白の少女/決着
控室に転移させられたカナタは項垂れ、すすり泣いていた。
――負けた。完全に。
その事実を未だに受け入れられずに、そして父親に期待に応えられなかったことへの恐怖――捨てられてしまうのでは。
そしてゆっくりと控室の扉が開かれた。
「カナタ――」
名前を呼ばれて、はっと彼女は顔を上げた。
そこにはスーツ姿の男が立っていた。背が高く、痩せ型で眼鏡をかけているその男は、その猫背と狡猾そうな顔つきも相まって、初対面の相手にはまるで爬虫類のようだという印象を与える。
男はカツンカツンとステッキを鳴らして、カナタの元へと近づいた。その歩きからから彼が右足を不自由にしていることが窺える。
「お、お父さん……!」
「お前には心底がっかりしたぞ。あの程度の相手に勝てんとは」
「ごめんなさい! ごめんなさい! 次は勝つから……絶対勝つから、許して下さい!」
そう言ってカナタは男――父親の足元にすがりついた。泣きながら。叫びながら。
男は舌打ちをして、ステッキを振り上げた。
「やかましい!」
振り上げたステッキをカナタの背中に叩き付ける。何度も――何度も。言葉の切れ目切れ目でその少女の丸まった小さな背中が痛めつけられ、その度にカナタは苦痛の呻きを漏らした。
「お前のような! 気持ちの悪いガキを! ここまで育ててやったんだぞ!」
「許して……許して……」
「お前はプロにならなければならんのだ! 私の代わりになあ!」
男が辛うじて自由に動かせる左足で少女の腹を蹴とばす。少女の身体は床を滑って、壁に激突した。少女は衝撃で息ができなくなる。試合の疲れもあるのだろう、彼女はひゅうひゅうともはや虫の息だった。
少女は本当は戦いたくなんてなかった。だが戦わなければ――勝てなければ、父親に折檻されてしまう。それが怖くて、ただただ嫌で、その一心で少女は戦い続けていたのだった。
「なるほど、そういうことっすか」
ギィという音と共に再び扉が開かれた。音に反応する形で、カナタは何とか顔を上げ、そちらを見た。
小さな――とても小さな人影が、そこにはあった。
だらんと下げられた両手には白色の短剣式魔剣が握られており、つい先ほどまで繰り広げていた激戦の名残だろう、まだ僅かに肩が上下に揺れていた。
「やれやれ、どこの家庭も何かしら問題を抱えてるもんすねえ」
腕を組み、うんうん、と自身の言葉に納得するように、その人物が頷いてみせる。
カナタの父親が眉をひそませながら口を開く。
「何だ、貴様は」
「いやっすねぇ。ついさっきまでお宅のお嬢さんと試合をしていた者っすよ」
「ああ、あの奇妙な技を使う……ふん、負け犬の顔でも見に来たか」
「あー……なるほどなるほど」
ちらり、と少女がカナタの方に視線を向ける。対するカナタは、思わず視線を逸らしてしまった。悪事を咎められているように――冷たいコンクリートへ。
「カナタさん」
名前を呼ばれて、カナタは肩をびくりと震わせた。そしてゆっくりと顔を上げ、再度少女――ムイを視界に捉えた。
見るとムイの視線はカナタから父親の方へ向けられている。
――どうして名前を?
と、聞き返そうとした刹那――
ムイの姿が消え、空気を切り裂く音だけが控室に響き渡った。
そして遅れて、人体と壁とが激突する轟音が聞こえた。先程まで父親がいたところに代わりにムイが立っていた。
そこでようやくカナタは、自分の父親がムイの打撃によって吹き飛ばされたのだと気が付いた。それは攻撃を受けた父親ですら、徐々に感じてくる痛みで気が付くほどのスピードだ。
「今のは……?」
カナタが呟く。
父親が飛ばされたという結果は理解できても、なぜそれが起こったのかという過程はとても想像できなかった。仮にあれがムイの得意とする高速移動の成せる技だったとしても、今の今まで繰り広げていた戦闘でそこまでの速度を見たことがない。
「お前、一体何を……?」
カナタの父親がおそらく殴られたであろう腹部を抑えながら、僅かに頭を上げた。
「あーもう……あーもう!」
徐にムイがその靴を脱ぎ始める。そしてそれをカナタやその父親に見せつけるように前に突き出した。
「靴がこんなんになっちゃったじゃないっすかあ!」
それは分かりやすい怒号だった。彼女の掲げる靴はベロンとその靴底がはがれかけている。さながら凄まじい負荷が一気にかかったかのように。
「このスニーカー、気に入ってたのになぁ……」
悲しそうに靴底を見ながらムイが溜め息をついた。
「え、ちょっと、待って……スニーカー?」
「そうっすよ。これ高かったんすからね!」
「ムイさん、あなたスパイクは……?」
「スパイク?」
ムイは首を傾げてみせる。
「魔導戦の試合用のスパイクですよ。滑りにくくする」
「あー」
ムイは理解したように頷いた後、
「持ってないっすよ」
「持ってない?」
その言葉を信じられずに、今度はカナタが聞き返してしまった。
通常、魔導戦の試合に出る人間は魔剣や魔導着は当然として、身体を怪我から守るサポーターを装備したり、走った時に滑りにくくするためのスパイクシューズを履いたりするのが常識だ。
ムイは魔剣を掲げながら、
「ないっすよ、そんなのー。大体、自前のものはこの魔剣だけですし、というか借りものですしね、魔剣も魔導着も」
「それじゃあ、ただのスニーカーであれだけの動きを……?」
「だから全力を出したくなかったんすよ。全力で走ったら靴が壊れるから」
しゅん、とムイが肩を落とした。それだけ彼女はそのスニーカーを気に入っていたのだろうという気持ちと共に、カナタは自分の父親がどうやって吹き飛ばされたのか理解した。
ムイは全力で走ったのだ。それも目に停まらぬほどの速さで。その速度から繰り出される打撃ならば、大の大人の男を壁際まで吹き飛ばすことも可能だろう。
――化物……!
ゾクリと鳥肌が立った。この目の前の少女には、少なくとも今の自分は絶対に勝つことはできない、叶わない相手だと。つい先程まで戦っていたムイはまるで全力でなかったのだ。もし彼女が万全の装備で向かってきていたらと思うと、カナタは背筋が凍る思いだった。
「お前……自分が何をしたのか分かっているのか……?」
カナタの父親がよろよろと立ち上がる。まだその全身にムイの攻撃によるダメージが残っているのは明白だった。
すると一瞬でムイの視線が変わるのが、カナタには分かった。さながら視線だけで刺し殺そうとするかのような鋭さで、カナタの父親を睨み付けた。
「この俺を殴って、ただで済むと思ってんのかあああ!」
激昂――目を血走らせ、血管が浮き出ている。
「うるせえ、三下。怒ってんのは、わたしの方っすよ」
その“凄み”に、叫びを上げたカナタの父親も思わずうっと言葉を飲み込む。
「はああ、もう、マジ最悪っす。お腹は減るし寝不足だし疲れるし汚れるし……それに、こんな説教までしなきゃならないんすから」
「……」
カナタの父親は何も言わない。ただ黙って目の前の少女を見ているだけだった。
「良いっすか? 子供は親の玩具でもなければ分身でもないんです。一方的な決めつけだけで子供の人生を変えないで下さい」
「私にはそれだけの権利が、」
「ああ? 誰が勝手に喋って良いって言ったっすか? もう一発ぶちこまれたいんすかね?」
ムイがそう言って僅かに魔剣を構えると、カナタの父親はぐぅと後ずさりした。それだけムイの一撃は強力だったのだろう。
彼女は視線の先を父から娘の方へ移す。
「あなたもあなたっすよ、カナタさん。嫌なことは嫌って言わなきゃ駄目っす。親は親なだけで別に偉いわけでも正しいわけでもないんすから、自分の意見ははっきり伝えなきゃ駄目っす。うちの父親なんて今でも子供みたいで……って、それは今はいいか」
「……」
カナタが何も答えないということは、彼女は意見を言うことを――痛めつけられることを恐怖しているのだ、とムイは推測した。それを諭すようにムイは続ける。
「殴られたって痛いだけっす。殺されたって死ぬだけっす。所詮その程度っすよ。だからこそ、人間の尊厳だけは踏みにじられてはならない」
「でも、私は……」
まだ反論しようとするカナタに、ムイはほとほと呆れたように肩を竦ませて、
「じゃあ、わたしの家の住所を教えますよ。どうしても耐えられなくなったらいつでも来て下さい。ご覧の通り、わたしは超強いんで、守ってあげます。……とにかく!」
ムイは再度目の前の二人を視界に捉えて、
「今のあなた方に必要なのは話し合うことっす。これから家に帰って、一緒に料理して、あったかい食べ物を一緒に食べてください。そんで話し合ってください。お父さんは娘の話を否定せずにちゃんと聞いてください。カナタさんは自分の考えをちゃんと伝えてください。自分が何をしたいのか、何をしたくないのか。話はそっからっす」
一気に捲し立てたのが疲れたのか、ムイは僅かに弾む息を整えようと深呼吸をした。その間、カナタとその父親は黙っていた。
カナタが立ち上がる。立ち上がって、自身の父親の元に歩み寄った。ステッキもなく、フラフラと揺れている父親に肩を貸した。
「カナタ……」
「帰りましょう、お父さん。私、話したいことが沢山あるんです」
カナタの父親は一瞬俯き、しかし彼女の真っ直ぐな視線を見た聖か、やがて顔を上げた。
「……そうか。分かったよ」
そして、二人はゆっくりと、しかし確実に前に歩き出したのだった。
雨宮彼方。
スカル・スネイクス所属。
得意魔法「全方位同時魔剣攻撃」
パワー……C スピード……B スタミナ……C 火力……B(ただし一撃で勝利する技あり) 射程距離……B