白の世界/風
今回サブタイトルから予想できる通り、短めの話になっています。
一陣の風が吹いた。
とても柔らかで心地良い風だった。
晴れた日に小高い丘の上で横になって感じるそよ風のように。
白い世界――ただ何者も存在していな世界。しかしムイの意識だけがそこに確かにあった。
実体なく。感覚もなく。しかし風だけは感じることができる。
かつてそこには炎があった。しかし炎はいつの間にかその姿を消し、今度は風が吹いている。ただそれだけのことだったが、しかしムイにとって今最も大事なことはそんなことではなく、炎同様、その風にも見覚えがあったということだった。
いや、見覚えというのは少し違うか。風は目に見えない。しかし感覚だけは、ムイの心の端に確かに引っかかっていた。
――この風は感じたことがある。
母親に抱かれた時に感じた腕の柔らかさや、子守歌の耳ざわりに似ている。確かに記憶しているわけではないが、しかしその実態を確信できる、まるでDNAに直接刻まれた本能のように。
炎と風。
羽柴勇人と風間実。
やはりこの二人と何か関係があるのだろうか。
ムイがそう疑問に思うのは自然なことである。
これまで自分は魔導戦をしたことがなかった。だから夢の世界には何も存在していなかった。そして羽柴勇人との戦闘を通して炎が、風間実との戦闘を通して風が発生した。
別に夢の中に何かを求めているわけではない。ただこの白い世界が映し出すのは果たして自分の深層心理なのではないだろうか。ただそれだけが気がかりだった。
夢の記憶は、現実の世界に持ち込むことはできない。
ただ夢の中でだけは記憶が継続しているから、まるで夢と現実でそれぞれ違う自分が存在しているようだ。
「また戦えば、何か分かるんすかねえ」
ムイはそんなことを呟いた。
そして呟いてから、自分は戦いを求めているのだろうか、と疑った。
とんでもない。自分が求めているのは大きな喜びはなくとも激しい苦しみのない、そんな植物のような穏やかな人生だ。そう彼女は自分自身に言い聞かせた。
ただそれでも、またユカに頼られたら断れる気はしなかった。別に彼女に弱味を握られているだとか、そういうことはない。だがしかし、あの晴海由佳という少女には他人に有無を言わせない不思議な説得力がある。あの真っ直ぐな瞳で見られたら、ムイにはとてもではないが要望を断ることはできなそうだった。
いや、どんな言葉を並べたところで要はムイはユカのことが好きだったのだ。友人としてでもなければ恋人としてでもない、家族としてというわけでも、当然ない。どんな“好き”にも属さない感覚だったが、しかしその気持ちが“好き”だということを、ムイには確信できた。
「ホント、不思議な存在っすね。この世界も、ハルミさんも」
そんな呟きが、柔らかな風に運ばれて消えていった。