大樹の上で
「はー」
と、ムイは感嘆の息を漏らした。
現在彼女の前に広がっているのは森、森、森――地球上の全てを緑で覆いつくしたのではないかと錯覚するほどの木々の群れであったが、しかし彼女が驚いたのはそれらを目にしたからではない。第一、森だけならば昨夜の羽柴勇人との試合でも目撃している。
問題はその中心地だった。木々の群れの中心には、まるでその森の主のような巨大な木があった。遠目から見たところ、どうやら複数の大樹が折り重なり、絡みつくように上に伸びた結果発生したようだ。
高さはおよそ30メートルほどだろうか。その辺りのビルは軽々超えている。一体この闘技場のどこにそんな木が収まっていたのだろう、とムイは考えを巡らせたがすぐに魔法の存在を思い出し、考えるのは無駄なことだと悟った。
さて――
ムイは真っ直ぐに前を見据える。
中央にあれだけ巨大な障害物があるなら、昨日の羽柴勇人がやったような遠距離からの奇襲は不可能なはずだ。となればプレイヤーは森の中か、あるいはあの大樹の上で戦うことになるだろう。
ムイはゆっくりとその腰の左右のホルスターから白色の魔剣を抜くと、駆け出す。
魔法による“力場”を発生――最短距離で。
さらに“力場”を手足――その関節部分に集中――動きを大幅に加速。
森を駆け抜ける一陣の風のように、少女は進軍していく。
彼女が目指したのは中央の大樹だった。自身の立体的かつ高速の戦闘技術が最も活きるのは大樹周辺だと判断したからだ。
楕円形のフィールド、その端から端まではおよそ200メートル。中央の大樹は直径およそ50メートルほどだから、スタート地点から出発して大樹に辿り着くまでは約75メートルほどだ。その間をムイは僅か一分で移動する。
大樹に辿り着いたムイは迷わず大樹に登り始めた。このフィールドならば先に頂上部分を制圧した方が圧倒的に有利だろう。相手の能力は不明だが、魔導戦で使われる魔法の大半は遠距離攻撃型のはずだ。頂点をとってしまえば後はそこから自由に遠距離攻撃していれば良い。
大樹はやはり複数の木々が絡み合ってできているようで、昇るにはそう苦労しなかった。枝から枝へ――“力場”を蹴り――あくまで最短ルートを全く速度を落とさずに登っていく。
――見えた!
登頂完了。
スピードに乗った彼女の身体は勢い余ってふわりと浮かび上がるが、器用に魔剣を持ったまま、その右手で大樹の頂点部分の枝を掴んだ。
ここからなら相手の位置が分かるだろう。
そう思って辺りを見渡した瞬間――
「人がどれだけ速く空を目指しても、きっと鳥には勝てないんだろう」
背後から声がして振り返ると、そこには風間実がいた。
驚くべきことに彼の身体はまるで重力に逆らうように、空中に浮かんでいる。ムイも“力場”を蹴ることで一時的な空中飛行はできるが、しかし彼の場合は違った。
――自由飛行。
思わず釘付けになっていたムイははっと我に帰った。が、時すでに遅し、ミノルがその右手に持つ魔剣を振るう。
西洋の刀剣をモチーフにした魔剣――形で言うならばムイの小剣を拡大したものに近い。緑色を基調にしたその魔剣の柄部分には、やはり刀身よりも僅かに色濃い緑色の“魔石”が埋め込まれていた。
ミノルの動きに連動して“魔石”が発光――増幅された魔力は“術式”を透過して“魔法”へと昇華する。凄まじいほどの風が彼の周囲を包んだかと思うとそれはあっという間に“刃”へと姿を変え、ムイへ放たれた。
――風神の一太刀。
風間実の得意魔法――正確無比の相手を切り裂く刃。
ムイは咄嗟に枝を蹴った。彼女の身体は後方へと流され、崩れた体勢から“力場”を発生――軌道を右に変える。
超圧縮された風の刃がムイの頬を掠めた。幸いにも魔導着の効果は覆われていない顔面、および頭部にも適応されるようで、少女の顔には傷一つ付いていない。しかしその衝撃は本物で、ムイはビリビリとした痛みを感じる。
重力に任せて落下しながら空中で体勢を立て直し、敵――風間実を正面に見据える。
第二射を用意してくるかと思われたミノルだったが、しかし彼は再び剣を構えることはなかった。ムイの後を追うようにゆっくりと降下してきている。
ムイは落下の衝撃を“力場”で抑え、地上の木の上へと着地してみせる。そんな彼女の前方上に――空中にミノルは静止した。
ムイは投げかけた。
「手加減してるつもりっすか?」
「いいや」
ミノルが首を横に振る。
「フェア精神さ。僕は君の昨日の試合を見ている。だが、君は僕の魔法を知らないだろう?」
「まあ、さっきの攻撃で大体分かりましたけどね」
「流石の推理力だ」
「風を操る魔法でしょう?」
ミノルはふっと笑みを浮かべた。
「その通り。人は僕のことを“風に愛されし者”と呼ぶ」
そう言って、ミノルは再び魔剣を構えた。もはや言葉は不要だった。後は決着をつけるだけだ。最高の相手に、自分の魔導戦人生をぶつけるだけだ。
「君に出会えて良かったよ、霧野さん」
「わたしは会いたくなかったっすけどね」
答えて、ムイは跳んだ。
今度は後ろではなく、前――ミノルの方へ。
“力場”を発生――加速しつつ軌道を変えて攪乱――敵の左側に回り込む。
そこにミノルが剣を振るう。風の刃が発生する。目に見えない刃が、ムイ目掛けて発射された。
ムイは身体を曲げてぶつかる面積を最小にした。さらに両腕を前に出すことでダメージの軽減に努める。
先程の攻撃を受けた際、ムイの端末に提示されている魔導着耐久値は73%だった。掠っただけで27%の減少――ならば直撃しても一撃で耐久値が尽きることはない。それを知っていたから、ムイはダメージを恐れずに突っ込んで行く。
しかし――
「なっ……!?」
次の一歩を“力場”に向かって踏み出したムイであったが、その身体はグラリと大きくバランスを崩した。まるで足を伸ばした先には何もないかのように。
「僕の魔法が、君の足場を斬った」
落下していく身体。迫る地面。剣を構える敵――一瞬の判断。
ムイは前方に“力場”を集中させた。強く厚い壁ではなく、薄くたくさんの壁を――“辻風”との衝突。幾重にも折り重なった壁が次々と切断され、しかし風の刃の勢いを確かに削ぎ落していく。
地面――瞬時に“力場”の方向を切り替える――間一髪、ムイの小さな身体は速度を落とした。
しかし完璧な着地などできるわけもなく彼女の身体には衝撃が走り、その表情を苦痛で歪めた。が、悶えている時間はない。
「いやぁ、いよいよヤバイっすねぇ」
すぐさま起き上がり森の方へ駆け出しながら、彼女はそう呟いた。