もう一つの“力場”
――暗い。痛い。寒い。
薄れ行く意識の中、ムイにあったのはただそれだけだった。ただそれだけが残っていて、もはや身体を動かすこともままならない。
――もうヤダ。疲れた。辞めたい。
身体はゆっくりと川底に沈んでいく。ありとあらゆる負の感情が、まるで彼女の足を掴んで引き込んでいくようだった。
――水中……水。水を操る。
――近接戦闘。
――“力場”。
――機動力。奇襲……は、通じないか。
それは不思議な状態だった。
ムイは絶望の淵に立たされていた。もはや川底から浮き上がる力も残されていないかもしれない。普通ならパニックになっていてもおかしくはないその状況下で、彼女は冷静だった。絶望に満ちた、怨嗟にも似た言葉を内心呟きながら、しかし彼女の理性は対戦相手――羽柴優斗にいかに勝利するか、その方法をただひたすらに模索していた。
――残されているもの。
――機動力。
――“力場”。
“力場”の発生――それはムイが長い年月をかけて磨いてきた技術だった。魔法と呼べる代物でもないらしい。だが、確かにそれは彼女自身の能力だったし、何より唯一と言っても良い特技であり、武器だ。
そして一つの記憶が蘇る。幼い頃――出前から帰った時の記憶。
「お父さん! 今日、わたしすごいことを発見しちゃった!」
「すごいこと?」
「うん! わたし、魔法は使えないけど、魔力で背中を押せば早く走れるよ!」
「ふぅん」
「ふぅんって……もっと何かリアクションないの?」
「それくらい、できて当たり前なんだよ。俺だってできる」
「なあんだ……」
「じゃあ次は“力場”を関節に集中させてみろ。コントロールは難しいがもっと速く走れるし、何より疲れなくなるぞ」
「難しそう……」
「まあ、やってみな。それができたら、“力場”のもう一段階上の使い方を教えてやる」
――もう一つの“力場”?
ゴホッ……と、水中で息を吐いた。同時に口内に勢いよく流れ込んでくる水を、慌てて遮断する。そして残された一本の魔剣を握る手に力を入れ、僅かにスポットライトの灯りが入り込む水面に向けて水底を蹴った。
どうしてあの記憶が、と考えるよりも先に、勝利への方程式をはじき出そうとしていたのが、自分でも不思議だった。
水面に到達――魔剣に魔力を流し、空中に飛んだ。そして氷山の裾にふわりと着地してみせる。
荒れている息を整えながら、流氷の上の羽柴優斗を視界に捉えた。相手との距離からみて自分が意識を失っていた時間は一分にも満たないということを認識して、ムイは驚いた。
「あれだけの攻撃を受けてまだ意識を保っているとは、驚いたよ」
「いやいや、驚いたのはこっちっすよ。まったく、女の子相手でも容赦ないんすから」
「君は女の子である以前に魔導戦の選手だ。違うかい?」
違う、と数日前のムイなら即答していただろう。だが、今の彼女は違った。
羽柴勇人と戦った。
風間実と戦った。
雨宮彼方と戦った。
そして――
晴海由佳と約束した。
ムイはユウトに言われた「君は魔導戦が好きなんじゃないか?」という言葉を思い出した。そして内心肯定し、思わず笑みを浮かべてしまった。
そしてゆっくりと腕を組むと、
「ふっふっふ……ハァーッハッハッハ!」
「何を笑っている……?」
「知らないんすか? 腕を組んでの高笑いは、正義の味方が勝利する時の決めポーズなんすよ?」
「……」
ユウトは怪訝そうな表情を浮かべながら、ムイと同じ土俵――氷山の麓に降り立った。
彼からすれば対戦相手であるムイがそういった態度をとるのには、必ず理由があると確信していた。これまで戦ってきたどんな選手よりも侮れない相手だ。
「確実に勝つ」
そう言い放つと、ユウトの魔剣にはめ込まれた魔石がにわかに光を放った。そして彼の周囲――中空に水の球体が発現した。その個数、およそ十個。
それだけならば、普段のムイなら脅威ではなかったのだが、現状の彼女の魔導着は既にダメージを受けているし、何より彼女自身の負担もかなり蓄積されている。その攻撃を受けるわけにはいかなかない。ある意味、接近戦に持ち込まれるよりもピンチだろう。
だが、それでも、ムイの表情には笑みが絶えることはなかった。確信があった。自分が勝利するという、確信があったのだ。
ユウトが魔剣を振るう。複数の水球が、一斉にムイ目掛けて発射された。
回避行動に移るかと思われたムイ――だがしかし、実際は違った。
彼女がとった行動は前進すること。すなわち、高速で襲い掛かってくる水球の弾幕の中に飛び込むことだった。
そしてムイは跳んだ。
残された片翼の魔剣に、精一杯の魔力を流し込む。
魔石の発光――“力場”の発生。迫りくる水球を紙一重でかわし、次弾の上に、丁度沿わせる形で発生したその魔力の塊を蹴って、さらに加速。さながら水球の上を走っているかのような光景。
水球を三つほど潜り抜けると、ついにユウトの懐に飛び込んだ。迎撃すべしと振るわれた魔剣に、ムイも自身の魔剣を合わせる。
鋭い金属音が鳴り響き、剣を持つムイの両手に衝撃が走った。
一度離れ、再度の激突――加速されていない分、僅かにムイが押されている。それはつい先程、ユウトに接近戦で劣勢に追い込まれ、川へと突き落とされた時の焼きなおしのような光景だった。このままいけば、まず間違いなくムイは相手の剣技の前に敗れ去ってしまうだろう。
だがしかし、今回のムイは前とは明らかに違った。彼女の脳内には戦略があった。
鍔迫り合いの中、ムイは呟く。
「もう一つの“力場”……!」
剣を合わせたまま、魔力を注入――“力場”の発生。
だが、そうして空中に放出された“力場”は、普段彼女が加速に用いているものとは大きく異なるものだった。
「これは……!?」
再度剣を振り下ろそうとしていたハヤトの表情が明らかに変化する。それは常に冷静だった彼が初めて見せた動揺だった。
ムイが形成した“力場”。だが、それは彼女の身体ではなく、対戦相手――羽柴優斗の手足に触れていたのだ。
それはほんの僅かだった。ほんの僅かな抵抗。だが、ユウトの動きを止めるにはそれで十分だった。
グラリ、と彼は体勢を崩した。彼が感じた力は本当に小さなものだったが、その辺りどころが非常に悪かった。ムイが発生させた“力場”は的確にユウトの体軸を揺さぶるものだったのだ。
もう一つの“力場”――それはすなわち、相手の動きを遮る“力場”。
それは自分の身体の動きを加速させるのよりも、はるかに難度の高い技術だった。
ムイが発生させる“力場”は、本来ならばとても小さな力しか持たない。ところが彼女の場合はそれを連続で段階的に発生させている。だからこそ常人離れした加速が可能だった。
だが、相手の動きを遮る場合はこうはいかない。
自分以外の人間の動きに干渉する際、段階的に連続で“力場”を発生させることはできない。つまり単発で目的を達成させなければならないわけだが、それには針穴に糸を通すような精密な魔力のコントロールが必要なのだ。
しかしそれこそがまさに、現在ムイがやってのけた技だった。
「いっけえェェエエ!」
一瞬の――ほんの一瞬の隙だった。
ムイは大きく空いたユウトの上体向けて魔剣の切っ先を向け、突撃していく。たった一太刀でも浴びせることができれば、その時点で彼女の勝利なのだ。もはや迷うまでも、考えるまでもない。ただひたすらに、貪欲に勝利を求めるように、その栄光を掴もうとするかのように、精一杯右手を伸ばした。
しかし、その刹那――
「クゥッ……!?」
再び、彼女の脇腹に衝撃が走った。先程拳を打ち込まれた時と同じか、あるいはそれ以上の衝撃だ。当然その攻撃に対して備えているわけもなく、ムイの小さな身体はいとも簡単に真横に吹っ飛ばされ、流氷の上に叩き付けられる。そしてその拍子に、残った一本の魔剣さえも急流の中に飲み込まれてしまった。
「そんな……」
苦痛に顔を歪ませながら、彼女は呟いた。
ムイの攻撃を阻害したのは言うまでもなくユウトの放った魔法だった。体勢を崩された彼ではあったが、飛び込んでくるムイを見て咄嗟に左右に薙ぐ形で水球を発射したのだ。
あと一センチだった。もしもムイの魔剣か彼女の腕があと一センチ長かったら、あるいはその出だしがほんの僅かに早かったら、ユウトの反応が一秒でも遅れていたら、その瞬間に彼女の勝利は確定していただろう。
「ギリギリだった。今のは俺の素晴らしい反射神経……と、言いたいところだが、実は違う」
魔剣を全て失ったムイなど、もはや恐れる必要がない。ユウトはゆっくりと彼女が横たわる流氷に飛びながら言った。
「初めて君が戦っているのを見た時――正確には、君が魔力を固めた“力場”を利用していると知った時、この考えは既にあった」
ムイの元に歩み寄る。そして魔剣の切っ先を彼女の鼻頭のほんの少し手前でピタリと停止させた。
「“力場”を利用して自分の動きを強化・加速させることができるのなら、その逆で相手の動きを阻害することも可能なのではないか、と。問題はそのタイミングだったが……やれやれ、何とか回避することができた」
絶体絶命だった。魔剣を失ったムイには、もはや戦う術は残されていないように思われた。
「だが、霧野夢衣、俺は君と戦えたことを本当に誇りに思っているよ。まさに最後の相手に相応しい」
「最後……?」
ムイが聞き返し、ユウトが頷く。当然、魔剣はムイの眼前に向けられたままだ。
「風間の一件があったからと言うわけではないが、俺も魔導戦は引退しようと思っているのさ」
「どうしてまた……あなたほどの選手ならプロとか大学生の大会とか、魔導戦を続ける舞台はいくらでもあるんじゃないんすか?」
羽柴優斗――全国高校生魔導戦選手権ベスト4。それだけの実力があるのなら引く手数多だろうということは、魔導戦に関して全くの素人と言っても過言ではないムイからしても予測できる範囲だった。
ユウトはおもむろに首を横に振りながら答える。
「いいや……そもそも俺には魔導戦の才能がないのさ。弟や君とは違ってね」
「でも、全国の高校生で四番目に強いんでしょう?」
「逆に言えばそれが限界ということだよ。今年の全国大会――その準決勝で戦った相手に、正直俺は戦慄してしまった。絶対に勝てないと思った」
「……」
絶対に勝てないかどうか、それはやってみなければ分からないじゃないか、と反論しようとして止めた。ユウトほどの分析能力があれば戦う前からある程度の推測ができるのだろうし、現に彼は敗れていると思ったからだ。その試合を直接目にしたわけではないが、当人が勝てないと言うからにはそうなのだろう。
「だが、君ならあるいは……」
言いかけて、今度はユウトが言葉を飲み込んだ。
「こんな想像に、意味はないかもしれないな」
「そうっすね。人がどうなるかは結果論でしか語れないっすから」
「……まったくだ」
ユウトが剣を振りかぶる。キラリと彼の青い魔剣がスポットライトを反射させた。
彼は勝利を確信した。あるいはこの試合を見ていた誰もが、彼の勝利を確信しただろう。中には敗者にどう声をかけようか考えている人間もいるかもしれない、お前はよくやった、と。
だが、そんな中――ただ一人だけは、全く異なる思考を持った人間がいた。
――加速の“力場”。
――減速の“力場”。
それは勝利への方程式。全くの偶然から生まれた、ただ一つの突破口。
ムイは、神様の存在を信じたくなった。
「これで……決着だ!」
ユウトが勢いよく魔剣を振り下ろす。
その瞬間、彼はその剣の軌道に確かな違和感を抱いた。
宙を鋭く斬った魔剣は、ほんの僅かに逸れ、そしてムイの頬の脇をすり抜け、氷塊に突き刺さった。
「なッ……」
弾ける氷の粒に思わず片方の目を閉じながら、同時に、ムイは最後の力を振り絞る。その右手にはあるはずのない武器――魔剣が握られていた。
それは最初の接近戦の際に弾き飛ばされたはずの魔剣だった。流氷に突き刺さった魔剣がそのまま川を流れ、再びムイの手元に戻ったのだ。
偶然――ムイにとっては天使の口付けに等しく、ユウトからすればまさに悪魔の罠と言える現象だった。ムイが吹き飛ばされた先の氷塊に、その魔剣があったのだから。
さながらボクサーの放つクロスカウンターパンチのような、鋭く、かわしようのない一撃が、ユウト目掛けて発射された。相手の太刀筋を逸らし、かつ自分の動きを加速させて放たれた斬撃だった。
「何ィ……!?」
これにはユウトも驚きを隠せなかった。
一瞬がまるで数分にも思えた。
あり得ないところから、あり得ない攻撃が飛んできたのだから当然だ。ユウトからすればムイがその背後から突然三本目の魔剣を取り出したように見えただろう。
ゆっくりと両者の魔剣が交差した。
そして――
ムイの放った最後の斬撃は、ユウトの左腕を確かに捉えていた。
魔剣で直接攻撃されたものは敗けとなる。
「人がどうなっていくのかは分からないっすけど、それでもわたしは――」
――強くなりたい。これからも魔導戦を続けるために。勝つために。
その瞬間、ムイの勝利が確定した。
羽柴優斗。
レッド・フェニックス所属。
得意魔法「水魔法」
パワー……B スピード……B スタミナ……B 火力……B 射程距離……B