霧野夢衣と、晴海由佳
「――えー、で、あるからして、魔法を使った人類史上最大にして最後の戦争は、今からちょうど百年前に集結し、以後は魔法の軍事的利用は全面禁止となり、スポーツとして広く知られるようになった、というわけですね」
近代史担当で話が長いと評判の老教師がそこまで説明したところで、授業終了を告げるチャイムが鳴った。ようやくか、とすっかり退屈さで疲れてしまった生徒たちが各々伸びをしたり欠伸をしたりしている。
ざわめく教室の中、老教師の「じゃあ、今日はここまで」という合図が入って、学級委員長が「きりーつ」と気の抜けた号令をかけた。すっかり机に突っ伏して寝息を立てていた霧野夢衣は、慌てて頭を上げ、他のクラスメイト同様立ち上がる。
少女が混濁した意識の中、周りに合わせて何とか頭を下げると、彼女の長いポニーテールがパサリと机に広がった。
そのまま、数秒、少女は動かない。クラスメイトたちが授業という義務から解放されても、動かない。
「おーい、キリノー?」
「……ぐう」
「起きろ!」
と、隣の席の女子生徒に肩を揺らされて、ようやくムイはそのアーモンド型の目をパチリと開いた。彼女のブラウンの瞳は、例えばヨーロッパ人の澄んだ青色とは程遠いが、しかし吸い込まれるような不思議な魅力がある。だが彼女はその美しい、まるで造られた人形のような目をハッキリと開くことはほとんどない。現実から目を背けているというわけではないが、何となくそれらを直視するのは面倒だった。
面倒なことはやらない。世の中に転がっている大抵の面倒なことはやらなくても生きていけるのだ。
それは彼女が僅か十数年という短い人生の中で悟ったことだった。
ムイは大きな欠伸をして目尻に涙を浮かべたまま、自身を起こしてくれた女子生徒の方に視線を向けた。
女子生徒の肩まである黒髪はムイのそれとは対になっているように綺麗に整えられている。顔立ちは際立って美人というわけではないが、その明るい性格をよく表していて、クラスの男子からも人気があった。
「あ、おはざいまーす、ハルミさん」
「もう、また授業中寝てたでしょ」
「寝不足なんすよ、わたし」
「どうでもいいけど、涎、ついてるわよ」
「マジっすか」
そう言って慌てて口元を拭うムイに対して、晴海由佳は呆れたようにため息をつく。
ユカはこの中学に入学してからムイと出会い、交流を持つようになった。しかし彼女はムイがまともに授業を受けているところを、中学三年生になった現在に至るまで、ついに一度も見ることがない。ムイは大抵は窓の外に視線を向けているか、あるいは先程までの授業のように机に顔を押し付けて寝息を立てているかだった。
どちらかと言えば真面目と評価されるであろうユカが、ある意味正反対の性格のムイと付き合いを持つのに、大した理由はなかった。ただ何となく一緒にいて楽しかったり過剰な干渉で煩わしく思ったりすることがないから、彼女はムイと共にいる。
「まあ、でも、キリノは成績だけは良いからね、先生も強く注意できないって参ってたわよ」
「わたしって記憶力は良いんすよねぇ」
「ところでこの前貸した500円は」
「何のことです?」
などと呑気に答えながら、ムイは帰り支度を始める。チラリとユカを見ると彼女は既に帰り支度を終えているようで、その肩にはスクールバックが掛けられていた。
「随分帰り支度が早いですけど、何か予定でも?」
「ああ、うん。これから試合なんだよね」
「試合?」
「そうそう。魔導戦の」
「何だっけ……何とかスターズ?」
「銀翼の星ね」
銀翼の星はユカが所属している魔導戦のクラブチームである。在籍しているメンバーは主に地元の中学生から高校生で、合計すると80人にも昇るという。規模だけで言えば県内でも最大級だ。
魔導戦では高校生以上の人間が選手に選ばれるケースが多いが、ユカは中学生にも関わらずチームのレギュラー争いに参加できるほどの実力を持っていた。
「はぁ、毎日お疲れ様でーす」
「楽しいからね、魔導戦」
「わたしにゃさっぱり分かりませんが……一応、格闘技なんすよね」
「まあね。魔法を使った格闘技。最近は女子のプレイヤーも増えてきてるんだよ。プロだって、トップリーグの半分は女子選手だし」
「そんなに人気なんすか」
「うん。テレビでもかなり流れているし、最近だとネットでの配信も充実してる」
「生憎、テレビもネットも見ないんすよね」
言いながら、帰り支度を終えたムイが立ち上がり、スクールバッグを背負うと、教室の外へと歩き出す。ぐったりと曲げられた背筋と制服のブラウスの上に羽織ったダボダボなジャージ、それからジャージのポケットに突っ込まれた両手も相まって、彼女のだらしなさと身体の小ささをより強調していた。それでいて生徒指導の教師にあまり文句を言われないのも、ひとえに彼女の成績の良さのおかげである。
そんな彼女を追いかける形でユカが駆け出し、二人は廊下に出る。
「あんたもやってみたら良いじゃない」
「興味ないっすね」
「そう? 友達もできて良いと思うんだけど」
「友達……別に、興味ないっすね」
すれ違う放課後を謳歌する生徒たちを横目に、ムイはさらりと答える。
放課後の廊下は掃除やら部活動やらに向かう生徒たちでごった返していた。肩と肩がぶつからないようにするのがやっとで、一度は隣に並んだユカも、この廊下を通る時だけはムイの後ろにつかざるをえない。
ムイとユカが前後に並ぶと、二人の身長差は如実になる。どちらかが高すぎるというわけでも低すぎるというわけでもなく、ただユカの方が平均より少しだけ高く、そしてムイは平均より少しだけ低い。ユカがよく面倒を見ているということからも、二人が姉妹であると勘違いする人間も、部外者の中では決して少なくはない。
「そんなこと言っちゃって……あんた、私以外に友達いないじゃない」
「いなくても困りませんからねぇ」
「この前の体育の時間、ペアになる相手がいなくて困ってた」
「それを言うのはズルい」
返す言葉が見つからず、ムイは頬を掻いた。
人混みを掻き分け、生徒玄関まで来ると生徒の数はまばらになってくる。先程までの熱気が嘘のように空気が美味しい。やはり人混みは嫌いだと、ムイは自分の性格を再認識する。
上履きから下足に靴を履き替えながら、ユカが口を開いた。
「明日からシルバーウィークだけどさあ、あんた、何か予定でもあんの?」
「受験勉強」
「うわ、それが最初に出てくるかね」
「わたしたち、もう中学三年生なんすよ? 今勉強しないでいつするんすか」
「あーあー、聞こえなーい」
生徒玄関を出ると、カンカンとした日照りが二人の頭上に降り注いだ。もう九月の、それも夕方だというのに一向に弱まることを知らない残暑にうんざりしたように、ムイは目を細め表情を歪ませる。先程の廊下とはまた違った暑さだ。シルバーウィークはずっと家にいよう。それか涼しい図書館に籠ろう。彼女は人知れずそう決心する。
「あ、でも」
「でも?」
「バイトはするっすよ」
「……」
「ハルミさん?」
唐突に無言になったユカを見ると、彼女は分かりやすく絶句していた。目を見開き、持っているスクールバッグも今にも落としてしまいそうだ。
「そんなに驚くこと?」
「そりゃ、驚くわよ! だってキリノだよ!? あのモノグサで有名な」
「失礼な」
「いや、でも……え、何のバイトするの?」
「新聞配達と、それから家の手伝いも」
「家の手伝いって、確かあんたの家って」
「中華料理店。味はイマイチ」
「自分で言うか」
「作ってるの父親ですし」
「じゃあ、あんたは何やるの? まさかウエイトレスってわけでもないでしょ?」
「出前の配達。夜は結構あるんすよ」
「へぇ」
「ほら、商店街の外れの方に何軒か雀荘があるじゃないっすか、あそこから注文の電話がよく来るんすよ」
「なるほどね」
「まあ、バイトって言っても、どっちも普段からやってるんすけどね」
「そうなんだ」
「ほら、うちって貧乏っすから」
「さらっとコメントしづらいことを言う」
二人は並んで歩く。いつもの下校ルートである。登校時は一緒になることは滅多にないが、下校の際はこうして並んで往くことがほとんどだった。それは二人が知り合った二年前から変わらない。お互いが深く干渉してこなかったからこそ上手くやってこられたのではないか、とムイは考えている。
「そう言えば、さっき試合がどうとかって言ってましたけど」
「うん! なになに? 興味ある感じ?」
長い河川敷に通りがかったところで、無言に耐えられなくなったムイはそれとなく質問してみることにした。すると思いのほかユカの反応が良く、思わず戸惑ってしまう。本当はそこまで興味があるわけではないが話を振ってしまった手前中断するわけにもいかず、「どんな相手なんすか?」と聞き返してしまった。
「相手はねえ、何と! あの“レッド・フェニックス”!」
「はあ……レッド・フェニックス?」
「あれ? もしかしてご存知でない?」
「ご存知でないですね」
「まったく、ダメだなぁ、キリノは」
ちっちっち、とユカが人差し指を左右に振りながら得意げに言う。何がダメなのだろう……とムイは思ったが、しかしここで反論してはさらに話が長くなることは明らかだったのであえて聞き流し、そして素直に聞き返すことにする。
「で、何なんすか、そのレッド何とかって」
「“レッド・フェニックス”! 赤い不死鳥よ」
「や、英語の意味は分かってるんすけど」
「オーケーオーケー、どんなチームかって聞きたいわけね。良いよー、語っちゃうよー、私」
「あの、手短にお願いしますね……?」
ムイの言葉が届いたのかどうかは分からないが、ユカはレッド・フェニックスについて語り始めた。それはもう、言葉を尽くして。しかし当然のことながら魔導戦に関しては完全な素人であるムイにとってはその話のほとんどを理解できるわけもなく、話の大部分を聞き流す形になってしまったことは言うまでもない。
そんな中でも彼女がレッド・フェニックスに関して聞き取れた情報はいくつかあった。
レッド・フェニックスは関東を中心に活動しているチームで、拠点は群馬県に位置している。過去に何人もプロ選手を輩出している名門のクラブチームであり、今年度の全国高校生魔導戦選手権でも個人戦ベスト4に入る選手がいるほどだった。
「他にも粒ぞろいなんだけど、最近はやっぱり羽柴兄弟ね」
「羽柴兄弟?」
「羽柴優斗と羽柴勇人の兄妹でね、お兄さんのユウト選手は今年のインハイでベスト4に入るくらいの実力者なんだよ。弟のハヤト選手も二年生ながらベスト16入りしてるし、二人がいる高校は団体戦でもベスト4って本当にすごくない!?」
「はあ……すごいんすか?」
「すごいよ! 何て言ったって、今、高校生で魔導戦をやってる選手は十万人以上いるっていうくらいなんだよ! その中のベスト4!」
純粋に目を輝かせるユカを横目に、ムイは十万という数をイマイチ認識できずにいた。自分の通っている中学の全校生徒の数はおよそ300人前後だから、そのざっと三百倍。全校集会で集まった生徒たちの三百倍と考えても、やはり自分の想像の範疇を超えている。
「まあ、そのレッド何とかが強いのは分かりましたけど」
「“レッド・フェニックス”!」
「レッド・フェニックスが強いのは分かりましたけど、なんでまたそんな強いチームと戦えることになったんすか? 確かハルミさんのチームって」
「……まあ、弱いわね、確かに」
ユカが額を抑えて溜め息混じりに答える。
彼女が所属しているシルバー・スターズは県内最大規模のクラブチームだが、ここ数年は強い選手を輩出できないでいた。中学生であるところのユカがレギュラー入りできた理由として競争率が少ないということもある。ムイもそのことはユカに聞かされて知ってはいたから、尚更シルバー・スターズがレッド・フェニックスなどという強豪チームと対戦できるのか不思議だった。
「天ヶ崎学園って知ってる?」
唐突に切り出された言葉に、ムイは首を傾げる。
ユカの言う天ヶ崎学園とは確か私立の高校だったと、彼女は記憶していた。
偏差値は60前後と高くも低くもないが県内外から所謂“お金持ち”の人間が集まってくる学校で、かつ進学校の滑り止めとして受験されることが多い。文系の部活動が活発で、逆に体育会系の部活動はあまり目立たないという印象だ。
ムイがなぜここまで天ヶ崎学園のことを知っているかというと、彼女自身、その高校を受験しようか迷ったからだった。彼女は県内でも随一の進学を志望しており、その滑り止めとしてである。結局は学費が高すぎることと偏差値的に余裕のあることから受験しないことにしたのだが、それが今している魔導戦の話と一体どう関係してくるのだろう、と彼女は疑問に思った。
「テレビとかあんまり見ないあんただと知らなくても当然かもしれないけど……そこの高校、今年の夏の大会で全国三位の選手が出たのよ」
「へぇ」
「団体戦でも全国三位。しかも、そのメンバーは全員私たちの一つ年上、つまり高校一年生っていうね」
「ああ、なるほど、理解しました。つまりハルミさんたちのチームはそこに挑む強豪チームからしたら、肩慣らしってことっすね」
「……ええ、そうよ」
と、ユカが実に悔しそうに拳を握りながら答える。気のせいか彼女の背後に炎が見えた。
「連休を使ってレッド・フェニックスを始めとした全国の強豪クラブチームや強豪高校の魔導戦部が、天ヶ崎学園魔導戦部と練習試合をすることになったの。で、私らのチームがその前哨戦に選ばれたってわけ。ホント、馬鹿にしてくれてるわよね!」
「確かにそうかもしれないっすね」
「あんたは良いわね、他人事で」
「まあ、実際他人事っすからねぇ」
河川敷を抜けてアーケード商店街に入った。
そこは全長200メートルほどの小さな商店街ではあるが、この街の住人の生活の基盤になっている。食材から文房具、果ては衣類や靴まで、この商店街で揃わないものはない。あくまで種類を選ばなければ、であるが。
例えば衣類に関しては辛うじて季節感は捉えてはいるが流行にはほど遠いものだし、書籍に関しても発売日から一週間は待たなければ入荷しないほどだ。
そういうわけでムイたちを始めとした学生はこの商店街で買い物をすることはまずない。必要最低限のものを揃えるくらいだった。
しかしそれは学生の事情であり、その他の住人――とりわけ家事を担う主婦にとっては関係のないことで、夕方の四時も回るとなると夕飯の材料を買いに来た人たちで活気づいていた。
基本的に人の多い所を嫌っているムイであったが、この時間のこの商店街だけは別だった。街に暮らす人々の生活感を最も感じられる瞬間で、そういう時だけ自分はこの世界に存在していると、確かに実感できる。
アーケードは夕陽が鮮やかなオレンジ色に染め上げていた。どこからともなく夕飯のものと思われるカレーだとか味噌汁だとかの匂いが漂ってきている。
人混みに入るのと同時に、ムイとユカは学校の廊下でしたのと同じように真っ直ぐ縦に並ぶことになる。ムイが前でユカが後ろだ。
ユカがムイの頭の後ろから顔を覗かせながら口を開いた。
「だからさー、あんたも今晩来てよ」
「はい?」
「応援に」
「なんでわたしが……」
「良いじゃん、暇なんでしょ?」
「暇じゃないすっよ。バイトがあるって言ってるじゃないっすか」
「試合があるのは夜だよ?」
「夜の方が忙しいっす。それに、興味もありませんし」
そう答えるとユカは不満げに頬を膨らませ、ムイの頭の上に自信の顎を乗せた。ムイは「重い……」と呟きながらもそのまま進む。
「別にさー、何でも良いけどさ、あんたも何か趣味くらい見つけた方が良いと思うわよ」
「めんどくさい……」
「めんどくさいって……じゃあ、あんた、何のために生きてるのよ」
「また大袈裟に出ましたね」
「大袈裟じゃないわよ。人生で一番大事なことだと思うわよ、私は」
「そうっすか?」
「そうよ」
「趣味ねぇ……」
考えるが、特にこれといったものは思い付かない。自分の生活を思い出してみても、朝は新聞配達、昼は学校、そして夜は出前のバイトと、遊んでいる暇はほとんどなかった。休日は何をしているかといえば勉強や読書をしていることがほとんどだし、そして彼女自身もそんな生活に特に不満を感じたことはない。
「あんたってホントつまんない人生送ってるわね」
「別に良いじゃないっすか、つまんなくても」
「勉強するのも良い高校に行くため、だっけ?」
「良い高校に行って、良い大学に行って、良い企業に就職するためっすね」
「あんたってホントつまんない人生送ってるわね」
「なぜもう一度言う」
はぁ、とユカが一度溜め息をついてから続ける。
「じゃあさ、バイトは何のためにやってるのよ。何か欲しいものがあるとかじゃないの?」
「いえ別に……というか、働かなきゃお小遣い貰えないだけです」
「あー。そのことに関しては同情するけども。にしても、それじゃあ、お小遣いは何に使ってんの?」
「色々っすね。学校で必要なものを買ったり、買い食いしたり、後はたまに本を買ったり」
「読書が趣味とも言えるけど、あんたって別にずっと本を読んでるわけじゃないしね。一カ月で一冊くらい?」
「まあ、そんなもんっすね」
ふむ、とユカが考える。ムイとの関係ももう二年以上になるのだから、彼女の行動パターンに関してはある程度把握しているつもりだった。しかし、そのどこに焦点を当ててもムイには趣味らしき趣味が見当たらない。
「つまんない人生ねぇ……」
「しつこいし失礼」
商店街を抜けるとその先にはいくつかの店を除いて住宅街が広がるだけだった。
アーケードの出口は三つの道に分かれていて、ムイとユカはここからは別々の帰路を選ぶことになる。
「それじゃあ、また明日ね」
と、ユカが言い、
「また明日」
と、ムイが答えた。
何てことのないやり取りだが、この応酬も一緒に帰る時は必ずすることだった。しかし、今日はいつもと違う。ムイのさようならの挨拶の後に、ユカが言葉を付け加えた。
「魔導戦の試合、気が向いたら応援に来てね!」
「まあ、考えておきます」
そうして二人は別れた。