白の世界
「何もないなぁ」
両親不在の家で開けた冷蔵庫を覗き込み、その中身に落胆するのとほぼ変わらぬテンションで、少女が呟いた。おおよそ記憶に残らない、降りたての新雪よりも容易く消えてしまう、そんな呟きだ。あるいは冬場に空中に投げかけた白い息にも等しい。とにかく、そこには彼女以外の生物は存在していなかったのだから、必然的に彼女の呟きを拾おうとする者もいなかった。
少女が存在していたのは真っ白な世界。彼女はここが自分の夢の中だと、すぐに理解することができた。というのも、少女はこれまでに何度も同じような夢を見てきたからだった。
一体いつからこんな夢を見るようになったのだろう。この夢を見るたびに少女は記憶を辿ろうとするが、しかしそれは途方もない作業で、いつもどこかで途切れてしまう。確かに言えることといえば、きっと自分は真っ白な夢を物心つく前から見ていて、それでいて思春期に入った辺りからその頻度が増えた、ということだけだった。
少女はただ呆然と立ち尽くす。いや、自分が立っているのか、あるいは跪いているのかも分からない。もしかしたら寝転がっているのかもしれないし宙に浮いているのかもしれない。とにかくそこには何もなかった。生物や建築物、地面、空――少女の実体を含めて。
だが、少女が呟いた「何もない」という言葉は、決して物質的なことだけではない。
彼女が振り返る“彼女自身”には、誇りもなければ生きる目的があるわけでもなかった。
少女の生きる世界。
この現代日本には、何でも存在しているが、何もない。
携帯電話はあるけれど宇宙人の襲来はない。
ファーストフード店はあるけれど、空から誰かが降ってくることはない。
街には大勢の人間が闊歩していて、きっとそれぞれ複雑多岐な人生という物語を紡いできたのだろうけれど、それらは所詮、普通の人間が送ってくるものばかりで、要は謎のモンスターが出現することがなければ、突如街がゾンビに覆われることもない。隕石が降ってくるなんてこともない。期待しているようなことは、何一つ起こらない。
毎日が同じことの繰り返し。
毎日が冒険とかけ離れている。
――だが、それで良い。と、少女は思う。
平和が――平穏こそが、人生で最も大切なことだ。
つまらなくても良いじゃないか。
つまらないということは、面倒がないということだ。
事が無いと書いて“無事”なのだから、人生は無事であることに越したことはない。
いつの頃からだろう。きっと真っ白な夢を見始めるよりずっと前だ――少女はそう悟っていた。
だけど、少しだけ――
ほんの少しで良いから、何かあっても悪くない。
真っ白な夢の中、ぼんやりとした頭で、少女はそんなことを考えていたのだった。