり! これは滅多にないチャンスってわけよ!」
「はあ……」
と、ムイは生返事をする。
ユカの話がまとめられる頃には、二人は既にアーケード商店街の出口に差し掛かっていた。彼女の話の全てを理解することはムイにはできなかったが、それでも何とか聞き取れた情報をまとめるとこうなる。
魔導戦のプロリーグ。その中でもトップクラスと言われる「A級リーグ」の試合は普段ならば東京や大阪を始めとする大都市で行われている。しかし今日の試合に限って言えばその例外にあたった。
本来A級選手同士の試合に使われるはずだった闘技場が、緊急のメンテナンスのために使用不可となったのだ。そこで白羽の矢が立ったのが、ムイたちの住む町の闘技場だった。
地元の闘技場でA級同士の戦いが見られるというのは過去に全くないことで、それ故にユカにとっては興奮を隠せない事態というわけだった。
「本当ならチケットがなきゃ入れないんだけど、当日券も発効されるらしいからね。頑張って並ぶつもり」
「それで、そのプロの試合とユカさんが魔剣を持っていることに何の関係が?」
「あんたは相変わらず鈍いわねぇ……」
ユカは肩にかけてあった魔剣ケースを抱えるように前に持ってきて、
「サインをもらうに決まってるじゃない!」
と、堂々と言ってのけた。ムイは頬を掻きながら答える。
「そんなに簡単に貰えるものなんすか、サインなんて」
「多分大丈夫だと思うわよ。今日来るプロって結構ファンサービスの良い人だし、絶対にチャンスはあるわ!」
「はあ。まあ、頑張って下さい」
そう言ってすたすたと先に歩いて行こうとするムイの肩を、ユカががっしりと掴まえた。その先で何を言われるのか分かっていたムイが恐る恐る振り返ると、そこには予想通り、満面の笑みを浮かべた親友の顔があった。
「えっと、ユカさん……?」
「ふっふっふ……ムイ、あんた今晩暇でしょ?」
「いや! 暇じゃないっす! 超忙しいっす!」
「忙しいって、どうせまた出前があるとか言うんでしょう。大丈夫よ。試合が始まるのは六時からだから、仕事には間に合うわ。だから、ね? 一緒に見に行こ?」
ずい、と迫るユカの顔に、ムイはしかめっ面を返した。
仕事以外で家から出たくない、ただでさえ寒くなってきているのに、というのが彼女の本音だ。しかしそんな言い訳が通じないということは、既に三年近い付き合いがあるから確信できた。
で、あるならば諦めてユカと共に試合観戦に行くのかと言えばそれも違う。今日のムイにはそれを断るだけの大義名分があったのだった。
「今日は珍しくうちのクソ親父が外食に連れて行ってくれるらしいんすよ。何でも高校時代の友人と食事をするらしくて」
「へぇ……それってもしかして女の人?」
「そうらしいっすね」
「あちゃあ……」
と、分かりやすくユカが頭を抱えてみせた。
「そりゃあ、そっちを優先した方が良いね。もしかしたらもしかするかもしれないし」
「うちの父親に限ってまさかとは思いますけどね」
ユカはムイの母親が既に他界していることを聞かされていた。これまでシングルファーザーとして一人娘を育ててきたわけだが、それが女性と一緒に食事となると、
「この人が新しいお母さんだってか」
ということは想像するに難くなかった。
「で、もしそうなったらあんたはどうすんのよ」
「さあ?」
「さあって、ちゃんと考えた方が良いんじゃ……」
「そうは言っても今まで母親なんていなかったわけですし、突然言われてもよく分かりませんよ」
「お父さんが取られちゃう! 的な感情はないわけ?」
「そっちは別にないっすね。私ってファザコンってわけでもないですし、勝手にしてくれって感じっす」
「あ、そう……」
それを聞いたユカは少しだけムイの父親が気の毒に思えた。一生懸命ここまで育ててきた娘がここまでドライだと知ったらきっと傷つくだろう。
「まあ、そういうわけで、今日のところはユカさんに付き合うことはできなそうです」
「ああ、うん。仕方ないよね。また今度誘うわ」
「はい」
そんなやり取りをしていると分かれ道に差し掛かっていた。
「それじゃあ、また明日ね、ムイ」
「はい、ユカさん」
明日から冬休みでまた会うとは限らないが、ついついそんな挨拶を交わして、二人は別れた。