約束
ただいま、と言いながらムイは店の戸を開けた。
店内は相も変わらずガランとしていて、羽柴勇人や晴海由佳の姿は見当たらない。それどころか他の客も一人としていないほどである。時刻は午後の三時と、確かに客入りの多い時間ではないが、皆無というのもあんまりだろう。
しかしそんな光景もムイにしてみれば見慣れたもので、彼女は構わず奥へと進む。
厨房に入ったところで、ムイは父親であるショウを見つけた。
彼は煙草を口に咥えて椅子に腰かけている。その手元にはムイが普段使っている魔剣があり、何やら整備をしている最中だった。
「ただいま」
よほど集中していたのか、ムイがそう声をかけるまでショウが顔を上げることはなかったが、彼女の声を聞いて手を止めた。
「なんだ、早かったじゃねえか」
「まあ、ちょっと出かけただけだからね……親父」
「何だよ」
ショウは煙草の灰を灰皿に落としてから顔を上げた。
ムイは一瞬だけ躊躇したが、思い切って言ってみることにした。
「あの、さ……わたし、スパイク欲しいんだよね」
「スパイクぅ?」
ショウが眉を顰める。それは怒りというより、自分の娘からそんな単語が飛び出てきたことが信じられないといったような反応だった。
「スパイクってお前、魔導戦用のか?」
その問いかけに、ムイはコクリと小さく頷いてみせた。それだけでショウには彼女がどれだけ本気か理解することができた。
彼女の母親は彼女が四歳の時に亡くなっている。当時の記憶はほとんど残ってはいないが、しかしその時から現在に至るまで、ムイが父親に何かが欲しい、と本気で頼んだことはなかった。
ショウは困惑したのか、あるいは娘が魔導戦に興味を抱いてくれたことが嬉しかったのか、ボリボリと後頭部を掻きながら立ち上がった。
本来ならムイは自分でスパイクを買うつもりだった。魔導戦を本気で始めるつもりはなかったが、ここ数日のようにいつユカに助っ人を頼まれるか分からない。その度に靴を一つ潰すわけにもいかないと考え、スポーツ用品店へと赴いたのは良いものの、そこで売られているスパイクシューズは安いものでも数千円、平均的にみれば一万円は裕に超えているものばかりで、とてもではないが一中学生女子に手が出せるものではなかったのだった。
ムイがその場で待つこと一分、ショウは何やら小さな箱を手にして戻ってきた。
ほれ、と言いながら差し出される箱をムイが受け取る。
「お前、靴のサイズは確か23㎝だったよな」
「うん」
答えながらムイはその箱を開けた。するとそこには一足のスパイクシューズが入っていたのだった。彼女の魔剣同様、白を基調とし、側面には黄色いラインが入っている。かなり上等そうに思われたが、それなりに使い古されているようで所々塗装が剥がれかけていたり、靴紐も何度か替えたような痕跡があったりした。
ムイは尋ねる。
「これは……?」
「お前の母さんが使っていたものだ」
答えながらショウは新たな煙草に火を点けた。
「なに、少しばかり古いがきちんと整備はしてある」
「いや、それよりお母さんも魔導戦を……?」
「ああ。お前には言ってなかったな。俺とあいつは魔導戦がきっかけで出会ったみたいなもんだ。お前が普段使っている――」
つい今しがたまで整備していた魔剣を持ち上げて、
「これにしたって、元々はあいつが使っていたものだ」
「そうなんだ、お母さんが……」
「ショックか?」
「いやぁ、ショックって言うより、そんなこと今まで聞いたこともなかったから……何か複雑な気分。だってさ、お母さんって言ったってほとんど記憶に残ってないし」
「だろうな」
ショウは煙を宙に吐き出した。そして続ける。
「あいつは――愛衣は良い選手だったよ」
「強かったの?」
「ああ。それに、綺麗だった」
それが容姿のことではなく戦い方のことなのだと、ムイには何となく分かった。そして自分もユカに同じように戦っている姿が綺麗だと言われたことを思い出した。母親の――霧野愛衣のことは記憶に薄かったが、しかし彼女と自分が同じように評価されたことが、なぜだか嬉しかった。
「お母さんのスパイク、それに、魔剣……ありがとう、親父」
「気にすんな。だが、そんなもの持ち出してどうするつもりだ? 試合でもすんのか?」
「……まあね」
「ほう……珍しいこともあるもんだな。どんな相手だ」
「分かんないけど、多分すごく強い相手」
「強い、ねえ」
「何?」
含みを持った言い方をするショウに対してムイは聞き返す。
「所詮は中学生、高校生レベルの“強い”だろう? 安心しな。その程度の奴に負けるような鍛え方はしちゃいねえよ」
「勝手にされた訓練だけどね!」
と、ムイは出前に行く際に頭に乗せられたコップを思い出しながら返した。あんな恥ずかしい格好をするのはどう弁解されたところで簡単に許せることではなかった。
彼女はプイと父親から視線を外して自分の部屋へと向かう。が、その途中でピタリと足を止めた。
「……でも、ありがとう、親父」
そう呟いて、彼女は再度歩き始めるのだった。
「明日はきっと雨ね」
窓の外――既に真っ暗になった空を見上げながら、ユカは呟いた。
「何なら槍が降ってもおかしくはないかも」
「それはいくら何でも言い過ぎじゃないっすかねえ」
ムイが苦笑しながら答える。
シルバーウィーク最終日。
闘技場――その控室に、ムイとユカの二人はいた。
ムイはいつものジャージ姿であったが、その足元だけは普段と異なった。彼女の父親に渡されたスパイクを履いている。
安いパイプ椅子に腰かけているムイの後ろにユカは立っていた。それはこれから戦地へと赴くムイの髪の毛を結うためだ。
普段は後ろにまとめていることの多いムイの髪の毛は、真っ直ぐ伸ばすと彼女の背中にまで余裕で到達する。ユカはそんな長い髪の毛にブラシをかけながらさらに口を開いた。
「でも、一体どんな心境の変化よ。あんたが自分から魔導戦の試合に出るなんてさ」
「うーん……」
ムイは少しだけ考えてから答えを出した。
「ある人にわたしが魔導戦を楽しんでいるって言われたんすよねぇ。一週間前のわたしだったら即座に否定してたと思うんすけど、なんでかその時は答えに迷ってしまって……だから、この試合で見極めようと思ったんすよ。自分が魔導戦を好きなのかどうか」
「……そっか」
ムイの出した答えを出すために戦うという答えは、“答え”と呼ぶには不足していたものだったかもしれない。だが、その数少ない言葉だけでもユカならきっと理解できる、とムイは踏んでいた。理論のことではなく、ことムイ自身の心理に関してなら、ユカに分からないことはほとんどない。それはユカの自信でもあるし、何よりムイからの信頼でもある。
「まあ、それはそれとして、ハルミさんには感謝しないといけませんね」
「感謝? どうして?」
「や、まあ、その……」
ムイがどこか恥ずかしそうに頬を掻く。
「実は、わたしの母が魔導戦をやっていたらしいんです」
「お父さんだけじゃなくて?」
「ええ。母はわたしが物心つく前に亡くなっているんですけど」
腰の魔剣にそっと手を触れながら、
「この魔剣やスパイクも母が残してくれたものらしいんすよね。でも、わたしは魔導戦になんて興味なかったから、多分、ハルミさんに誘われなきゃ一生知ることなんてなかったと思うんす。何て言うか……親子の繋がり、みたいなものに」
だから、とムイは言葉を繋いだ。
「ありがとうございます、ハルミさん」
その言葉に、ユカはすぐに反応することができなかった。ここまで真っ直ぐ、素直にムイに感謝してもらったことがなかったからだ。
もし今ムイの髪の毛を整えている最中でなければ、嬉しさと照れ隠しで彼女の髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でまわしていただろう。その衝動を何とか抑えて、ユカは口を開いた。
「私の方こそ、ありがとう。本当はずっと気にしていたんだ。あんたが魔導戦を本気で嫌がってるんじゃないかって……私は友達を傷つけることをしているんじゃないかって。でも、戦って欲しい。もっとあんたの戦う姿を見ていたいって、そう思ってたんだ」
「別に、わたしは普通に戦ってるだけっすけどね」
「ううん……」
ユカが首を横に振り、
「あんたは私の英雄よ」
と、答えた。
ユカがムイの髪の毛を結び終えると、ムイは勢いよくパイプ椅子から立ち上がる。そしてぐっと身体を解すようにストレッチをして、ユカの正面に立った。
「じゃ、そろそろ行くとしますか。――ハルミさん」
そしてムイはユカの前に白い球体を差し出した。未装着状態の魔導着だ。
「これ、お願いします」
「いいの?」
「ハルミさんからやってもらえると、何だか勝てる気がするんすよ。だから」
「……分かった」
ユカに球体を手渡すと、ムイはそっと目を閉じた。ユカはそんな彼女のジャージのジッパーを下げ、露わになった柔肌にそっと球体を押し込んだ。
球体が弾け、一瞬の内にムイの小さな身体を包み込む。
「あ、そうそう」
ムイが胸元をジャージの中にしまいながら口を開く。
「もしもこの試合に勝つことができたら、ハルミさんに一つお願いしたいことがあるんですけど」
「お願いしたいこと? 何?」
「まあ、それは……帰ってきたらお話ししますよ。そろそろ時間っすから」
控室の壁に掛けられた時計は午後の八時を差し示そうかとしている。羽柴優斗との試合は八時からの予定だ。
「私、キリノが勝つって信じてるから」
「あれ? 知らないんすかハルミさん。わたしって結構な自信家なんすよ――勝つって信じてるに決まってるじゃないっすか」
「フフ……気が合うね、私たち」
「まったくもってそうっすね」
そう答えて、ムイは再びじっとユカの眼を見つめた。
これから戦う相手には決して楽に勝つことはできないだろう。
それは魔導戦の選手としてではなく、当然専門家としてというわけでもなく、ムイ自身の人間としての――生物としての“勘”だった。羽柴優斗はこれまでにないほどの強敵である。ムイの中の直感が、ひしひしとそれを訴えていた。
だが、親友のユカが自分を信じてくれている。ならばそれに応えるべきだ。
ムイは改めてそう思った。
目を閉じ、息を深く吸い、そして吐き出す。パチリと目を開くと、左手の端末にあるスイッチを押す。
ムイの身体は瞬く間に光の粒子に変わっていく。そしてその中で、彼女は口を開いた。
「それじゃ、いってきます」
「うん、いってらっしゃい」
そんな挨拶が交わされ、控室から一人の人間が消えたのだった。