弱点
観客席には異様な光景が広がっていた。その経験したこともないような熱気と緊張感に、客席の一つに腰かけていたユカは思わず息を呑んだ。
まずおかしな点はその人数だ。五万人以上も収容できるというその闘技場の、およそ十分の一ほどの席が埋まっている。
これが公式戦ならば往々にしてあり得る話なのだが、しかしムイとユウトの試合は急遽決まった、言うならば野試合のようなものである。ユウトに注目が集まるのは分かるが、その対戦相手であるムイは無名も良い所で、到底五千人もの観客を集められるはずがなかった。
そしてその人数を構成している団体もまた、異常なものだった。
観客席に集まったのはまず羽柴優斗の所属する“レッド・フェニックス”のメンバー。赤のシャツで統一された彼らの人数は、流石は関東随一の名門クラブチームなだけはあって、数百人にも及び、観客席内でも一、二を争う規模である。
続いて多いのは緑色のシャツに身を包んだ集団だ。こちらも近畿地方では有名な魔導戦クラブ“風間塾”の面々だった。風間実が羽柴優斗の友人で、そして彼自身もムイに敗れたという因縁を差し引いても、その人数は理解不能なものだった。レッド・フェニックスにも及びそうなほどの人数が集まったのは風間実本人の呼びかけもあってのことだということを、ユカは後から聞くことになる。
そして第三の勢力はユカ自身の所属する“シルバー・スターズ”だった。見ると選手だけではなく、一部ではあるがその保護者までもが応援に駆け付けていた。それでも他の二チームには及ばないのだから強豪チームは底が知れないとユカは思った。
他にもどこのチームとも関係のない一般人もいくらか混ざっていた。が、その正体はユカにしてみれば何となく想像がついた。やたらとカメラを回したり写真を撮ったり、あるいはひっきりなしに何かをメモしている人間たち――そんなことをする人間の正体は予想がついて当たり前だった。
羽柴優斗を狙ったプロのスカウト。もしくは羽柴勇人と風間実、それから名前は公表されてはいないがスカル・スネイクスの強豪選手を破ったと、瞬く間に噂の中心へと踊り出たムイを偵察しに来た強豪高校の関係者だろう。
たかが練習試合にしては明らかにおかしな光景だ。全国高校生魔導戦選手権予選である地区大会だって、これより人の入りが少ないことはざらにある。
「――で、ただでさえこんな異常空間なのに、どうしてあなたたちまでいるんです?」
ユカが溜め息混じりに自分の左右に座る人物たちに投げかける。
「良いじゃねえか。細けえことを気にしてんじゃねえよ」
と、羽柴勇人。落ち着きなく足を揺すりながら。
「僕たちは魔導戦には詳しいけれど、霧野夢衣さんに関しては君の方が専門家だからね。色々と話を聞きたいのさ」
と、風間実。じっくりと観察するつもりか、足を組みながら。
「専門家って……」
溜め息混じりに、ユカが答えた。
「私だって、キリノの全てを知っているわけじゃ……」
ない。自分はキリノのことを、何も知らない。知っているつもりをしているだけだったのではないか、とユカは思い至った。
例えば、ムイが魔法の訓練をしていることを知らなかった。
例えば、ムイが魔導戦においてあれだけの才覚を示すなどということを、知らなかった。
知らなかった。何も。
そう思うと、ユカはやはりどこか寂しさを感じざるを得なかった。何でも知っているつもりだった親友の、あるいはもっとも大切な部分を、自分は何一つ知らなかったのではないだろうか、と。
「そうか」
ミノルは頷きながら、
「君ならば、彼女の隠された能力について何か知っているんじゃないかって思ったんだけどね」
隠された能力――封印された術式。
ムイの父親――霧野将は、かつてユカにそのことを尋ねられた時、あくまでムイの魔力のコントロール精度を高めるためだと答えた。だが、それだけが答えでないということは、何となくその口ぶりから理解できる。しかしそこから先を、ユカは尋ねることができないでいた。ショウにも、ムイ本人にも。そこにはきっと並々ならぬ理由があるような気がして。
「すみません、質問に答えることができなくて」
「いや、それは完全に僕たちの勝手だからね、気にしなくて良いよ。それに彼女の実力は折り紙付きだ。たとえ個人固有の魔法を使えなくとも、あの魔力を固めて作った“力場”は十分強力な魔法だよ」
「関係ねえ。兄貴は最強だ。負けるわけがねえ」
と、ハヤトが横から口を挟んだ。
「兄貴ほどの努力家を、俺は知らねえ。あのガキがどれだけ魔導戦の天才だろうが、昨日今日魔導戦を始めたような奴には、兄貴は負けねえよ」
そしてもう一度、負けるわけがねえんだ……と呟いた。
ハヤトは一番最初にムイと戦った人物である。そんな彼だからムイの実力は誰よりも分かっているし、だがそれでも自分の尊敬する兄のことを信じようとしているのだと、ユカには理解することができた。
なぜなら、その感覚は彼女が今、眼前の氷山で戦っている親友に抱いている感覚と近いものだからだ。
ムイの父親から聞いた、彼女のトレーニング――夜の出前や早朝の新聞配達のことを思い出す。そしていつも寝不足だと言っていたことも。確かに魔導戦の試合に向けての練習ではなかったのかもしれない。しかしそれでも、ムイが――親友が努力を続けていたことは確かなのだ。
だから自分は、何があってもムイのことを信じなければならない。誰よりもその努力を理解しなければならない。ユカはそう思っていた。
「あ……」
思わず、息が漏れた。
氷山の頂上に達したムイが、ユウトのライフル型魔剣による狙撃を受けたのだ。
「兄貴は、本来ならあの手のタイプの魔剣は使わない。中距離から近距離での戦闘をメインにするタイプだが……」
「――それだけ、ムイさんを警戒しているということですよ」
背後から女の声が、そう答えた。ユカたちが一斉に振り返る。
「なっ……あんた、どうしてここに!?」
全く想定外の人物に、思わずユカが勢いよく立ち上がる。
そこには目深にフードを被った人物が立っていた。しかし観客席は後ろに行くほど段差で高くなっているので、下の席からはその顔を窺うことができる。
そのフードの下にあったのは真っ白な肌――そして髪の毛。
「雨宮彼方……!」
ミノルとハヤトも、その白の少女に一斉に警戒の眼差しを向ける。
「まさか、また荒らしに来たんじゃないでしょうね」
「ふざけんなッ! 兄貴の戦いは絶対に邪魔させたりしねえ!」
ハヤトが怒号を飛ばすが、カナタは意にも介さずに肩を竦ませてみせる。そしてニコリと微笑むと、ピョンと下の――ユカたちのいる段に降り、
「お隣よろしいですか、風間さん」
と、尋ねた。
「あ、ああ」
動揺しつつもミノルが頷くと、カナタは彼の隣の席に腰かけながら続ける。
「安心して下さい。今日はクラブ活動とは関係なくここに来ましたから。それに私、もう荒らしはしないって決めたんです」
「そんなの信じられるわけねえだろうが」
「まあ、そんな怖い顔しないで下さいよ、羽柴さん。荒らしのつもりなら、もう闘技場に乗り込んでいますよ」
「じゃあ、どうしてここに……?」
ユカが尋ねる。
「どうしても何も、ムイさんの応援に決まってるじゃないですか」
「応援? あんたが?」
「ええ、私が」
「なぜ……」
「ムイさんに助けられたから」
「助けられた?」
「ええ。あの人が私を地獄から救い出してくれたんです。それに……」
カナタはじっとユカの方を見た。それからその左右のミノルとハヤトも。
「それに、ムイさんには不思議な魅力があると思いません? 関わった人全員に好かれるような、そんな魅力が。だから皆さんもこうして応援しているんじゃないですか?」
そう言われて、一同は思わず一瞬黙ってしまった。確かにそうだと思ったからだ。ムイには特別なことをしていなくとも人を惹き付ける魅力がある。それは魔導戦をやっている時の美しさか、あるいはアーモンド型の作られたような瞳が原因なのかは分からないが、不思議と応援したくなるのだ。
納得しかけたことが悔しかったのかハヤトがふんと鼻を鳴らしてから聞き返した。
「それで、兄貴があのガキを警戒してるってのはどういうことだよ」
「簡単なことですよ。ムイさんほどの機動力があるなら、中距離から近距離の攻撃魔法では、仕掛けたのを察知してから回避しても間に合ってしまうからです。自分の戦闘スタイルを多少歪めてでも、それは避けたかった、あくまで自分のペースで戦闘を進めたかったんでしょう、あの全国4位は」
しかし、視界の外からの攻撃ならばそれも難しい。かつて雨宮彼方がそう仕掛けたように。
「だからある意味、ハヤト君、君が負けたのは運が悪かったからと言えるかもしれない」
ミノルがカナタに付け加える。
「霧野さんの視界の外から、それも一撃必殺級の魔法を放っていたからね。開幕直後のあの攻撃が当たっていたら、その時点で勝利していてもおかしくはなかった」
「ふん! 今更そんなこと言っても意味ねえってのは、俺が一番よく分かってんだっつうの。運だろうが負けは負けだ」
だが、とハヤトが続ける。
「兄貴は俺とは違うぜ。あの人は確実に勝つ。そうなるように立ち回る。努力する。工夫する。作戦を立てる。――あの人に死角はねえ」
「ええ、そうでしょう。それに……」
カナタは言いながら、視線を目の前の闘技場へと移した。そこではムイがちょうど背中への攻撃を受けたところで、絶体絶命とも言える状況だ。
「今のムイさんには弱点がありますから」
「弱点?」
聞き返したのはユカだった。
「それは、兄貴も言ってたぜ。あいつには致命的な弱点があるって」
「何なんです、それは」
「聞いてみれば簡単なことだったよ」
闘技場内――川を流れる氷塊の上。ガキンッ、と鈍い音が響き渡った。
音に反応して、ユカがはっとそこを見ると、ムイとユウトが鍔迫り合いを繰り広げている最中だった。
「致命的な弱点――そいつは、圧倒的な近距離戦の経験不足」
ハヤトが兄の言葉を引用する。その直後、ユウトの回し蹴りがムイの腹部を捉えていた。
――キリノ……!
親友の顔は普段からは考えられないほど苦痛に歪んでいた。ユカは思わず両手を合わせて、神に祈った。どうか、どうか親友を助けて下さい、と。もはや祈ることしか、彼女にできることは残されていなかった。